後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本人の油彩画(3)夭折の画家、 中村彝のエロシェンコ氏の肖像画」

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
中村彝(なかむらつね)は結核に苦しみながら感動的な油彩画を沢山描いて37歳で亡くなった夭折の画家でした。私は何年も前に水戸の近代美術館で彼の特別展を見た時の強い衝撃を忘れません。そして新宿の中村屋には何度も行って壁に掛かっている中村彝の絵画を見ていました。
油彩画はどれも暗い色で人間の苦悩と美しさを描いたものです。風景を描いても静物画を描いても何か 中村彝の苦悩が滲んでいるのです。深い精神性を感じさせるのです。特に日本の重要文化財に指定されている「エロシェンコ氏の肖像画」はロシアの詩人エロシェンコの盲目の苦しみと強い情熱が描いてある彼の傑作です。そんな絵画を写真でお送りします。

1番目の写真は大きさ45.5×42cmの「エロシェンコ氏の肖像画」です。1920年(大正9年)に描かれた油彩画で現在は東京国立近代美術館に展示してあります。国の重要文化財です。
エロシェンコの像は盲目の詩人の内に秘めた精神性と内面的なものを感じさせる肖像画の傑作です。中村彝の“心の内”が投影された、いわば彼の自画像とも言はれてる作品です。
なおエロシェンコの生涯は末尾の参考資料にあります。

2番目の写真は下落合の「中村彝アトリエ記念館」に展示してある1914年の描かれた「少女像」です。
中村は1911年新宿中村屋の相馬夫妻の厚意で新宿中村屋裏のアトリエに引っ越します。絵のモデルは相馬家の長女「俊子」です。彼女との恋愛を反対され中村彝は失意のうちに新宿中村屋を去ります。
俊子はそののち、中村屋にかくまわれていたインド革命の士ラス・ビハリ・ボースと結婚しました。

新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵氏と奥さんの黒光さんは明治、大正、昭和の始めにかけて深い人類愛と芸術へ対する尊敬を持ち、数多くの芸術家を情熱的に支援してきたのです。その正確な歴史的記述は「中村屋サロン」と題する、HP: http://www.nakamuraya.co.jp/salon/p01.html にあります。

3番目の写真は彝のアトリエ裏手の風景『目白の冬』です。中央に描かれてあるのがメーヤー館(宣教師の住居)で右端に描かれてあるのが英語学校です。

4番目の写真は福島の海岸の風景です。彝が21歳の頃転地療養中に福島県いわき市に滞在した時の作品です。板に描かれているので絵具が薄い部分は下地の木目が見えています。それが海の透明感や海中の岩を感じさせています。暗い色彩ですが美しい絵です。

5番目の写真は1919年、大正8年に描かれた「静物」です。現在は茨城県近代美術館が所蔵しています。

さて中村 彝(1887年 - 1924年)は大正期にかけての洋画家でした。(https://ja.wikipedia.org/wiki/中村彝 )
1887年(明治20年)、茨城県仙波村(現在の水戸市)に生まれました。父は彝が生まれた翌年に没し母も彝が11歳の時に没し、淋しい少年期を過ごします。
1904年(明治37年)祖母が死に、唯一生き残った姉が嫁いでからは天涯孤独の身となり一人暮らしの境遇になったのです。
その上、彝自身も結核を病み療養のため折角入学した陸軍中央幼年学校を中退します。
1905年(明治38年)、18歳の時に転地療養のため千葉県北条湊(現在の館山市)に行き、彝はこの地で水彩スケッチを始めたのです。翌年から白馬会研究所、次いで太平洋画会研究所で洋画の勉強をするが、その間にも千葉県などへ転地療養を繰り返しています。
1909年(明治42年)22歳の時に第3回文展に初入選します。
1910年(明治43年)には第4回文展で『海辺の村』が3等賞となり作品は実業家の今村繁三が購入します。
1911年(明治44年)、新宿・中村屋の主人・相馬愛蔵夫妻の厚意で、中村屋の裏にある画室に住むことになります。

