後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

朝日新聞の中国よりの体質に関する資料の紹介

2013年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

朝日新聞は何故中国より、韓国より、共産国家へ同情した体質を持っているのでしょうか?

誤解を避けるために先ず書いておきます。日本は成熟しつつある民主国家ですから一新聞社が日本政府へ反対する記事を書こうが、親中国的な体質を持っていても自由です。

国家権力で弾圧すべきではありません。あるいは朝日新聞の不買運動をすべきでもありません。自由にさせてるのが良いのです。それが民主主義というものです。

さて、それはそれとして、朝日新聞へ対して次のような意見を言う人がいます。

====http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5586470.html よりの転載です=====

朝日新聞は日本のガン細胞でした。
数千万人以上も自国民を粛清した中国の文化大革命を高く評価しながら中国人や韓国人の捏造話を針小棒大に拡大して反日キャンペーンを必死でやり(本多勝一記者など)、中国や韓国の反日を過激化し加速化した張本人の朝日新聞。 とうてい日本人の業とは思えない非道な日本叩きと日本軍人叩き。日本にむけられた北朝鮮や中国の核ミサイルをスルーしながら死に物狂いで日本の非武装化だけは推進。また米国で突然話題となった「従軍慰安婦イコール性奴隷説」の決議案等も、もとはといえば朝日新聞社が何年にも渡り世界中にばらまいたデマのせいで現在の日本人が苦しめられているのです。頭のおかしい新聞社の尻拭いをさせられるのは我々若い世代の人間です。私は絶対に朝日新聞を許さない。

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これに対して、何故、朝日新聞はこのような体質になったのかについて理路整然とした説明があります。

それは田辺敏雄氏のホームページの一部、「朝日」は何を、どう報じて来たか?

(その一)に明快に書いてあります。詳しくは、http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/virus/v-asahi-1.htmlにあります。

=======田辺敏雄氏のHPの抜粋============

 昭和前期(~1945年8月)を中心とするわが祖国を、日本軍・民が犯したとされる残虐行為をとおして断罪、いわれるところの「反日史観、自虐史観」 へと導きました。その最大の「功労者」は間違いなく朝日新聞であり、その先駆けとなったのは1971(昭和46)年8月に始まった連載「中国の旅」 であったと断じて間違いないものと思います。
   「中国の旅」という一新聞社の一連載(約40日間)をもって、ただちに反日史観、自虐史観が形成されたわけではもちろんありません。当時の風潮は中国の文化大革命にも影響を受けたのでしょう、「なんとなく左翼気分」も手伝って、大きな影響力を持たせる一因になったのだと思います。
 「天下の朝日」 が報じて大反響を巻き起こしたとなれば、一部を除くほとんどのメディアがバスに乗り遅れるなとばかり、さらなる日本軍民の悪行発掘に精を出したことでした。
 また近現代史を専門とし、歴史学会をリードする左派系の大学教授がソレっとばかりに日本断罪で足並みをそろえます。日教組が牛耳る教育界も「平和教育」という大義名分のもと、教科書、授業をとおして、日本軍・民の残虐行為の生徒への叩き込みが加速しはじめました。

・・・・中略・・・・・・・・

GHQによる情報操作へ迎合した様子。(後藤による一行挿入です)

敗戦直後からGHQ(占領軍総司令部。所在地は東京・日比谷の第一生命ビル)によって行われた 「戦争についての罪悪感を日本人の心に植えつけるための宣伝計画」 (WGIP)について、すでに概要は記しました。「中国の旅」について記す前に、「南京大虐殺」 を例にとって振り返っておきましょう。
 終戦4ヵ月後の12月8日から、GHQはこの宣伝計画にそって、「太平洋戦争史」 (全十回)の掲載を始めるよう新聞各紙に命じました。
 もちろん、12月8日の初回は、日本人の誰もが知っていた日米開戦の発端、真珠湾攻撃の日に合わせたものでした。
 この連載は後に単行本(右側の写真)となりますが、学校教材として使用が命じられたため、10万部が売れたとのことです。
 連載の初日、まず「南京虐殺」が取り上げられました。日本人が「南京大虐殺」の存在を知ることになった初めての報道です。

