後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

暮れの大掃除と散髪をして柚子湯に入りました

2009年12月22日 | インポート

暮れに毎年、大掃除をするのですが今年から新しい仕方を導入しました。一日で一気にしないで、3日位に分けすると楽に仕上げられます。なにせ仕事を引退しているので時間は充分あるのですから。

先日は庭の木々の枝の剪定と 雑草を丁寧に抜き取りました。その庭仕事を2回に分けて1時間ずつ行ないました。今日は一階の窓ガラスの外側を脚立を使って全て綺麗にしました。内側は家内がしました。1時間で完了です。2階の窓ガラスの掃除は明日です。家内は今年の夏にローカル新聞社の仕事を辞めたので時間とエネルギーが余ってます。ガス台と排気ファンの油汚れを綺麗にしました。風呂場の掃除もしました。

その後、私の髪を切ってくれましたので、柚子湯に入りました。柚子の香りに酔ったような気分になり、今年一年間の出来事などを思い返しました。

皆様は柚子湯に入られましたでしょうか?

おやすみなさい。        藤山杜人


山林の中に独り住み、モリアオガエルを育てている友人

2009年12月22日 | 写真

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山梨県、北杜市にある甲斐駒や八ヶ岳、そして鳳凰三山の見える山林の中に鬼家(オニイエ)雅雄さんという友人が15年以上一人で住んでいます。山荘も自分で建てたのです。家の構造がロマンチックに出来ています。上の左の写真は左右にわかれている2階部分をつなぐ天空の橋です。そこを渡ると右の写真のような鉢植えの花を一面に並べる屋上があり、その後ろは18畳くらいの大きな部屋です。陽射しが明るく差し込んで眺めの良い部屋です。コンピューター室は母屋の3階にある部屋です。そこも陽射しが温かく、落葉した雑木林の梢が見渡せます。

Photo_53 母屋の南側を少し下ると一年中ヤマメの棲んでいる小川が流れています。この写真はそのほとりに鬼家さんが作った深い池です。緋鯉が泳いでいます。

ある年にこの池の近辺にモリアオガエルの白い泡の卵塊を見つけたそうです。そこで今年はモリアオガエルの卵塊から孵化したオタマジャクシが落ちて育つ池をもう一つ作りました。今年の春にはこうして数十匹のモリアオガエルを育て上げました。

自然界ではモリアオガエルは樹木の上で生きています。脚に吸盤がついていて木の葉に貼り付いて虫などを捕食して成長します。飛び跳ねる力が想像以上に大きくて、一度に3mくらい跳ぶそうです。こうして木から木へと樹上生活を続けるのです。卵を産む時だけ水辺に帰って行くのです。

鬼家さんは数十匹のモリアオガエルを箱の中に入れ、ヨーロッパコウロギを餌にして育て上げました。このコウロギの飼育も一苦労だったそうです。

下の2枚の写真が育ったモリアオガエルの写真です。

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寒い冬になるとカエル達は冬眠をします。そこで鬼家さんは数十匹のモリアオガエルを入れた箱を家の中で暖房をしていない寒い部屋に入れて、注意深く低い温度に調整しています。

見事、冬眠に成功して数十匹のモリアオガエルを眠らせる事に成功したそうです。春が来て、起きるまでの長い眠りです。下の写真は冬眠中の様子です。

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先日、鬼家さんの山荘に寄ったとき、冬眠中のモリアオガエルを見たかったのですが遠慮しました。下手に起こしてしまってはいけないと思いました。

もう少しすると雪が降り、山林も一面雪原のようになります。その頃にまた鬼家さんを訪問しようと思っています。

モリアオガエルは何故、人間の心をいやす力があるのでしょうか?このようにカエルの事を書いていると とても安らかな気持ちになるから不思議です。皆様の心も安らかになりますようにお祈り申し上げます。(終り)

尚、モリアオガエルの写真3枚は鬼家雅夫さんのホームページ:http://ihcuik69.web.fc2.com/ から転載いたしました。鬼家さんへ感謝いたします。


お葬式や戒名は一切不要!宗教嫌いの方に読んで頂きたい記事です

2009年12月22日 | うんちく・小ネタ

私のお付き合いをしている方々に宗教嫌いの人が多くいます。親しくお酒など酌み交わしながら、時々話題が死後の世界のことになります。まあ、私の方からそんな話題にするのですが。すると私は宗教は嫌いだ!宗教のお陰で戦争が絶えないではないか!私が死んでも葬式も戒名も要らないと言い放つ方が多いのです。

そう断言されても私は不快に感じません。一般にそこまで考えている人に限って他人へ優しいものです。もっと言えば人格的に良く出来た人が多く、友人として信頼できる人が多いのものです。