1913年(大正2年)~1914年(大正3年)にかけての彝の作品には相馬家の長女の俊子をモデルにした裸婦像が数点あり2人は親密な関係だったのです。彝は俊子に求婚するが結核を理由に反対されます
その後の1916年に新宿区下落合にアトリエを構え、以後、彝は亡くなるまでこのアトリエでで油彩画を描き続けたのです。
1920年(大正9年)にはルノワールやロダンの作品を見て強い感銘を受けました。彝の代表作とされる『エロシェンコ像』はこの年に制作されたもので、ルノワールの影響が感じられると言う人もいます。
1921年(大正10年)には病状が悪化し翌年にかけては病臥の生活で、ほとんど作品を残していません。
1924年(大正13年)に37歳で夭折します。

6番目の写真は死の直前の1923年(大正12年)~1924年(大正13年)に描かれた『頭蓋骨を持てる自画像』です。若い頃の彝の自画像とは別人のように苦行僧か聖人のような澄みきった境地が描かれています。
絶筆は花を生けた花瓶を描いた『静物』ですが未完でした。
2013年(平成25年)に新宿区下落合に残るアトリエ跡が復元され、「新宿区立中村彝アトリエ記念館」としてオープンします。

この様に中村 彝は生前からその油彩画は高く評価されたのです。しかし37歳での旅立はあまりにも早過ぎました。これから円熟した絵を沢山描こうとしていた時に亡くなったのです。中村 彝の才能が惜しまれます。嗚呼。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
エロシェンコの生涯、https://ja.wikipedia.org/wiki/ヴァスィリー・エロシェンコ

ヴァスィリー・ヤコヴレヴィチ・エロシェンコはロシアのエスペランティスト、作家、言語学者、教育者。1908年から1910年の間にエスペランティストになったと推定される。ウクライナ人。日本ではワシリー・エロシェンコとしても知られるが、中国で作品を発表した際は「愛羅先珂」を名乗った。
現在のロシア連邦ベルゴロド州オブホーフカ出身。
エロシェンコは麻疹により4歳で失明、9歳の時にモスクワに行き盲学校に入った。15歳のころからエスペラントを学ぶ。1912年にはイギリスの盲学校へ最初の旅をした。その後、世界各地をエスペラントの助けを借りて旅した。1914年には、日本では視覚障害者がマッサージ(あんま)により自立しているとのことを聞いて来日し、東京盲学校で学んだ。日本では盲学校生の間にエスペラントを広めた。
後にタイ王国に渡り、その地に盲学校を設立した。ビルマ(現在のミャンマー)へ行き、モルメイン(現・モーラミャイン)という町でしばらく盲学校の教師をする。さらにインドに渡ったが、ロシア革命の影響でロシア人は厳しく扱われ、ロシアのボルシェヴィキとして国外追放された。1919年の夏にシャンハイを経由して再び日本へと逃がれた。
日本語もよくできたので、日本語の児童文学の作品を著わし、日本の進歩的な文学者の間で知名度があがった。中村屋で秋田雨雀・江口渙・神近市子ら多くの文化人と交流し、その一人だった洋画家の中村彝は「エロシェンコ氏の像」を描いた。この間に、恩義のある中村屋に母国仕込みのボルシチのレシピを教え、1927年の喫茶部開店の折には、ボルシチが人気メニューとして食通に迎えられているほか、店員の制服として彼の着用したルバシカが採用されている。
1921年5月1日にメーデーと日本の社会主義者の会合への参加を理由に逮捕され、国外追放となり、敦賀からウラジオストクに送られた。そこからハルビン、上海、北京と移動し、魯迅などの知己を得て、1922年には北京大学でロシア文学について講演したり女子師範学校で講演したりした。
その後、モスクワに行き、8年ぶりで家族と再会する。そして、トルクメン共和国盲児童寄宿学校、モスクワ盲学校などで盲人教育関係の仕事をする。
晩年は生まれ故郷に帰り、1952年に62歳で亡くなった。エスペランティストであるとともに帰国者という当局からは危険視される存在だったにもかかわらず、障害者であったためか大粛清などの弾圧を受けることはなかった。

