後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「涙を誘う義経の腰越状、でも頼朝は許さない」

2023年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
江ノ電の腰越駅を降りて5分ほどの踏切を渡ると、満福寺という小さな寺が現れます。義経は1185年、壇ノ浦で戦功を挙げたにもかかわらず、鎌倉入りを拒まれ、弁慶とともにこの寺に滞在したのです。
そして涙を誘う腰越状を兄の頼朝へ書いたのです。
公文所の長官の大江広元あてに送り、頼朝に届けるように頼んだのです。「腰越状」は以下のようなものです。
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「腰越状」
 義経、恐れながら申し上げたいことは、鎌倉殿の御代官の一人に撰ばれ、天皇家の使いとなって、朝敵平家を滅ぼし、先祖代々から弓矢術を奮い、父の敵を討ちました。
 褒めてもらえるところを、思わぬ告げ口で、大きな手柄も無視されました。
 罪もないのに罰を受け、手柄はあっても間違いはしていないのに、お怒りを受け、残念で血の涙にふけっております。
 よく考えてみると、良薬は口に苦く、忠言耳に逆らうと、古人の言葉にあります。
 告げ口をした者を正さずに私を鎌倉へ入れないのでは、心のうちも話すことができず、むなしい日々を送っております。
 長く、情け深いお顔にもお会いできず、兄弟の情はないのと同じようです。
 私の運もこれまでなのでしょうか。
 それとも、前世で悪い行いがあったためでしょうか。
 悲しいことです。
 亡き父が再びこの世に現れて下さらないかぎり、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、また哀れんでもらうこともないのでしょうか。
 昔の出来事を話すようになりますが、義経は父母からこの身体を授かり、間もなく父を亡くして孤児となり、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡龍門牧へ赴いてから、一日たりとも安全な日々はありませんでした。
 どうにもならない命と考えながらも、京都では動乱がつづき、身の危険もあったので、諸国を流浪し、あちらこちらに身を隠していました。
 都から遠く離れた国で、土地の人や百姓に仕えて暮らしていました。
 しかし、時機が熟して、平家一族を追討するために京都へ上り、まず木曽義仲を討ち取りました。
 更に平家掃滅のため、ある時は険しい岩山を駿馬にむちうち、命をかえりみず駆回りました。
 ある時は、洋々たる大海に波風をしのぎ、身を海底に沈めて鯨の餌になってしまうこともいとわず奮戦しました。
 甲冑を枕とし、弓矢を仕事としました。
 私の本意は、亡き父の憤りを鎮めるという、かねてからの念願を叶えることのみです。
 そればかりか、義経が五位の検非違使に任命されたことは、源家の面目が立てられためったにない出世です。
 そうはいっても、今は悲しみが深く胸が締め付けられそうな気持ちです。
 神仏の助けを借りる外に、どうしたらこの苦しみや悲しみを嘆いて訴えることができるでしょう。
 そういう事ですので、社寺から出された牛王宝印のある護符の裏面に全く野心のない旨を記し、日本国中の大小の神々に誓います。
 数通の起請文をお出ししているのに、未だにお許しがありません。
 我が国は神の国。
 神に誓った起請文が通じないのであれば他に方法がありません。
 せめて、貴殿の御慈悲を仰ぎ、機会を捉えて、義経の意中を頼朝殿にお知らせいただき、疑い晴れて許されたならば、永く栄華を子孫に伝えたいと思います。
 これまでの悲しみを解決し、平安と幸福を得たいと念願している次第ですが、書き切れず、簡単な文面になってしまいました。
 そのあたりを推察して頂きますようお願いします。
 義経、謹んで申し上げます。

元暦二年五月 日    源義経

進上、公文所の長官の大江広元殿へ
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1番目の写真は腰越状の原文の写真です。
この悲劇で決定的だったのが、義経が頼朝に無断で朝廷から任官(検非違使左衛門少尉)されたことでした。当時の頼朝は自ら朝廷に対し、御家人の官位推薦を行っていたのです。御家人が勝手に申し出ていては、頼朝の権威が失墜します。また頼朝が推薦することで朝廷から武士の棟梁として認知される効果も狙ったのでした。
ところが、義経はこの定めを無邪気にもあっさりと破ってしまったのです。
腰越状では、むしろ任官を「源氏の名誉」とまで言い切り、事態の深刻さが分かっていないことを示しています。作家の斎藤栄は『鎌倉ミステリー紀行』(かまくら春秋社)で、「頼朝とは兄弟である。だからたいていのことは許されると考えていた義経には、(制裁の)真意はどうしても分からなかった」と書いています。兄弟の甘えが義経の運命の悲劇を招いたのです。
義経が軽率でした。衣川の館での自害へとつながったのです。壇ノ浦での勝利が義経の判断力を狂わせたのです。
涙を誘う義経の腰越状です、
現在の腰越付近の写真を添します。写真の出典は、https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10902/ です。

2番目の写真は江ノ電の腰越駅です。江ノ電の踏切の向こう側に満福寺があります。

3番目の写真は満福寺の境内にある「弁慶の腰掛石」と右に弁慶と義経像を示します。

4番目の写真は江ノ電が腰越の小動岬を超えると車窓に海が広がる海の風景です。鎌倉の町までは腰越の峠を超える必要蛾があるのです。腰越の峠が鎌倉の防衛線になっています。

