後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

奇想天外な旅へご案内しましょう

2008年06月04日 | 旅行記

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 いろいろなパック旅行に参加したが、これほど奇想天外なスケジュールの旅は初めてだった。2006年3月25、26、27、28日の4日間、家人と2人で参加した。

旅程をご覧下さい。

第1日、9時に新宿を豪華トイレ付ベンツ・バスで出発、中央高速、松本平から安房峠を越えて奥飛騨温泉の平湯に14:00時到着。すぐに新穂高ロープウエイにて穂高頂上付近へ登り残雪の北アルプスの山々の絶景を楽しむ。夜は平湯温泉に泊まる。

第2日、平湯を昨日のベンツ・バスで8:30時出発、高山の朝市、宿場町を散策。その後、合掌造りで世界遺産になっている白川郷を見物する。午後は更に郡上八幡へ行き、市役所職員による盆踊り、春駒などを見る。踊りが素朴で上品で良い。富山の風の盆も上品な盆踊りだが、郡上八幡の盆踊りは賑やかで、しかも優雅である。

この後が奇想天外。そこから真っ直ぐ名古屋港へひた走る。20:00時出航の豪華フェリー、木曽(長さ200m、15795トン)の特等個室へ乗り込む。このフェリーで一泊しながら太平洋を北上し、翌朝、仙台港へ着岸するのだ。

第3日目:仙台に着いたら、名古屋で別れたベンツ・バスが待っていて、作並温泉へ行き一泊する。(バスは船倉に入って居たのかもしれない)

第4日目は作並温泉をバスで出発し、日本三景の一つの松島を観光してからバスで東京へ帰ってきた。

旅程が東京、奥飛騨、高山、白川郷、郡上八幡、名古屋、仙台、作並、松島、東京となっている。何回かパック旅行に参加したがこのような旅程は初めてなので、皆様へもご紹介したい。

=======以下に、木曽号について記す=======

木曽号には以前にも、仙台港から苫小牧港まで乗った。その設備の良さに感心していたので再度乗船した次第。ダイニングルームが豪華で洒落ている。夜にはクラシック音楽が広いシアターで上演される。入場無料である。ラウンジではプロのピアニストによる演奏もある。

特等個室は大きな窓があり、太平洋が一望できる。バス・トイレ付きである。

他に大浴場も売店も軽食スタンドも、なんでも揃っている。廊下が幅広くゆったりしている。

船倉には大型トラックや乗用車が積んであるが、カーフェリーという感じではない。以前、伊豆七島を周遊する豪華客船のニッポン丸に乗ったことがあるが、それとあまり変わらない。違う所はサービス専門の人の数が少なく、人件費を節約している点だけである。それと正装の必要が無い。気楽に時を過ごせる。

15000トンと言えば横浜に係留されている氷川丸の11622トンより少し大きい。氷川丸は5500馬力の大型ジーゼルエンジンを2基装備して太平洋を時速18.ノットで巡航した。

一方、木曽のエンジンは16100馬力のジーゼルエンジンを2基付けている。それで長さ200mの巨大な船体を時速25ノット(時速46Km)で走らせる。特等船室は船の前方上部にあるのでエンジンの音があまり聞こえない。木曽とその僚船は2005年に進水した。新しいコンセプトで作られた客船である。

以前、船旅へ憧れて、川崎から高知まで大型・快速フェリーに乗ったこともある。15000トン、25ノットで木曽と同様の性能だが、大型トラック輸送に重点がある。客室が簡単すぎる作りで、その上食堂が決まった時間にだけ定食を出していた。木曽が乗り心地の良い大型乗用車なら、四国・九州行きの大型フェリーはバネの硬いトラックに乗ったような心地がする。

ただ豪華客船のニッポン丸や飛鳥とは少し違う雰囲気ではある。

この3泊4日6食つきのクラブツーリズム(株)主催のパック旅行代金は1人当たり45980円であった。

似たような旅程が今でも有るか不明だが、問い合わせ先は;同社、東京バス旅行センター(電話:03-5998-3333)である。尚この会社は近畿ツーリストから分離、独立したパック旅行専門の会社である。

写真説明:上の大きな写真は木曽号のパンフレットより、下の列の左端は客室内の様子。その右はロビーにあるグランドピアノの様子。真ん中の写真は新穂高ロープウエイから北アルプスの山々を見た写真。その右が白川郷の写真。そして右端の写真は松島の福浦島へ渡る橋の写真。


この美しい城を誰が作ったのか?-諏訪の歴史概観とともに

2008年06月04日 | 写真

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諏訪湖から内陸に少し入ったところに高島城がある。何度見ても、その均整のとれた美しさに感動する。

琵琶湖から東にある彦根、長浜、岐阜、犬山、名古屋、掛川、小田原、松本などにある城の天守閣の中で高島城は特に美しい。誰が設計して築城したのだろう?

