後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

ネットで知り合ったヨットマンを懐かしく思い出しています

2013年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

私のブログのヨットに関する記事へ何度も好意的なコメントを下さった方がいました。

その方はHootaさんといいます。北欧風の43フィートの大型艇、Bambino で東京湾や伊豆七島周辺を帆走している方です。

そのHoota さんを2009年の4月に初めて訪ねてみました。しかし彼とはその後、2年間だけ情熱的にお付き合いし、一緒にヨットに乗せてもらいました。しかしその後何故かお付き合いが途絶えてしまいました。

しかしその2年間のことは忘れ得ない思い出として現在でもよく思い出しています。

そこで彼の艇を2009年4月に始めて訪問した時のことを書いおきたいとて思います。

その日は、まず他のヨット乗りをまじえて4人で一緒に、Bambino号の甲板の古いニスをサンドペーパーで落とす作業を午後中しました。

そして夕方から夜にはHootaさんとヨットの上でビールを飲みながら歓談しました。

海でこのように豪華なヨットにのっている人々は別世界の人のような気がしますが?と、聞きました。「皆さん、普通の人々で生活の仕方を工夫してヨットに使うお金を作っていると思いますよ。」「職業や年齢も色々です。皆さん、気持ちの良い方々です。話がすぐ通じますよ」。

そんな気さくな話し方で、いろいろな話をしてくれました。

Hootaさんは以前、法務省で国家公務員として働いていた人です。人間が純粋なようで、中央省庁のお役所仕事があまりお好きでなかったようです。

安定した職業をサラリと止めて、ニコルさんのレンジャー養成学校の先生になりました。

ヨットは16歳の時から素晴らしい師匠について練習したそうです。当時は「東京ベイヨットクラブ」の指導教官として働いていました。

千葉県の内房総の保田漁港に係留してある大型北欧風ヨット、Bambinoの保守管理も任されているそうです。

話題は16歳のとき、ヨットを指導してくれた師匠の素晴らしさ、ニコルさんの魅力的な人柄と黒姫に造成した美しい林のこと、東京ベイヨットクラブを主宰しているK氏の卓見などなどでした。

全ての出会いに感謝している様子なのです。ああ、こういう人をジェントルマンと言うのだ、と感じました。奥様の話も出ました。現在も法務省に務めていて、2年間の神戸への単身赴任を終えて最近帰って来られたそうです。ご結婚のいきさつなどを楽しそうに話してくれました。

始めは夕陽を見ながら後ろ甲板で飲んでいました。夜になったので、美しいチーク材で内装したキャビンの中で飲み合いました。

そのHootaさんとは何か事情があったらしく疎遠になってしまいました。人生には良くあることです。しかし彼は本当に良い友人でした。気持ちの良い友人でした。私のすがすがしい思い出になりました。

下に夕陽の写真、Bambinoの写真、Hootaさんの写真などを示します。(終わり)

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キリスト教は愛の宗教といいますが、その具体的な意味とは

2013年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム

愛という言葉を多くの女性が好きです。

この言葉は文明開花の折に、Love という言葉が輸入され、広がりました。昔の日本では、愛する人を「いとしい人」と言いました。

愛というとなにか胡散臭く、嘘っぽい感じが否めません。しかし、キリスト教の根本は愛とよく言われます。何か胡散臭いと感じている人も多いと思います。

そして、この言葉に引っかかってキリスト教を避ける人が居ると思います。

少なくとも以前の私がそうでした。

「愛」なんてバタ臭くて口に合いませんでした。

しかし「愛」を「好き」と置き換えると全てが自然に納得できるのです。

天におられる神様は地上にいる全ての人間が好きなのです。

本物の神父様は近づいて来る全ての人々が大好きなのです。宗派も洗礼にも関係なく大好きなのです。ですから私はそのような神父様が大好きです。

その上にいるローマ法王もその上にいる神様も大好きです。

これがカトリックの信仰というものです。自分の通っている教会の前の神父様は山本量太郎様です。人々を分け隔てなく大好きな様子です。この状態を、西洋の言葉で表現すれば、信者はみんな山本神父様に「愛されている」と確信出来るのです。

ですから本物の神父様は洗礼の有無に関係なく全ての人々に優しく、親切です。

洗礼を受けてない人々を差別する神父さんが居たら、それは本物ではありません。

信者は神父様の知識の広さは問題にしません。神父様が初対面の人をどれだけ大切にしているかを注意深く見ています。初対面の人をどれだけ好きになっているかを見ています。それだけが信仰の深さの尺度なのです。

皆様は、マザーテレサがインドの都会の街路で孤独に死にそうにしている人々を屋内へ運びこんで優しく見とってあげていたことをご存じと思います。その崇高な働きはヒンズー教徒からも支援されて来ました。ノーベル平和賞も受賞しました。

マザーテレサはインドの貧民も大好きなのです。好きでなければ出来ないことです。

いきなりお釈迦様の話に飛んで済みませんが、仏教の根本も「慈悲の心」です。欧米の言葉で言えば「愛」に対応します。お釈迦さまは一切の衆生が大好きだったのです。大好きだったので救ってくれたのです。ですから人々がお釈迦様が大好きなのです。

もう少し分かりやすい一例をあげます。弘法大師は全国をめぐり歩き、井戸を掘ったり、温泉を見つけたりしました。全ての人々が大好きなので助けようとしたのです。大師様の「慈悲の心」を我々は忘れません。

ですから宗教の根本は全ての人々がお互いに大好きになることなのです。少なくとも私はそのようにしたいと思います。出来る出来ないは別にして。

キリスト教は愛の宗教だという意味はこのようにお釈迦様の慈悲の心と同じなのです。私はそのように信じています。(終わり)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)