後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「菊と刀」で2つの事に感動した思い出

2008年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

ルース・ベネディクトの名著、「菊と刀」には色々な読み方がある。

1958年、大学生の頃に読んで感動した。特に2つの性質の異なる感動を一生忘れられない。

(1)世界中の民族文化を比較するのは重要だが、倫理的な視点から民族文化の優劣を考えてはいけない!

比較文化人類学という分野の学者だったベネディクト博士にとっては当然な研究態度である。

この態度は将来、研究者になろうとしていた小生にとっては衝撃的な指導であった。科学と道徳を、そして宗教を一緒にしてはいけない!一緒にすると学問は進歩しない。一生忘れらえない教訓であった。多くの宗教画が芸術的につまらないのも一例である。アメリカ人の研究成果は優れているという一般的な結論にはなんの意味もない。日本人の研究より優れている場合もあれば劣っている場合もある。研究成果は国籍、研究費の大小で決めるのではなく、あくまでも個々の研究論文の内容の価値だけで評価すべきである。

もう一つは、種々の民族文化をあるがままに、それぞれ尊敬する。これこそ、どんな外国を訪問した場合でも通用する「普遍的な行動規範」になる。人間は違った文化の人々を軽蔑したくなる。とくに貧しい民族の場合は。この原理で外国生活がどんなに気楽になったことか。

(2)敗戦国の「恥の文化」を軽蔑したり、おとしめていない。
戦後すぐの日本人がこの本を絶賛したのは「菊と刀」が決して「恥の文化」を劣っていると評価していなかったからある。敗戦で自信をなくしていた日本人が、大きな勇気を貰った書であった。そのお陰で気を取り直して、戦後の復興に努力した人々も多かったに違いない。

少なくとも自分は、日本人は決して劣っていない!と思うようになった。この思いは40年後の現在も変わっていない。
この本を現在、若い日本人が読めばこような評価は出来なかったと思う。この視点や、色々な性質の異なる感動もあることを若い人々へお伝えいしたくて拙文をお送りする次第です。(終わり)


「菊と刀」の日本人の行動規範は、ブログの隆盛に影響を受けない(続き)

2008年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム

現在、日本では1000万前後のホームページやブログが飛び回っているという。

ブログの内容は、個人的な生活の日記も多く、創造的な意見の発表もある。また美しい写真作品もある。話題は千差万別で想像以上に多岐に亘っている。以前の日本ではこのように個人の意見を堂々と発表はしなかった。ブログを書いている人々にとって「恥の行動規範」など、想像も出来ない遠い昔の話になってしまったのか?

日本から「恥の文化」は消滅したのであろうか?

日本人の行動規範が大きく変化したようだ。

しかし、もう少し緻密に考えてみよう。

ブログでは本名や住所を発表しない。仮名やふざけた愛称で意見を書く。もし本名で書くとしたら、こんなに盛んにならなかったと思う。

ブログは匿名によって守られている。ブログ文化に限界があるとすれば、この「匿名性」が足枷になっていると思う。もっとも「匿名性」のもたらす良いことも多いが。

ここで、ブログを書いていない日本人の数を考えてみよう。総人口1億人以上である。子供、老人を差し引いても、ブログ人口、約1000万人は圧倒的に少ない。

前回書いた戦前の、日本人の行動規範、「他人から見て恥ずかしいことはしない」は最近確かに弱くなり影響力が小さくなった。義理人情もあまり重要でない。

さらに、「何が恥か?」という問題は、戦後大きく変化した。

しかし人間の深層心理や行動規範は母親から子供へと刷り込まれることが多い。

母が子供を叱る時、「ご近所に恥ずかしいから大声を上げないで!」と言う。冠婚葬祭の折には細君が、「その金額では恥ずかしい」と金額を決める。

こうして「恥の文化」が幼少のころから刷り込まれている。

幼少のころ食べた母の料理の味を一生美味しく思うように、「恥の行動規範」は一生消えない。ただ口に出して言わないだけである。

ブログには恥ずかしいことも多く書いてある。匿名でだから書ける場合が多いと思う。しかし、無意識のうちに書けない場合も多いのではないか?

どうでしょうか?皆様のご意見をコメントとして頂ければ幸いです。(終わり)

付録:講談社より「菊と刀」が学術文庫(1313円)で販売されています。

注文は、http://shop.kodansha.jp/bc/ から出来ます。