宗教のお陰で戦争が絶えない。アメリカはイスラム諸国を目の敵にして侵攻します。喧嘩を売るような理不尽な外交を展開しています。

中世には十字軍はイスラム教徒ばかりか同じキリスト教の正教会派の信徒も虐殺したのです。マルチン・ルターの宗教改革では30年戦争という新旧両派の凄惨な戦を引き起こし、ヨーロッパを血染めにしたのです。現象の表面を観察すると、「宗教が戦争の原因」とは本当です。しかしイエス様はキリスト教の為に人を殺せとは絶対に言ってません。キリスト教の本物の信者は福音書に書いてあることだけを行います。書いていないことを行うのは人間の権力慾や物欲が原因なのです。その行為は悪魔の行為です。そんな事を力説すると多くの友人は静かに聞いてくれます。

しかし、「でも私は葬式も戒名も要らないよ」と微笑んでいます。

ああ、そうか。そう言えばお釈迦様はお葬式もいらない、墓も不要だ、と言って涅槃に入られたのです。玄奘三蔵法師の死んだ時、墓を作らないで長安の郊外の荒れ野に骨をすてたのです。それを拾って来て西安のお寺の境内にお墓を作ったのは後の世の人々でした。その遺骨の一部が日本へも運ばれ、現在、埼玉県の岩槻市のあるお寺に祀ってあります。(このことはこのブログで詳しく紹介しました)

葬式や戒名は要らないよ、という人は半分は照れ臭いからです。しかしあとの半分の理由はお釈迦様の言い残したことを無意識のうちに尊敬し、信じているからなのです。

俺は宗教は嫌いだ!と言う人は多くの場合人格が高潔です。「俺は宗教のことで他人と議論するのが嫌いだ!」と言っているのです。

貴方のご意見はいかがでしょうか?

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人


今日は冬至、ちひろさんの柚子の写真をお送り致します

2009年12月22日 | 写真

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出典の、http://blog.goo.ne.jp/hanafubuki33 の12月11日の彼女の日記の後半の文章も転載します。

=======ちひろさんの日記の一部です==============

子供たちがまだ中学生の頃だったと思いますが、京都の保津峡で下車して送迎バスで柚子風呂で知られた水尾と云う処へ行った事があります。地鶏のすき焼きなど食べさせてもらってのんびりと過ごしたひと時を懐かしく思い出しました。
柚子が一杯浮かんだお風呂、何時の日か大きくなった孫たちを交えて、賑やかになった家族で行きたくなりました。(終り)


これは宗教記事です。宗教嫌いの方はお読みにならなくて結構です

2009年12月22日 | 日記・エッセイ・コラム

お早うございます。お元気でしょうか?

このブログでは毎日、3つ、4つの記事を書いています。その中の一つぐらいは貴方の同感が得られるようにと色々な視点で書いています。ですから記事の数が多くなります。政治、経済、文化などなど雑多な記事です。ご関心のある記事だけ読んで頂ければ嬉しいのです。

今日は宗教の好きな方々向けの記事を一つと、宗教嫌いな方々の為の記事一つを一対にして掲載いたします。

私はあまり熱心ではありませんがカトリックです。一般の方と何処が違うか?あまり違いません。しかし、どこが違うか考えて見ましたら2つ、3つ見つかりました。

まず食事の前に家内と一緒にお祈りを唱えます。主願わくば、我らを祝したまえ。また主の御恵みによりて我々の食せんとするこの賜物を祝し給え。我らのキリストによってアーメン。父と子と聖霊の名によってアーメン。と唱え十字を切ります。ここまでは普通のカトリックと同じです。

しかし朝食の時は自己流の祈りを付け加えます。主願わくば 神父様の健康をお守り下さい。XYZ(3人の孫の名)が健康でスクスク育ちますように。AB(娘の夫婦の名)が仲よく暮らしますように。CD(息子夫婦の名)も仲よく暮らしますように。MN(自分たち夫婦の名)もお守り下さい。HP(嫁の両親の名)もお守り下さい。アーメン。父と子と聖霊の名によりてアーメン。と言って十字を切ります。

冒頭の神父様とはローマ法王、東京大司教区の司教、そしてカトリック小金井教会の山本量太郎神父様、その他、教会でお会いした全ての神父様を思い出して、唱えます。

昼食と夕食の前は上の2つの祈りの前の半分だけにします。

ここからが私のこだわりです。外のレストランや寿司店で食事をするときもあります。その場合は食前に黙って上の御祈りをします。あるいはあえてしない時もあります。

何故か?声を出すと恥ずかしい、という理由もあります。しかし声を出して祈ると宗教嫌いの方々の食欲を減退させるかも知れません。祈りの鉄則は他人に迷惑をかけないことです。

食前の祈りをする。毎週日曜日は”原則として”ミサに行く。それだけが違いです。御祈りをしていない普通の時間は至って俗っぽい生活を楽しんでいます。神前結婚式にも仏教の葬式にも義理を欠かさず出席しています。

カトリックになったからと言って親類や友人の付き合いが変化したとしたらそれはいけないことです。「人を愛せ!汝の敵を愛せ!」、これがイエス様の教えなのです。(終り)