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後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

わいろ とコネの社会、ハンガリーの悲劇―盛田常夫さんの話

2009年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

来年の1月に、「ポスト社会主義の政治経済学」という経済学書を出版する盛田常夫さんはハンガリーに20年以上住んで居ます。

彼のホームページ(http://www.tateyama.hu )を見ると、ハンガリーという社会はまさしく賄賂とコネの前近代的社会であることが活写してあります。このホームページは内容豊かですが、左欄のエッセイという項目をクリックすると事務所を改装した時の苦労話や病気になって入院したときの想像を絶するエピソードが書いてあります。

1989年のベリリンの壁の崩壊の後、ハンガリーは共産国家から資本主義国家へ体制変化した筈ですが、共産主義時代の社会の弊風がいまだに残存しています。先々月に彼が東京へ久しぶりに帰ってきた折に講演会があり色々な話を直接聞きました。ハンガリー社会のひどさに吃驚したことを忘れられません。例えば、病院へ行くと「受付」というものが無い。患者は診察室のドアの前にたむろしてひたすら診察の順番を待つのです。ドアには「診察は到着順では無い」と注意書きが出ているそうです。診察室から顔を出した看護婦へ素早くお金を握らせる。その金額によって診察順が決まるらしい。らしい、と書いたのは医者にコネがあって十分謝礼を出す患者である場合は看護婦へのわいろより優先するので明確なことが分からないのです。外人登録事務所も、空港の税関もすべて担当者にスマートに金を握らせて順番を貰う。わいろだけでなく役人へコネを付けて置くことも絶対に必要である。盛田さんが20年以上もハンガリーに住んでいるのでどんな場合でもコネを作る巧妙なすべを知っている。どんな細い糸でも相手に繋がっている糸を探し出せるのだ。細い糸をからめて太くしてゆく。社会全体に効率の良いマネージメントという考え方が完全に欠落しているのです。仕事をするにはまずコネをつけわいろを送り、相互信頼を作らないと全てが始まらないのです。

盛田さんの観察と結論は鋭いものです。「共産主義は持続可能な社会を作れない。自働崩壊する宿命にあった」。「共産主義は人間の良い性質や勤勉さを破壊し、個人を劣化させる」。「自働崩壊した共産主義体制が資本主義体制に移行するためには国家財産の略奪が起きる」。「この略奪の仕方は国によって異なる。ハンガリーでは倫理観欠如の略奪が横行した」。「略奪は国内にとどまらず外国の金融機関が参加して進行する」。「世界的な金融危機はハンガリーを壊滅状態へ追いやった」。「地獄から立ちあがる処方箋はあるのか?」などなどの問題を学問的に論考した結果を本として纏めたものが「ポスト社会主義の政治経済学」です。

ハンガリーの社会が前近代的な状態があるうちに、ロシアによっていきなり共産主義を押し付けられた歴史的事情も病状を一層悪くしているのです。ハプスブルグ家の統治は農民の近代人としての倫理観の成長を抑え、個人としての劣化を促したのです。

ハプスブルグ家の華やかさの陰が暗雲として現在のハンガリーへ繋がっているのです。

以上のような背景を知った上で、盛田さん著の「ポスト社会主義の政治経済学」を読むと、興味深く読むことが出来るとおもいます。いかがでしょうか?(終り)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   藤山杜人


今は亡きある中学校の同級生の思い出

2009年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

年末になると亡くなった恩師、知人、友人の顔や声が心の中によみ返って来る。 

その中に中学校時代のある遊び仲間の顔が見える。村木良彦君の顔や声である。

もう2年近く前に芝の増上寺で葬儀があった。

村木良彦が死んだ。筆者の中学の同級生である。TBS社から独立し同志3人とともにテレビマンユニオンを1969年につくった。村木良彦という名で検索すると、「遠くへ行きたい」、「世界不思議発見」、「海は甦える」など歴史的な作品のプロデューサーの仕事をしたという輝かしい業績が並んでいる。そんなことは一切知らなかった。同窓会で何度も会って話したが、彼は自分の仕事のことは話さない。ニコニコ笑ってこちらの話を聞くだけであった。二年ほど前に、都内のあるお寺で葬儀があった。弔辞を読んだのは昔の同志の今野氏であった。村木氏の業績のことは殆ど触れない。やさしく、穏やかで、決して怒らず。いつもまわりの人々に愛されていたと話す。ただ仕事のことになると、視聴率がもの言うテレビ番組作りへ鋭い批判を繰り返し、何時も良質の番組をつくる情熱に溢れていたそうだ。その思いでテレビ番組制作者連盟という組織を創り、自ら理事長を務めていた。日本のテレビ番組の質的向上へ意欲を燃やし続けてきたそうである。

どんな業界にも良識派という人々が居る。しかしそういう人達はとかく同業者を批判はするが自分は手を汚さない。今野氏の弔辞によると村木氏は番組を作る仕事で手を汚しながら低俗な番組に果敢に立ち向かったらしい。よほど情熱を燃やし続けないとうまく行かない。そんな内容の弔辞であった。 

死んだ人の輝かしい業績だけを羅列する弔辞も多い。しかし、死者の優れた人間性を賞賛する弔辞ほど生き残った人々へ勇気を与えるものは無い。

昔、仙台にいたころ村木君の家へよく遊びに行ったことを思い出しながら葬儀会場を後にした。2年前の葬儀を思い出しながら村木君のことを懐かしく思い返している。

12月になると、先に旅立った家族や友人のことを懐かしく思い出す日が多くなる。

貴方は何方かを懐かしく思い出していらっしゃいますか? 暗い寒い冬の日が続きますね。(終り)