後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の歴史(14)天皇を中心にした日本が出来た飛鳥時代の大化の改新」

2023年01月11日 | 日記・エッセイ・コラム
飛鳥時代は、日本の歴史の時代区分でですが、天皇中心の国家体制が出来始めた重要な時代です。現在の奈良県の明日香村飛鳥に宮があったので飛鳥時代と言います。飛鳥に宮都が置かれた崇峻天皇5年(593年)から和銅3年(710年)にかけての118年間を言います。
現在、法隆寺がある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くにあり、大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝でした。
聖徳太子(厩戸皇子)は推古9年(601年)、飛鳥から斑鳩の地に移ることを決意し、斑鳩宮の建造に着手し、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだのです。
その後、聖徳太子の没後に大化の改新が起きます。
大化の改新は、皇極天皇4年(645年)6月12日の乙巳の変に始まる一連の国政改革です。狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指しますが、広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含みます。改革そのものは、年若い中大兄皇子と中臣鎌足の協力によって推進されました。
大化の改新での主な改革は以下の通りです。
(1)日本や天皇という名称の公認をした大変革
この改革によって各豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったのです。
そして「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになりました。中大兄皇子と中臣鎌足は皇極天皇を退位させ、皇極天皇の弟を即位させ孝徳天皇にしました。その孝徳天皇即位の直後から新たな時代の始まりとして日本で初めての元号「大化」を定めました。
(2)蘇我入鹿の暗殺と中大兄皇子と中臣鎌足が権力を握る
大化の改新は、当時天皇を次々と擁立したり廃したりするほど権勢を誇っていた蘇我氏を、皇極天皇の皇居において蘇我入鹿を暗殺して滅亡させた乙巳の変から始まりました。
中大兄皇子と中臣鎌足が権力を握り大化の改新を始めたのです。
(3)大化の改新の第一段階
大化元年内に、初となる元号の使用、男女の法の制定、鍾匱の制の開始、仏法興隆の詔の発布、十師の任命、国博士および内臣・左大臣・右大臣の新設、私地私民の売買の禁止、飛鳥から難波長柄豊碕宮への遷都の決定など様々な改革が進められたのです。
(4)大化の改新の第二段階
翌大化2年(646年)正月には、新政権の方針を大きく4か条にまとめた改新の詔も発布されたのです。
(5)大化の改新の第三段階
大化の改新の第三段階で発せられた詔は、大和政権の土地・人民支配の体制(氏姓制度)を廃止し、天皇を中心とする律令国家成立を目指す内容となっています。
(6)大化の改新と中国、朝鮮との外交
大化の改新の第三段階には、遣唐使の持ってきた情報をもとに唐の官僚制と儒教を積極的に受容し始めたのです。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分がありました。
朝鮮との外交では高向玄理を新羅へ派遣して形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげました。
660年、伝統的な友好国だった百済が唐・新羅の連合軍(唐・新羅の同盟)に攻められて滅びます。661年、百済の要請に応じて中大兄皇子は救援の兵を派遣することを決め、斉明天皇と共に自ら朝鮮半島に近い筑紫へ赴くが、天皇はこの地で崩御したのです。662年、百済再興の遠征軍は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に大敗を喫し、百済は名実ともに滅亡しました。
日本は朝鮮半島への足掛かりを失うばかりでなく、逆に大国である唐の脅威にさらされることとなったのです。668年には新羅によって高句麗も滅亡します。中大兄皇子は筑前や対馬など各地に水城を築いて防人や烽を設置し、大陸勢力の侵攻に備えて東の大津宮に遷都しました。
唐へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めたのです。
(7)大化の改新の詔の内容
大化2年(646年)には新政権の方針を示す改新の詔が発布されました。詔は大きく4か条の主文からなっています。詔として出された主な内容は豪族連合の国家の仕組みを改め、土地・人民の私有を廃止し、天皇中心の中央集権国家を目指すものでした。

一 昔から天皇が設置された子代の民や各地の屯倉,そのほか臣・連・伴造・国造・村首らの私有する部曲や各地の田荘を廃止する。その代わりに食封を大夫以上の者に身分に応じて与える。その下の諸官人にはその身分に応じて布帛を与える。・・・・

二 初めて都城を定め,畿内の国司・郡司や関所・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き,駅鈴・関所鑑札を造り,地方行政区画を定めよ。京には坊毎に坊長一人を置け。・・・・・郡は40里を大郡とせよ。・・・・郡司には国造の中から清廉で政務に役立つ者を大領・少領に選任し,強健・明敏で筆算の巧者を主政・主帳に任ぜよ。・・・・

三 初めて戸籍・計帳を作り,班田収授法を定めよ。およそ50戸を里とし,里毎に里長一人を置く。・・・・

四 これまでの貢納・力役をやめて田に課する調の税制を行え。・・・・また戸毎に調を徴収せよ。・・・・調の付加税の塩・贄はその土地の産物から選べ。・・・・役所に仕える仕丁は,従来30戸に一人を出すのを改めて50戸毎に一人を出して各役所に割当てよ。・・・・宮中に仕える采女は,郡の少領以上の家の姉妹・子女の容姿端麗な者を差し出せ。

以上のように飛鳥時代は多事多難でした。しかしその多事多難の中で「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものにし日本国の原型を作ったことは特筆に値いします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

写真は607年に斑鳩に創建された聖徳太子ゆかりの法隆寺です。