武田信玄が支配下の小豪族に書かせた忠誠を誓う文書を見ました。信玄の厳しさ,非情さに心が氷ります。戦国時代の過酷さが身に迫ります。
その83通の起請文は上田市の生島足島神社に展示してあります。起請文と内容は学校教育では教えません。
私は小さな領主達237人に無理やり書かせた忠誠を誓う文書(起請文)の中の83通の実物を見た時の驚きが忘れられません。
以前に上田から別所温泉へ向かう途中にある生島足島神社で展示、公開しているものを見たのです。
起請文の文章は稚拙です。信玄の悪口を言いません。命令通り戦に参加します。などなど余りにも具体的なことが細々と下手な字で書いてあります。
書いた人は群馬県、長野県、山梨県の小さな在地
豪族達です。国人とか国衆と呼ばれる末端の支配階級です。平安末期から鎌倉時代にかけて全国に雨後の竹の子のように増え、農民を支配した地方の豪族たちです。小規模ながら武力集団を持っていて、大きな戦国大名へ適当に服従し合戦で手柄を上げ、褒美の領地を少し貰うのです。
負けそうな戦国大名に従うと悲劇に見舞われます。ですから信玄へ賭けるのも必死です。起請文のせつせつとした文章が痛々しく感じました。
こうして集めた国衆(領主)とその部下達を引き連れて信玄は川中島で数度にわたって上杉謙信と戦ったのです。雌雄が決まらないのも国衆の逃げ腰の戦いぶりによるようです。起請文を無理に書かせた武田信玄の弱味が伺えて興味深いものでした。
それでは関連の写真と参考資料を示します。
1番目の写真は上田市にある生島足島神社です。
2番目の写真は生島足島神社は池囲まれれています。本殿へはこの橋を渡ります。
3番目の写真は生島足島神社の本殿です。これ以降は家内が撮った写真です。
4番目の写真は本殿の横にある83通の起請文の展示場です。
5番目の写真は起請文の一例です。
現代語訳は次の通りです。
===================================
謹んで起請文を申し上げます。
一これ以前に捧げ奉った数通の誓詞(起請文)の文言について、一字たりとも相違するようなことは致しません。
一甲州・信州の二州が、ことごとく敵になっても、私は絶対に武田信玄様をお守り申し上げて、忠節を尽くします。
一村上義清、長尾輝虎(上杉謙信)以下の敵方より、どんな利益をもって誘われても、敵方には、同意致しません。ならびに、これらの敵方から何か申し入れがあれば、大小にかかわらず、隠さずに報告敦します。
一信州衆の中で、武田信玄様への謀反の企てを聞いたなら、実否に関係なく、急いで報告ほうこく致します。
一特に、敵方の屋代・室賀・大日方とは交際、ならびに、公儀のもろもろの交際のほかは、個人的な交際を決して致しません。
一右の趣は、決して他言たごん致しません。
この旨に偽るようなことがあれば、上は梵天・帝釈・四大天王・内海外海龍神など、飯綱・戸隠、甲州一二三大明神・御嶽おんたけ権現の天罰を蒙って、現世においてほ難病にとりつかれ、来世においては無間地獄におちることになります。起請文以上。
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天文22年(1553年)、東信濃を攻略した武田信玄はまず生島足島神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2年(1559年)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。
信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566年~1567年)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。
それにしても400年以上も前の文書が展示してあるのには驚きました。内容が生生しく戦国時代の厳しい雰囲気を伝えているのです。国の重要文化財に指定されているのも当然です。
です。是非、上田市に行って実物をご覧下さい。
====参考資料=====================
なお国人、国衆の説明をしておきます。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA )
国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園と公領の管理者となった荘官・郡司・郷司・保司の階層や、そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在国の領主の一般的呼称で、同時代的に使われた資料用語である。幕府や守護、荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。
「国人」という呼称は、「在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士」を指す言葉として、鎌倉時代から散見される。彼らの直接の源流は鎌倉時代の地頭職の武士にあり、そうした武士たちが土着し、在地領主となったものである。鎌倉時代には、支配層に反抗する者の意味を含む「悪党」という名で呼ばれることもあった。
