後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「懐かしい中国、思い出の友人」

2023年01月27日 | 日記・エッセイ・コラム
中国は歴史的に日本の文化に大きな影響を与えた国です。中国は興味深い国です。その中国の人々も思慮深いと言います。私は若い頃から中国の文化に興味がありました。ところが偶然にもある中国人と親友になったのです。
今日は私が見た中国と中国人の親友のことを書きたいと思います。
その私の親友も実に信義に篤い人でした。1949年頃の中国革命に参加した正真正銘の共産党員でした。周栄章という人でした。彼とはフランスで偶然知り合いました。1976年のことでした。
私は彼の招きで1980年から何度も中国へ行きました。そのお陰で共産党独裁の中国を内側から眺めることが出来ました。私が見た当時の中国の実情を書いてみたいと思います。
まず驚愕的な体験を書かせて下さい。深い地下室で見た驚きの光景です。
中国の首相、周恩来が1976年に死んだ時、彼をしたう民衆が4月の清明節に北京天安門広場に集まりました。大追悼会です。このような周恩来追悼集会が中国全土に広がったのです。
当時は毛沢東も存命で、四人組が権力を握っていたのです。毛沢東は周恩来の人気に嫉妬し、憎んでいたのです。
これは日本の新聞に詳しくは出ていませんでしたが、毛沢東一派は天安門広場の群衆に対して軍隊に攻撃させ、蹴散らせたのです。これを第一次天安門事件と言います。
その後も、中央政府は周恩来の公的葬式以外の一切の私的な追悼会のような集会を禁止していました。
1980年に北京に行った私に、周栄章教授が声をひそめて、「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言うのです。
暗夜に紛れて連れて行かれた所は、深い地下に埋め込んだ大學の地下室でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文などとともに花束などが飾られていました。
周さんは「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやります。それが中国人なのです」と言い切りました。
何故か私は周栄章さんを終生の親友と感じました。
中国人は一旦親密になると生涯その関係を信じて良いのです。絶対に裏切らないのです。一生安心して付き合えます。周栄章さんもそんな男でした。2004年に亡くなりました。
1949年に彼は共産軍と共に天津市を占領し、占領後の天津市の行政を担当し住民の暮らしを平穏なものにするう努力をしたと言っていました。
中國人がたてまえとして偉いと言う政治家は毛沢東、江沢民、そして習近平のような強権をふるう政治家です。本当に好きな政治家は劉少奇、周恩来、鄧小平、そして胡 耀邦なのです。
この4人は自分の権力拡大よりも人民の暮らしが良くなるように本気で努力したのです。
こんなことは全て親友の周栄章さんから聞きました。
彼は正真正銘の共産党員でしたが私に共産主義が良いとは一度も言いませんでした。私が共産主義は間違っていると言いました。彼は答えません。苦しそうに、「中国が共産主義を選んだにはそれなりの理由があったのです」と言うのです。
ここで一休みして周栄章さんに案内して貰った頤和園と北海公園や故宮などの写真を示します。

1番目の写真は夏の離宮、頤和園の風景です。あまり感動したので何度も行きました。
日本人も北京に行ったら必ず行く名所なのでよくご存じの方も多いと思います。

2番目の写真は故宮の北にある北海公園の石の回廊です。
あれは確か、1980年のある秋の夜でした。この石の回廊を、夜風に吹かれながら、周さんと2人だけで歩いていました。

3番目の写真は北京の中心

4番目の写真は多数の女官たちが住んでいた後宮です。部屋の内部装飾が女官の趣味なのか非常に優雅でした。

5番目の写真は仿膳飯荘の入り口の写真です。この仿膳飯荘で北京鋼鉄学院の学長が私の歓迎会をしてくれたのです。仿膳飯荘は北海公園の中にありました。

6番目の写真は仿膳飯荘の料理の写真です。(出典:http://www.chinatrip.jp/beijing/album-655.htm)
出された料理は女性権力者の西大后の好きそうな小さく綺麗に盛り付けた、いわゆる宮廷料理でした。それから2年後に私と共に行った家内はその料理に精妙さに感激していました。

7番目の写真は北京鴨です。(写真の出典:http://imagenavi.jp/search/#!/ )
周さんは北京鴨の有名店でなく裏町の小さな北京鴨店へ何度も連れて行ってくれました。
あまり冷えていない五星ビールを注文し、前菜でビールを飲んでいるとやがて見事に焼きあがった鴨が出てきます。
自分で皮を切り取って、白い餅に乗せ、ネギと味噌を塗って、餅でくるりと巻いて食べるのです。
周さんは私をいろいろな所へ案内してくました。北京の天壇、大鐘の寺、明の13陵、北京原人の周口店などです。古都、西安へんの旅もアレンジしてくれました。
周栄章さんさんはその後、何度も日本に来て私の家にも来てくれました。思い出は沢山ありますがこれで止めます。しかし最後に胡耀邦さんのことをちょっとだけ書いて置きたいと思います。
胡耀邦は1983年11月に訪日しました。その時、昭和天皇と会見して天皇を中国へ招待したのです。
日中首脳会談では中曽根康弘内閣総理大臣と協力して『日中友好21世紀委員会』の設立しました。そして胡は日本の青年3000人を中国に1週間招待したのです。胡耀邦は心筋梗塞のため1989年4月15日に死去した。
ここに胡耀邦さんのことを書くのは現在の中国では一切禁止されているからです。中国共産党は胡耀邦が中国共産党の政策に反対したと主張したのです。そして胡耀邦主席は存在していなかったとして全ての記録を抹殺し、彼に関することはネットにも書いてはいけないのです。共産党独裁の弊害です。

今日は私が見た中国と中国人の親友、周栄章さんの思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)