毎日テレビで北京冬季オリンピックの実況を見ていると昔したスキー、スケート遊びを思い出します。北海道、東北地方や氷雪の多い山間部で育った人は同じような思い出を持っている筈です。昔はもっと寒くて雪がよく降ったものです。
それにしてもオリンピックのスキー、スケートは神業です。流石にプロだと見る度に感動しています。
今日は私のスキー、スケート遊びの思い出を書いてみたいと思います。読み易いように小中学の時期、高校大学の時期、結婚以後の時期の3つの時期に分けて書きます。
(1)竹スキーと下駄スケートの思い出。
小中学の時期は日本の終戦を挟んだ貧しい時代でした。スキー、スケートは誰も持っていません。仙台の向山でしたので雪の坂道があります。そこで毎日竹スキーをしていました。
竹スキーは自分で作るのです。まず墓地に行って墓前の花を供えている太い竹の筒を失敬して来ます。花のある竹筒は流石に悪いので古い竹筒を持って来ます。長さ60cm位の太い竹を8つに割ります。これが竹スキーの本体になります。先の方を上に曲げます。曲げるところを焚き火で炙り、足と手で曲げると簡単に思うような角度になります。竹はあぶると柔らかくなるのです。こうして竹スキーは何本も作りました。友だちの分も作りました。
竹スキーに立って雪の坂を滑り下ります。何度も滑っていると轍の所だけ氷になります。もの凄くスピードが出ます。こうして私はスキーを覚えたのです。
さて下駄スケートですが、それは下駄屋で安く売っていました。出来の悪い下駄にスケート状の鉄片を打ち付けたものです。
家の下の沼の氷の上で下駄スケートをしました。そこで重要なことは下駄スケートを丈夫な紐で足にきつく巻きつけることです。立って滑るとき足とスケートが密着して気持ち良く滑れます。こうして私はスケートを覚えたのです。
家の下の沼の氷の上で下駄スケートをしました。そこで重要なことは下駄スケートを丈夫な紐で足にきつく巻きつけることです。立って滑るとき足とスケートが密着して気持ち良く滑れます。こうして私はスケートを覚えたのです。
(2)本格的にスキーをした高校、大学の時期。
高校の終わり頃、突然父が昔、伊吹山でスキーをしたと言い出してスキーを買ってくれました。当時、仙台に近いスキー場はJR仙山線の山間部に2つありました。八ツ森スキー場と面白山スキー場です。冬の間だけ臨時停車場が出来たのでスキーを担いで父と三兄弟で何度も行きました。
大学になると山形側の蔵王山のスキー場に行ました。地蔵岳下のスキー場、懺悔坂のスキー場、太平コースのスキー場、高湯温泉のスキー場など滑りした。
しかしスキーは全然上手になりませんでした。驚くほど下手のままでした。
ただ度胸だけはつきました。どんなに急で狭い道でも怖くないのです。横滑りで雪崩れ降りるテクニックを身につけたのです。
(3)結婚以後のスキー、スケート遊び。
結婚して驚きました。妻が白い皮で出来たみごとなフィギュアのスケート靴を持ってきたのです。下駄スケートしか知らなかった私は負けてなるものかと黒革のスケート靴を買いました。多摩川上流にある沢井の屋外スケート場に行ました。
沼で下駄スケートしかしなかった私はヨチヨチ歩きです。そばを妻が滑り抜けて行きます。その上舞うように回転します。私の完敗です。
聞くとスキーはしたことが無いと言います。そこで諏訪湖の北の白樺湖スキー場に連れて行ったのです。リフトで頂上まで行き、私と子供たちはサッサと滑り降りました。スキー経験の無い妻が変な姿勢で恐々滑って行きます。何度も転んでいます。そばを私がスイと滑り抜けて行きます。これでやっと夫の威厳が保てました。
ところが帰りに氷った諏訪湖でスケ-トをして又夫の威厳を失いました。なにせ諏訪湖の氷は凸凹していて滑らかなでないのです。妻がそれも計算ずみで凸凹の氷の上を上手に滑って行きます。その後も室内・野外のスケート場へ数えきれぬ程通いました。結局妻は60歳になるまでスケートを続けていました。
いろいろなスケート場に沢山行きましたが長くなるので止めます。
今日は北京冬季オリンピックにちなんで私のスキー、スケート遊びの思い出を書きました。
今日の挿絵代わりの写真は山形側の蔵王のスキー場の風景写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)