後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

原子力発電よりも自然にやさしい水力発電などを大切にする文化にしよう!

2013年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

津波や地震の多い日本には原子力発電は危険です。

核兵器の基礎技術を保有するために原発は重要ですが、一方では、もっと自然に優しい水力発電や風力発電や太陽光発電を大切する精神文化を育てることが日本人の心を豊かにします。

誤解を避けるためにはっきり言明して置きます。水力発電や風力発電は発電規模が小さくて巨大な日本の電力需要を賄えません。どうしても大電力を安定して供給出来る火力発電や原子力発電に頼る必要があります。

ですから火力発電や原子力発電は人間の経済活動です。

しかし一方、水力発電や風力発電や太陽光発電は人間の考え方を変え、自然を大切にする文化活動なのです。

私の主張したいことは経済活動を多少ゆっくりして、気持ちの余裕を持って自然を大切にする文化をもっと、もっと育てるべきだということです。

その為には水力発電所や風力発電所や太陽光発電パネルをもっと知るのが良いと信じています。

そんなわけで、今日は山梨県、上野原町にある東京電力の八つ沢水力発電所の写真を撮って来ました。明治45年、1912年に出来た発電所で大正3年、1914年には出力が35000Kwとになり、当時としては東洋一の発電量を誇っていたのです。

現在も発電を続行していて、出力は42000Kwになっています。

この電気は主に上野原町、大月市、都留市へ供給されています。

それではこの八つ沢水力発電所の取水口からご案内いたしましょう。Img_4795

大月市にある駒橋発電所で使った水と桂川からの水の両方をこの堰に集め、写真の右下にある送水用のトンネルへ送り込んでいます。

そのトンネルの入り口は上の写真には写っていませんが、写真の右下にレンガ積みで見事に出来ていました。そして下の写真の調整池へ送られのです。

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取水口から取り込んだ水はトンネルや水路橋をつないで10Km先のこの大野調整池へ送ります。ここから又5Km位先の八つ沢水力発電所へ水をおくります。

電力需要の少ない夜間はこの貯水池から水を発電所へ流さず貯めておきます。朝になって電力需要が増えるにしたがって流す水の量を増やします。すなわちこの池で発電量を調整しているのです。ですから大野調整池といいます。

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上の写真が八つ沢水力発電所の水の導管です。この圧力管の下に発電機が4基入った立派な建物がありました。凄い水音がしていてさかんに電気を作っている様子が実感できます。

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電気を送り出す前に電圧と周波数を一定にしなければなりません。それをするのが変電所です。上の写真は桜花に囲まれた変電所の一部を示しています。

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八つ沢水力発電所で使い終わった水はさらに3Km位先の松留水力発電所に送られます。この発電所は水位差が4mしか無くて発電出力が小さすぎます。

今日見ましたら水は発電機へ送らずにわきの水路から直接上の写真のように桂川へ放出していました。

この写真の水は富士五湖の山中湖から流れ出し、忍野八海の湧水を集めて富士吉田、都留市と流れ下り、都留市で取水され駒橋水力発電所で使われた水です。

このように自然の水流を大切に集め、水路で送った水で発電するのです。有害な廃棄物や汚染水は一切出しません。綺麗に澄んだ水だけを元の川へ感謝しながら返すのです。

そんなことを考えながら写真を撮っていた今日はとても心が和みました。幸せな気分でした。このような文化の溢れている国にするのも決して悪くないと信じています。(終わり)


イエス様が生き返った・・・それを祝うのが復活祭

2013年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム

今からざっと2000年前にイエス様はローマ総督ピラトの裁判で十字架の刑に処せられました。イエス様の反対派勢力が群衆を扇動してピラトへ無理に死刑の判決を下させたのです。

金曜日の午後にイエス様は十字架上で絶命します。引き下ろされた遺体は亜麻布で巻いて墓に葬ったのです。しかし3日目の日曜日の朝早く、マグダラのマリアがその横穴へ行き、墓石が取りのけてあるのを見つけます。そこでマリアはシモン・ペトロともう一人の弟子の所へ走って行って、イエス様の遺体が失くなっていることを告げたのです。

シモン・ペトロともう一人の弟子が墓にはいり遺体が消えて失せていることを確認します。そして顔を包んでいた布が丸めてあり、体を巻いていた亜麻布が置いてあるのみです。この状況を見て弟子はイエスが生き返って何処かに行ってしまったことを信じたのです。

その後生き返ったイエスは弟子たちの前に現れます。エルサレムの近郊のエマオの町で弟子に会います。

トマスは復活を疑います。彼はイエス様の脇腹の傷へ手を入れてみて、確かに十字架上で受けた傷だと確認するのです。

の絵画は生き返ったイエス様がエマオで2人の弟子たちとお会いになっている場面です。17世紀のオランダの画家レンブラントが描いた絵です。

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(出典:http://matome.naver.jp/odai/2129254928706685201

生き返ったイエス様は弟子たちに会うと、それから天に昇って父の神の右の座に着きます

そして最後の審判の時、再び地上に降りてきて全ての死者を蘇らせるのです。すべての死んだ人間が生き返るのです。

これがキリスト教で一番重要な「復活の信仰」です。

私はカトリックですから当然この復活話を信じています。

しかし科学的に考えるとこの復活話はありえません。ですから信じる、信じないは個人の自由です。

さてここからが私個人の持論です。

多くの日本人は科学的にありえないことを大切にしているキリスト教は間違っていると簡単に切り捨ててしまいます。しかし近代科学を発展させた欧米人の多くがこの復活話を最も重要なこととして信じているのです。人間は矛盾したことを信じることによって生きて行けるのです。そのような存在なのです。

例えば仏教では人間が死ぬと他の生き物になって生まれ変わると言います。その生き物が死ぬとまた他の動物になって生きかえります。それは車輪が永久に回り続けるように宇宙の全ての存在を支えているのです。これを輪廻の信仰といいます。宇宙の真理です。

この輪廻の信仰は仏教より古いヒンズー教から引き継いでいるのです。お釈迦様はこの輪廻が重要だと教えたという解釈と、お釈迦様はあえて輪廻には触れないで「色即是空」を強調したという解釈があります。

それはそれとして、もし欧米人がこの輪廻の考え方を知ったらどのように言うでしょうか?

軽薄な欧米人ならこの考えは科学的でないから仏教は間違っていると切り捨てるでしょう。一方、考えの深い欧米人なら何も言いません。輪廻の思想と復活の思想の似ている部分を深く考えるでしょう。そして何も言わないのが賢明なのです。

私の持論の結論です。キリストと仏教には優劣が無いのです。すべての宗教には優劣が無いのです。優劣をつけるほど愚劣なことはありません。

どの宗教を信じるか、宗教を無視するかはまったく個人の自由です。ただ私はイエス様の復活とすべての死者の蘇りを信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)