今週の月曜日にハウステンボスを6時間かけて遊び歩きました。
天気も良くそれは楽しい体験でした。しかし非常に不思議な気分になりました。どの建物にも、どのアトラクションにもオランダ独自の文化や宗教が感じられないのです。楽しいのは確かですが国籍不明のヨーロッパ文化が脈絡も無く混じっているのです。
皆様へお願い致します。ヨーロッパのある国に「日本村」というテーマパークがあったとご想像下さい。そこを貴方が訪問したとします。建物や町並は確かに江戸の町です。しかしアトラクションや供される食べ物が中国、韓国、ベトナム、インドネシアなどのものが混然と出されているのです。
それを見て貴方は楽しいでしょうか?
私はハウステンボスを楽しみながら、一方ではもしオランダ人が訪問したらどんな感想を持つか心配になっていました。
そこでハウステンボスを創業した神近義邦さんのことを調べてみました。
それで納得したのです。
彼は1979年にヨーロッパ出張に行き、そこで偶然見たオランダの風景に何故か感動して、その風景をテーマにした「オランダ村」を1983年にオープンしたのです。テーマはオランダの風景のみだったのです。建物や運河の風景は広い意味での文化です。しかし狭い意味での文化を芸術、宗教、哲学と定義するとそれらは風景を見ただけでは一向に分かりません。
神近 義邦(かみちか よしくに)さんは 1942年8月21日生まれで、元長崎オランダ村・ハウステンボス代表取締役社長を歴任しています。
出身地は現在の長崎県西海市西彼町です。長崎県立西彼農業高等学校定時制を卒業後、1962年に西彼町役場へ就職し、農業指導を担当して実績を上げた方です。長崎県庁出向(1971年~1972年)後、1973年3月町役場を退職しました。その後、西彼町内の土地買収問題がきっかけとなって関係が生じた東京永田町の料亭「一條」の経営再建に手腕を発揮したのです。
1979年のヨーロッパ出張時にオランダ村の原型となる計画を発想したそうです。その後、自らの観光果樹園を基礎として1980年に開園した長崎バイオパークからほど近い国道202号線沿いの生簀料理店を全面改装する形で、長崎オランダ村を1983年7月22日にオープンさせました。
長崎オランダ村は順調に観光客を集め発展してましたが、長崎県は折しも総工費約150億円をかけ造成したものの分譲が進んでいなかった針尾工業団地の利用をもちかけたのです。県幹部からの打診に神近は素早く反応、日をおかずして現在のハウステンボスにつながる計画の素案をまとめた。
ハウステンボスは1992年にオープンしました。初年度から佐世保市内はもちろん九州でも最大級の集客実績を上げたが、建設時のこだわりも一因となった莫大な初期投資(約2,200億円、当初予想の約2倍にまでなった)が負債となってのしかかって来たのです。
また、将来的には人口3万人が定住する都市をつくるという構想で作られた別荘もなかなか買い手がつかず苦しい経営が続いたのです。
そしてバブル崩壊から続いた景気後退が集客減少を招き、ハウステンボスの経営は次第に悪化しました。
2000年6月、神近は興銀に債権放棄を要請、それと引き換えにハウステンボス社長を辞任し、経営から身を引いたのです。その後ハウステンボスは興銀主導での再建を模索したが、2003年2月に会社更生法の適用を申請しました。
(以上の経緯の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BF%91%E7%BE%A9%E9%82%A6です。)
その後、澤田秀雄氏が経営を引き受けてから一気に黒字になり現在に至っているのがハウステンボスの歴史なのです。彼は18年間赤字だったハウステンボスを奇跡的に1年で黒字にした人として有名になりました。
以上のような歴史を見るとハウステンボスに何故オランダ独自の文化が感じられないか、その理由が明快に分かります。
創業者の神近義邦さんはオランダの風景以外の文化に関心が無かったからです。ヨーロッパの国々の文化の相違を完全に無視したからです。
「楽しければ何でも良い!」という思想が日本では流行なのです。
そんな些細な事を考え込んでいる私は歳をとり過ぎたのでしょう。嗚呼。