後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「熱帯のブーゲンビリアは日本にも咲いています」

2023年01月18日 | 写真
熱海市の中心部を流れる「糸川」の御成橋から糸川橋間には、川を覆うようにブーゲンビリアが植えられています。
このブーゲンビリアは、毎年5月から10月にかけて赤・マゼンタ・紫などの南国的な美しい色の花(苞)を咲かせます。
糸川橋付近には川へ降りる階段があり撮影スポットとなっています。
写真の出典は、https://www.ataminews.gr.jp/spot/667/ です。

「真珠湾攻撃の特殊潜航艇の9軍神と生き残った坂巻少尉のその後」

2023年01月18日 | 国際・政治
真珠湾攻撃では、ゼロ戦による空襲を思い浮かべる方は多いと思いますが、海の中からも攻撃が行われていました。

1番目の写真は’海軍特別攻撃隊’’の特殊潜航艇です.。前方から見た特殊潜航艇です.。「en:Submarine Force Library and Museum」(アメリカ・コネチカット州)にて展示。

この’’海軍特別攻撃隊’’は特殊潜航艇(別名甲標的)という小型の潜水艦に乗り込み真珠湾に出発します。

5隻特殊潜航艇に2人ずつ乗組み、未帰還となった海軍中佐、岩佐直治ら以下の9名が「特別攻撃隊の偉勳」として9軍神とされたのです。

9軍神は以下のとおりです。
岩佐直治 中佐
横山正治 少佐
古野繁実 少佐
広尾彰 大尉
佐々木直吉 特務少尉
横山薫範 特務少尉
上田定 兵曹長
片山義雄 兵曹長
稲垣清 兵曹長

2番目の写真は9軍神です。

潜航艇は1隻2人乗りで、生存者の酒巻和男少尉は捕虜となったのだが、大本営発表ではこの事実は伏せられました。

しかしVOAの報道により実態は日本では密かに流布されていました。

100隻の特殊潜航艇を作り、訓練が行われた愛媛県伊方町の三机湾には慰霊碑が設置されています。

以下は青木弘亘のプロジェクトページ、https://otsucle.jp/cf/project/3419.html から抜粋です。

「真珠湾奇襲攻撃 酒巻和男の手記」(増補復刻合本改訂版)

酒巻和男さんは、徳島県阿波町馬場の生まれ。

脇町中学校を卒業後、海軍兵学校に入学。

昭和15年に海軍兵学校を卒業。

少尉任官と同時に水上機母艦「千代田」に配属される。

昭和16年の4月から三机湾で特殊潜航艇の訓練を開始。

1945年12月の真珠湾攻撃の際に米軍の捕虜となり、4年間の捕虜生活を送る。

昭和21年に帰国後はトヨタ自動車工業に入社し教育訓練・輸出関係に従事。

その後、14年間ブラジルトヨタ社長を務める等、戦後日本の復興発展の最前線で約40年にわたり企業戦士として献身的に活動しました。

3番目の写真はブラジルトヨタ社長時代の酒巻和男氏です。

定年退職後、関連会社の豊田総建社長を勤め、昭和60年に退社。

平成11年、81歳で生涯を閉じる。

戦争になると実にいろいろな攻撃方法が考え出されられるのです。戦争は本当に悲劇です。嗚呼。

「日本の歴史(19)日本の運命を大きく変えた太平洋戦争」

2023年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争は日本の歴史の中で一番大きな出来事でした。1945年の日本の敗北によって日本の政治、社会、文化が根底から変革されたのです。アメリカ流の民主国家に生まれ変わったのです。
今日はこの太平洋戦争の経過を簡略に書いてみたいと思います。
太平洋戦争は、1941年から始まった戦争であり、第二次世界大戦のアジアでの戦いでした。
この戦争は日本とアメリカ合衆国との戦いで始まり、すぐに日本とアメリカ、イギリス、中国、オランダ、オーストラリアなどの連合国の間の戦になったのです。
1945年8月15日に連合国が勝利して終わります。日本政府が降伏文書の署名した9月2日が正式な終戦の日となります。さてこの大戦争の経過を見てみましょう。
以下は次の各資料の抜粋です。これらの詳細な資料の執筆者へ感謝の意を表します。
1,太平洋戦争https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E6%B4%8B%E6%88%A6%E4%BA%89 
2,真珠湾攻撃
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%8F%A0%E6%B9%BE%E6%94%BB%E6%92%83
3,仏印進駐
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E5%8D%B0%E9%80%B2%E9%A7%90
4,マレー沖海戦
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E6%B2%96%E6%B5%B7%E6%88%A6
(1)仏領インドシナ、ベトナム、ラオス、カンボジアの日本による事前占領
太平洋戦争が始まる前の1940年から1941年にかけて日本は仏領インドシナだったベトナム、ラオス、カンボジアを軍事占領します。
これが仏印進駐です。第二次世界大戦下におけるフランス領インドシナ(仏領印度支那)への日本軍の進駐のことをです。1940年の北部仏印進駐と、1941年の南部仏印進駐に分けられます。1907年に締結された日仏協約が事実上無効化し、南部仏印進駐は日米関係の決定的な決裂をもたらし、太平洋戦争への回帰不能になりました。
1940年5月のドイツ軍のフランス侵攻によりフランスが劣勢になると、日本軍内ではフランス領インドシナに対する対応が検討され始めました。そして1940年に北部仏印進駐が始まったのです。