〈 このとき実に2万人の市民、子供が殺戮された。
4週間にわたって南京は血の街と化し、切り刻まれた肉片が散乱していた。
婦人は所かまわず暴行を受け、抵抗した女性は銃剣で殺された。 〉
― 1945(昭和20)年12月8日付け朝日 ―

 GHQの絶対支配下におかれたNHKラジオも利用されます。「太平洋戦争史」をドラマ仕立てにして、「真相はこうだ」 が新聞連載開始の翌日(12月9日)から放送されます。もちろん、新聞とラジオの相乗効果を狙ったものでした。
 「南京事件」のところでは、銃を撃つ音、暴行を暗示する女性の悲鳴などをバックに、「大虐殺。南京では1度や2度ではない。何千回となく行われたんだ」 のセリフが繰り返し入れられていたとのことです。
 あまりに日本将兵の実感と離れていたというか、ウソで固めた放送内容だったためでしょう、NHKに抗議が殺到します。このため放送は10回で終わりますが、すぐに化粧直しをし、「真相箱」 として登場しました。今度は質問を受けて答えるという形式をとります。

・・・・「中国の旅」が引き起こした「集団ヒステリー状態」・・・・・
 1971(昭和46)年、GHQにとって代わったかのように、日本軍の“悪 行” を告発し、断罪する人たちがでてきたのです。口火を切り、先導役をつとめたのは間違いなく 朝 日 新 聞 社 です。
 この年の8月から12月まで、現地ルポと称する「中国の旅」の連載をもって、朝日新聞社による日本軍断罪一大キャンペーンがはじまりました。 報告者は本多 勝一記者 でした。
 連載は平頂山事件 にはじまり、万人坑、南京、三光政策 の4部に分けて報じられました。
 各部は約10回でしたから、通算で約40回、40日間の長期連載になりました。
 また連載とともに、「アサヒグラフ」「週刊朝日」「朝日ジャーナル」 など、朝日新聞社は手持ちの活字媒体を総動員します。
 例えば「週刊朝日」は「大河ルポ 中国の旅」 と題して、「防疫惨殺事件」 などを、本多記者に同行取材した古川万太郎記者が報じました。
 これらは後に単行本、文庫本『中国の旅』(共に朝日新聞社)になりますが、「中国の旅」連載こそが昭和の歴史を貶めた原点だった思います。なにせ中国における日本軍および民間人がやったことといえば、残虐行為以外のなにものでもなかったと描かれていたからです。
 それも中国のいうがままを鵜呑みにし、あたかも事実であるかのように装った悪質なルポであり、報道の名に値しないものであったと断言して誤りはないと思います。
 報道時の日本人の反応を終戦時、陸軍少尉であった 山 本 七 平 は、以下のように「集団ヒステリー状態」 と喝破しました

〈 日中国交前に本多勝一記者の『中国の旅』がまき起こした集団ヒステリー状態は、
満州事変直前の『中村震太郎事件』や日華事変直前の『通州事件』の報道が
まき起した状態と非常によく似ているのである。 〉
―『日本はなぜ敗れるのか 敗因21ヵ条 』 角川、2004年。初出は「野生時代」1975年4月号 ―・・・・以下省略・・・・

=======そして曽根綾子が怒る=================

となれば、「中国の良い点を書き、悪い点を書くな」 という広岡社長の記者への指示は、むしろ当然の成り行きだったのでしょう。
 中国にとって朝日ほど利用しやすい格好な報道機関はなかったに違いありません。朝日の論調に「右へならえ」する日本の報道界、言論界の習性を考えれば、朝日をコントロ-ルすることによって、ほんの一部を除く日本の言論界をコントロールできるのですから、朝日は中国にとっていたって便利な存在であったはずです。
 曽野 綾子 が産経新聞に連載しているエッセイで、「中国礼賛し続けた日本のマスコミ」と題し、起こったばかりの尖閣諸島での「中国漁船衝突事件」にからめ、マスコミの実態を以下のように暴いています(2010年10月29日付、一部抜粋)。
〈 今から40年前、産経新聞と時事通信を除く日本のマスコミは、絶えず脅しを受けながら、
 特派員を受け入れてもらうために、完全に中国政府の意図を代弁する記事を書き続けた。
 朝日、毎日、読売などの全国紙、東京新聞他のブロック紙などは、
中国批判はただの一行たりとも書かず、私たち筆者にも書くことを許さなかった。
 私が少しでも中国の言論弾圧を批判すれば、
その原稿は私が内容表現を書き直さない限りボツになって紙面に載らなかった 〉

