ペリー提督が三浦半島の浦賀で江戸幕府と日米和親条約を作ったのが1852年。帰国後、ペリーはタウンゼント・ハリスを初代の在日総領事として下田へ派遣したのが1856年です。ハリスを乗せた3本マストの帆船で蒸気機関を持ったサン・ジャシント号が下田港に錨を下ろした所は下の写真の付近です。この写真の海からボートで陸に上がった所に玉泉寺があります。玉泉寺は420年の歴史のある曹洞宗の古刹です。江戸幕府はその寺をハリスにアメリカ領事館として与えたのです。
1856年8月5日にハリスは通訳官ヒュースケンを伴い、玉泉寺に入ります。次の日に高い旗竿を立てて、日本で初めて、星条旗を掲揚したのです。それから2年10ケ月の間、ハリスはこの寺にとどまり、アメリカの初代総領事館を守ったのです。
下の左の写真が寺の入口の階段でハリスが登り降りした階段です。右の写真がハリスが住んでいた本堂です。この中にアメリカから運んできた大きな薪ストーブを取りつけ、冬の寒さをしのいだのです。本堂の前庭では牛を殺して牛肉を食べていたと記録にあります。牛乳も飲んでいました。夏は暑くて、大きな蚊に悩まされたとハリス日記に書いてあります。ハリスの世話をしたのが唐人お吉でした。
寺の本堂の右手に大きなハリス記念館があり、当時ハリスが使っていた文房具、家具、調度などが展示してあります。展示物は数多く、ハリスの人物像もあり当時の生活の実態がよく分かります。
このお寺の裏山には、ペリー艦隊の5人の死亡者のお墓もあります。下の左の写真です。右の写真は、ロシアの黒船の3人の墓です。
アメリカ人の5つの墓もロシア人の3つの墓も見かけは佛教風な作りですが、墓石の前面には大きく十字架が彫り込んであります。 特に興味深いのはアメリカ人の墓の一つは若い海兵隊員のものです。海兵隊(Marine)が当時からアメリカの軍隊組織の中に独立した組織として区別されていたのです。
江戸時代からアメリカ領事館が日本に有ったのです。やがて明治維新が起き、アメリカ総領事館は東京へと移転して行くのです。幕府の外交方針は閉鎖的な考えに基ずいて居ました。外国人は江戸からなるべく遠方に離して置いたのです。それは函館に最初のロシア領事館を置いたことでも分かります。このように、外人を遠方に置きたい、異人と感じるという深層心理が現在の日本人にも時々見られます。少し困った心理状態と思っています。撮影は12月15日でした。