「みたま祭り」は毎年、東京のお盆の期日に合わせて7月中旬に行われます。
昭和22年から行われている鎮魂の祈りです。靖国に####みこと(命)として祀られている全ての戦死者へ全国の遺族から送られた献灯を何千、何万と飾り、地方の踊りを奉納し、御霊を慰め、鎮魂を祈るのです。
以下に昨年の写真を示します。
全国の遺族から集めたお金で献灯を作るのです。献灯は四角な黄色いぼんぼりの中に40W位の小さめの電燈が入っています。
そのぼんぼりの表にはおくってくれた人の名前が県名とともに墨書してあります。
この写真はたまたま山口県の人々の部分ですが、他を丁寧に見てまわると北海道から沖縄まで全ての県の人々の名前が見えます。
そして全ての戦死者の霊を慰めるのです。特に特攻隊で殉じた霊だけを慰めるのではなく全ての人を平等に慰めるのです。
その上、青森のねぶたを始め各地の郷土文化や芸能が集まり、戦地で苦しみながら亡くなった戦死者を全国の人々が心を合わせて慰めるのです。
昨年の「みたままつり」は、7月13日前夜祭から7月16日の第三夜祭まで4日間続きました。
この「みたままつり」は死者を心から慰めようとする日本人の優しさの象徴です。優しくて美しい祈りです。
下には、ある戦死した方が生前愛用していたバイオリンの展示の写真を示します。
靖国神社のありようには幾つかの問題があります。政治と宗教の分離の原則からいろいろな議論もあるのは承知しています。しかし全体を見ればそれは日本民族の美しい心の現れでもあります。優しさの象徴でもあるのです。
下の写真の出典は、「画像検索:みたままつり」です。
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昨日、現職の閣僚と国会議員168名が集団で靖国神社を参拝しました。
何時ものように韓国政府と中国政府がそれを非難し、計画中だった外交交渉や相互訪問を取りやめました。そして日本人の多くはそんな反応をする韓国と中国が一層嫌いになります。一方、少数の日本人は韓国や中国の嫌がる政治家の靖国神社参拝はやめるべきだと主張しています。
しかし私は全然別の理由で現職閣僚や国会議員の靖国神社参拝には反対します。自分が偉くなったから、それをこれ見よがしに集団で参拝する行為なのでしょう。尊敬できないのです。人間として見苦しいのです。
昨日参拝した偉い方々は昔から毎年、靖国神社や各県の護国神社に参拝をしていたでしょうか?日本の将来のために犠牲になった英霊の遺族へ寄付をしたことがあるのでしょうか?
そもそも昨日、参拝した国会議員さんたちは靖国神社の遊就館の壁にある戦争犠牲者の写真の前に立ったことがあるのでしょうか?
国の犠牲となって若くして亡くなった方々の写真の前に立って、祈ったら、決して昨日のような政治ショーのような参拝の仕方は出来なかった筈です。残念です。
明治維新以来、日清戦争、日露戦争、日中戦争、太平洋戦争という大きな近代的な戦争をして来たのです。その日本民族の考え方をもう一度考えてみようと思い昨年の夏に、靖国神社と遊就館を静かに訪問しました。
そうしたら遊就館の多くの壁に日清、日露、日中、太平洋の各戦争で国に殉じた人々の写真が飾ってあります。
その写真の前で、たまたま見た光景です。一人の高齢な婦人が神主に案内されて戦死した親族の写真の処へ来ていました。その婦人はその写真を丁寧に手で触って何か話しかけていました。
最後に、案内して来た神主さんへ「有り難うございました」と言って静かに帰って行きます。
私は壁に飾ってあった写真を丁寧に見て回りました。
国に殉じた人々に感銘をうけます。そのお陰で現在の日本があるのです。深く感謝します。
写真は沢山あります。とても全てはご紹介出来ません。下にそのほんの一部だけを謹んでご紹介いたします。
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多くの写真の中に、少女の写真もあります。ある国民学校でアメリカ機の機銃掃射の犠牲になったようです。それも戦死です。かわいそうです。
従軍看護婦として亡くなった方の写真もあります。
シベリア抑留で亡くなった方の写真もあります。
その他に戦争が終わってからB級戦犯として死刑になった方の写真もありました。完全に冤罪の人も多かったのです。
年齢や階級に関係なく皆等しく飾ってあります。皆が若々しく見えます。良い表情をしています。美しいキリっとした表情です。
こんな若者達を死なせた戦争の不条理な悲劇が胸にせまります。
このような形で写真を公開することは戦死した方々の遺族の慰めにもなります。
昨日、靖国神社を集団で参拝した国会議員の先生方が独りで、静かにこの写真の前に立って考えて頂きたいのです。
