後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「春の花々が一斉に、八重桜、菜の花、チューリップ、シャガ、山吹」

2022年04月07日 | 写真
午後から妻と小金井公園を散歩しました。うららかな春の日です。
春の花々が一斉に咲き出していました。樹々も新緑です。良い季節になりました。
八重桜、菜の花、チューリップ、シャガ、山吹の写真をお送り致します。






「ド・ロさま、Hootaさん、ソヨルジャブさんのしみじみした話」

2022年04月07日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は此の世に生きていると人々といろいろな絆が出来ます。その絆は考えてみると不思議です。あるものは神秘的で不可思議です。
今日はこれらの絆の3つの例をご紹介したと思います。ド・ロさま、Hootaさん、ソヨルジャブさんのしみじみした話です。読み易いように箇条書きにします。
(1)ド・ロさまそうめんと九州の人々との絆
九州には「ド・ロさまそうめん」というものがあります。このそうめんは明治時代にフランス人のド・ロ様という神父が作ったものです。
このド・ロさまそうめんを現在でも製造している会社があります。http://www.sunflead.co.jp/doro.html をご覧下さい。
ド・ロさまは、明治12年(1879年)に現在の長崎市の旧黒崎村出津の里に赴任したフランス人宣教師(1840~1914)でした。
彼は、村人たちの暮らしが、あまりにも貧しいのに驚き、村人の生活の向上のために布教活動のかたわら授産所や救助院を設けます。その上、故国、フランスから小麦粉を取り寄せ、私財を投じてパン、マカロニ、ソーメンづくりなどの技術を教えました。
ド・ロさまは72歳で亡くなるまでの42年間、故郷のフランスに一度も帰りませんでした。終生、長崎の貧しい人々に優しく接したのです。信者でない人々へも等しく支援したのです。
ですから九州の人々は「ド・ロさまそうめん」を食べながら今でもド・ロさまを懐かしく思い出しているのです。
素麺のお陰で長く続く絆なのです。このような不思議な絆がこの世にあるのですね。
(2)ヨットのご縁で出来た忘れ得ぬHootaさんとの絆
ヨットの趣味を50歳頃から75歳まで25年間していました。霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。海では葉山や江の島でセイリングをしました。
約25年間にわたり、多くの方々にお世話になり、助けられ、なんとか海に落ちることも無くヨットの趣味を卒業することが出来たのです。
ヨットを通して多くの友人が出来ました。皆忘れられない友人です。しかし一番深い印象があるのはHootaさんという方です。
彼はブログやメールを通してヨットの帆走技術や修理方法を私にいろいろ教えてくれていました。
その縁で、2009年の春に千葉県に係留したある彼の艇を訪問し、一晩ビールを一緒に飲んだのです。それから数週間して駿河湾で素晴らしい帆走に招待してくれた方です。
Hootaさんは、北欧風の長さ41フィートの大型艇、Bambino号で東京湾や伊豆七島周辺を帆走していました。千葉県の保田港を母港にしていました。
その上東京の銀座7丁目の築地にある東京ベイヨットマリーナの大型ヨットの管理もしていました。そのババリア39号の大型ヨットで夜の東京湾を何度も帆走したのです。暗い海から見たネオン輝く東京の街の風景は美しいものでした。その光景は年老いた私の脳裏に今でも鮮明に焼き付いています。
Hootaさんとの絆は私の心の貴重な財産になりました。
(3)モンゴル人ソヨルジャブさんと日本人の絆
数年前に旧友の竹内義信さんから一冊の本が送られてきました。「ソヨルジャブ・バクシを囲んで」という題の本で、内容はモンゴル人のソヨルジャブさんの追悼文をまとめて本にしたものでした。日本人によって書かれた追悼文です。
この本を手にとって何故か私は深い感動を覚えたのです。数日間考えていました。そしてある結論に到達しました。
ソヨルジャブさんは終生、日本人との絆を一番大切にして、その人間同士の関係の美しさを我々に教えてくれたのです。
その絆には国境も思想も宗教も一切介在しない純粋に人間同士の深い信頼によって築かれたものです。日本人をこれほど大切にし愛してくれたモンゴル人はそんなに多くはありません。
当然日本人も彼を慕い愛して、その結果として追悼文集が自然に出来たのです。
ソヨルジャブさんは当時、満州国の国立ハルピン学院を卒業し、満州国のモンゴル地区の官吏になりました。敗戦後は日本へ協力したとして収容所に入れられ34年間も過酷な運命に甘んじたのです。日本人と付き合ったために悲惨な収容所生活を送ったのです。
しかし彼の日本人へ対する信頼と尊敬は微動だにしなかったのです。
ソヨルジャブさんの一生は阿部重夫さんによっても書かれています。(http://facta.co.jp/blog/archives/20070703000459.html)

1976年に四人組が逮捕され文革が終わります。その結果、ソヨルジャブさんも名誉回復され、自由の身になったのです。
日本人とも自由に交流してよいことになったのです。
名誉回復後にフフホトで日本語塾を開き、のちソ連圏から独立し民主化されたモンゴル国でも日本語学校(展望大学)を開校します。その後、中国領のフフホトで暮らし、日本へ何度も来ました。そしてモンゴル人の研修生を日本に多数送ったのです。
ソヨルジョブさんは日本人との絆を大切にしたのです。それは純粋で一途な美しい絆でした。

今日はド・ロさま、Hootaさん、ソヨルジャブさんのしみじみした話をお送り致しました。

今日の挿絵の写真はソヨルジャブさんに敬意を表してモンゴルの風景写真です。「モンゴルの風景写真」を検索してネットからお借りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)