後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

立川基地の進駐軍のことなど

2008年06月09日 | 日記・エッセイ・コラム

カトリック立川教会に頑丈な木製の長椅子が並べられていた。椅子の背には金属製のプレートがあり、アメリカ人の名前が彫ってある。立川基地の進駐軍の人々が寄付した椅子だ。主任司祭の塚本金明神父様が基地内のカトリック教会と交流があった。

この椅子にまつわる思い出を書いてみようと昨日、長椅子の写真を撮りに行った。

無い。立川教会の建物がすっかり新しく改築されている。あの重々しい長椅子が1個も無い。幼稚園も無くなっている。当時茂っていた樹木も無い。駐車場だけが白く広がっている。撮りに来るのが遅すぎた。

筆者は1971年に塚本神父から家人と共に洗礼を受けた。代父は大学教授のY氏。代母は教会の守り役のA氏の奥さんであった。

塚本神父は小柄なイタリア人のように見えた。日本語が必ずしも流暢でない。色が白い。発想法が外国人のようだ。どういう訳でもないが、思い込みで「イタリア人の神父さん」と思っていた。

ろくに教理の勉強もせず、ある時、「洗礼を受けて良いですか?なにか試験でもあるのですか?」と聞いた。そのときの神父さんの顔が忘れられない。そんな質問は初めてに違いない。当惑したような、でも柔和な表情は思い出してもおかしい。しばらくして、「試験なんて有りません。今迄の人生を悔悟の気持ちで反省しているなら良いのです。すぐ洗礼式をしましょう」

塚本神父は占領軍兵士の跳梁する戦後の立川で、カトリック教会を再建し、進駐軍との交流も進めた。その一方でバチカン本部とも交渉し、東京で大バチカン展覧会を開催するような行動力も発揮していた。素朴な性格ながら信仰が篤く、信者の信望を集めていた。

ある時は、我々を進駐軍の基地内の教会のミサへ連れて行ったり、アメリカ人を立川教会へ多数招いたりした。

その折に知りあったぺロ夫妻を我が家へも招待した。35年後の現在でもクリスマスカードの交換をしている。ペロさんは空軍中佐、奥さんのサンタさんは病院のエックス線の技師でジェフリーという小さな息子が居た。

戦後、日本全国へ分散進駐した占領軍はたびたび犯罪を犯し、新聞によく記事が載っていた。進駐軍は悪いことをするという印象があった。そんな時に、ペロ夫妻と付き合い進駐軍への印象が変わった。

塚本神父にとっては占領軍も怖くない。日本人と話すように普段の調子で話す。英語を話している。神父さんにとっては占領軍も日本人も皆同じなのだ。同じ神の子なのだ。

基地は有刺鉄線に囲まれていた。広い芝生があり、アメリカ軍人は、その中の白い家に住んでいた。貧しい当時の日本人からは特別な人間のように思われていた。そんな時代であった。

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(写真説明:左、十字架像だけは昔のまま。中、塚本神父を讃える記念樹、右、昔の司祭館)

塚本神父様はその後、カトリック市川教会の主任司祭へ転じ、そして市川教会も引退し、数年後に亡くなった。なにか懐かしい神父さんだったので遠方の市川教会のミサへも何度か行った。

その後は小金井教会へ通っている。何年か前のある時、代父をして下さったY教授の息子さんが、主任司祭として小金井へ着任して来られた。

1971年頃、立川の塚本神父様の事務所にいつも遊びに来ていた学生さんなのでよく憶えていた。関口のカトリック本部の教会でMさんとともにY教授の息子さんも叙階して神父になった。その儀式へ出席したことも思い出深い。

主任司祭になったY神父様は優秀な方に違いない。説教が分かりやすい。イエス様が側に立って居られるように感じることがある。お話をそのまま文字にすれば立派な文章になっている。言語明瞭で話す言葉が書き言葉になっている。

日本全国から当時の恐ろしかった占領軍が次第に消えて行った。基地は沖縄や佐世保、岩国、厚木、福生などなどに残った。アメリカ車には乗らず、日本製の車を使っているせいか日本人とあまり変わらない。いや日本人の生活程度が高く、豊かになったせいでもある。

それと当時の進駐軍は威張っていた人々が多った。軍の制服を着て歩いていた。

進駐軍のことを知っている昔の人々にとって基地へ対しては特別な思いがある。

進駐軍というと、塚本金明神父を、代父のY教授、後に主任司祭になった息子さん、そしてペロ夫妻のことなどがつぎつぎと頭の中をめぐる。

昭和天皇も亡くなって20年。立川基地は広大な、そして美しい昭和公園になっている。

基地の跡形も無く、そこにアメリカの軍用飛行場があったなどと想像もつかない。

時の流れの速さを実感するのは老人になった証拠である。それも楽しいものだ。

(終わり)

補足:上の記事に対してzebra1192さんから、重要な、3つのご質問を頂きました。
(1)どんな理由で洗礼を受けましたか?
(2)神を信じると、心の支えにもなるのですか?
(3)どうも一神教は他と妥協することがなく、結局争いの火種を何時も抱えているのではと思ってしまいます。

これらは日本人が、小生も含めて、一神教に対して、皆んなが、かなり共通に持っている理解の仕方です。そこで、コメント欄に小生の感想を少し書きましたので合わせてご照覧頂ければ幸いです。zebra1192さん、有難う御座いました。


浮き城と言われた忍城(おしじょう)の姿

2008年06月09日 | 写真

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埼玉県、行田市は利根川と荒川の間にある低地です。周りは水を満々と湛えた水田が果てしなく広がっています。江戸時代にはこの水田はほとんど沼や湖でした。文政6年(1823年)、岩崎長谷の描いた「忍名所圖絵」を見ると沼に長い橋がかかり、その袂で農民が鵜飼をしています。

そんな湖沼を外堀代わりに忍城を作ったのが、熊谷を本拠にしていた戦国武将の成田顕泰(あきやす)です。1479年に完成しています。外堀のような湖沼が周りに広がり、敵が近づけない難攻不落の名城でした。その後111年間、1590年の秀吉による関東平定まで成田氏の城として存続しました。

1590年の秀吉の小田原城攻略の時には、城主の成田氏長が北条氏に味方します。

石田三成の率いる軍勢が忍城を取り囲みました。三成は湖沼の地形を巧みに利用して水攻めに出ました。利根川と荒川へ延長14kmもの堤を築き、多量の水を流し込んだそうです。今でも堤の一部が三成堤という名で残っています。

深い水で完全に囲まれましたが、なかなか落城しません。それを見た人々は、「城が浮いているから落城しない。浮き城だ!」と言い合ったそうです。

しかし、小田原城が落ちた後では、忍城も開城せざるを得ません。

江戸時代には徳川の城として、親藩、譜代16人の城主が在城する。

上の写真にある白い天守閣のような建物は三階櫓と称する建物で1702年に完成しました。1639年に忍城に城番になった阿部忠秋が城の大改修をした時に作りました。

全く根拠意の無い想像です。「江戸幕府へ遠慮して天守閣を作らないーでも天守閣のように見える立派な三階櫓を作ろう!」、こんな気持ちがあったのかも知れません。江戸時代は常に徳川幕府の意向を伺いながら生きて行かねばならない時代でした。

幸い、阿部氏はその後184年間城主を務めます。明治維新後、城は取り壊され民間へ払い下げになりました。現在の三階櫓は1988年に行田市によって再現された建物です。(終わり)

撮影日時:6月7日午後1時頃。 撮影者:Mrs.藤山