戦争の理不尽さや残酷さを静かに、考えて頂きたいのです。
日本では第二次大戦で少なくとも300万人の死者が出ました。
国会議員が集団で参拝するくらいなら民間行事の「みたま祭り」へ寄付をしてもらいたいので。経済的に困っている遺族が毎年、毎年、「献灯」のための寄付を続けているのです。
その「みたま祭り」も、あまりにも派手になり過ぎて、私は尊敬できません。
しかしご存じない遠方の方々の為に、その様子をこの記事の続編でご紹介いたします。
さて、昨日、集団で参拝した168名の国会議員は一体何を考え、何を祈ったのでしょう?
集団ではなく一個の人間として靖国神社と遊就館を静かに訪問して頂きたいと思います。政治ショーのように集団で参拝すれば、中国も韓国も政治的に反発するのは当然です。こいうものを「ドッチモ、ドッチ」と言います。
最後に私の個人的な希望を書けば、「希望しない人は祀らないで下さい」ということです。私自身はカトリックなので、たとえ万一戦死しても祀って頂く必要はないのです。
しかし大きな観点から論ずれば靖国神社は日本文化の一部であり、考えようによっては誇るべき存在なのです。
それはそれとして今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
ヨットの趣味を25年間してましたが、2年前に体力が無くなりキッパリ止めました。キッパリ止めたつもりですが、時々無性にヨットの姿が見たくなります。
そんな時は近場の東京、夢の島マリーナや少し遠路の葉山マリーナや江の島マリーナへ行ってヨットを見てきます。
セイルに風を受けて、船体を傾けながらクローズホールドで走るときの快感を思い出して、独りでニヤニヤしながら楽しんできます。波が船体を叩く心地よい音を思い出して楽しんできます。メンハリヤードが風に吹かれてマストをカンカン叩く鐘のような美しい音も良いものです。
港に係留してあるヨットの上で夕方ビールを飲んだ時の愉快な気分も思い出します。
そして2年前に急に亡くなってしまった大学時代の友人が猪苗代湖のヨットに3度も招待してくれたことを思い出しました。会津の酒蔵の花春が主催する「花春カップレース」に参加したことも楽しい思い出になりました。
もう老齢でヨットには乗れませんが、今日は、三浦半島の突端の三崎港までヨットを見に行きました。マグロのスーパー「ゆらり」の前のゲスト桟橋には何時も豪華なヨットが停まっているのです。
今日はニュ-ジーランドから航海してきた2本マストの豪華なヨットに会えました。船長もクルーも横浜にでも遊びに行ったのかヨットには誰も居ませんでした。
太平洋の波濤を越えて南から北へと地球を縦断して来たのです。大洋の上では何日も夜を徹して帆走するのです。クルーが三交代で舵輪を握ります。荒れた海から静かな港に入った時の安堵感が想像できます。
そして晴天の日に2本のマストに全てのセイルを上げて快走する時の姿を想像していると幸せな気分になります。
そんヨットの写真を下にお送りいたします。
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・船尾にNew Zieland と書いてあり国旗が出ていました。
・これは遠方から来た日本のヨットのようです。
上の風景は油壷マリーナの泊地です。
まずボストン マラソン爆破事件で犠牲になった人々のご冥福をお祈りいたします。
そして怪我をした多くの人々の傷が一日、も早く回復するようにとお祈りいたします。
大変悲しい事件が起きました。一体どのような状況だったかを朝日新聞と時事通信のネット版の写真を見てみましょう。
この写真の出典: http://www.asahi.com/international/update/0416/TKY201304160001.html
この写真の出典:http://www.jiji.com/jc/d4?d=d4_disaster&p=bmb415-jlp14392566
この写真の出典:http://www.jiji.com/jc/d4?d=d4_disaster&p=bmb415-jlp14387731
この写真の出典:http://www.asahi.com/international/update/0416/TKY201304160001.html
この爆破事件はロシア南部のイスラム圏のチェチェン地方からアメリカに移住してきた26歳の男性とその19歳の弟が起こしたと報道されています。
兄の方は射殺され、弟は重傷を負ったが、病院で意識を回復し、テロ特別担当者から背後関係について取り調べが行われているようです。
このショッキングな事件は何故起きたのでしょうか?