豊臣秀吉の武将、日根野 高吉 が1598年に完成した(写真にあるのは昭和45年に、残っていた写真と図面により再現)。高吉は安土城や大阪城の築城にも参加した築城の名手だった。それ故に美しい高島城を、現在でも楽しめるのだ。

でも、何故、高吉が此処に城など作る羽目になったのか?それ以前の諏訪盆地は誰の領地だったのだろう?

日本書紀に持統天皇が691年に作ったと書いてある諏訪神社はどんな歴史的役割をしたのであろうか?

答えを簡略に記す。

諏訪盆地一帯の支配者は1542年以後40年後の1582年までは武田信玄一族であった。ところが1582年織田軍が一挙に武田勝頼を滅ぼし、信長は諏訪に進駐し明智光秀らと共に13日間滞在した。この間に徳川家康も諏訪に来て織田信長へ拝謁した。(信長は諏訪でも光秀をなぶり、いじめたという)

同じ年の3ケ月後の6月に本能寺の変が起き、その後は当然、諏訪も秀吉の支配となる。

彼は戦勝に貢献した武将、日根野 高吉へ2万7千石を与えて1590年に領主にした。高吉は1601年までの短い間に高島城を作りながら領民の生活の安定に努力したという。

ところが、関が原の戦いで徳川側についた諏訪一族が活躍し、家康はそれに報いるために諏訪一族へ旧領地を与えた。諏訪頼水が初代諏訪藩主として高島城へ入城した。高島城は、それ以後、10代藩主、諏訪忠礼に至るまで266年の間、諏訪藩の城として諏訪湖を見下ろして来た。(当時の城は諏訪湖に接していた)

これとは違う歴史を辿ったのが武田信玄一族である。徳川家康が江戸城に落ち着くと甲斐の国は幕府の直轄領になりる。代々の城代が幕府から派遣されて来た。諏訪は独立した藩として残ったが甲斐はそうではなかった。

691年、持統天皇は諏訪神社を勅令で作った。平安時代になると上社と下社の神官たちが武装して諏訪地方を統治するようになる。上社と下社が諏訪盆地を2分し血みどろの戦いを続ける。鎌倉幕府へ参加したり、それぞれ南朝、北朝へ忠誠を誓ったり、その権力闘争のすさまじい歴史は、書く気がしない。あまりにも残酷で浅ましい。

諏訪神社の役割はその地方を武力闘争をしながら統治してきたことである。神社が武装して領民を統治する例は、日本の他の地方にあまり例を見ない。

日本の地方、地方で武力抗争が戦国時代の終焉まで続いたのであろう。江戸時代になって良かったことは、兎に角地方同士の愚かな戦争が無くなった事である。

明治以後、諏訪湖地方は養蚕・織機産業から始まり、時計を中心にした精密工業が進み、現在は半導体工業の先端的技術を駆使した工場群が集中している。

また諏訪湖温泉を中心にした湖岸には美術館やアールヌーボーのガラス芸術の展示館もある。湖岸には観光船の桟橋やヨットハーバーがあり観光地としても栄えている。

美しい高島城も観光名所になっている。

しかし城にまつわる歴史を調べると地方武力勢力の抗争の残忍な歴史があり、暗い気持ちになる。それだけに、平成の、この時代の有難味もより深く味わうことが出来る。(終わり)

撮影日時:5月31日と6月1日、撮影者:Mrs.藤山、

歴史情報の出展:諏訪市教育委員会編集、「戦国時代の諏訪」、平成19年1月31日初版発行、20年2月29日代版発行、連絡先は諏訪市教育委員会、電話:お266-52-4141、高島城天守閣入場券販売窓口で販売中)