後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「私共が訪れた所に凛として咲く一本桜の写真」

2022年04月01日 | 写真
この4ケ所は何度も訪れた懐かしい場所です。いろいろなことを思い出しながら写真を探しました。一本桜の写真をお楽しみ頂いたら嬉しく存じます。
4枚の写真の出典は、

1番目の写真は岩手県 雫石町の小岩井農場の一本桜です。
美しく雪化粧をした岩手山を背景に、小岩井農場の緑の大地に根を張る一本桜です。小岩井農場は初夏もカッコー鳴いて良いものです。
  
2番目の写真は福島県 三春町の三春滝桜です。
三春町をはじめ福島には桜の名所が数多くありますがその中でも有名なのが三春滝桜です。「日本三大桜」で国の天然記念物です。行って見ると周囲に遊歩道があり、いろいろな角度から滝桜を眺めることができました。

3番目の写真は山梨県 北杜市の山高神代桜です。
私の山の小屋の近所にあるので何度も行きました。
実相寺の境内にある「日本三大桜」のひとつです。国の指定天然記念物です。桜と同時期に咲く根本のラッパ水仙とのコントラストがとてもきれいです。

4番目の写真は山梨県 韮崎市の「わに塚の桜」の夜景です。
これも私の山の小屋の近所にあるので何度も行きました。
韮崎段丘の王仁塚の上に立つエドヒガンザクラです。その美しい姿は数多くのメディアに取り上げられています。満開の時期にはライトアップも実施され夜桜を楽しむことができます。

「21世紀になっても澄んだ鐘の音を鳴らす宮沢賢治」

2022年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム
宮沢賢治は悲しい美しい物語を沢山書きました。物語の底にはいつも「他人の本当の幸福のため」という考えがありました。1933年38歳で亡くなるまでの短い人生を他者を思い苦しんだのです。
随分と昔に亡くなった人ですが、彼の作品は時代を越えて21世紀になった現在でも日本人の心に澄んだ美しい鐘の音を打ち鳴らし続けています。

今日は「銀河鉄道の夜」を皆さまと一緒に読んでみようと思います。出典は筑摩書房の宮沢賢治全集第十巻です。
なお第十巻には「ポラーノの広場」、「オッペルと象」、「風の又三郎」、「北守将軍と三人兄弟の医者」、「グスコーブドリの伝記」、「銀河鉄道の夜」、そして「セロ弾きのゴーシュ」が編纂されています。

さて「銀河鉄道の夜」の物語は、星祭りの夜のカンパネルラ少年の水死から始まります。
そしてストーリーは夏の夜空にかがやく銀河の列車に乗ってくるいろいろな人の話として展開して行きます。
人間は死んで天に登り、星になります。ですから銀河鉄道の汽車に乗って来る人は皆な死んだ人です。

主人公のジョバンニ少年も水死した親友のカンパネルラ少年を探すため銀河の列車に乗るのです。
星祭りの夜にカンパネルラは水に落ちた友人のザネリを助け自分は水死してしまうのです。
川に飛び込み消えてしまったカンパネルラの捜索を見ながら、カンパネルラの父が自分の時計を凝視して、キッパリ言うのです。「もう駄目です。落ちてから45分たちましたから。」
この一言に父の悲しみが溢れています。

その後でジョバンニは死んだ親友のカンパネルラをもう一度銀河鉄道の中で見つけるのです。そしてジョバンニとカンパネルラは一緒に汽車の旅をします。
その列車にはいろいろな人が乗ってきます。
ただ一つの例だけご紹介すれば、大きな氷山にぶつかった豪華客船の沈没の時です。他人を助けるために、人で溢れる救命ボートに無理に乗らずに死んでしまった少女と弟がぬれ鼠で乗って来るのです。大学生の家庭教師も一緒です。
3人は皆、沈没の衝撃で靴を失い、裸足です。それがいつの間にか温かい柔らかい靴を履いています。それがこの汽車の不思議なところです。童話ですから当時沈んだ「タイタニック號」と書いてありませんが、そのように想像出来ます。

最後に一緒に乗っていたカンパネルラも他の乗客もみんなも銀河鉄道の列車から消えて行きます。ジョバンニは胸を打ちながらカンパネルラの名を叫びます。銀河鉄道の列車の窓から暗い星空に向かって。
親友のカンパネルラと永遠の別れです。ジョバンニは現世に戻り病気の母親を助けながら「ほんんとうの幸福」を求めて元気よく生きて行きます。
この童話の一行、一行がしみじみとしています。一行、一行にこの世の悲しみが滲んでいるのです。