今まで報道されている事から推察すると以下のような原因になります。
まず26歳の兄がアメリカ社会になじめなという個人的な苦悩を抱えていました。時々、チェチェン地方に帰って、イスラム過激派と交わり、狂信的な「聖戦思想」に取りつかれてしまったのです。
そして、その聖戦思想を全く個人的な苦悩の解消に利用し、キリスト教徒のアメリカ人を無差別に爆発物で殺すことにしたのです。
19歳の弟は優秀で、アメリカの市民権も貰い、大学で奨学金も得て、ボストンの有名な大学に通っていたのです。兄に同情しつつ、「兄の聖戦思想」に染まってしまったのです。
この2人はアルカイーダ派や中近東のイスラム過激派とは直接的な交流が無かったようです。ロシアのプーチン大統領のチェチェンの軍事鎮圧に反抗しているイスラム過激派の影響を受けていたです。
以上を要約すると今回の事件の原因は2つあったのです。「兄がアメリカ社会になじめなかった事」とイスラム教の「聖戦思想」の2つなのです。
話は私的なことになり恐縮ですが、私自身もアメリカへ留学もしたのですがその社会へはなじめませんでした。非常に異質なものを感じ、これでは一生は住めないなと強く感じたものです。それを若い私は日本への愛国心だと思っていたのです。
しかしそれは自分の小さな欲から発したことだったと老後になってからはっきり判りました。要するに自分に我が儘な気持ちがあればどんな国の社会にもなじめないのです。今考えると親切にしてくれたアメリカ人の恩師や親友に対して申し訳ないことをしたと赤面のいたりです。
ボストンマラソン爆破事件を起こした26歳の兄にも、親切にしてくれたアメリカ人が必いた筈です。なぜその親切を素直に受け入れなかったのでしょうか?