1番目の写真はベトナムのサイゴンに進駐する日本軍です。
フランス領インドシナ政府は武器弾薬・燃料・トラックの輸出を禁止する措置を行う旨を日本側に通告しましたが日本側の対応はかえって激しいものとなります。結局、仏領インドシナだったベトナム、ラオス、カンボジアは日本によっ占領されたのです。

(2)真珠湾攻撃で太平洋戦争の開戦
1941年12月8日です。7時49分(同3時19分)、第一波空中攻撃隊は真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田が各機に対して「ト」の連送で、「全軍突撃」を下命します。
7時52分、淵田は旗艦赤城に対して「トラ・トラ・トラ」を打電しました。これは「ワレ奇襲ニ成功セリ」を意味する暗号略号です。この電波は広島湾にいた戦艦長門でも、東京の大本営へも到達します。


2番目の写真は発艦直前の翔鶴の飛行甲板です。

3番目の写真は赤城から発艦する零式艦上戦闘機です。
航空機による攻撃は7時55分に急降下爆撃隊がフォード島のウィーラー陸軍飛行場へ250 kg爆弾による爆撃を開始し、これが初弾となりました。
ホノルル海軍航空基地作戦士官のローガン・ラムジー中佐は7時55分ごろに基地に対して急降下してくる航空機の耳をつんざく音に気が付き、近くにいた当直士官の大尉に「あいつの機体番号を調べろ。あいつの安全ルール違反を報告しなきゃならん」と命令しなす。その航空機はさらに突っ込んできたため、ラムジーは「機体番号はわかったか?」と当直士官に聞いたが「いや、わかりません。赤のバンドがついてるから隊長機と思います。」という返答があった。ラムジーが苦々しい顔をしていると当直士官が「急降下爆撃機が機体を引き起こして上昇するとき何か黒いものが落下しました。」と報告した瞬間に凄い爆発音が格納庫の方で鳴り響きます。
ラムジーは表情を強張らせ「ディック、飛行隊長を調べる必要はない、あれは日本の飛行機だ」と叫ぶと、無線室に向かって廊下を走り、当番兵に次の電文を平文で打てと命じたのです。(真珠湾空襲さる ※これは演習ではない)
こうして太平洋戦争が始まったのです。

4番目の写真はアリゾナの弾薬庫が誘爆した瞬間です。

(3)真珠湾攻撃と同時に東南アジアの軍事侵攻と占領
軍部が中心となって作成し1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した、太平洋戦争全般にわたる基本方針となる日本の戦争計画書『対英米蘭蔣戦争 終末促進に関する腹案』です。「東南アジア南太平洋における米英蘭の根拠を覆滅し、戦略上優位の態勢を確立すると共に、重要資源地域ならびに主要交通線を確保して、長期自給自足の態勢を整う」。
戦争の終わらせ方については「独伊と提携して先ず英の屈服を図り、米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」としていのです。
そして「マレー作戦」を真珠湾攻撃と並行して進めたのです。
最初に、日本陸軍の上陸部隊を載せた船団が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、日本時間午前2時15分に上陸し、海岸線で英印軍と交戦します。
イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれたのです。
日本軍はほぼ同時にタイにも上陸し、タイ側と戦闘を行い日本軍のはタイに進駐しました。また近衛師団も8日仏印から陸路タイに侵入しました。
日本軍を迎撃しようとしたイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」は、仏印から発進した日本海軍陸上攻撃機による雷撃と爆撃で撃沈された(マレー沖海戦)。

5番目の写真は日本軍航空部隊の攻撃を受ける英海軍のプリンス・オブ・ウェールズ(右上)とレパルス(左下)です。

6番目の写真は戦艦プリンス・オブ・ウェールズです。
マレー沖海戦は太平洋戦争の1941年(昭和16年)12月10日にマレー半島東方沖で日本海軍の陸上攻撃機とイギリス海軍の東洋艦隊の間で行われた戦闘でありこれが東南アジア諸国の軍事占領の出発点になったのです。日本海軍航空隊は戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈したのです。航行中の戦艦を航空機だけで撃沈した世界初の事例でした。

今日は太平洋戦争の前半部分の経過を書きました。日本軍が勝っていた太平洋戦争の前半部分です。しかしこの後日本の運命は暗転するのです。明日の続編で書きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)