 40年前といいますからまさに1970年頃になります。共同通信社を含むほとんどの新聞は、日頃の言とは裏腹に己の目先の利益のために紙面を中国に売り払ったのです。裏を返せば、紙面に載る中国関連物は、報道、論説、論壇等を問わず中国へのオベンチャラだけがまかり通ったことになります。
 「北京の空は青かった」「ハエが一匹も見当たらない」「子供たちの眼は輝いていた」式の報道を私も読まされました。同時にアホくさいという反論も週刊誌などで読みましたが。
 曽野綾子は〈 私にいわせればマスコミは正気で「発 狂」していた 〉と表現、当時の報道の責任を厳しく問い、・・・・以下省略・・・・・・

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その他、関連資料のURLをご紹介いたします。

コミンテルン:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%AB%E3%83%B3

共産主義:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9

共産党宣言:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E7%94%A3%E5%85%9A%E5%AE%A3%E8%A8%80

以上の情報は、次回掲載予定の、「戦後の日本人の自虐趣味の誤り(6)何故、朝日新聞は共産主義国家に味方するのか?」の導入資料です。あらかじめ、ご一読おき頂ければ助かります。

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追記:朝日新聞は何故共産主義の影響を深く受けて来たか?

http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/virus/v-asahi-2.html より転載。
  日本を占領したGHQ(占領軍総司令部)は、敗戦の翌年1月(1946=昭和21年1月)、指導層を一掃するために「公職追放令」 をもって軍人(少尉以上)、軍国主義者とみなされた政治家らを公職から追放しました。翌1947(昭和22)年1月には言論界、財界、地方公職なども対象を広げ、これにより追放された数は合計21万人に上ったとされています。
 言論界からも多数が追放され、追放を免れた人の多く(80%説あり) が、左翼または左翼のシンパだったといわれています。占領軍の政策は当初、労働組合の結成を促進することでしたので、1947年8月には
日 教 組が、また産業界などと並んで新聞業界にも組合が誕生します。もちろん追放を免れた人が組合結成を主導したわけですから左傾向が強くなって当然でした。
 朝日新聞でいえば、地下に潜入していた聴濤 克己(きくなみ かつみ)が復帰、「ゾルゲ事件」 と連座して退社した田中 慎次郎 ももどってきました(再入社)。また後にマルキストであったと自ら認めた森 恭三 (広岡社長時代の論説主幹)も社内影響力を強めます。
 聴濤は後に日本共産党中央委員、アカハタ編集長、同党衆議院議員になっていますし、田中 慎次郎は同じ朝日記者出身で、満鉄に在籍していたコミンテルンのスパイ・尾崎 秀実(おざき ほつみ)に軍事機密を流したかどで検挙される経歴を持っていました。その田中は朝日復帰後、出版局長に昇進し「朝日ジャーナル」 を創刊(1959=昭和34年3月)、「全共闘の機関誌」などと一部で批判はあったものの部数を伸ばし、最盛期には8万部を超える勢いだったと記憶します。
 1945(昭和20)年11月、「(朝日)東京本社従業員組合」が結成され、委員長に選ばれたのが聴濤 克己でした。そして組合を舞台にして、後に広岡時代を築いた広岡 知男らが頭角を現わしてきたのでした。
 一方、社主家にあたる村山長挙社長、上野精一会長、編集幹部はというと、公職追放令が出る前に社内で「戦争責任」を追及され、朝日を事実上、追い出されています(表向きは総辞職)。村山、上野の2人が公職追放となったのは1947年10月のことでしたから、厳密にいえば前社長、前会長のときでした。
 そして組合の選挙で長谷部 忠社長以下の経営陣が選出されました。ですから、経営陣は組合の強い影響を受けざるを得ず、左翼路線を走るのは当然の帰結だったといってよいでしょう。