それは個人的な我が儘というものです。イスラム教という立派な宗教とは何の関係もないことです。あくまでも個人の犯罪であり、イスラム教を非難すべきではありません。
さて聖戦思想ですが、その思想を拡大解釈して利用する状況が多くのテロ事件の原因になっていると思います。
宗教を神のためではなく、自分たちの私利私欲のために利用することはイスラム教徒に限らずどの宗教の教徒にもあることです。神様やお釈迦様が悲しんでいます。
しかし聖戦思想でも私は次のような場合は是認せざるを得ません。たとえば中世のヨーロッパが十字軍をイスラム圏へ送り込んだ場合です。このような時にはイスラム教徒は武器をもって戦うべきです。自分の死も恐れずに戦うべきです。戦死したら天国に迎えられます。
ようするに異教徒はイルラム教を抹殺するために武力を持って攻め込んで来たら断固戦うのです。これが聖戦思想です。
それを拡大解釈をしてアメリカ社会になじめないという個人的な苦悩の腹いせをするために多数のキリスト教徒を無差別に殺したのが今回の爆破事件なのです。
その行為は敬虔なイスラム教徒の名誉を汚す行為であり、本来の聖戦思想とはなんの関わり合いも無いのです。それよりもモーゼは「汝人を殺すべからず」と言っているではありませんか。残念な事件です。悲しい事件です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
自分の国を政治家や軍部を悪しざまに非難して、みずからをおとしめる評論が戦後に流行しました。そして日本人は道義的に劣っている低級な民族だと断罪するのです。
しかし文化人類学のルース・ベネデクトも言っている通り、世界中の民族には優劣がないのです。絶対に無いのです。
そこで今回の記事では、自虐的評論家の取り上げない残酷な行為と、取り上げて大騒ぎする事件とを分類して、比較して考えてみます。
そうすると戦後に流行した「自虐趣味的評論家」が何を考え、どのような思想の影響を受けていたかが明快になると思います。
以下の二つの写真の間には、自虐的評論家が取り上げない日本軍の残酷な行為と、よく取上げる日本軍の残酷な行為の2種類に分類した一覧表があります。
ショックを受けるような内容ですので、気の弱い方は見ないで下さい。
見ないで、二番目の写真の下の文章へ飛んで下さい。
戦争の残虐性を忘れないようにと以下に記すのです。これが戦争というものなのです。どんな事があっても絶対に戦争はするべきではありません。
以下は自虐的評論家が取り上げられない日本軍の残酷な行為です。
「捕虜洋上処分」
(1)(1943年3月16日) 駆逐艦秋風、移送中の外国人抑留者約60名全員を洋上で処刑
(2)(1943年12月14日) 呂110潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。55名を殺害。
(3)(1944年2月22日) 伊37潜が英商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
(4)(1944年3月26日) 伊8潜が蘭船を撃沈し、生存者98名を艦上で処刑。
(5)(1944年3月29日) 伊26が米商船を撃沈し救命ボート、筏の乗組員を銃撃。被害者数不明。
(6)(1944年3月) 重巡利根が英商船「ビハール号」を撃沈した際、揚収した生存者60名を甲板で処刑。
(7)(1944年7月2日) 伊8が米商船を撃沈した際、揚収した生存者96名を甲板に放置し急速潜行。
(8)「トラック病院の捕虜生体解剖事件」(1944年2~7月) 米兵捕虜8名を生体切開等
(9)「メリッソ村民虐殺事件」(1944年7月15日) 村民46人虐殺
(10)「ティンブンケ事件」(1944年7月) 村民約100名集団殺害
(11)「ババル島事件」(1944年10月~11月) 住民704名虐殺
(12)「パラワン島米兵捕虜殺害事件」(1944年12月13日) 米軍捕虜150名を処刑
(13)「父島人肉食事件」(1945年2月) 撃墜された米兵8名を捕らえ処刑の後食べた
(14)「マニラ市街戦での虐殺事件」(1945年2月) 多数の民間人が虐殺された
聖パウロ大学で子供を含む994名を殺害。北部墓地で2000名を処刑。サンチャゴ監獄での集団殺害など。
その他、多数。(上下の資料の出典は「我が家のホームページ」http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM#5)
以下は自虐的評論家が何度も取り上げる日本軍の残酷な行為です。
戦後の評論家がよく取上げる日本軍の残酷な行為は南京虐殺事件や朝鮮人の強制連行と従軍慰安婦問題です。いずれも中国と朝鮮を対象にした事件です。
