外国での体験ではないがアメリカ人宣教師のこと。昭和32年の仙台にウイリアムスさんという、大柄で陽気な宣教師がいた。説教をしたり賛美歌を教えるようなことはしない。大学生達が彼の家によく行って遊んでいた。
ある時、学生6、7人と一緒に郊外の田園地帯ヘハイキングへ行った。秋の青空が広がり、水田には黄色の穂波がゆれていた。爽快な秋の風につられ、つい早足になる。かなり歩き、疲れたので道端で休むことにした。見ると見事な平らな大岩がある。学生達は太っている宣教師の椅子代わりに勧める。自分達は草の上に座り、談笑していた。
そこへ野の花の束を持った、着物姿の小さな老婆が1人現れた。彼女の目がウイリアムスさんが座っている大岩を見つめている。
と、途端に大柄な宣教師が飛び上がって、岩から離れた。顔を真っ赤にしている。我々は何が起きたか分からない。ウイリアムスさんが10mくらい走って行き、老婆の方へ向いて、「すみません」とお辞儀をしている。その位の日本語は話せた。
老婆は「いいよ、いいよ」と言って、岩の陰に立っていた2本の竹製の花筒へ花を居れ、跪いて、両手を合わせて、お祈りをした。
短いお祈りのあと、何事も無かったようにトボトボ帰って行く。
我々が良く見ると、大岩の稲田へ向いた側面になにやら字らしきいものが彫ってあるり、花筒が2本立ててある。
道路側から見ると何も見えない、単なる大岩だ。でも先祖代々、稲田の守神として一家の信心を注がれて来た自然神なのだ。宣教師のウイリアムスさんは瞬間的に気がつき、恥じ入りながら飛退いた次第であった。
彼は学生達に偉そうな説教をしなかった。その代わり自然神を拝む老婆へ最高の敬意を表した。その礼儀正しさに我々学生は「本物の宣教師だったのだ」と深く感動した。あれから50余年経つがあのときのウイリアムさんの恥で真っ赤になった顔を鮮明に思いだす。
日本人が岩や、大きな樹木や。山川草木すべて自然のものに神が宿るとして拝むのを、キリスト教国の人々は決して軽蔑しない。われわれはこの国の信仰のあり方を欧米人へよく説明したほうが良い。国際相互理解のためにも。(終わり)