40年間続いたつまらない趣味・・・でも人生で一番重要だった趣味

2013年04月30日 | 日記・エッセイ・コラム

この趣味は、始めてから40年になります。私の趣味の中で一番長続きしたものです。そして私の人生においても、いろいろ重要な役割をしてくれました。

その趣味は甲斐駒岳の麓の山林の中の質素な小屋へ通う趣味です。小屋の西には甲斐駒がせまり、北の方には八ヶ岳が見えます。東の丘に登れば白樺林があり、その下には広い牧草地が広がっています。

森の奥深くにあるので、悪路を根気よく車で登って行きます。

空気が新鮮です。イノシシや鹿が棲んでいます。猿や兎も時々見えます。

街燈などはありませんから夜は真っ暗闇です。満月前後には木々の梢の間から明るい月が見えます。丘に登れば満天の星です。

そんな小さな小屋へ行って、ただボンヤリしているだけです。とてもつまらない趣味です。心が躍るようなことは一切起きません。

春にはウグイスの美しい声が響き、夏の朝夕には淋しげなヒグラシゼミの声が聞こえてくるだけです。

そんな中でボンヤリしていると自然に思索が深まります。その思索が私の人生を支えてくれます。それがこの小屋の趣味の重要な役割の一つと思っています。

この趣味は1973年に始めました。つまらないからこそ40年間も続きました。一生、続けるつもりです。そんな趣味の小屋を写真で示します。

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この写真は、小屋を西から見た後姿です。右側が6畳間の寝室で左側が4畳半ほどの台所兼食堂です。まわりに木造の風呂場や焚火小屋やバンガローを自分で作りましたが、それらは山火事で燃えてしまったり、台風で倒れたりして、現在は写真のような母家だけになってしまいました。コンクリートは何時までも腐らないし倒壊しません。

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この写真は小屋の東面です。ガラス窓が東面と南面についています。右側に、ポツンと建っているのがスチール製の物置です。スコップやクワなどの道具類が入っています。薪も入っています。右下の端に小川の青い水面が少し写っています。

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この小屋の東側の庭には一年中水の枯れない小川が流れています。

夏にはオニヤンマが清流の上を飛んでいます。ヤマメも上ってきます。

しかしホタルはいません。冬が寒すぎるためヤゴが育たない為でしょう。

写真に写っている立っている丸太は最近近所の伐採現場から頂いて来たものです。椅子として重宝しています。

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夕方になると炉に火を焚いて、ビールを飲む準備を始めます。この炉は私が終戦の頃に疎開していた農家の囲炉裏の形を思い出しながら作りました。こんな炉で日本人は4万年前の石器時代から食材を料理して生きてきたのです。

土器が出来た16000年前の縄文時代から魚貝やイノシシを煮込む土鍋も出来たのです。このような囲炉裏が日本から消えたのは1975年頃のことです。

そんな事を考えながら冷えたビールを飲みます。肴は朝食用に持ってきたソーセージを焚火で焼いて食べました。朝食はコーヒーとトーストだけになります。それも一興です。

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夜の小屋は冷えます。春とはいえ標高900m位なのでまだ冬です。この写真のような簡単な薪ストーブを燃やします。急に室内が温かくなります。

薪の燃える音を聞きながら持参した新聞を丁寧に読みます。小屋においてある古い本もゆっくり読みます。テレビの無い夜は静かです。

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朝が明けると、東の窓からこんな風景が見えます。木々の新緑をしばらく見てから卓上コンロで湯を沸かし、顔を洗います。

香りの良いコーヒーを淹れ、トースターでパンを焼き、それだけの質素な朝食にしました。

外に出て西の方を見ると下のような別荘があります。

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道路の左にある別荘は勝沼のブドウ栽培家の中村さんのものでした。もう随分以前に亡くなった方です。バケツ一杯のブドウを発酵させて葡萄酒を作る方法を教えてくれたことを思い出します。現在はその息子さんが家族でたまにやって来ます。

そんなことを思い出しながら、朝食後は家内をさそって、山の新緑の写真を撮りにでかけました。撮った写真は、新緑の山里の写真をお楽しみ下さい で示したとうりです。

この山林の小屋には電気も水道もガスも一切ありませんでした。始めの頃はホンダの300W発電機で電燈をつけていました。その後、電気だけは引きました。

40年間の間にいろいろなことがありました。昔、一緒に遊んだ人々が一人、一人、と旅立っていきます。少しだけ淋しくなります。

つまらない趣味です。つまらない話です。ごめんなさい。

今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)