その他に以下のような日本軍の行為も非難の対象としてよく取り上げられます。
(1)「朝鮮東学党掃討作戦」(1894.8月~1895.3月)党農民、戦闘で6000人、処刑5600人、5万人の説あり
(2)「旅順虐殺事件」(1894年11月21日~25日) 2千~2万人 (3)「三・一運動武力鎮圧」(1919年3月1日~) 集会参加民衆等52,000人殺傷、46,900人余検挙
(4)「朝鮮人虐殺事件」(1923年)関東大震災後、在日朝鮮人6000余人、中国人200余人、日本人数十人
(5)「霧社事件」(1930.10.28)日本人約140人殺害/先住民約千人の死者。先住民族蜂起/台湾総督府軍隊警察鎮圧
(6)「平頂山事件」(1932年9月16日) 中国人住民400~3000名を殺害、集落を焼払い
(7)「陽高事件」(1937年9月) 中国人350~500名虐殺
(8)「花岡事件」(1945年6月30日) 中国人労務者100人が拷問後処刑。
その他多数。
さて戦後の日本の評論家達は南太平洋諸島や洋上における日本軍の残酷な行為を非難しません。
しかし中国や朝鮮での日本軍の残酷な行為は、大げさに非難するのです。
その理由には2つ、3つ考えられます。
その一つは共産主義という思想の影響を深く受けているからです。中国やソ連の平和攻勢の影響も受けているからです。戦後の米ソや米中の対立の影響を受けていたのです。
もう一つの理由は、中国や朝鮮とは、日本人がいろいろな場面で深い関係があったからです。
そして南太平洋の国々で起こったことは何か遠方の異国で起きたことのように感じているからです。中国や朝鮮のように深い人間同士の関係が無かったからです。
これらの理由については次回の記事でもう少し詳しく説明したいと思います。
同じ残酷な行為でも一方を非難し、もう一方を非難しないのです。それは常に客観的な立場に立つべき評論家として失格です。評論家としての信頼性を自ら破棄している行為です。評論家として恥ずべき姿勢です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
先週の日曜日は長崎の国宝、大浦天主堂で短いお祈りをし、隣の建物でのコルベ神父様の特別展を見ました。
その上、昔のセミナリオでの踏絵やマリア観音像の展示を見て、往時の隠れキリシタン達の苦しみを想像してみました。
大浦天主堂のすぐ下にあるカトリック大浦教会も訪問し、お祈りをしました。
2日後は平戸のザビエル記念天主堂でもお祈りをしました。境内には平戸での殉教者の記念碑にもお祈りいたしました。
それは観光旅行でもあったのですが、短い巡礼の旅のようでした。
今日は2週間ぶりにカトリック小金井教会でのミサにあずかって来ました。旅先のお祈りも良いものですが、やはり自分の所属している教会では落ち着いてお祈りが出来ます。
午後からは近所の東京フリー・メソジスト小金井教会で開催された「チャペル・コンサート2013」に行きました。
武蔵野音楽大学卒の高木美江さんのしっとりした音質のソプラノ独唱が11曲ありました。流石にプロのソプラノ歌手だけあって教会堂に響きわたる美声で、丁寧な歌い方に感銘を覚えました。
ピアノ伴奏は新明美恵さんでした。堅いピアノリサイタルだけでなく、レストランやバーや大型客船で弾いているだけあって、誰でも気楽に楽しめるような伴奏ぶりで好感が持てました。
そして最後の「荒城の月」のピアノ独奏は圧巻でした。小原孝氏の芸術的深みのある編曲で、あの甘い「荒城の月」が荒れ狂う海のようになったり、静かな高原の湖のようになったり、その緩急自在な演奏ぶりには感動しました。琴やハープの音色も響くような、素晴らしい月夜が描き出されていました。
この教会の主任牧師様の宮川浩二師が最後の挨拶をなさって閉会になりました。
思いがけず質の高い生の音楽を聴いて幸せな日曜日でした。
下に東京フリー・メソジスト小金井教会の写真を示します。
・下の左は主任牧師様の宮川浩二師です。右は今日の音楽会のポスターです。
なおこの音楽会の詳細は、http://www.tokyofree.net/pdf/2013%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7.pdf をご覧ください。
(上の写真は、http://fune-amu.com/ より転載しました。)
映画の宣伝はつくづく難しいものと思います。上の写真は昨日、映画館へ行って見た映画の宣伝用の写真です。しかしこの映画の内容も、どんな人が見たら面白がるかということがさっぱり伝わって来ません。
