後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「熱海梅園の梅まつり 2023年」

2023年01月06日 | 写真
熱海梅園は、日本一開花が早いといわれる梅を楽しむことができる場所です。
59品種472本の梅が咲き誇る梅林の景色を見るために満開の時期には全国から多くの人たちが訪れます。
梅まつりも開催されています。
開催期間:2023年1月7日(土)から3月5日(日)
詳しくは、https://iwalkedblog.com/?p=26219 をご覧下さい。

「日本の歴史(9)2万年前の無土器、旧石器時代の人々の暮らし」

2023年01月06日 | 日記・エッセイ・コラム
日本に人間が住んでいた確かな証拠は人の手で加工された石器です。それが多数、確実に出土するのは2万年、3万年前からの物です。それ以前の石器も少数ながら出土しているのでまあ大雑把に言えば4万年前から人間が住んでいたと考えても大きな間違いがないようです。すると以下のような時代区分が出来ます。
旧石器時代 –約4万年前ー 紀元前14000年頃 (16000年前)
縄文時代 前14000年頃 – 前3世紀頃
弥生時代 前3世紀頃 – 後3世紀中頃
古墳時代 3世紀中頃 – 7世紀頃
飛鳥時代 592年 – 710年
奈良時代 710年 – 794年
この年代区分が仮に正しいとすると旧石器時代が約24000年間、そして縄文時代が約14000年間(正確には13700年間)も続いていたことになります。その後の歴史はたかだか2000年しかありません。
旧石器時代と、縄文時代と呼ばれる新石器時代の合計約38000年間がとてつもなく長い期間だったことがお分かり頂だけると思います。

ここで思いをはせて頂きたいのは旧石器時代には土器が一切無かった事実です。人々は獣肉やキノコなどを焚火で焼いて食べることは出来ても、木の実や食用の植物は煮ることが出来なかったのです。
土器の鍋や蒸し器が出来るまでの日常生活の不便さは想像にあまりあります。人々はそんな暮らしをしていたのです。
日本の旧石器時代の人々は定住していないで獲物の獲れる場所をさまよいながら焚火で獣肉を焼いて食べていたのです。
しかし近年の研究により旧石器時代の住居跡が幾つか発見されているのです。
関西では大阪府南東部の藤井寺市の「はさみやま遺跡」があり、関東では神奈川県の相模原市の「田名向原遺跡」があります。両方とも珍しい旧石器時代の遺跡です。
私は近くの相模原市の田名向原展示館に何度も通い旧石器時代の人々の生活の実態が少し分かりました。

以下に旧石器時代の人々の生活の概略を示します。
相模原市では考古学的な遺跡が多く発掘されており、特に相模川の岸の、田名向原、塩田、谷原、東原などの地域は驚くべき考古学的史跡の宝庫なのです。
そして相模原市の遺跡からは20000年前の旧石器時代の住居跡も発見されたのです。
この旧石器時代の住居跡の発見は特別な大発見です。特別な理由を簡略に以下に書きます。
戦前の学説では、日本の歴史は縄文時代に始まり、それ以前の旧石器時代は無かったと長い間思われていました。それが終戦直後の「岩宿遺跡」の発見で数万年前にさかのぼる旧石器時代の存在が証明されたのです。
それ以来急に旧石器時代の発掘研究が盛んになりましたが住居跡だけは発見されませんでした。従って石器時代では人々は定住しないで狩猟と採集の生活をしていたと考えられていたのです。
それが平成になってから事情が急変したのです。
各地の自治体が行う土木工事の前に、注意深い科学的な発掘調査をするようになったのです。
その成果として日本各地から黒曜石などを用いた精巧な石器が多数出て来ました。
石器の出た地層の精密な年代調査と炭素同位体の分析から、出土した石器は4万年から縄文時代が始まる16000年前までの後期旧石器時代のものと証明されているのです。
現在、少なくとも4万年前から16000年前まで続いた旧跡時代が日本に存在した事実を疑う人はいません。
住居跡が見つかっていないので旧石器時代には人間は家も造らず、定住もしていなかったという学説が広く信じられていたのです。
しかしこの学説は間違っていたのです。
少なくとも20000年前の住居跡が相模原市で発見され、相模原市の特別な歴史園に復元、公開されています。そしてその発掘の詳しい経緯は隣接する旧石器時代学習館に示してあります。
考古学を趣味としている私は何度もこの20000年前の旧石器時代の住居の復元模型を見て感動していました。
行ってみると其処は相模川の東側の岸辺でその向こうに丹沢連山が見えています。下の写真がその相模川です。

1番目の写真は相模原市の特別な歴史園の西を流れる相模川です。
ここ田名向原展示館の付近は相模川中流で、考古学的史跡が3層、4層と住居跡や古墳が集中して存在しています。

