後藤和弘のブログ

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中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「日本の歴史(6)混沌とした南北朝時代と文化的創成」

2023年01月03日 | 日記・エッセイ・コラム
南北朝時代の経緯ほど分かり難い歴史はありません。混沌として複雑怪奇です。
今日は私の理解した範囲で南北朝時代を簡略に説明し、その文化的創生を説明しようと思います。
南北朝時代は、歴史区分の一つで、鎌倉時代と室町時代に挟まれる時代です。始まりは、足利尊氏が京都で光明天皇を擁立したことです。これに対抗して、京都を脱出した後醍醐天皇が吉野行宮に遷った1337年を始めとします。
南北朝時代の終期は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位する形で両朝が合一した1392年です。55年間でした。

1番目の写真は北朝と南朝の天皇の名前を示した図面です。
以下は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC) からの抜粋です。
鎌倉時代の後半から半世紀にわたって二つの家系から天皇を出すという不自然な形の皇位継承を繰り返していました。持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化していたのです。こては実質的な分裂でした。
それが京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存することになったのです。王権の完全な分裂状態です。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦いが起きます。

2番目の写真は数多くの合戦の様相を示す絵画です。
合戦は日本の各地でも起きました。守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れたのです。
南北朝時代の意義とは公家勢力のほぼ完全な無力化です。鎌倉幕府の前期は朝廷の公武二重権力であり、公家もなお荘園・公領を通じて一定の権力を持っていました。ところが、天皇親政を掲げる南朝の失敗により、皇室など旧勢力の権威は失墜します。
一方、北朝の公家も、室町幕府第3代将軍足利義満によって、警察権や民事裁判権などを次々と奪れていったのです。残ったのは足利将軍家を中心とする室町幕府と守護体制による強力な武家の支配機構だったのです。この経緯は次の2つの動画にあります。

3番目の写真は南北朝時代を説明した動画です。  
(https://www.youtube.com/watch?v=PXWpS00ZsLg )

4番目の写真も南北朝時代を説明したもう一つの動画です。
(https://www.youtube.com/watch?v=EOeqZv2bD_U )

これらの動画が示すように南北朝時代にはいろいろな分野で変革が起きました。特に興味深い文化の分野での変革を以下に示します。
農業・商工・経済の発達によって、民衆の勢力が増し大衆文化が隆盛し、猿楽(能楽)・連歌]・闘茶(茶道の原型)・ばさら(かぶき者・歌舞伎の原型)などが生まれました。
宗教面では、古い寺社と結びつく南朝や公家勢力に対抗するために、室町幕府は新しく日本に輸入された仏教である禅宗を優遇し京都五山を定めたのです。
外交面では禅僧が中国事情に詳しかったことから、明との外交顧問を務めたのです。
学術面では儒学の新解釈である宋学が中国から輸入されるようになりました。

日本における数学は一時衰えていたが、鎌倉時代末期から南北朝時代には禅寺で再び学ばれるようになります。代表的数学者には臨済宗の中巌円月がおり、『治暦篇』に分数の使用や分数計算についての説明されました。江戸時代の角倉了以や吉田光由(『塵劫記』の著者)の数学知識は、禅寺での数学学習に端を発する可能性もあると言われています。
文芸面では漢詩が普及し、絶海中と義堂周信を双璧とする五山文学が禅林で隆盛しました。また禅僧春屋妙葩らにより五山版と呼ばれる木版印刷技術が最盛期を迎えたのです。
宋学の影響も文学に見られ、日本最大の叙事詩『太平記』はその頂点を為すものです。
芸術面では禅の思想が実体に反映されるようになり、禅庭が完成されました。夢窓疎石の天龍寺庭園(1339年)と西芳寺庭園(1339年)は世界遺産に登録されています。
さらに、連歌の完成者二条良基や能楽の完成者世阿弥らによって、それまでは仏教思想の一部であった「幽玄」が、日本芸術の審美的理想として捉えられるようになったのです。

以上のように南北朝時代は農業生産力から芸術の美意識まで全ての分野において、新しい日本文化を生むことになったのです。南北朝時代の混沌が新しい文化の創生にまったのです。

今日は私の理解した範囲で南北朝時代を簡略に説明し、その文化的創を説明しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)