内容はさて置き、どんな人々にお薦めすべきでしょうか?とりあえず以下の人々へ是非ご覧下さいとお薦めいたします。
(1)言葉の意味、そしてその言葉のいろいろな使われ方に関心や興味を持っている人々。そして言葉の意味が時代によってどのように変わるかに関心のある人々。
(2)24万語を網羅した辞書の根気良い編集や出版までの苦しい過程に興味を持っている人々。収益性の悪い膨大な辞書を何故出版社が出すかに興味のある人々。
(3)昭和時代に郷愁を感じていいる人々。戦後の日本映画、たとえば小津安二郎監督の「東京物語」や木下恵介監督の「二十四の瞳」のような映画を懐かしく思っている人々。
(4)職場の人間関係の暖かさや、夫婦愛の素晴らしさを映画を通して体験してみたい人々。
(5)残酷な殺人や暴力シーンは映画では絶対に見たくない人々。
まあ、ここまで書けばこの映画の内容がご想像できると思います。
そこでまず題目の意味から原作者の三浦しをんさんの説明を記します。
「言葉の海。
人は辞書と言う舟で
その海を渡り、
自分の気持ちを
的確に表す言葉を探します。
誰かと繋がりたくて
広大な海を渡ろうとする人たちに
捧げる辞書、
それが大渡海(という辞書)」
この言葉に魅了された主人公の馬締(まじめ)さんが、出版社の地味な辞書編集部で辞書、「大渡海」の編集を完成するまでの紆余曲折を描いた作品です。
その「大渡海」は24万語の言葉を網羅し、完成までに18年もかかったのです。
完成はしましたが監修者の松本先生が胃ガンで亡くなってしまいます。病床に駆けつけて行った馬締さんの持って行ったゲラ刷りだけを見て死んで行ったのです。
この映画の監督は、石井裕也さんというまだ36歳の若い人です。しかし丁寧な演出、ゆっくりしみじみしたカメラワーク、そして思い切った省略、などに感銘を受けました。
三浦しをんさんの原作を本で読んだ人は映画製作での「省略部分」に不満を感じる人もいると思います。しかし映画とはそういうものなのです。
私は地味な仕事をしている職場の人々の連帯感や、さりげない気配りに感銘をうけました。そして馬締さんが不器用な恋愛をし、それが実って暖かい家庭を作った流れのきめ細かな描き方に感動もしました。監督の演技指導が傑出していたに違いありません。
久しぶりに映画らしい佳作を見たと満足いたしました。「舟を編む」という映画をお薦めする次第です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
オランダといえば上の写真のような牧歌的な風景だけを思い浮かべる人が多いと思います。
しかし1941年から45年の第二次世界大戦で日本軍はオランダの植民地だったインドネシアを占領し、そこに居たオランダ人にたいして残酷な取扱いをしたのです。
しかし戦後の日本の自虐趣味の評論家はそのことを完全に無視しました。彼らの書く主題は中国と朝鮮における日本軍の残虐行為だけです。
仏領インドシナ(ベトナム、ラオス、カンボジア)、フィリッピン、インドネシア、マレーシア(マレー半島とジャワ)などの欧米植民地における残虐行為は書きたてません。この事実は戦後の自虐趣味の評論家や共産主義の好きな評論家の視野の狭さを証明しています。全く片手落ちなのです。国際的なバランス感覚の欠如を示しています。
インドネシアで酷い目に遭ったオランダは戦後、日本へ厳しい復讐の鉄槌を下すのです。日本のBC級戦犯の236名へ死刑判決を下したのです。日本から多額の賠償を取ったのです。昭和天皇がオランダを訪問した時には、天皇を戦犯と非難し、卵や魔法瓶を投げつけたのです。その対日感情の悪さは現在でも続いているのです。
最近、韓国で従軍慰安婦問題が起きるとオランダはつねに韓国に賛同して、2007年11月にオランダ下院議院は日本は謝罪すべきだという決議をしたのです。
そして東京に居るオランダ大使は、「従軍慰安婦問題は事実であろうとなかろうとそれは問題でない。日本は謝罪すべきだ」と公式に発表したのです。
これは第二次大戦中、インドネシアを占領した日本軍がオランダ人女性を利用した所謂、「白馬事件」の復讐なのです。
さらに話は変わりますが、植民地にされたインドネシアは、独立後にオランダへ対して謝罪を要求しました。植民地時代のオランダの悪辣な搾取に対して謝罪を要求したのです。インドネシアは執拗に謝罪を要求しました。
しかし現在まで、オランダ政府は植民地時代のことは頑として一切謝罪していません。オランダという国はそういう国なのです。
欧米の国際関係の厳しさはそういうものなのです。それを知って知らずして、戦後の左翼的な評論家が欧米の国々を無視して、中国と朝鮮だけに肩入れするのは何故でしょうか?
