後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「真冬にはなやかに咲き誇る蠟梅の花」

2023年01月16日 | 写真
隣町の府中市に広大なロウバイの花園と梅林があります。
府中市郷土の森博物館の庭が広くて梅林や里山があります。
梅林とロウバイの花園は小高い丘の上にあります。

その写真をお送り致します。
真冬にはなやかに咲き誇る蠟梅の花です。

「日本の歴史(18)日本の外国侵略時代の始まりの日清戦争」

2023年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の歴史を見ると国内では合戦が絶えませんでした。しかし明治維新で国内の戦争は西南戦争を最後にてその後はなくなりした。国内は平和になったのです。しかし明治維新後の日本は外国との戦争の時代に突入したのです。日清戦争、日露戦争、満州事変、日中戦争、ノモハン事件、太平洋戦争と続いたのです。
今日はこの戦争の時代の始まりの日清戦争のことを書きたいと思います。
日清戦争は、1894年(明治27年)7月25日から1895年(明治28年)4月17日にかけて大日本帝国と清国の間で行われた戦争でした。
日本は240,616人の兵力を投入し、清国は630,000人の兵力を投入しました。日本は戦死 1,132人、戦傷病 3,758人であり一方清国は死傷 約35,000人でした。

1番目の写真は日本軍歩兵の一斉射撃です。
(1)日中戦争の開戦と経過
資料、http://www.uraken.net/rekishi/reki-jp71.html から抜粋します。
1894年7月25日の朝、既に海上では日清両軍の戦端が開かれました。仁川に向かう日本の軍艦「吉野」「浪速」「秋津島」と、清国の軍艦「済遠」「広乙」が豊島沖で遭遇して激突したのです。これを豊島沖の海戦といい、清軍は「済遠」が退却、「広乙」は座礁大破という損害をこうむりました。
そして8月1日に日本は正式に宣戦布告し、9月8日に大本営を広島に設置。同15日には明治天皇も広島に到着します。
一方、清には、ドイツ製の最新鋭の軍艦「定遠」(7400t、主砲30cm砲4門搭載)や、「鎮遠」などを擁する北洋艦隊がある一方、日本の主力艦はフランス製の「松島」(4300t、主砲32cm砲1門搭載)であり、海軍力は清が有利だと世界は見ていました。

2番目の写真は海戦の行われた場所を示す地図です。
9月15日には日本の陸軍が清国の拠点である平壌を総攻撃し、翌日に陥落。
さらに9月17日、黄海海戦によって、伊藤祐亨中将率いる旗艦「松島」以下12隻の連合艦隊と、丁汝昌提督率いる北洋艦隊、「定遠」「鎮遠」以下12隻+水雷艇2隻が交戦。連合艦隊は単縦陣(一列縦隊)、北洋艦隊は傘型横陣形で激突し、連合艦隊が北洋艦隊5隻を沈めるなど、勝利を収めます。
そして戦いは中国へと舞台が移り、11月21日に大山巌大将率いる陸軍第2軍は、1日で北洋艦隊の旅順要塞を陥落させます。ただし、この攻略後に市民の虐殺が行われたとアメリカで報道され、アメリカと条約改正交渉中だった陸奥外相は弁明に追われることになります。
続いて翌年2月4日・5日、海軍は残存する北洋艦隊が守る威海衛に対して、水雷艇で夜襲をかけ、「定遠」を大破、「来遠」「威遠」ほか1隻を撃沈しました。これにより北洋艦隊の提督の丁汝昌は部下の助命を日本側に要請し、自殺しました。これによって清の敗北は決定的になりました。

(2)下関条約で停戦
1895(明治28)年3月20日、山口県の下関にて、日本全権の伊藤博文・陸奥宗光と、清国全権の李鴻章(1823~1901年)との間で第一回目の交渉が行われます。李鴻章は直ちに休戦するよう申し入れますが、伊藤首相は軍部の戦争継続方針を鑑みて、もう少し占領地の拡大を狙っていました。
ところが3月24日、李鴻章が小山豊太郎という自由党の壮士にピストルで狙撃されるという事件が発生。幸い、李鴻章は一命は取りとめたものの、これは日本の警備の大失態です。すぐさま休戦交渉に入り、30日に休戦。4月17日に下関条約(日清講和条約)が結ばれます。
その内容とは・・・。
 1.朝鮮の独立を認める。
 2.遼東半島・台湾・澎湖島を日本に譲る。
 3.賠償金2億両(当時の日本円で約3億1000万円)を日本へ支払う。
 4.新たに重慶、蘇州、杭州、沙市、の4つの港湾都市をひらく。
 というもの。これにて日清戦争が終了しました。

3番目の写真は講和会議が行われた春帆楼の会議室です。会議の様子が再現された日清講和記念館があります。写真右手に李鴻章ら、左手に伊藤博文、陸奥宗光、伊東巳代治が座りました。

(3)ロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉
講和条約に対して、南下を狙うロシアが反発。ドイツ・フランスとともに遼東半島を清国に返還するよう日本に要求します(三国干渉)。当時の日本は、ロシアと敵対するだけの力は無く、この要求を認めます。そして、ロシアは遼東半島の旅順と大連を中国から租借することに成功。これには日本の国民全体がロシアへの敵意を燃やすようになり、臥薪嘗胆が合言葉になります。以後、軍備拡張でロシアに対抗する力をつけることになります。
ドイツは膠州湾、フランスは広州湾、イギリスは九竜半島と威海衛を租借し、中国は列強によって領土が切り取られていくことになりました。また、日本は台湾経営に乗り出しますが、現地では台湾民主国の建国が宣言され、日清戦争よりも多い戦死者を出すほど現地の激しい抵抗に遭い、1915年まで制圧に時間がかかります。それでも日本は、台湾総督府を置いて本格的な統治を開始しました。

4番目の写真は旧台湾総督府です。現在も残る台湾総督府の建物は1916年の完成。中華民国(台湾)の総統府と3062.jpg" border="0">して今も使用されています。
以上が日清戦争のあらましです。日本は清国に勝って台湾を領有したのです。この成功体験で日本は対外戦争の夢を大きくすたのです。その後の外国との戦争へと日本は突き進んだのです。大きな不幸の始めのキッカケになりました。

今日は日本の外国との戦争の時代の始めになった日清戦争のあらましをご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)