後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

多摩市連光寺にある新緑の都立桜ヶ丘公園へご案内いたします

2013年04月25日 | 写真

稲城市から川崎街道を関戸大橋方向へ登って行き、頂上の「桜が丘カントリークラブ交差点」を左に折れ、やく100m更に登ったところを右に入ると桜ヶ丘公園の大きな無料駐車場があります。

電車でのアクセスは、http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/index065.html に御座います。

新緑の雑木林にウグイスが鳴き、奥深い山に来たような感じがする公園です。

最近、東京都が予算をつかい森の中に心地よい小道をつけ、テーブルや椅子を設置しました。自然の景観を壊さないように気を使った小道や、テーブル・椅子があちこちにさり気なく置いてあります。

公園の山の頂上には明治天皇の記念館があります。

明治天皇はこの連光寺村によく「兎狩り」に行幸されていました。そのために記念館が出来、この辺一帯を以前は聖蹟桜ヶ丘と称していました。

あたり一帯は宮内庁の土地だったらしく雑木林のまま、明治時代と同じ状態で良く保存されています。その土地に東京都が公園を作ったようです。

今日は、家内と一緒に散策して来ましたが、すがすがしい新緑の中でしきりにウグイスが鳴いていました。丘を下ったり、登ったりで心地良い汗をかきました。

下に今日撮った写真をお送り致します。新緑の間に是非お出かけなさってみて下さい。

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・上の写真は多摩市を公園から見下ろした風景です。遠方の山並みは奥多摩の山々です。

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・野生のシャガの群落です。

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野生のタンポポです。

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小道を登って行くと思わぬところにシャガが美しく咲いていて、疲れを忘れさせます。


美味しいマグロを買うなら三崎港の「うらり」、食べるなら「魚音」

2013年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

三浦半島の突端の三崎港まで行くのは横横高速道路ができ、さらに衣笠から三崎半島縦貫道路が出来たおかげで便利になりました。

毎年1回くらい三崎港のマグロのスーパーの「うらり」に行って中トロや、頬肉や、頭肉や、尾の身などいろいろ買ってきます。冷凍なので2、3ケ月かけて少しづつ食べます。

4月23日に久しぶりに行きました。

買い物が済んでから、何時ものように魚音の「食事処」でマグロの刺身定食を食べました。

下がマグロのスーパーの「うらり」です。

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・中にはマグロ専門店が数軒入っていて競争しながら売っています。

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・下はマグロのカマのケースです。

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・手頃な大きさの赤身の冷凍ブロックが格安です。

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・その他、マグロ目玉も、胃袋も、心臓も、尾の身もあります。冷剤とともに包んでくれますので持ち帰れます。

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・上が魚音の「食事処」です。

他にも、近所に沢山のマグロ料理店がありますが、私はこの魚音が気に入っています。

尚、「うらり」の詳細は、http://www.umigyo.co.jp/にありいます。

そして魚音については、http://www.uooto.com/shop/contents?contents_id=88030をご覧ください。


戦後の日本人の自虐趣味の誤り(5)何故、日教組や朝日新聞が共産主義に染まったか?

2013年04月25日 | 日記・エッセイ・コラム

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戦後、日本がたどった道は上の写真のように明るくて楽しい道ではありませんでした。

敗戦国なので戦勝国のアメリカや中国、ソ連、そして敗戦によって独立した朝鮮が道の左右からいろいろな危ない物を突き出して日本の歩んでいる道を邪魔したり、左右に揺れ動かしたのです。

日本軍によって酷い被害を受けたすべての戦勝国が日本が再び軍事大国にならないような反軍国主義教育と、新聞を通うしての世論操作を根気よく続けたのです。

単純に共産主義に染まった日教組や朝日新聞だけが悪いという簡単な話ではありません。

アメリカの学校教育の制度改革と教育内容の指導と大新聞社や放送を通じての世論操作が重なって複雑な社会現象が起きていたのです。

現在、日本人の多くは、日本共産党の裏工作で日教組(日本教職員組合)が出来た。ですから、共産主義の中国やソ連のためになるように日本軍の残虐行為を大げさに書きたてたと思っているようです。それに輪をかけたのが朝日新聞などの言論界が共産主義賛美のような記事を書いて、反安保と反米思想を煽り立てたのです