この問題は別の記事として取り上げてみたいと思います。
そのような国のテーマパークが下の写真のようなハウステンボスなのです。私は複雑な思いをしています。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80======
オランダは、江戸時代の鎖国下で欧州諸国で唯一外交関係を維持した国である。当時オランダを通じてもたらされた学問・技術は蘭学と呼ばれ、後の開国・明治維新に向けての下地を準備、形成することになった。
第二次世界大戦時、日本はオランダの植民地であった蘭印(現在のインドネシア)を攻略し占領した。このことが、第二次世界大戦後、インドネシア独立の大きな要因となって、オランダは重要な植民地を失い、また戦中の白馬事件などの影響もあって、戦後は反日感情が強かった。戦後オランダ法廷は日本軍BC級戦犯に対し、アメリカ法廷・中国法廷を上回る236人に死刑判決を下した。これは連合国による対日裁判で最多の数となった。オランダはサンフランシスコ平和条約を締結し、その際に賠償請求権も放棄したが、のち賠償請求を続け、1956年には「オランダとの私的請求権解決に関する議定書(日蘭議定書)」において、ジャワで拘留された元捕虜や同国民間人に与えた損害(民間人の私的請求権)について日本から補償(見舞金36億円)を受けた。
その後も反日感情は残存し、1971年の昭和天皇オランダ歴訪の際には、在位中の昭和天皇はオランダ人にとって戦争犯罪人と見なされていたため市民から卵や魔法瓶を投げつけられるなどした。またベアトリクス女王が1986年に日本訪問の計画をした際には、議会と世論の反発で中止した。昭和天皇崩御後の1991年10月、女王は歴代オランダ元首として初めて日本を公式訪問。天皇が主催した晩餐会のスピーチでは第二次世界大戦時のインドネシアにおける自国民の犠牲について言及する一方、翌年3月に開業を控えていたハウステンボスにも言及し、蘭日関係の親善を強調した(女王は自らの居所であるハウステンボス宮殿の忠実な再現及び同名の使用を許可)。1990年代より従軍慰安婦問題が世界レベルで議論された際には、オランダも再度請求を開始、日本国政府は、アジア女性基金により総額2億5500万円の医療福祉支援を個人に対して実施した(2001年・償い事業1)。その後2006にはオランダは皇太子徳仁親王と同妃雅子ら一家の長期静養を受け入れるなど日蘭関係の友好面を見せたが、2007年7月にアメリカ合衆国下院121号決議が採択されると、オーストラリアに続いて、11月20日にオランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議が採択。2008年8月、オランダ駐日大使のフィリップ・ヘルは、参議院内集会において「強制があったかどうかということなど問題ではない」と述べ、日本政府が謝罪をするべきだと述べた。
今週の月曜日にハウステンボスを6時間かけて遊び歩きました。
天気も良くそれは楽しい体験でした。しかし非常に不思議な気分になりました。どの建物にも、どのアトラクションにもオランダ独自の文化や宗教が感じられないのです。楽しいのは確かですが国籍不明のヨーロッパ文化が脈絡も無く混じっているのです。
皆様へお願い致します。ヨーロッパのある国に「日本村」というテーマパークがあったとご想像下さい。そこを貴方が訪問したとします。建物や町並は確かに江戸の町です。しかしアトラクションや供される食べ物が中国、韓国、ベトナム、インドネシアなどのものが混然と出されているのです。
それを見て貴方は楽しいでしょうか?
