後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「厳寒の北海道でも春になるとこんなにも花々が咲く」

2023年01月30日 | 写真
季節の巡りとは不思議なものです。雪や氷で覆われていた大地も春になれば草が芽吹き樹々も新緑の葉が美しくなります。厳寒の北海道でも春になると花々が咲き出すのです。
そんな北海道の花園の写真をお送り致します。この頃の寒い日々を忘れて花々の写真をお楽しみ下さい。
写真の出典は、https://www.t-marche.com/tripper/article/970/ です。
1番目の写真はチューリップです。北海道に春の訪れを告げる花のうちのひとつが、このチューリップです。なんといっても品種が非常に多いでです。赤・白・黄色だけではなく、紫やピンク、オレンジ、マーブルのように複雑な色が混ざったものなどを楽しむことができます。

2番目の写真はシバザクラです。木に咲くサクラと違って地面にじゅうたんのように広がって咲くのがシバザクラです。花の形はサクラに似て、芝生のように広がることからこの名が付いています。

3番目の写真は百合です。札幌市にある百合が原公園は、その名の通りユリの名所です。約100種類ものユリが鑑賞できる「世界のユリ広場」があり、さまざまな色や香りを楽しむことが出来ます。

4番目の写真はスズランです。日本一のスズラン群生地は北海道の平取町芽生すずらん群生地です。札幌からは車で約100分の距離にあります。敷地内に立ち入るとスズランの甘い香りが立ち込めます。一般公開されるのは開花からの一ヶ月間だけです。

5番目の写真は百合のズームアップ写真です。大輪の花を咲かせる豪華で上品な花です、芳醇で官能的な香りが楽しめます。札幌にある「百合が原公園」ではさまざまな品種があり次々と開花していくのです。見頃が長いのが特徴です。

厳寒の北海道でも春になるとこんなにも色々な花々が咲くのです。

「激動の昭和時代を生きて、疎開の思い出など」

2023年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
自分がどんな時代に生まれるかは運命です。不思議な偶然です。私は昭和時代に生まれました。昭和11年から昭和の終わり昭和64年(1989年)まで生きて、平成、、令和と生きて来ました。一番印象深い時代は昭和時代でした。激動の時代でした。
昭和時代は日中戦争や太平洋戦争があり日本が敗戦したのです。私は農村へ疎開したり食糧難の体験をしました。個人的にも激動の時代でした。

今日は激動の昭和時代について書きたいと思います。そして私の疎開の思い出も書きたいと思います。
先ず最初に昭和時代に起きた主な出来事の一覧を示したいと思います。

(1)昭和の戦前期
1927年(昭和2年) 昭和金融恐慌、東方会議、山東出兵、南京事件。
1928年(昭和3年)済南事件、張作霖爆殺事件。
1929年(昭和4年) 世界恐慌。
1930年(昭和5年) ロンドン海軍軍縮会議、濱口首相遭難事件。
1931年(昭和6年) 柳条湖事件、満州事変。
1932年(昭和7年) 血盟団事件、五・一五事件、第一次上海事変、満州国建国。
1933年(昭和8年) 国際連盟脱退、滝川事件。

1936年(昭和11年) 二・二六事件、西安事件、阿部定事件。
1937年(昭和12年) 盧溝橋事件、第二次上海事変(日中戦争(支那事変)始まる)。
1938年(昭和13年) 張鼓峰事件。国家総動員法。
1939年(昭和14年) 第二次世界大戦開戦、ノモンハン事件。
1940年(昭和15年) 日独伊三国軍事同盟、日華基本条約締結。
1941年(昭和16年) ゾルゲ事件、大政翼賛会、日ソ中立条約締結、真珠湾攻撃。

12月8日 南方作戦発動、太平洋戦争(大東亜戦争)始まる。
1942年(昭和17年) ドーリットル空襲、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦い。
1943年(昭和18年) アッツ島の戦い、学徒出陣、同盟国イタリアが連合国に降伏。
1945年(昭和20年) 硫黄島の戦い、沖縄戦、占守島の戦い、国際連合設置、九州大学生体解剖事件。
3月10日 東京大空襲。
3月26日 沖縄戦
5月 同盟国ドイツが連合国に降伏。

7月 ポツダム宣言。
8月6日 広島市への原子爆弾投下。
8月8日 ソ連対日参戦。
8月9日 長崎市への原子爆弾投下。

8月10日 ポツダム宣言受諾の決定。
8月15日 玉音放送。
9月2日 降伏文書調印。

(2)昭和の戦後期
戦後のアメリカなどによる占領期、1945年(昭和20年) - 1952年(昭和27年)
1946年(昭和21年) - 1950年(昭和25年) 農地改革
1946年(昭和21年) 伊豆諸島返還。日本国憲法公布(1947年(昭和22年)5月施行)、人間宣言、昭和南海地震。
1951年(昭和26年) サンフランシスコ講和条約・(旧)日米安全保障条約締結。
1952年(昭和27年) 主権回復。トカラ列島返還。

