宗教があるために世界で戦争が絶えません。鰯の頭も信心からとも言います。だから宗教なんか無いほうが良いのです。そう言う人々が多いのも事実です。
私はそういう方々も尊敬しています。
ところが一方で、キリスト教のことをブログに書くと、好意的なコメントを下さる方々もいらっしゃいます。
宗教を信じたり、あるいは宗教は重要だと考えたりするのは全くの個人の自由です。
私はカトリックですが、イスラム教でも仏教でも宗教を信じている人々に親近感があります。
今日は日曜日なのでキリスト教のことを書くことにいたしました。
そこで、カトリックの信者は、具体的に何をどのように信じているのか?と、いう問題を分かりやすく書いてみたいと思います。
その事を知識としてご紹介しているだけで、信じて下さいというお願いをしているわけでは有りません。そのような気持ちは毛頭ありません。
それでは具体的に信仰の宣言の言葉を以下にご紹介いたします:
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天地の創造主、全能の、神である父を信じます。
父のひとり子、おとめマリアから生まれ、苦しみを受けて葬られ、
死者のうちから復活して、父の右におられる主イエス・キリストを信じます。
聖霊を信じ、聖いなる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、
永遠の命を信じます。(終わり)
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上の信仰宣言は洗礼の時も、日曜日毎のカトリックのミサの時にも、必ず声を出して唱える文章です。
科学的には信じられない部分も多いのですが、具体的に、そして平易に説明すると以下のようになります。
全宇宙を創った、全知、全能の一人の神様の存在を信じています。
この神様のただ一人の子供であるキリストは、処女であったマリアから生まれました。
「苦しみを受けて葬られ」という句は次の一連の事件を圧縮して表現したものです。
成人したキリストは、後に新約聖書になったような新しい内容の信仰を人々に勧めました。その結果、反対派の律法学者の一群によって捕えられ、ローマ総督のピラトの裁判にかけられました。そして磔の刑を受けて、屍は横穴に葬られました。この流れが、「苦しみを受けて葬られ」という句の意味です。
ところが死んだ筈のイエスが3日後に、起き上がり歩いて立ち去りました。そして弟子たちの前に現れた後に、天に上がって、神様の右の座に座っています。そのようなイエス様の存在を信じています。
神聖な霊、ローマ法王傘下の全ての教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、自分の死後に体が復活し生き返ることを信じています。従って自分の命も永遠の命なのだと信じています。(終わり)
荒唐無稽だ。バカバカしいと無視するより、これを信じようとしている人が世界中に何億人もいるという事実があります。その事実をを考慮に入れるほうが、人間の本質を理解する上で重要なことではないでしょうか?
最後に簡単なコメントを追加します。
最初の一行は、イスラム教もユダヤ教も同じです。キリストの誕生のくだりからキリスト教独自の内容になります。
カトリックでは肉体の復活を非常に重要視しますが、プロテスタント諸派は重要視しない宗派が多いです。プロテスタント諸派は科学的に不合理な部分はなるべく重要視しない傾向があります。しかし科学的合理性と宗教の信仰はまったく別世界のものです。それを一緒にしようとすれば矛盾も起きますし、宗教的な深遠さも無くなります。
仏教の教えも科学的合理性が無いからこそ魅力的な宗教なのだと思います。密教や修験道の奥深さもその神秘性によっているのではないかと思います。(終わり)
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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下に近所の府中市あるカトリックの墓地の写真を示します。
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上の写真10枚は日本へ来て、日本で死んだ外国人の神父、修道士、シスター、神学生たちの墓です。彼らは一旦故郷を出ると、一生に一度か二度しか帰りません。いや、一度も帰ららない人もいます。キリストのことを日本人へ根気良く話して聞かせて終わるのです。
聞いてる人の幸せだけを願っているのです。勿論、終生独身を通します。
独身だから子供が居ないので、墓を作れません。墓は修道会や教会が作るのです。
上から2番目写真の左の木の十字架は私どもがお世話になったヨゼフ・ムニ神父様のお墓です。粗末な木の十字架の墓です。誰かは分かりませんが、お世話になった日本人が作ったに違いありません。毎日誰かが花を供えに来るようです。彼の故郷はアメリカのボストンです。家族は来ません。
一生、日本人のために働いて、日本人が墓を作り、花を供えるのです。
外国でその国の人々のために働き、その地の墓に眠る。そんな人生もあって良いと思います。