「西洋の美しい絵画(4)色彩が淡く美しいクロード・モネの油彩画」

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
クロード・モネの油彩画は色彩が濃過ぎないで淡いロマンチックな色合いです。日本人が好きな油彩画です。特に私が好きな絵は睡蓮の絵とサン・ラザール駅の絵と日傘をさす女性の絵です。眺めていると幸福感につつまれます。そうです、良い絵は人間を幸福にするのです。
クロード・モネ(Claude Monet)は 1840年に生まれ 1926年に亡くなりました。印象派を代表するフランスの画家です。モネの油彩画を7点お送り致します。

1番目の写真は有名な睡蓮の絵です。クロード・モネの代表作は『睡蓮』です。 約250枚の油彩画の連作を描いています。 モネはフランスのジヴェルニーにある「水の庭」の睡蓮をモチーフに描いたのです。 モネの晩年まで30年間も描き続けました。数多くの睡蓮の絵の色合いはさまざまです。1番目の写真の絵は私が好きな色合いの絵です。
2番目の写真は『サン=ラザール駅:列車の到着』(1877年)です。蒸気機関車の煙が夢を搔き立てています。

3番目の写真は『散歩、日傘をさす女性』(1875年)です。三枚描かれた日傘をさす女性をモデルにした作品の最初のものです。妻カミーユと息子ジャンをモデルに描かれました。カミーユはこの4年後、結核で32歳の若さで亡くなるのです。
以上の他では春の野の明るさや楽しさを描いた絵画も良いものです。春の野にヒナゲシの咲いている風景画です。その2枚の写真をお送りします。

4番目の写真はパリの北にあるアルジャントゥイユの春の野の風景画です。「アルジャントゥイユのひなげし」という油彩画で1873年の作です。

5番目の写真も「アルジャントゥイユのひなげし」という油彩画で1873年の作です。この様な風景画は何枚も描かれています。
ついでに私が好きな木造のヨットの絵と穀物の積み重ねの絵をお送りします。

6番目の写真は『アルジャントゥイユの橋』(1874年)です。キャビンの無い小さなヨットです。手前の縦の棒は他のヨットのマストです。石橋のたもとに係留してあるヨットを描いた絵です。遠景には帆を上げて走っているヨットがある楽しい絵です。

7番目写真は夏の終わりの穀物の積み重ねです。1890-91年の作です。
穀物のある風景画はモネの最初の頃の作品です。しかしモネはこの写真のように1889年以後にも同じ主題のいくつかの作品を描いています。
 
クロード・モネは1840年にパリで生まれました。5歳の頃から少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしました。少年の頃から絵がうまく、人物の肖像画を売るほどであったそうです。
18歳の頃、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられました。
1859年にパリに出て、絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合ったのです。1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったのです。しかし1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭いました。
私生活では、カミーユとの交際を始め、長男も生まれます 。
そして1890年代、自宅に「花の庭」と、睡蓮の池のある「水の庭」を造ったのです。1898年ごろから睡蓮の池を集中的に描くようになりました。
最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面します。
友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭しました。その後の1926年に86歳で亡くなりました。 

今日はクロード・モネの絵画の紹介を致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本人の油彩画(2)パリで褒められ後、低迷した安井曽太郎の油彩画」

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
安井 曾太郎は1888年に生まれ1955年に67歳で亡くなった大正、昭和期の洋画家でした。1907年から1914年迄の7年間パリで絵を描いていました。
彼の油彩画の写真をお送りいたします。