この作品のキーは死んでしまった愛する友人と再会するという奇蹟です。再会出来るために重要なのは、ジョバンニとカンパネルラの心温まる強い絆です。カンパネルラは友人のザネリを救って自分が死んでしまうのです。友のために死んだ者は天国へ行くのです。
この悲しい美しい物語の基調低音は「他人の幸福のための自己犠牲」です。「グスコーブドリの伝記」や宮沢賢治の多くの作品の基調低音と同じです。彼は法華経の教えそのように理解し実行しようとして38歳で亡くなるまで苦しんだのです。

今日の挿し絵代わりの写真は宮沢賢治のいろいろな写真です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BB です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は羅須地人協会に使われた建物です。 1926年(大正15年)花巻農学校を退職し、ここでほんとうの百姓になりました。 羅須地人協会では農業の改良や肥料の講習をします。
以前に私共は花巻に行き 羅須地人協会を訪ねました。宮沢賢治の姿が見えるようでした。下には水田が広がり、その向こうに北上川がゆったりと流れていました。この他に宮沢賢治ゆかりの土地や建物を見てまわる旅でした。
2番目の写真は1902年の小正月、 5歳の賢治(右)と3歳のトシ(左)です。
3番目の写真は盛岡高等農林在学時、同人誌『アザリア』のメンバーと(後列右)撮った写真です。賢治の左が保阪嘉内、前列左が小菅健吉、右が河本緑石。 
4番目の写真は田の中に立つ花巻農学校教諭時代の賢治です。この後に花巻農学校をやめ百姓になり羅須地人協会を作ったのです。この後、東北砕石工場技師になり、1933年(昭和8年)に亡くなりました。享年38歳でした。
臨終のとき父の政次郎が「何か言っておくことはないか」と尋ねると、賢治は「国訳の妙法蓮華経を一千部つくってください」と答えたのです。葬儀は宮沢家の菩提寺で営まれました。
==下は宮沢賢治についての私のブログの掲載記事です=========
(後藤和弘のブログ、http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama)
(1)宮沢賢治の作品を気楽に読む・・・注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、掲載年月日:2013/10/27
(2)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(2)北十字、鳥捕り、豪華客船沈没など 2013/10/26
(3)あなたの「銀河鉄道の夜」、私の「銀河鉄道の夜」(1)星祭りの夜のカンパネルラの水死と再会 2013/10/25
(4)宮沢賢治、「銀河鉄道の夜」・・・あなたの銀河鉄道、私の銀河鉄道、2013/10/24
(5)「風の又三郎」・・・あなたの又三郎、私の又三郎 2013/10/24
(6)金子みすずの童謡詩と鯨の戒名  13/04/10 
(7)みにくいヨタカの姿・・・宮沢賢治の童話「よだかの星」の鳥 、13/04/04
(8)宮沢賢治の作品を気楽に読む(11)完結編:注文の多い料理店、風の又三郎、オッペルと象、ドングリと山猫、よだかの星、、、12/06/01
(9)日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・そして宮沢賢治のこと、    2012/05/09
(10)宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から生まれた詩、       12/05/09
(11)宮沢賢治の信奉していた法華経と国柱会の説明、12/05/08
(12)宮沢賢治の信奉した法華経の特徴は何でしょうか?  2012/05/08 
(13)宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?  12/05/08
(14)宮沢賢治の作品を気楽に読む(8)「注文の多い料理店」の序、12/05/08
(15)37歳で逝った賢治の親不幸・・・そして残された原稿の山、12/05/04
(16)宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治、12/05/03
(17)宮沢賢治の作品を気楽に読む(6)膨大な作品群に踏み迷う、 12/05/02
(18)宮沢賢治の童話集、「注文の多い料理店」の出版、2012/04/20
(19)宮沢賢治の作品を気楽に読む(5)大正13年出版の「春と修羅」から、12/04/20
(20)宮沢賢治の活躍始まる・・・農学校、羅須地人協会、東北砕石工場技師、そして東京、樺太、大島への旅、12/04/17
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(4)盛岡高等農林学校時代の作品、12/04/16
(22)宮沢賢治の作品を気楽に読む(3)盛岡中学卒業し、病気で岩手病院に入院、  12/04/15
(21)宮沢賢治の作品を気楽に読む(2)盛岡中学3年の頃、2012/04/05
(22)盛岡高等農林学校と宮沢賢治、12/04/04 
(23)宮沢賢治の作品を気楽に読む(1)盛岡中学の頃、12/04/03
(24)突然ですが、宮沢賢治の「慟哭」という詩とその朗読をお送りします、11/11/01
(25) 時代が変わっても宮沢賢治の作品は愛されている 2015年12月16日