日本の歴史区分は旧石器時代、縄文時代、弥生時代、古墳時代、飛鳥時代、奈良時代、平安時代、鎌倉時代、室町時代、江戸時代、そして明治・大正・昭和時代と区分するのが普通です。
この「日本の歴史」という連載記事も今日で7回目になります。ここで今までの記事を振りかえってみます。記事は以下のようになります。
「日本の歴史(1)明治維新で世界の一等国になる」2022/12/28(明治・大正・昭和時代)
「日本の歴史(2)美しい隠岐と島流しになった天皇」2022/12/29(鎌倉時代)
「日本の歴史(3)魏志倭人伝と邪馬台国の女王、卑弥呼」2022/12/30(古墳時代)
「日本の歴史(4)武田信玄の隆盛と武田家の滅亡」2022/12/30(室町時代)
「日本の歴史(5)弥生時代を明快に示す吉野ケ里遺跡」2023/01/01 (弥生時代)
「日本の歴史(6)混沌とした南北朝時代と文化的創成」2023/01/03 (室町時代)
これらの連載記事ではそれぞれの時代に生きた人々の暮らし方や不運な権力者に焦点を合わせて書いてきました。中央の権力者ではなく一般の人々を中心に書いてきました。ヒューマン・ドキュメントです。今後もこの方針で連載記事を書いて行くつもりです。
今日は縄文時代の人々の暮らしを書きたいと思います。三内丸山遺跡は克明に縄文時代の人々の暮らし示しています。青森県にある縄文時代の復現遺跡です。
さて縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていた約12000年間です。土器や石器は使っていましたが、農業は無く、村落の規模も小さく、文化程度の低い時代だったのです。
しかし青森県にある三内丸山遺跡やその他の数多くの縄文遺跡の発掘研究の結果を知ると上記の考えはかなり間違っていることが判ります。
三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅があり、食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。
それは弥生時代や古墳時代の地方の豪族の領地支配の歴史へと繋がる社会と文化だったのです。
三内丸山遺跡はこのような縄文中期の高度な文化を示す驚異的な遺跡であり、実に多彩な出土品も出ているのです。そして他にも青森県の全域には数多くの縄文遺跡が発見されています。
しかしこの青森県の縄文文化はその後の縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。
縄文前期の日本全土の縄文人の総数は2万人で、中期には26万人まで増加します。しかし、後期の寒冷化によってまた数万人までに減少するのです。
人口が確実に増加に転ずるのは稲作が始まった弥生時代からです。青森県の三内丸山遺跡も縄文後期には衰退してしまうのです。
以下では写真や図面で上記の事実を説明いたします。
1番目の写真は青森県にある三内丸山遺跡です。
(写真の出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。)
写真の左下に写っている巨大な木柱を組んだ建造物は祭祀用の祈祷檀のようです。
その後ろに続く大きな藁屋根の家は祭祀にも使ったでしょうが、この領地の権力者(王とも言える)の住居、すなはち宮殿と考えるのが自然ではないでしょうか。
この大きな家の左上にある3軒の高床式の建物は食材の貯蔵庫と言われています。
そしてこの3軒の貯蔵庫の後ろには比較的大きな竪穴式の住居が見えます。
権力者に仕える家臣の家でしょうか。その左遠方には小さな竪穴式の住居も見えます。
墓地はこれらの住居よりは離れて作られていました。
上の写真の遠方には白い青森市街と青い陸奥湾が見えます。
2番目の写真は男女の縄文人の服装を示しています。
柔らかい植物の繊維で織った肌着の上に鹿や猪のなめし皮で作った服を着ました。
勿論、季節によって服装は変わり、厳寒の冬には上の服装に更に毛皮の外套を着ていたと考えられます。
3番目の写真は縄文人がかなり使い込んだ「堀り棒」です。
山の土を掘って自然薯や食用にする根を採った道具です。あるいは住居の周囲に堅果類の木を植栽するときに植える穴を掘ったのかも知れません。原始的な農業用の道具です。
4番目の写真は植物の繊維で編んだ袋です。木の実採集の時に使ったり、小物入れにして使ったと想像できます。このような繊維製品や漆器も出土していて文化の高さを示しています。
5番目の写真は墓地の発掘現場です。楕円形に並んだ石の中心に墓穴が掘られ、人骨が埋葬されていたものと推定されています。
その他の出土品は以下の通りです。(http://sannaimaruyama.pref.aomori.jp/photo/index.html )
青森県三内丸山遺跡出土品
第6鉄塔地区出土 住居跡出土
土器・土製品 185点 土器・土製品203点
石器・石製品 911点 石器・石製品 247点
骨角牙貝製品 406点 小計 450点
木製品 2点
編物 4点
小計 1,508点
合計 1,958点
土器・土製品
深鉢形土器 369点
浅鉢形土器 7点
壺形土器 1点
土偶 11点
骨角牙貝製品
針 133点
錘 22点
刺突具 85点
釣針 24点
銛頭 2点
箆 4点
ナイフ形牙製品 4点
ハンマー 1点
装身具 27点
針入れ 3点
骨刀残欠 3点
未製品等 101点
木製品
皿残欠 1点
鉢残欠 1点
石器・石製品
石鏃 134点
石槍 45点
石匙 530点
石錐 83点
石箆 17点
削器 101点
磨製石斧 13点
敲磨器類 13点
石錘 2点
石皿・台石類 10点
砥石 15点
擦切具 8点
半円状扁平打製石器 14点
抉入扁平磨製石器 1点
石棒 6点
石冠 1点
異形石器 22点
装飾品 6点
編物
編籠 1点
編物残欠 1点
さて縄文遺跡は青森県全域で以下の図面に示したよう多数発見されています。ご参考までに以下に示しておきます。
6番目の写真は青森県の縄文遺跡です。
出典は、http://www.geocities.jp/tadoru_ono/osaka-49.html です。
そして縄文時代後期の急速な寒冷化に関する厳密な学術調査の結果は、
http://scienceportal.jp/news/daily/1001/1001041.html に説明してあります。合わせてご覧ください。
それにしても縄文時代は想像していたよりも遥かに文化程度も高く、社会の統治組織も出来ていたのですね。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)