その83通の起請文は上田市の生島足島神社に展示してあります。起請文と内容は学校教育では教えません。
私は小さな領主達237人に無理やり書かせた忠誠を誓う文書(起請文)の中の83通の実物を見た時の驚きが忘れられません。
以前に上田から別所温泉へ向かう途中にある生島足島神社で展示、公開しているものを見たのです。
起請文の文章は稚拙です。信玄の悪口を言いません。命令通り戦に参加します。などなど余りにも具体的なことが細々と下手な字で書いてあります。
書いた人は群馬県、長野県、山梨県の小さな在地
豪族達です。国人とか国衆と呼ばれる末端の支配階級です。平安末期から鎌倉時代にかけて全国に雨後の竹の子のように増え、農民を支配した地方の豪族たちです。小規模ながら武力集団を持っていて、大きな戦国大名へ適当に服従し合戦で手柄を上げ、褒美の領地を少し貰うのです。
負けそうな戦国大名に従うと悲劇に見舞われます。ですから信玄へ賭けるのも必死です。起請文のせつせつとした文章が痛々しく感じました。
こうして集めた国衆(領主)とその部下達を引き連れて信玄は川中島で数度にわたって上杉謙信と戦ったのです。雌雄が決まらないのも国衆の逃げ腰の戦いぶりによるようです。起請文を無理に書かせた武田信玄の弱味が伺えて興味深いものでした。
それでは関連の写真と参考資料を示します。
1番目の写真は上田市にある生島足島神社です。
2番目の写真は生島足島神社は池囲まれれています。本殿へはこの橋を渡ります。
3番目の写真は生島足島神社の本殿です。これ以降は家内が撮った写真です。
4番目の写真は本殿の横にある83通の起請文の展示場です。
5番目の写真は起請文の一例です。
現代語訳は次の通りです。
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謹んで起請文を申し上げます。
一これ以前に捧げ奉った数通の誓詞(起請文)の文言について、一字たりとも相違するようなことは致しません。
一甲州・信州の二州が、ことごとく敵になっても、私は絶対に武田信玄様をお守り申し上げて、忠節を尽くします。
一村上義清、長尾輝虎(上杉謙信)以下の敵方より、どんな利益をもって誘われても、敵方には、同意致しません。ならびに、これらの敵方から何か申し入れがあれば、大小にかかわらず、隠さずに報告敦します。
一信州衆の中で、武田信玄様への謀反の企てを聞いたなら、実否に関係なく、急いで報告ほうこく致します。
一特に、敵方の屋代・室賀・大日方とは交際、ならびに、公儀のもろもろの交際のほかは、個人的な交際を決して致しません。
一右の趣は、決して他言たごん致しません。
この旨に偽るようなことがあれば、上は梵天・帝釈・四大天王・内海外海龍神など、飯綱・戸隠、甲州一二三大明神・御嶽おんたけ権現の天罰を蒙って、現世においてほ難病にとりつかれ、来世においては無間地獄におちることになります。起請文以上。
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天文22年(1553年)、東信濃を攻略した武田信玄はまず生島足島神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2年(1559年)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。
信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566年~1567年)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。
それにしても400年以上も前の文書が展示してあるのには驚きました。内容が生生しく戦国時代の厳しい雰囲気を伝えているのです。国の重要文化財に指定されているのも当然です。
です。是非、上田市に行って実物をご覧下さい。
====参考資料=====================
なお国人、国衆の説明をしておきます。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA )
国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園と公領の管理者となった荘官・郡司・郷司・保司の階層や、そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在国の領主の一般的呼称で、同時代的に使われた資料用語である。幕府や守護、荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。
「国人」という呼称は、「在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士」を指す言葉として、鎌倉時代から散見される。彼らの直接の源流は鎌倉時代の地頭職の武士にあり、そうした武士たちが土着し、在地領主となったものである。鎌倉時代には、支配層に反抗する者の意味を含む「悪党」という名で呼ばれることもあった。