人間は老境になると昔のことを思い出して楽しむものです。今朝は何故かシルクロードの楼蘭を思い出しました。楼蘭という古代都市国家が日本中で有名になった頃のことをことをあれこれ思い出しています。
1959年に,井上靖が「楼蘭」という小説を書きました。平山郁夫は美しいシルクロードの風景の絵をたくさん描きました。
1979年には日本のNHKと中国の中央電視台による発掘調査が行われたのです。1980年の前後、楼蘭が有名になったのです。
マスコミで楼蘭が有名になり、日本中に「楼蘭」という名の中華料理の店が沢山出来た頃のことです。東京の自由が丘の「楼蘭」へよく行きました。1980年頃のことでした。
その上、マスコミでは1990年にヘディンに発見された楼蘭の美女のミイラの写真も騒がれました。
私はそれを見てひどくガッカリしました。黒い汚い骸骨を楼蘭の美女と断定した考古学者のスエン・ヘディンにはいささかあ呆れたものです。
それはさておき、今日はシルクロードと楼蘭にまつわる物語を書いてみたいと思います。
シルクロードは昔から東洋と西洋を繋ぐとても重要な交易路でした。それは紀元前2世紀から18世紀までの間、東洋と西洋の物資を運ぶだけでなく文化や宗教も運んだのです。
「シルクロード」という名前は19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンが著書『China(支那)』で言い出したのです。
その後、リヒトホーフェンの弟子で1900年に楼蘭の遺跡を発見したスウェーデンの地理学者ヘディンが自分の本の題に『The Silk Road』とつけたのです。この本の出版(1938年)以後、シルクロードは世界中で有名になったのです。
シルクロードは多数あり、それらは大雑把に西域南道、天山南路(西域北道)、天山北路などと呼ばれています。
1番目の写真はシルクロードの概念図です。図の上方の赤い道がシルクロードです。青い線は最近いわれている海のシルクロードです。
この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89 です。
シルクロードの多くは砂漠地帯で交易には駱駝の隊商が行き来しました。そこで駱駝の隊商の写真をお送りいたします。
2番目の写真は駱駝の隊商の写真です。出典は以下の通りです。
https://www.gettyimages.co.jp/%E5%86%99%E7%9C%9F/%E9%9A%8A%E5%95%86?phrase=%E9%9A%8A%E5%95%86&sort=mostpopular
3番目の写真は夜の砂漠を行く駱駝の隊商です。日中は暑いので夏には夜に行くのです。
隊商と言えば「月の砂漠」という童謡を思い出す人が多いと思います。
1927年にラジオ放送されたことから評判となり、1932年に柳井はるみの歌唱で録音レコード化され一般に知られるようになりました。
月の沙漠を はるばると
旅の駱駝が行きました
金と金と銀との 鞍置いて
二つならんで 行きました
話を楼蘭に戻します。
楼蘭の名が現れるのは中国の『史記』の匈奴列伝です。紀元前2世紀頃には楼蘭が存在していたのです。そして紀元後445年に北魏によって滅ぼされ消えて無くなった王国でした。
人々は楼蘭王国のことをすっかり忘れ去り1500年以上の月日が流れます。何処にあったか、どんな文化を持ってていたか全く分かりません。楼蘭王国は歴史の闇の中に消えてしまったのです。
その楼蘭王国の遺跡をスウェーデンの考古学者スヴェン・ヘディンが発見します。彼の1900年の発掘で楼蘭王国の全貌が明らかになったのです。それは20世紀の考古学の大発見でした。
楼蘭は現在の中国の新疆ウイグル自治区に存在していました。「さまよえる湖」というロプノール湖の西岸にありシルクロードが西域南道と天山南路に分岐する要衝にあったので交易によりとても栄えていました。しかしヘディンの遺跡発見までは謎の王国でした。
楼蘭王国はシルクロードのロマンです。さてここで新疆ウイグル自治区の写を示します。
4番目の写真は楼蘭があった中国の新疆ウイグル自治区の草原の風景です。新疆ウイグル自治区にはウイグル族の他、漢民族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族など様々な民族が住んでいます。
1900年、ヘディンはタクラマカン砂漠を北から南へ縦断し、その高低図を作製しました。そうしたらロプノール湖が見つかりました。その場所には多数の螺貝の殻や厚い塩の層、枯れた白楊の林があったのです。その湖の岸に楼蘭があったのです。
ヘディン隊は古代の湖床の上を進んで行きました。そうしたらヘディン隊は偶然いくつかの廃址に遭遇したのです。そこに人々が生活していた痕跡です。
ヘディンの従者の一人ウイグル人のエルデクが仏塔を含む多数の住居址を発見したのです。その遺跡がヘディンの研究により楼蘭の遺跡だと確定したのです。ここでヘディンの発見した楼蘭の遺跡の写真を示します。
5番目の写真は楼蘭遺跡の小河墓遺跡です。写真の出典は、http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/06/ です。
ヘディンは翌1901年に再び遺跡を訪ね遺跡からで木簡や紙文書を多数発見して持ち帰りました。ヘディンの持ち帰った漢文やカロシュティー文字で書かれていた文書は専門家によって次々に解読されていったのです。
その解読の結果この遺跡はまぎれもなく古代都市「楼蘭」の遺跡だと判明したのです。そして楼蘭王国の全貌が明らかになったのです。こうして楼蘭はどこにあったかという謎が解決しました。
楼蘭の場所は中国の「新疆ウイグル自治区」の南部にあり、中央アジアにある内陸盆地のタリム盆地内の大部分を領有していたのです。
楼蘭王国は仏塔があることから仏教国だったことが分ります。
そして楼蘭に生きた人々やその暮らしについては墓地群から発見されたミイラ化した遺体や帽子や刺繍から分ります。
楼蘭王国は仏塔があることから仏教国だったことが分ります。
そして楼蘭に生きた人々やその暮らしについては墓地群から発見されたミイラ化した遺体や帽子や刺繍から分ります。
ミイラはヘディンが「楼蘭の王女」「砂漠の貴婦人」などと名づけた若い女性のミイラだったのです。ミイラの身に色とりどりの絹をまとっていたのです。
ヘディンの1900年の発掘後60年あまり、楼蘭をめぐる発掘は途絶えます。ヘディンらが見つけた墓の正確な位置すら定かではなくなりました。
しかし近年になって小河墓遺跡や古墓溝遺跡や鉄板河遺跡から、ヨーロッパ系白色人種のミイラが相次いで発掘されました。これらは放射性炭素計測法によって約3800年前の人だったと判明したのです。つまりこれらの人々は楼蘭王国よりも千数百年以上も前にこの地に住んでいた人々でした。
さて今日は楼蘭王国にまつわる物語を書きました。楼蘭王国は1500年間も忘れられた幻の王国でした。
今日の記事は「貴重書で綴るシルクロード」(http://dsr.nii.ac.jp/rarebook/06/ )を参考にしました。これは実に優れた資料です。著者の方へ深い敬意を表します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)