このブログでは、梅の花、桃の花、桜、山林の中の花々、日本サクラソウ、アヤメ、アジサイなどと、季節季節の花々を取り上げてきました。
花の好みは人それぞれ、また時代によっても変わって行きます。
そこで、今回は外国での花々の様子を書いてみました。
◆高山植物の花々が裏庭に(1972年、ストックホルムにて)
イワカガミ、コマクサ、ミヤマウスユキソウ、チングルマに良く似た花々が裏庭一面に咲き乱れているスウェーデンの初夏。
「エケトルプ先生、驚きました。日本では高山にしか咲かない花々が低地の野原に咲くのですね」「緯度が高いのでそうでしょう。でも良く見ると花々は日本のものとは違う筈です。植物は気候と土地の成分の違いによって同じ種類でも違った外見に育ちます。名前も地方にしたがって違うのが普通です」
「西洋の花々は色鮮やかで派手な花が多いのにこんな素朴な美しさを持っている花々もあるのですね?」
◆派手な美しさと可憐な美しさ
「日本人は野生のニホンサクラソウやスミレ、ナデシコのように小さくて可憐な花が好きです。西洋人は薔薇やチューリップ、ガーベラのように派手で装飾的な花が好きなのですね。日本人の美意識は余計な装飾的なものを削ぎ落としたものに美の極致があると感じるのです。洗練された感覚と思います。西洋人には理解出来ない境地です」「フジヤマさん、そう決め付けないでください。東京の花屋さんには派手で大きな薔薇やランの花々が並んでいましたよ。サクラソウなんて今日始めて聞く名前です。日本人の花の好みも欧米人と同じですよ」
「欧米人は好みに合わせて、花の品種改良をしてしまい野生の花々の本来の美しさを忘れていますね」「それは偏見です!この裏庭に小さくて可憐な花を咲かすには苦労が多いのです。雑草を根気良く取ったり、花々に合った肥料を秋の間に撒いたりしたので次の年の初夏にこのように一斉に咲くのです。このように何気無く咲いている野の花々が好きな西洋人も多いのです。でも色鮮やかで派手に大きい花々も好きです。美しい花々を大切にする心は民族の違いに関係なく人類共通の本質です」
「でも民族の違いや時代の流行によって好みの花は変わると思います。日本のアジサイ、ツバキ、フヨウなどが西洋に行って改良されて別物のように派手な色彩や大輪になって帰ってきます。やはり好みが違うのですね」
夕食後の庭は白夜で暗くならない。ほの明るい夜目に、一面の花々が高山のお花畑のように輝いている。スウェーデンの初夏の夜。
◆食糧難でも花を飾るベトナム人(1994年のハノイにて)
1994年の初夏。1988年のドイモイ政策発表後、経済発展の遅いベトナムにはまだ食料難が続く。ハノイ郊外の紅河の堤に闇市が並んでいる。農産物を売る農民もそれを買うハノイ市民も栄養失調で土色の顔をしている。敗戦後の日本の闇市と同じ光景。よく見ると彼方此方で純白の花束を売っている。トルコキキョウのような形の花を、束にして農民が大量に運んでいる。自転車の荷台とハンドルにあふれるように積んでいる。全てが貧しい風景のなかで、純白の花の美しさに息を呑み、立ち尽くす。
朝からハノイ市を案内してくれている若者のチューさんへ聞く、
「チューさん、ベトナムはまだ食料難と聞きますが、花なんか買う余裕が有るのですか?」「生活が苦しいからこそ家の中に花を飾るのです。米軍のハノイ爆撃が激しかったときもこの花を欠かしませんでした。季節が変われば違う花になりますが」「素晴らしい人々ですね」、と言いながら日本の戦後の闇市を思い出していた。
記憶ははっきりしないが、どうも花など売っていなかったような気がする。
その後、サイゴン市に行った時も市場に花々が並んでいた。ただハノイの白い花ではなく、色彩鮮やかな熱帯の花々である。
ベトナムの農村地帯を車で通ると所々の道端に花が飾ってある。案内人に聞くと地雷で死んだ人の家族が死者の冥福のために手向けたものと言う。
花の咲かない砂漠や極寒の地に住む人々は別にして、世界中の民族はそれぞれの花を大切にしている。太古に人間が死者を悼むようになるのと同じ頃から花を好きになったのではないか? ただ好きな花とその楽しみ方は民族によって少しづつ違うようだ。
春爛漫の川沿いに豊かに咲き誇る桜並木の美しさ。大勢の人々がその下で花見酒を楽しむのは日本人だけであろう。花の美しさに酔い、酒に酔う。酒と花を組み合わせて楽しむ民族はそんなに多くは知らない。礼儀正しく飲むかぎり、この風習はいつまでも存続すると思う。(終わり)