江ノ電の腰越駅を降りて5分ほどの踏切を渡ると、満福寺という小さな寺が現れます。義経は1185年、壇ノ浦で戦功を挙げたにもかかわらず、鎌倉入りを拒まれ、弁慶とともにこの寺に滞在したのです。
そして涙を誘う腰越状を兄の頼朝へ書いたのです。
公文所の長官の大江広元あてに送り、頼朝に届けるように頼んだのです。「腰越状」は以下のようなものです。
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「腰越状」
義経、恐れながら申し上げたいことは、鎌倉殿の御代官の一人に撰ばれ、天皇家の使いとなって、朝敵平家を滅ぼし、先祖代々から弓矢術を奮い、父の敵を討ちました。
褒めてもらえるところを、思わぬ告げ口で、大きな手柄も無視されました。
罪もないのに罰を受け、手柄はあっても間違いはしていないのに、お怒りを受け、残念で血の涙にふけっております。
よく考えてみると、良薬は口に苦く、忠言耳に逆らうと、古人の言葉にあります。
告げ口をした者を正さずに私を鎌倉へ入れないのでは、心のうちも話すことができず、むなしい日々を送っております。
長く、情け深いお顔にもお会いできず、兄弟の情はないのと同じようです。
私の運もこれまでなのでしょうか。
それとも、前世で悪い行いがあったためでしょうか。
悲しいことです。
亡き父が再びこの世に現れて下さらないかぎり、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、また哀れんでもらうこともないのでしょうか。
昔の出来事を話すようになりますが、義経は父母からこの身体を授かり、間もなく父を亡くして孤児となり、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡龍門牧へ赴いてから、一日たりとも安全な日々はありませんでした。
どうにもならない命と考えながらも、京都では動乱がつづき、身の危険もあったので、諸国を流浪し、あちらこちらに身を隠していました。
都から遠く離れた国で、土地の人や百姓に仕えて暮らしていました。
しかし、時機が熟して、平家一族を追討するために京都へ上り、まず木曽義仲を討ち取りました。
更に平家掃滅のため、ある時は険しい岩山を駿馬にむちうち、命をかえりみず駆回りました。
ある時は、洋々たる大海に波風をしのぎ、身を海底に沈めて鯨の餌になってしまうこともいとわず奮戦しました。
甲冑を枕とし、弓矢を仕事としました。
私の本意は、亡き父の憤りを鎮めるという、かねてからの念願を叶えることのみです。
そればかりか、義経が五位の検非違使に任命されたことは、源家の面目が立てられためったにない出世です。
そうはいっても、今は悲しみが深く胸が締め付けられそうな気持ちです。
神仏の助けを借りる外に、どうしたらこの苦しみや悲しみを嘆いて訴えることができるでしょう。
そういう事ですので、社寺から出された牛王宝印のある護符の裏面に全く野心のない旨を記し、日本国中の大小の神々に誓います。
数通の起請文をお出ししているのに、未だにお許しがありません。
我が国は神の国。
神に誓った起請文が通じないのであれば他に方法がありません。
せめて、貴殿の御慈悲を仰ぎ、機会を捉えて、義経の意中を頼朝殿にお知らせいただき、疑い晴れて許されたならば、永く栄華を子孫に伝えたいと思います。
これまでの悲しみを解決し、平安と幸福を得たいと念願している次第ですが、書き切れず、簡単な文面になってしまいました。
そのあたりを推察して頂きますようお願いします。
義経、謹んで申し上げます。
元暦二年五月 日 源義経
進上、公文所の長官の大江広元殿へ
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1番目の写真は腰越状の原文の写真です。
この悲劇で決定的だったのが、義経が頼朝に無断で朝廷から任官(検非違使左衛門少尉)されたことでした。当時の頼朝は自ら朝廷に対し、御家人の官位推薦を行っていたのです。御家人が勝手に申し出ていては、頼朝の権威が失墜します。また頼朝が推薦することで朝廷から武士の棟梁として認知される効果も狙ったのでした。
ところが、義経はこの定めを無邪気にもあっさりと破ってしまったのです。
腰越状では、むしろ任官を「源氏の名誉」とまで言い切り、事態の深刻さが分かっていないことを示しています。作家の斎藤栄は『鎌倉ミステリー紀行』(かまくら春秋社)で、「頼朝とは兄弟である。だからたいていのことは許されると考えていた義経には、(制裁の)真意はどうしても分からなかった」と書いています。兄弟の甘えが義経の運命の悲劇を招いたのです。
義経が軽率でした。衣川の館での自害へとつながったのです。壇ノ浦での勝利が義経の判断力を狂わせたのです。
涙を誘う義経の腰越状です、
現在の腰越付近の写真を添します。写真の出典は、https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10902/ です。
2番目の写真は江ノ電の腰越駅です。江ノ電の踏切の向こう側に満福寺があります。
3番目の写真は満福寺の境内にある「弁慶の腰掛石」と右に弁慶と義経像を示します。