2番目の写真は2万年前の石器時代の住居跡を復元したものを示します。
この写真では平らな土地に丸い印をつけた掘っ建て柱の跡が見えます。そして竪穴式住居の周囲に置いた石もあります。黒く焦げた炉跡も見つかっています。これが旧跡時代の住居跡なのです。
年代測定は29000年前の九州の姶良(アイラ)大噴火の火山灰層の位置と炭素の同位体による年代測定から約20000年前と判りました。

3番目の写真は上の層に重なってあった5000年前の縄文時代の住居を復元したものです。
この田名向原では2万年前の旧石器時代の住居跡と3000個の精巧な石器の他に5000年前の縄文時代の住居跡、そして1400年前の13基以上の古墳が発見されたのです。
その詳細は末尾の参考資料にあります。ご興味のある方はご覧下さい。

それでは石器時代の人々はどのような生活をしていたのでしょうか?
田名向原の展示館にある絵画で人々の狩猟や採集の様子と獣皮で屋根を作った住居の前で作業している人の様子などを示します。

4番目の写真は旧石器時代の女性が木の実を採集している様子を示しています。

5番目の写真は旧石器時代の男性が石器の穂先をつけた槍を構えている様子を示しています。

6番目の写真は大ツノシカを数人で囲んで倒している様子を示しています。

7番目の写真は2人の男が獣の皮をなめしている様子を示しています。後ろの竪穴住居の屋根はなめした獣の皮で葺いてあります。

8番目の写真は旧石器時代に日本に棲んでいた動物を示しています。大ツノシカとイノシシがよく食べられていたようです。
これらの写真を見るとこの地域の約2万年前の人々の生活の実態が少しだけ分かります。
このような生活のスタイルは、縄文時代、弥生時代、古墳時代になっても奥深い地方の人々は、ほとんど同じようだったと想像出来ます。その一方、支配階級の人々の生活は時代が進むと大きく変わっていったと思います。
円形の掘っ立て小屋に住み、土器や木製の農具を使い、石器も相変わらず使っていたに違いありません。青銅器や鉄の道具は高価過ぎて支配階級の人々しか使えなかったのです。
石器は安価で簡単に作られる道具だったに違いありません。弥生時代や古墳時代になっても鉄器は高価だったので農民は平らな石に木の柄を着けた鍬も使っていたと想像出来ます。
学校の歴史では豪族や朝廷や権力者の様子を教えますが、一般の人々を暮らしは違うのです。人々の暮らし方の実際を知ることも重要と思います。

今日は2万年前の無土器、旧石器時代の人々の暮らしの様子をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料:関連記事の紹介============
http://blog.goo.ne.jp/yamansi-satoyama の2013年1月と2012年12月に次の関連した記事が掲載してあります。
「相模川中流は考古学的史跡の宝庫・・・3層、4層と住居跡や古墳が集中」
「日本の旧石器時代・その悠久の歴史(1)2万年前の住居の発見」
「私の郷土史(2)旧石器時代から江戸時代までの小平市鈴木町の変遷」
「所沢市砂川遺跡と岩宿遺跡から出た旧石器時代の石器の写真と日本の旧石器時代」

はさみやま遺跡:
はさみ山遺跡は、大阪府南東部の藤井寺市の藤井寺公団・野中・藤ケ丘一帯に広がっており、羽曳野丘陵の裾野に広がる段丘に立地する。遺跡およびその周囲は、全体が緩やかな傾斜地となっている。この遺跡は、1974年(昭和49年)、大阪外環状線建設の際に新たに発見されたものである。以後、大阪府教育委員会や藤井寺市教育委員会による調査が続いてきた。
後期旧石器時代の住居跡:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AF%E3%81%95%E3%81%BF%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1
1986年(昭和61年)のはさみ山遺跡の発掘調査により、後期旧石器時代(3万年 - 1万3000年前)の住居の構造が明らかになった。住居跡は、深さ約30cmの半地下式(竪穴住居)で、そのくぼ地の周囲には1.0 - 1.7mの間隔をおいて直径14 - 22cmの柱穴が7個あり、その外側には浅い溝がめぐらされていた。住居の範囲は、東西直径約6メートル、南北径5メートル、深さ0.3メートルに渡り、その形状は楕円形、柱は合計13本であったと推定されている。なお、柱穴は円をなして並び、各柱穴がその円の中心に向かって斜めに掘られており、これに木を差し込むと上方でその中心に集まる角度になっていた。すなわち、直径約6mの円錐形の竪穴住居が復元できる。遺物としては、紀元前2万年頃のナイフ形石器、翼状剥片、石核等が出土した。
なお、住居跡とは沢をはさんだ東側から径270cm×160cmの楕円形状の土坑が見つかっている。これは墓(土坑墓)ではないかと推定されている。