上杉鷹山は江戸時代の中頃の米沢藩の藩主でした。領民を本当に愛した大名でした。
私は10年ほど前に山形県の米沢市にある上杉鷹山神社へ行きました。そして実に不思議な体験をしました。境内の中を『愛』という字が飛びまわっているのです。鷹山の領民へ対する愛と領民の鷹山に対する愛が小さな羽根をつけて飛びまわっているのです。それは不思議な体験でした。
それi以来私は上杉鷹山を忘れられなくなりました。
今日は上杉鷹山の人間性をご紹介したいと思います。
1番目の写真は米沢市の上杉鷹山神社にある鷹山像です。
鷹山は出羽国米沢藩9代藩主でした。名は治憲でしたが隠居後に鷹山と変えました。米沢藩政改革を行った江戸時代の名君として有名な大名です。借財に喘いでいた米沢藩を立て直した明君です。新田開発・水路・溜池の整備、養蚕・織物の奨励など多くの事業を起こし豊かな藩としました。
寛延4年(1751年)、九州の日向高鍋の藩主秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれました。文政5年(1822年)に逝去しました。享年71歳でした。
以下には鷹山の人間性を示す話をご紹介いたします。
米沢藩の農民がある日、干した稲束の取り入れ作業中に夕立が降りそうになったのです。手が足りず困っていたところ通りかかった武士2人が稲束の取り入れを手伝ってくれました。取り入れの手伝いには、お礼として刈り上げ餅(新米でついた餅)を配るのが慣例でした。そこで、餅を持ってお礼に伺いたいと武士たちに言ったところ、殿様お屋敷(米沢城)の北門に(門番に話を通しておくから)と言うのです。お礼の福田餅を33個持っておそるおそる伺ってみると、通された先にいたのは藩主(治憲)でありました。
お侍どころかお殿様であったので、腰が抜けるばかりにたまげ果てます。農民はその勤勉さを褒められ、褒美に鷹山から銀5枚まで授けられました。彼は末永く御恩を忘れなかったそうです。
藩の民に殖産を薦め、多くの事業を起こしました。また倹約も奨め糧飯(かてめし)や食べられる草、木の葉の植栽を勧め米の保存を教えて天明の大飢饉に藩から一人の餓死者も出しませんでした。
話は変わって、アメリカのジョン・F・ケネディが1961年に大統領に就任した際に、日本の記者団に「日本でいちばん尊敬する人物」を聞かれたときすぐに鷹山の名前を挙げたという逸話があります。ケネディは鷹山を政治家の理想像を見たのでした。
上杉鷹山という人物は、内村鑑三著の「代表的な日本人」によってアメリカ人が知ることになったと言われています。
ケネディの長女で駐日アメリカ合衆国大使をつとめていたキャロライン・ケネディは、米沢市を訪れ、父親のケネディが鷹山を称賛していたことに触れるスピーチをします。
このように鷹山はアメリカでも知られています。
以下に鷹山にまつわる話の幾つかをご紹介いたします。
(1)着る衣は木綿、食事は一汁一菜を基本とし、木綿の使用は羽織や袴だけでなく、下着にいたるまで着衣の全てに使用していた。食事の内容は朝食に粥を2膳ほどと香の物(漬物)、昼食や夜食に千魚などの肴類を添えて、うどんやそばを食べていた。酒は飲まず、冬になると甘酒を一椀ずつ飲んでいた。結果的に倹約ができて健康にも良い粗衣粗食であった[。
(2)上杉家へ養子入りする際、高鍋藩老臣の三好善太夫重道より貰った訓言の一書を、鷹山は生涯これを机の近辺より離さず、また鷹山の業績はこれに基づいているとされる。この書は現在、米沢市の上杉神社に保管されている。
(3)一時期鳥の飼育を趣味にし珍しい鳥を何匹も飼っていたが、倹約令を出すにあたり、きっぱりとやめ飼っていた鳥を全て野に放っている。また、隠居後煎茶に凝り最上の味を求めてかなり上達したが、他人に入れてもらったお茶を不味く感じるようになったのを申しわけなく思いやめたと言われる。
(4)有名な「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた歌である。
(5)天明7年(1787年)8月に実父の秋月種美の危篤の報を受け江戸へ出立し、品川区上大崎の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。
その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。
今日は米沢藩の領民を本当に愛した大名、上杉鷹山の人間性をご紹介いたしました。この記事は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2 を参考にしました。記して感謝の意を表します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)