1番目の写真はパリで1913年に描いた「山の見える町」です。パリ在住中の作品です。

2番目の写真は1914年の作品で「下宿の人々」です。パリ在住中の作品です。

3番目の写真はフランスで描いた「田舎の寺」です。パリ在住中の作品です。

4番目の写真はパリで描いた「孔雀と女」です。パリ在住中の作品ですが帰国後の1915年の第2回二科展で特別陳列されました。 京都国立近代美術館にあります。

5番目の写真は帰国後10年ほどしてやっと独自の画風を確立して描いた「金蓉」と題した中国服を着た婦人像です。この昭和9年の「金蓉」が安井曽太郎の最高の傑作と言われています。

6番目の写真は独自の画風を確立した後のバラの絵です。良く出来た油絵です。

7番目の写真は画風を確立した後の玉蟲先生の肖像画です。

安井曽太郎は1907年の19歳の時、それまで描いた油絵を一切焼き捨てて白紙の状態でパリの美術学校に入りました。そこでは彼の抜群のデッサン力で何度も優等賞を取りました。
そしてセザンヌの影響を受けて7年のパリ在住の間に数多くの油彩画を描いて高く評価されていたのです。
1番目の写真から4番目の写真がその頃、フランスで描いた作品です。

しかし帰国後、画風が決まらないで苦悩した時期が続きました。この低迷の苦しみを示す混乱した数点の絵も含めての展覧会が2005年にありました。それは「没後50年・安井曽太郎展」でした。私は家内と観に行き深い感動を覚えました。
水戸市の千波湖のほとり、県立近代美術館で2005年の7月に安井曽太郎氏の油彩109点、水彩・素描35点が年代順に展示されたのです。

この展示では浅井忠に師事していたころの少年期の作品、フランスでセザンヌの影響を受けていたころの滞欧期の作品、帰国後の東洋と西洋のはざまで苦しんだころの作品、そして曽太郎流画風の確立した後の傑作の数々が順序よく、ゆったりしたスペースに展示されていたのです。

全国の美術館や個人所有の油彩を109点も借り出して、曽太郎氏の芸術遍歴を浮き彫りにした企画展は、見る人にいろいろなことを考えさせます。
浅井忠に師事して描いた油彩を見た曽太郎氏の家族や友人は一流の画家になれると誉めたに違いありません。
そして19歳でパリに行ったのです。
美術学校で何度も優等賞を取り、後期印象派、特にセザンヌの直接的な影響を受け、澄んだ青を基調にしたいかにもセザンヌ風の裸婦、フランスの風景、静物などを精力的に描いたのです。
ところが、帰国後数年間の画風は混乱に続く混乱です。
パリで学んだ絵画精神で日本の風景、日本の裸婦、日本の静物を描こうとすればするほどバランスの取れない絵画になってしまうのです。
私はこの混乱期の、例えば京都近郊の多くの風景画や裸婦群像などは好きにはなれません。見ているうちに私自身も苦しくなってくるのです。

独自の画風を確立するまでの帰国後やく10年間の模索と深い思索こそがその後の曽太郎独自の芸術を生んだのです。
西洋の絵具、画材を使い西洋風の色合いで日本画の構図や線描を交えて和洋折衷の絵画を作ることは可能です。日本の風景、日本人モデルを用いてセザンヌ風に描くことも可能です。しかし安井氏はそんな浅薄なことは出来なかったのです。
東洋と西洋の文化の両方を受容して独自の境地を作り上げることに成功した画家はそんなに多くはありません。
ところが、昭和初期の少女像、玉蟲先生像、気位の高い和服の婦人像のころから、いわゆる曽太郎流画風が確立されたのです。それはフランスからの卒業です。
昭和9年の「金蓉」と題した絵からは女性の強さ、美しさが伝わって来ます。
日本画の精神性を背景にした表現で独創的な画風を作りあげたのです。

8番目の写真は「外房風景」です。
横長の大きなキャンバスに描いた外房風景には強風の沖を、流れるように白波が動いています。漁村の歪んだ家々が漁師一家の必死の生を暗示しているのです。松の木は自然の強い生命力を表しているのでしょうか。風景が美しいだけではなく漁師の生活そして人生を描いているのです。

