後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「我が人生の悔い、仕残した趣味」

2022年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
人生には悔いがつきものです。後悔が沢山あります。
人間は年老いると自分の人生は一体何だったのだろうかと思います。それは短い邯鄲の夢です。
あんなことはしなければ良かったという後悔の念も沢山あります。恥多い人生だったと悔やまれます。
しかしその一方でこんな趣味をすればもっと楽しい人生だったと思うことも沢山あります。人生で仕残した趣味のことです。

今日は私が仕残した趣味を書いてみます。我が人生の後悔の記です。沢山ありますが数例だけ書きます。

(1)中途半端なヨットの趣味が悔やまれる。
私は中年の50歳でヨット技術を江の島や葉山で習い、クルーザーを25年間霞ヶ浦に係留しヨットの趣味を楽しみました。
ところがクルーザーヨットの趣味を大別すると、独りでゆったり帆走を楽しむ「ブルーウォーター派」と仲間とチームを作って専らヨットレースを楽しむ「レース派」との二つに分かれます。
レース派には体力と仲間と一緒に練習を重ねる時間が必要です。仕事の忙しかった中年に始めた私はブルーウォーターになるのが自然でした。それでも霞ヶ浦や猪苗代湖でクルーザー・レースに何度か出てレースの面白さをかいま見たことがあります。しかし私のヨットの趣味はあまりも中途半端でした。
中途半端でしたので後悔と憧れだけが残ったのです。
葉山から大島までの外洋レースは憧れでした。葉山から熱海沖の初島回航レースにも憧れていました。我が人生で仕残した趣味の一つになったしまったのです。
ヨットの外洋レースの写真を示します。「ヨットレースの写真」を検索し、写真をお借りしました。

1番目の写真相模湾横断ヨットレースです。出典は、http://blog.livedoor.jp/rr2111/archives/50757374.html です。
下田から三浦半島のマリーナのシーボニアへ向けて相模湾を横断するビッグレースで、「相模湾横断ヨットレース」と呼ばれています。

2番目の写真は宇和島の「うわじまパールカップレース」の写真です。の出典は、http://whitehawk2007.at.webry.info/theme/be49af3d64.html です。

写真のヨットは風に美しく舞っているのです。碧い海の上でバレリーナのように優雅に踊っているのです。エンジンはレース中に絶対に使いませんから聞こえるのは波が船体にあたる心地よい波音だけです。風がハリヤードやステイに切られる音だけです。それは陸上では考えられない別世界です。
これを私は体験しませんでした。後悔しています。
動画も、https://www.youtube.com/watch?v=lf8rFbNm43k でご覧下さい。

(2)小説を書き同人誌を発行する趣味が出来なった悔い。
私はある新聞の懸賞小説に2度入選して賞金を貰ったことがあります。賞金で三省堂の金澤庄三郎編、「広辞林」を買いました。非常に厚い辞書で高価な本で今でも使っています。
応募先は仙台市の河北新報で1958年と1959年の2度応募しました。
選者は小説家の船橋聖一氏でした。選評で「構成力がある」などと褒めて下さり、嬉しかった記憶があります。
その時フッと思ったことが小説を書いて同人誌を発行する趣味を持つことでした。それは無謀な「若気の至り」で恥ずかしくなります。
しかし今でもそんな趣味に憧れています。私の人生での見果てぬ夢です。
ところが1974年に森の中に小屋を作った頃、近所の木内正夫さんの山荘に住んでいた木内光男さんという方と友人になったのです。
光夫さんは正夫さんの弟で当時、兄の山荘に寄寓していました。この兄弟とは何度か一緒にビールを飲み友人になったのです。
その後、この弟の光夫さんはサラリーマンをしながら小説を書いて、20年近くも毎年、同人誌を発行しているのです。
まさに私の夢を実行している方なのです。
その文学会は静岡県の伊東市を本拠地し、「岩漿文学会」と言います。平成9年に発足し、平成27年まで継続して同人誌「岩漿」(がんしょう)を発行しているのです。
私が実行出来なかったことを木内光夫さんは実行したのです。
そしてこの毎年、「岩漿」が送られて来る度に、その内容と木内光夫さんの作品の読後感をこのブログに掲載して来ました。
そのブログの記事は私の見果てぬ夢のほんの一部でした。
木内山荘の近辺の写真を示します。

3番目の写真は草原の向こうの深い森の中にある木内正夫さんの山荘です。私の山小屋の1Kmくらい離れた所にありました。光夫さんと知り合った場所です。彼がそこに寄寓していた時にお会いしました。