「菜の花畑が一面に咲く春が待ち遠しい!」

2023年01月15日 | 写真
寒い日が続きます。菜の花畑が一面に咲く春が待ち遠しいものです。
せめて写真だけでも見ようと思い、「菜の花畑の風景写真」を検索してらインターネットに沢山写真がありました。
そこで菜の花畑、満開の桜、残雪の山々など写真を選びお送り致します。

「日本の歴史(17)海に沈んだ安徳天皇と義経の自害、そして鎌倉時代」

2023年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
源平合戦は壇ノ浦で決着がつき平家が滅亡しました。1185年3月24日もことでした。安徳天皇が平家の一族とともに海の底に沈んだのです。
安徳天皇は小さな手を合わせると祖母の二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の波間に身を投じたのです。安徳天皇は1178年に生まれ 1185年7歳で没しました。
源氏の総大将は源義経でした。しかしその後兄の源頼朝と不仲になり奥州の藤原氏のもとに身を寄せます。兄の頼朝は大軍を奥州へ送り源義経を自害させ、藤原氏を滅ぼします。その後は鎌倉幕府が全国を統一して日本の歴史で初めて武家政権になったのです。

今日はこの激動の時代の歴史を分かり易く簡略にご紹介いたしたいと思います。まず出来事を示します。
源義経は平治元年(1159年・1歳)誕生
文治元年(1185年・義経27歳)
正月、平氏追討のため西国へ出陣する。
2月、屋島の戦い。
1185年3月、壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。
4月、京へ凱旋。しかし兄、頼朝の怒りをかう。
文治3年(1187年・29歳)2月、奥州の藤原氏のもとへ落ち延びる。
文治5年(1189年)閏4月30日、襲撃を受け衣川館で自害。享年31。
そして日本の武家政権として鎌倉幕府が源頼朝によって確立したのです。

頼朝の死後、鎌倉時代仕えた坂東武士(御家人)の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は北条氏による執権になりました。その北条義時の嫡流である得宗が鎌倉幕府の実質的な支配者となったのです。この武家政権は室町幕府と続き江戸幕府へと継承されたのです。
鎌倉時代(12世紀末 ー元弘3年/正慶2年(1333年))は幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つです。本格的な武家政権による統治が開始した時代です。
始期については、各種歴史教科書で記述されていた3つの諸説があります。1192年と1183年と守護・地頭設置権を認められた1185年です。
源頼朝が鎌倉殿として武士の頂点に立ち、全国に守護を置いて、京都の朝廷と地方の荘園はそのままにして地方支配は地頭等を利用して全国の支配構造ができあがったのです。
元寇以降は全国の武士に軍事動員をかける権限などを手にすると、全国支配が強化されることになったのです。こうして頼朝の新統治理論は以降の幕藩体制の根幹を成すものになったのです。
源頼朝の死後、外戚である北条家が台頭し幕府の実権を掌握します。北条氏による執権制度が創設され、源氏将軍が断絶して以降も、幕府体制は永続するように制度整備がなされたのです。
鎌倉時代で特筆すべきことは仏教の革新運動です。
12世紀中ごろから13世紀にかけて、新興の武士や農民たちの求めに応じて、日本仏教を変革する運動として鎌倉新仏教の宗派が興隆します。大きな特徴は、平安時代までの鎮護国家から離れた、大衆の救済への志向であり仏教が個人の救済を重視するようになったのです。
これは保元の乱、平治の乱から治承・寿永の乱と続く戦乱の時代により厭世観(末法思想)が強まり、魂の救済が求められるようになったためです。また、仏教の一般大衆化も推進されました。
鎌倉仏教の一覧です。
浄土信仰
浄土宗(法然)
浄土真宗(別名:一向宗)(親鸞)
時宗(一遍)
禅宗
臨済宗(栄西)
曹洞宗(道元)
法華経
法華宗・日蓮宗(日蓮)

今日は海に沈んだ安徳天皇と義経の自害、そして鎌倉時時代の全国統一と鎌倉仏教について書きました。鎌倉に関連した写真を添付します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は1185年7歳で海の底に沈んだ安徳天皇です。

2番目の写真は鎌倉幕府を開いた源頼朝です。

3番目の写真は鎌倉大仏です。

4番目の写真は現在の鎌倉の遠景です。

5番目の写真は現在の鎌倉八幡宮です。鎌倉幕府は鎌倉八幡宮のすぐ下にありました。

「カトリック教会、2023年1月15日のミサ動画配信」

2023年01月15日 | 日記
カトリック教会、2023年1月15日の年間第2主日のミサ動画配信は以下の通りです。

2023年  1月15日 10時のミサ

カトリック関口教会、
https://www.youtube.com/watch?v=wQtRHSdKdo8

聖イグナチオ教会
https://www.youtube.com/watch?v=S9gFYQ22aVo


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はローマのバチカンにあるサンピエトロ寺院です。サン・ピエトロ大聖堂はカトリックの本山です。創建は4世紀。現在の聖堂は2代目にあたり、1626年に完成したものです。

後の4枚の写真はの関口教会の今日のミサ風景です。