しかしこのような理解は戦後の日本社会の複雑な状況を無視した単純すぎる解釈です。間違った解釈です。

そもそも日教組は戦後すぐにマッカーサーの命令で出来た職員組合でした。その組合を指導して軍国主義的教育を絶対にさせないようにしたのです。

しかし1950年に朝鮮動乱が起きると、マッカ-サーは日本に警察予備隊を作らせ、日本を再軍備へと方向転換したのです。学校の先生たちは、「再び教え子たちを戦場に送るな!」と反発しました。

そこで日本共産党や社会党が、もともと労働組合として発足した日教組にいろいろな方法で働きかけ、共産主義の影響を与えたのです。

特に日本共産党は戦前、戦後を通じて中国共産党の支援のお蔭で存続出来たのです。戦前から野坂参三は延安の中国共産党本部に亡命していましたし、徳田球一はマッカーサーのレッドパージから逃れて北京に亡命していたのです。

日教組が共産主義に染まれば当然、中国の為になるような反米、反安保の教育をします。

米国と安保条約を結んでいると、「教え子を戦場へ送る」ことになるからです。

日の丸に反対し、国歌斉唱に反対するのも再軍備反対、反米、反安保の線上のことです。

共産主義はキリスト教文化圏のヨーロッパで20世紀初頭に生まれた思想です。

1970年に私も行って来ましたが、ドイツのモーゼル河上流にトリアーという町があります。共産主義はそこでで生まれたカール・マルクスが作った思想です。町の一角に、さりげ無く、「カール・マルクスの生家」という看板がありました。

共産主義はキリスト教の生んだ鬼っ子と言われます。万国の労働者よ銃をとって立ち上がれ!という「共産党宣言」が世界中に風靡しました。

ロシア革命が成功し、ソ連が出来ます。

しかし共産主義は理論としては魅力的ですが、実際の政治に応用すると独裁政治を招き、数千万人の反スターリンの人間を粛清し、数百万人のロシアの農民を餓死させるような巨大な陥穽を持っていたのです。

1989年にソ連は行き詰まり、崩壊したことがそれを証明しています。

今回の話はここまでとします。次回は何故、大新聞社や日本の言論界が共産主義に染まり、自虐趣味的な歴史観が生まれたか考えてみようと思います。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:日教組が出来た経緯=============

第二次世界大戦後に日本を占領下に置いた連合国軍最高司令官総司令部は、「民主化の一環」として1945年12月に教員組合の結成を指令した。既に11月には京都や徳島で教職員組合が結成されていた。12月には全日本教員組合(全教。翌年より「全日本教員組合協議会」)が、また翌年、教員組合全国同盟(教全連)が結成された。これら2つの組織に大学専門学校教職員組合協議会を加えて、組織を一本化する機運が生まれ、1947年(昭和22年)6月8日に奈良県橿原市で日本教職員組合の結成大会が開かれた。大会では、日教組の地位確立と教育の民主化、民主主義教育の推進を目指すと定めた3つの綱領を採択し、6・3制完全実施・教育復興に向けての取り組みを開始するとした。

1950年6月に北朝鮮が韓国に突如侵攻したことで朝鮮戦争が勃発し、連合国軍最高司令官のマッカーサーは国家警察予備隊の創設を指令、再軍備に道を開き、日本を「反共の砦」と位置づけた。また日本政府も連合国軍による占領終了に伴う主権回復を前にして、「日の丸」「君が代」「道徳教育」復活など、一部から戦前への「逆コース」といわれる教育政策を志向し始めた。戦後教育見直しや再軍備への動きの中で、日教組は、1951年1月に開いた中央委員会で「教え子を再び戦場に送るな、青年よ再び銃を取るな」というスローガンを採択し文部省の方針に対立する運動を開始した。また、1951年11月10日、栃木県日光市で第1回全国教育研究大会(教育研究全国集会=全国教研の前身)を開き、毎年1回の教育研究集会を開催、現在に至っている。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99%E8%81%B7%E5%93%A1%E7%B5%84%E5%90%88