もし「玉蟲先生像」、「金蓉」、「外房風景」、など曽太郎画風確立以後の傑作のみの展示であれば、曽太郎氏の絵の面白みや深みが理解出来なかったに違いありません。
「没後五十年・安井曽太郎展」を企画した方々の考えの深さに感心します。
安井曽太郎は梅原龍三郎とともに昭和期を代表する洋画家と評されてます。
そして1944年には東京美術学校教授、1952年の文化勲章受賞など、その功績が認められ画家としての成功を収めることとなったのです。

今日はパリで褒められ帰国し、その後低迷し苦悩した安井曽太郎の油彩画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「西洋の美しい絵画(3)色彩が濃厚で美しいルノワールの油彩画」

2022年04月29日 | 日記・エッセイ・コラム
ルノワールの油彩画は濃厚な色彩です。絵具が盛り上がっているような感じがします。描き過ぎたようでもありますが、そこが魅力です。油絵の美に圧倒的に感動します。
今日はルノワール(Pierre-Auguste Renoir )の油彩画を7枚お送りいたします。
ルノワールの油画はフランスやアメリカで何度も見ました。そして2016年06月、東京の新国立美術館での「ルノアール展」は感動的でした。ルノワールの103点の油彩画が一堂に展示してあったのです。この「ルノアール展」は圧巻でした。
ここにお送りする絵は私が好きなものです。特に濃厚な色彩の「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」が大好きです。屋外で語り合う家族やダンスを楽しむ人々の明かるい表情と空気感に魅せられます。

1番目の写真は「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」です。(1876年。油彩、キャンバス、131 × 175 cm。オルセー美術館蔵。第3回印象派展出品。)

2番目の写真は『ピアノに寄る少女たち』です。(1892年。油彩、キャンバス、116 × 90 cm。オルセー美術館蔵。)

3番目の写真は『浴女とグリフォンテリア』です。初期の作品です。(1870年。油彩、キャンバス、184 × 115 cm。サンパウロ美術館蔵。1870年サロン入選。)

4番目の写真は「舟遊びの昼食」です。(1880-81年。油彩、キャンバス、130.2 × 175.6 cm。フィリップス・コレクション蔵(ワシントンD.C.)。第7回印象派展出品。)

5番目の写真は「2人の姉妹」です。(1881年。油彩、キャンバス、100.4 × 80.9 cm。シカゴ美術館蔵。)

6番目の写真は『ラ・グルヌイエール』です。(1869年にモネとともに『ラ・グルヌイエール』を制作しました。その頃からは、セーヌ川やモンマルトルの風景を明るく描く印象主義的な手法を確立していきます。}

7番目の写真は「ポンヌフ」です。(1872年。油彩、キャンバス、75.3 × 93.7 cm。ナショナル・ギャラリー蔵、ワシントンD.C.)

ここでルノワールの略歴をご紹介しておきます。
ルノワール(Pierre-Auguste Renoir )は1841年に生まれ、- 1919年に亡くなりました。フランスの印象派を代表する画家でした。)(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB%EF%BC%9D%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A5%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%8E%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB )
彼はにフランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として1841年に生まれ、1844年(3歳)の時、一家でパリに移り住みます。
聖歌隊に入り、美声を評価されていました。1854年(13歳)に、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年(17歳)、失業します。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけています。
しかし1861年(20歳)の時、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合ったのです。
彼等とはフォンテーヌブローの森で一緒に写生もしていたのです。
1864年(23歳)にサロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選していました。しかし始めは経済的に苦しく、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらっていました。
1869年(28歳)、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである手法を生み出したのです。
1870年(29歳)、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍します。その後、1871年(30歳)、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻りました。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事も起きます。
このようにいろいろな事がありましたが、ルノアールは常に絵筆を握り感動的な絵画を78歳で死ぬまで描き続けたのです。晩年にリウマチのため絵筆が握ぎれなくなり絵筆を腕に括り付けて絵を描きき続けたのです。 

最近は雨や曇りで鬱陶しいです。今日はルノアールの油画をお送り致しました。皆さまの気分も楽しくなりましたでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人