1954年(昭和29年)自衛隊発足。第五福竜丸事件。
1956年(昭和31年)日ソ共同宣言発効、国際連合に加盟。
1960年(昭和35年) (新)日米安全保障条約発効、安保反対闘争、日米新安全保障条約、カラーテレビ放送開始。
1964年(昭和39年) 第二水俣病発生、東京オリンピック開催
1965年(昭和40年)日韓基本条約締結。

1968年(昭和43年)東名高速道路開業、小笠原諸島返還。
1970年(昭和45年) 日本万国博覧会(大阪万博)開催。よど号ハイジャック事件。
1972年(昭和47年) 札幌オリンピック、あさま山荘事件、沖縄返還、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明調印。

1976年(昭和51年)ロッキード事件
1978年(昭和53年)成田空港開港、日本国と中華人民共和国との間の平和友好条約締結。
1987年(昭和62年)国鉄分割民営化によりJRグループが発足。
1988年(昭和63年)リクルート事件。
1989年(昭和64年)昭和天皇崩御、皇太子明仁親王が天皇に践祚。平成に改元。

以上は以下の資料をもとに抜粋し整理したものです。
「日本史の出来事」、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B

戦前の昭和11年に生まれ昭和33年に大学を卒業した私にとっては上の出来事はよく新聞でも読み鮮明に覚えております。そして戦前、戦後の食糧難の苦しい経験と相まって昭和の出来事は忘れることが出来ません。
昭和20年に日本が外国に完全に占領されたのは日本の歴史において初めてのことです。開闢以来の大事件でした。
当時私が住んでいた仙台市は1945年7月10日に100機のB29の焼夷弾空襲で完全に焼け野原になりました。
仙台市が焼け野原になった10日後に、小学3年生だった私は弟2人と共に3人だけで宮城県北部の農村に疎開しました。都会からいきなり農村に行ってみると生活条件が非常に違うので驚き、そして悲しい思いをしました。
ここで昭和時代の写真を示します。

1番目の写真は昭和7にに建国した満州の瀋陽市です。

2番目の写真は1945年9月2日 の降伏文書調印式に出席した日本の代表団です。重光外務大臣が団長でした。

3番目の写真は日本の各地を回った昭和天皇と歓迎の様子です。1946(昭和21)年、神奈川県を皮切りに昭和天皇が「地方巡幸」で全国を回られました。46都道府県への8年間の巡幸でした。当時小学3年生だった私も仙台に来た昭和天皇を小旗を振って歓迎しました。

4番目の写真は昭和天皇のお墓へ続く参道です。八王子市の郊外にあります。

5番目の写真は昭和天皇の御陵です。1901年生まれ、1989年崩御でした。
この昭和天皇陵と皇后の香淳皇后陵は武蔵野御陵と呼ばれ、大正天皇陵と貞明皇后陵は多摩御陵と呼ばれています。境内は自然な昔の武蔵野の森のようなのです。広い駐車場も森の中です。私はよくここに行き深い森の道を歩きました。

6番目の写真は私が疎開した農村に似た風景写真です。写真の出典は、
https://ameblo.jp/hotaka55/entry-12491120624.html です。

7番目の写真は昭和時代の農家の納屋の風景です。大八車の左にある箱型の装置は脱穀した米と籾殻を風で分ける装置です。重い米粒だけ下から出てきます。写真の出典は、https://kodaira-tourism.com/spot/1284/ です。

さて農村への疎開生活の思い出で印象深かったことは囲炉裏の大鍋で一家の夕食を作ることでした。大鍋へ 畑から採って来た野菜をいれ味噌を加えて煮ます。そこへ小麦粉をこねて親指の形にした塊を次から次へと放り込むのです。これを囲炉裏の回りに座った一家と疎開者の我々が椀によそって貰ってフーフー言って食べるのです。
毎日、毎日、夕食はこの「すいとん」でした。
米は朝に一回だけ大きな釜で炊き上げます。朝食はご飯と囲炉裏で煮た味噌汁と漬物でした。昼は朝に焚いたご飯で弁当を作り当時通っていた田舎の小学校へ持っていきました。おかずは漬物だけでした。
時折父母が仙台から疎開先にやって来てお土産としてクジラのベーコンを持って来ました。それが驚くほど美味しかったのです。
最近店でクジラのベーコンを売っているのを見つけました。驚喜して買ってたべました。ところが不味いのです。生臭くてとても食べられません。あの美味しかったクジラのベーコンは幻のように消えてしまったのです。疎開生活の思い出はいろいろありますが今日はこれぐらいにしておきます。

嗚呼。終戦から78年です。戦争に負けた日本も豊かになったものです。それにしても毎日囲炉裏の大鍋で煮た「すいとん」が懐かしいです。

一方、家内は鎌倉から群馬県の下仁田へ一家で疎開したので、生活条件は良かったようです。疎開の思い出は山の生活が珍しかったようでいつも楽しそうに話します。最近まで年に一度下仁田 小学校のクラス会に出席していました。

今日は激動の昭和時代について書きました。そして私の疎開の思い出も書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)