映画「ブラックバード、ブラックベリー、私は私」を映画館で観てきました。
映画「ブラックバード、ブラックベリー、私は私」はジョージア映画。ジョージアの女性作家タムタ・メラシュヴィリの原作小説を同国の女性監督エレネ・ナヴェリアニが映画化した。東京やパリオリンピックの柔道でジョージアという国の名前を聞いて最初は知らないなと思ったけど、旧ソ連のグルジアである。あえて地図を見るとトルコの北側で黒海に面する場所に位置する。多分一生行くことはないだろう。
スルーの予定が日経新聞の映画評で日経編集委員古賀茂樹が5つ星をつけている。過去の古賀氏の5つ星映画はいずれも自分には相性が良かった。好感度を持った書き方をしても星3つが多い古賀氏にはめずらしいので気になる。フェミニスト映画に見えるけど違うという古賀氏の言葉を信じて映画館に向かう。
ジョージアの小さな村で日用雑貨店を営み、静かに暮らしている独身の中年女性48歳のエテロ(エカ・チャヴレイシュヴィリ)は、ある日ブラックベリー摘みの最中、ブラッグバードに見とれて崖から足を踏み外し転落してしまう。何とかひとりで崖から這い上がったエテロが見下ろすと、村人たちが自分の遺体を濁流の川から引き揚げていた。
自分の店に戻ると、配達員のムルマンが洗剤を持って来て商品を棚に並べていた。エテロはムルマンの首筋をじっと見つめて胸にすり寄り、脱いで男にまたがった。彼女はそのまま人生で初めて男性と肉体関係を持ったのだ。そして、その時を境に彼女の運命が変わる。
アキカウリスマキ監督の映画が持つ素朴な肌合いなのに女性の大胆さに驚く
意外な結末には思わず声を上げてしまう。
室内のインテリアのブルー、イエロー、グリーンの使い方がフィンランドのアキ・カウリスマキ監督作品に類似している。一部のおしゃべり女は別として無表情で朴訥な人が多い。ジョージアの田舎の素朴なムードがいい。
最近の48歳の一般日本女性にはきれいな人が多い。見慣れているので、この主人公エテロを見ていると50代はおろか60代にも見えてしまう。しかも太めである。映画に登場するジョージアの若い女性は美形だらけで意図的に対照感をだすとまで思えてしまう。
クチの悪い村の女性たちから更年期だよとからかわれる。エテロは母親を若くして亡くして、父と兄と暮らしていた。今は小さな日用雑貨店を営んでいる。昭和ならともかく今や日本ではほとんどないお店だ。こんな品揃えで利益が出るんだろうかと余計な心配までしてしまう。
日本にも大勢いる人の噂やカゲ口を趣味にして生きているご婦人たちから一歩距離を置いてマイペースに暮らす。いい感じだ。そんなエテロが死に損なった臨死体験から突如性に目覚めて身近な配達員に色気を出す。妻がいて孫までいて幸せそうな男に家族がいることなんてどうでもいい。ただひたすら性的に積極的になるのだ。自慰のシーンもある。女性陣が感想を寄せる映画解説ではまったく想像もしなかった展開である。
日本では脱ぎっぷりの悪い女優陣が目立つ一方で、先日のスイスを舞台にした「山逢いのホテル」もそうだったが、欧州では熟女たちのヌードが目立つ。お世辞にもそそられることはない乳首やヘアも露わにしたヌードで、相手の男はポコチンの竿まで出してしまうとはビックリだ。性的に目覚めるのを映像で示したかったのであろう。配達員のムルマンとはひっそりと逢引きを重ねていくが、あることで転機を迎える。同時に女性特有の疾患にかかった症状が出て今後の人生について考えてしまうのだ。
いったいエテロがどうなってしまうのか心配した途端に「え!」となってしまう。観客の中には予測できる人がいたかもしれないが、ヘタなミステリー映画よりも自分は驚いた。
映画「ブラックバード、ブラックベリー、私は私」はジョージア映画。ジョージアの女性作家タムタ・メラシュヴィリの原作小説を同国の女性監督エレネ・ナヴェリアニが映画化した。東京やパリオリンピックの柔道でジョージアという国の名前を聞いて最初は知らないなと思ったけど、旧ソ連のグルジアである。あえて地図を見るとトルコの北側で黒海に面する場所に位置する。多分一生行くことはないだろう。
スルーの予定が日経新聞の映画評で日経編集委員古賀茂樹が5つ星をつけている。過去の古賀氏の5つ星映画はいずれも自分には相性が良かった。好感度を持った書き方をしても星3つが多い古賀氏にはめずらしいので気になる。フェミニスト映画に見えるけど違うという古賀氏の言葉を信じて映画館に向かう。
ジョージアの小さな村で日用雑貨店を営み、静かに暮らしている独身の中年女性48歳のエテロ(エカ・チャヴレイシュヴィリ)は、ある日ブラックベリー摘みの最中、ブラッグバードに見とれて崖から足を踏み外し転落してしまう。何とかひとりで崖から這い上がったエテロが見下ろすと、村人たちが自分の遺体を濁流の川から引き揚げていた。
自分の店に戻ると、配達員のムルマンが洗剤を持って来て商品を棚に並べていた。エテロはムルマンの首筋をじっと見つめて胸にすり寄り、脱いで男にまたがった。彼女はそのまま人生で初めて男性と肉体関係を持ったのだ。そして、その時を境に彼女の運命が変わる。
アキカウリスマキ監督の映画が持つ素朴な肌合いなのに女性の大胆さに驚く
意外な結末には思わず声を上げてしまう。
室内のインテリアのブルー、イエロー、グリーンの使い方がフィンランドのアキ・カウリスマキ監督作品に類似している。一部のおしゃべり女は別として無表情で朴訥な人が多い。ジョージアの田舎の素朴なムードがいい。
最近の48歳の一般日本女性にはきれいな人が多い。見慣れているので、この主人公エテロを見ていると50代はおろか60代にも見えてしまう。しかも太めである。映画に登場するジョージアの若い女性は美形だらけで意図的に対照感をだすとまで思えてしまう。
クチの悪い村の女性たちから更年期だよとからかわれる。エテロは母親を若くして亡くして、父と兄と暮らしていた。今は小さな日用雑貨店を営んでいる。昭和ならともかく今や日本ではほとんどないお店だ。こんな品揃えで利益が出るんだろうかと余計な心配までしてしまう。
日本にも大勢いる人の噂やカゲ口を趣味にして生きているご婦人たちから一歩距離を置いてマイペースに暮らす。いい感じだ。そんなエテロが死に損なった臨死体験から突如性に目覚めて身近な配達員に色気を出す。妻がいて孫までいて幸せそうな男に家族がいることなんてどうでもいい。ただひたすら性的に積極的になるのだ。自慰のシーンもある。女性陣が感想を寄せる映画解説ではまったく想像もしなかった展開である。
日本では脱ぎっぷりの悪い女優陣が目立つ一方で、先日のスイスを舞台にした「山逢いのホテル」もそうだったが、欧州では熟女たちのヌードが目立つ。お世辞にもそそられることはない乳首やヘアも露わにしたヌードで、相手の男はポコチンの竿まで出してしまうとはビックリだ。性的に目覚めるのを映像で示したかったのであろう。配達員のムルマンとはひっそりと逢引きを重ねていくが、あることで転機を迎える。同時に女性特有の疾患にかかった症状が出て今後の人生について考えてしまうのだ。
いったいエテロがどうなってしまうのか心配した途端に「え!」となってしまう。観客の中には予測できる人がいたかもしれないが、ヘタなミステリー映画よりも自分は驚いた。