4番目の写真は江ノ電が腰越の小動岬を超えると車窓に海が広がる海の風景です。鎌倉の町までは腰越の峠を超える必要蛾があるのです。腰越の峠が鎌倉の防衛線になっています。
そして涙を誘う腰越状を兄の頼朝へ書いたのです。
公文所の長官の大江広元あてに送り、頼朝に届けるように頼んだのです。「腰越状」は以下のようなものです。
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「腰越状」
義経、恐れながら申し上げたいことは、鎌倉殿の御代官の一人に撰ばれ、天皇家の使いとなって、朝敵平家を滅ぼし、先祖代々から弓矢術を奮い、父の敵を討ちました。
褒めてもらえるところを、思わぬ告げ口で、大きな手柄も無視されました。
罪もないのに罰を受け、手柄はあっても間違いはしていないのに、お怒りを受け、残念で血の涙にふけっております。
よく考えてみると、良薬は口に苦く、忠言耳に逆らうと、古人の言葉にあります。
告げ口をした者を正さずに私を鎌倉へ入れないのでは、心のうちも話すことができず、むなしい日々を送っております。
長く、情け深いお顔にもお会いできず、兄弟の情はないのと同じようです。
私の運もこれまでなのでしょうか。
それとも、前世で悪い行いがあったためでしょうか。
悲しいことです。
亡き父が再びこの世に現れて下さらないかぎり、誰にも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、また哀れんでもらうこともないのでしょうか。
昔の出来事を話すようになりますが、義経は父母からこの身体を授かり、間もなく父を亡くして孤児となり、母の懐に抱かれて、大和国宇多郡龍門牧へ赴いてから、一日たりとも安全な日々はありませんでした。
どうにもならない命と考えながらも、京都では動乱がつづき、身の危険もあったので、諸国を流浪し、あちらこちらに身を隠していました。
都から遠く離れた国で、土地の人や百姓に仕えて暮らしていました。
しかし、時機が熟して、平家一族を追討するために京都へ上り、まず木曽義仲を討ち取りました。
更に平家掃滅のため、ある時は険しい岩山を駿馬にむちうち、命をかえりみず駆回りました。
ある時は、洋々たる大海に波風をしのぎ、身を海底に沈めて鯨の餌になってしまうこともいとわず奮戦しました。
甲冑を枕とし、弓矢を仕事としました。
私の本意は、亡き父の憤りを鎮めるという、かねてからの念願を叶えることのみです。
そればかりか、義経が五位の検非違使に任命されたことは、源家の面目が立てられためったにない出世です。
そうはいっても、今は悲しみが深く胸が締め付けられそうな気持ちです。
神仏の助けを借りる外に、どうしたらこの苦しみや悲しみを嘆いて訴えることができるでしょう。
そういう事ですので、社寺から出された牛王宝印のある護符の裏面に全く野心のない旨を記し、日本国中の大小の神々に誓います。
数通の起請文をお出ししているのに、未だにお許しがありません。
我が国は神の国。
神に誓った起請文が通じないのであれば他に方法がありません。
せめて、貴殿の御慈悲を仰ぎ、機会を捉えて、義経の意中を頼朝殿にお知らせいただき、疑い晴れて許されたならば、永く栄華を子孫に伝えたいと思います。
これまでの悲しみを解決し、平安と幸福を得たいと念願している次第ですが、書き切れず、簡単な文面になってしまいました。
そのあたりを推察して頂きますようお願いします。
義経、謹んで申し上げます。
元暦二年五月 日 源義経
進上、公文所の長官の大江広元殿へ
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1番目の写真は腰越状の原文の写真です。
この悲劇で決定的だったのが、義経が頼朝に無断で朝廷から任官(検非違使左衛門少尉)されたことでした。当時の頼朝は自ら朝廷に対し、御家人の官位推薦を行っていたのです。御家人が勝手に申し出ていては、頼朝の権威が失墜します。また頼朝が推薦することで朝廷から武士の棟梁として認知される効果も狙ったのでした。
ところが、義経はこの定めを無邪気にもあっさりと破ってしまったのです。
腰越状では、むしろ任官を「源氏の名誉」とまで言い切り、事態の深刻さが分かっていないことを示しています。作家の斎藤栄は『鎌倉ミステリー紀行』(かまくら春秋社)で、「頼朝とは兄弟である。だからたいていのことは許されると考えていた義経には、(制裁の)真意はどうしても分からなかった」と書いています。兄弟の甘えが義経の運命の悲劇を招いたのです。
義経が軽率でした。衣川の館での自害へとつながったのです。壇ノ浦での勝利が義経の判断力を狂わせたのです。
涙を誘う義経の腰越状です、
現在の腰越付近の写真を添します。写真の出典は、https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c10902/ です。
2番目の写真は江ノ電の腰越駅です。江ノ電の踏切の向こう側に満福寺があります。
3番目の写真は満福寺の境内にある「弁慶の腰掛石」と右に弁慶と義経像を示します。
4番目の写真は江ノ電が腰越の小動岬を超えると車窓に海が広がる海の風景です。鎌倉の町までは腰越の峠を超える必要蛾があるのです。腰越の峠が鎌倉の防衛線になっています。