4番目の写真は木内正夫さんの山荘の近辺にいた鹿です。
私の小屋の周辺には鹿や猿や猪が沢山棲んでいます。

(3)途中で挫折したヴァイオリン、登山、盆栽の趣味。
才能の無いので幾つもの趣味に挫折しました。単に根気が続かなかった場合もあります。
高校時代にクラシックギターを上手に弾く友人がいました。フルートを吹く友人もいました。ああ、なまの楽器の音は良いものだと感激し、自分もバイオリンを買い、音楽の先生の家に通いレッスンを受けました。
それは大学一年生の頃でした。もう鬼籍に入ってしまった叔父が昔バイオリンをしていたので家にホーマンの教則本がありました。
レッスンでは音楽の先生のピアノに合わせて、鈴木の教則本を一曲一曲と仕上げて行ったのです。そして第三巻まで進みました。
バイオリンでは片手の指先で弦を押さえ、一方の手で弓を引いて音を出します。
弦を押さえる手の位置がサードポジションの段階で自分に絶対音感の無いことに気が付いたのです。それはビバルディのバイオリン協奏曲のほんの一小節でした。挫折です。私はスッパリと止めてしまったのです。

登山のほうは大学院の1年生の時、北アルプスの中房温泉から登り、燕岳、大天井岳、槍ケ岳、南岳、大キレット、穂高岳と縦走し上高地に降りて来ました。翌年に南アルプスの地蔵岳から薬師岳と縦走し、夜叉神峠におりてきました。芦安温泉に一泊し甲府に出ました。その数年後に甲斐駒岳や八ヶ岳に登りました。
しかし南アルプスを縦走した帰りの列車のなかで私は登山を趣味にすることを止めることにしたのです。2度の短い縦走があまりにも苦しかったのです。体力が登山には無さ過ぎたことを自覚したのです。また挫折です。それは敗北でした。

盆栽の趣味は中年になってから始めました。
盆栽に植える木の種類はいろいろありますが、私は平らな鉢にクヌギの林を作った盆栽に挑戦しました。小さくて細いクヌギの木が10本くらい植えてあり、それは武蔵野の雑木林のように見えるのです。
ところが水のやりすぎで葉が茂り大きくなり過ぎて、とても武蔵野の雑木林どころではありません。伸びた枝を剪定しますが幹が太くなり過ぎてダメです。盆栽の本を買って勉強もしました。盆栽を何度も買って来ては水の量や剪定の仕方を変えてみましたが、何度やっても失敗です。美しい雑木林がすぐに汚い藪になってしまうのです。止めました。
盆栽は根気と繊細な剪定技術が必要なのです。自分には欠落している才能なのです。

盆栽の趣味にしたおかげで盆栽展があちこちにあることに気がつきます。いろいろな盆栽を見て、古木のような根張りや幹の皺に感動します。その樹木に花が咲くのです。感銘を受けます。
ここで2枚の菊の花と梅の花の盆栽の写真を示します。以前に神代植物公園の盆栽展で撮った写真です。
5番目の写真は菊の花の盆栽展です。小さいく繊細に仕上げてあります。

6番目の写真は梅の花の盆栽です。小さい梅の木ですが古木のょうに感じさせています。小さい盆栽で大きな自然を感じさせているのです。
盆栽の魅力は花と幹の両方にあるのです。幹や枝の曲がり具合が長い年月の経過を感じさせるのです。悠久の時の流を暗示しているのです。しかもそんな老木にも花が咲いているのです。感激です。

以上のように幾つもの趣味に挫折しました。恥ずかしい話です。
しかし最後に負け惜しみの記を書かせて下さい。中途半端ながら幾つかの趣味を経験したので人生が少しだけ豊かになったと考えています。
例えばテレビにオーケストラの演奏があると第一バイオリンや第二バイオリンの弾き方をしげしげと見ます。地味なビオラの音色に魅了されます。そして弾いている人を尊敬します。そうすると交響楽が一段と深く楽しめるのです。
時々はテレビで冬山の登山の場面が出て来ます。登っている人の苦しさが分かるのです。登りきった人の感動がよく分かるのです。

人生でいろいろな趣味に挑戦することはあながち無駄とは言えないと思います。
今日は私の中途半端に終わった幾つかの趣味をご紹介致しました。
皆さまはどのような趣味を途中でやめられたでしょうか?それも又人生の一齣ですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)