応仁の乱は室町時代に起き11年間続いた大きな内乱でした。敵味方が複雑に入り乱れ、その経過を私は明快に理解できないのです。しかし応仁の乱の影響だけは歴然としています。応仁の乱の結果として「戦国時代」が始まったのです。応仁の乱で新しい時代が始まったのです。日本の歴史で無視出来ない大事件でした。
ですから大学の入試問題に、「応仁の乱を説明せよ」という問題がしばしば出ます。合格点の答えは次のようです。
応仁の乱とは室町時代中期の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約11年に及んで継続した内乱です。
室町幕府管領家の畠山氏と斯波氏がそれぞれの家督争いに端を発し、幕府を東西2つに分ける大乱となったのです。そして日本中の地方豪族が自分の利害をかけて戦争をした大規模な内乱でした。主要な戦場となった京都全域が壊滅的な被害を受けて荒廃しました。
1番目の写真は応仁元年(1467年)の勢力図です。水色は東軍です。黄色は:西軍です。黄緑は両軍伯仲の地です。この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E4%BB%81%E3%81%AE%E4%B9%B1#%E7%B5%8C%E9%81%8E です。
1番目の写真を丁寧に見ていくと私は頭が痛くなります。あまりにも複雑な図面です。そこで応仁の乱の経過を正確に理解することを諦めました。
しかし応仁の乱の結果、日本中がどのように変革そしたか理解出来ます。結果は歴然としているのです。以下に応仁の乱の結果を幾つか示します。
(1)下剋上と幕府・守護権力の変化
応仁の乱により守護家に迫る勢力を有する国人(国衆)が台頭しました。また、東西両軍は味方を得るために家の格を問わず誰でも入れたのです。西軍は一介の国人であった人を大和守護に任命し、東軍は位の低い人を越前守護につけたのです。下層の人々が権力者になり上がったのです。下剋上です。
文明7年、足利義政が「諸国の御沙汰は毎事力法量(諸国の沙汰は力次第である)」と述べ、守護が他国を侵略することも是認しいたのです。このため室町幕府の家格秩序は完全に崩壊し、身分秩序が流動化することになったのです。
結果として国人や家臣は自らの地盤を固め、領主化していったのです。
(2)公家の没落
領主化を推進する守護や国人によって、公家や寺社の荘園は横領されました。さらに幕府の権威低下により、遠国など幕府の権力が届かない地域の荘園・国衙領支配は絶望的になります。荘園制度の崩壊が加速したのです。
収入を断たれた公家は没落し、朝廷行事や官位昇進への興味も失ってしまいます。 更に朝廷収入も激減し、即位礼や大喪の礼などの儀式を行うことも困難となったのです。このため戦国時代には献金による売官が行われるようになりました。
(3)京都の被害と荒廃
文明2年頃には戦火で京都の寺社や公家・武家邸の大半が消失しました。免れたのは土御門内裏などわずかでした。このため、歴史的資料の多くが失われました。また京都七口関は両軍の争奪戦となり、物資の流入も停滞します。さらに足軽の放火・略奪が追い打ちをかけ、京都の大半の人々は大いに困窮しました。また文明5年には疫病が流行します。
・・・「汝(なれ)や知る 都は野辺の夕雲雀(ゆうひばり)あがるを見るも 落つる涙はーー飯尾常房ーー
(4)京都の復活と周辺都市の繁盛
応仁の乱によって京都を追われた公家や民衆は京都周辺の山科や宇治、大津、奈良、堺といった周辺都市や地方の所領などに疎開していった。これが周辺都市の繁盛をもたらしたのです。
応仁の乱後の文明11年(1479年)に室町殿や内裏の造営が開始されます。しかし京都の荒廃によって疫病や火災、盗賊、一揆などの発生が頻発したのです。このため京都の再建は順調ではなっかったのです。
明応9年の祇園祭の前後数年間が京都の本格的な復興期と考えられます。
(5)戦術の変化と足軽の活躍
応仁の乱の戦いで特徴的とされるものは正規の武士身分ではない足軽の活躍です。それまでは正規の武士が少数の従卒による小グループを率いて騎射を主体に戦っていましたが、兵力不足に悩んだ両軍は足軽を大量に雇い入れ、戦力に加えたのです。
主力武器も個人戦に適しした薙刀から、足軽による集団戦に適した槍へと移行しました。
東軍の足軽大将の骨皮道賢や西軍の御厨子某は後方攪乱として足軽によるゲリラ戦を行って名を上げました。
足軽は盗賊などの無法者を多く含んでおり、高い自立性を持っていました。彼らは市街の放火や略奪を頻繁に行ったのです。
以上のように応仁の乱は下剋上によって日本の社会を根底から変革したのです。応仁の乱の結果として「戦国時代」が始まったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)