私はハウステンボスを楽しみながら、一方ではもしオランダ人が訪問したらどんな感想を持つか心配になっていました。
そこでハウステンボスを創業した神近義邦さんのことを調べてみました。
それで納得したのです。
彼は1979年にヨーロッパ出張に行き、そこで偶然見たオランダの風景に何故か感動して、その風景をテーマにした「オランダ村」を1983年にオープンしたのです。テーマはオランダの風景のみだったのです。建物や運河の風景は広い意味での文化です。しかし狭い意味での文化を芸術、宗教、哲学と定義するとそれらは風景を見ただけでは一向に分かりません。
神近 義邦(かみちか よしくに)さんは 1942年8月21日生まれで、元長崎オランダ村・ハウステンボス代表取締役社長を歴任しています。
出身地は現在の長崎県西海市西彼町です。長崎県立西彼農業高等学校定時制を卒業後、1962年に西彼町役場へ就職し、農業指導を担当して実績を上げた方です。長崎県庁出向(1971年~1972年)後、1973年3月町役場を退職しました。その後、西彼町内の土地買収問題がきっかけとなって関係が生じた東京永田町の料亭「一條」の経営再建に手腕を発揮したのです。
1979年のヨーロッパ出張時にオランダ村の原型となる計画を発想したそうです。その後、自らの観光果樹園を基礎として1980年に開園した長崎バイオパークからほど近い国道202号線沿いの生簀料理店を全面改装する形で、長崎オランダ村を1983年7月22日にオープンさせました。
長崎オランダ村は順調に観光客を集め発展してましたが、長崎県は折しも総工費約150億円をかけ造成したものの分譲が進んでいなかった針尾工業団地の利用をもちかけたのです。県幹部からの打診に神近は素早く反応、日をおかずして現在のハウステンボスにつながる計画の素案をまとめた。
ハウステンボスは1992年にオープンしました。初年度から佐世保市内はもちろん九州でも最大級の集客実績を上げたが、建設時のこだわりも一因となった莫大な初期投資(約2,200億円、当初予想の約2倍にまでなった)が負債となってのしかかって来たのです。
また、将来的には人口3万人が定住する都市をつくるという構想で作られた別荘もなかなか買い手がつかず苦しい経営が続いたのです。
そしてバブル崩壊から続いた景気後退が集客減少を招き、ハウステンボスの経営は次第に悪化しました。
2000年6月、神近は興銀に債権放棄を要請、それと引き換えにハウステンボス社長を辞任し、経営から身を引いたのです。その後ハウステンボスは興銀主導での再建を模索したが、2003年2月に会社更生法の適用を申請しました。
(以上の経緯の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E8%BF%91%E7%BE%A9%E9%82%A6です。)
その後、澤田秀雄氏が経営を引き受けてから一気に黒字になり現在に至っているのがハウステンボスの歴史なのです。彼は18年間赤字だったハウステンボスを奇跡的に1年で黒字にした人として有名になりました。
以上のような歴史を見るとハウステンボスに何故オランダ独自の文化が感じられないか、その理由が明快に分かります。
創業者の神近義邦さんはオランダの風景以外の文化に関心が無かったからです。ヨーロッパの国々の文化の相違を完全に無視したからです。
「楽しければ何でも良い!」という思想が日本では流行なのです。
そんな些細な事を考え込んでいる私は歳をとり過ぎたのでしょう。嗚呼。
京都の伏見稲荷神社、愛知県の豊川稲荷神社、そして佐賀県、鹿島市の祐徳稲荷神社が日本の三大稲荷というらしいです。4月15日に訪れました。
神社そのものが山の中腹にあります。壮大な構造になっています。
階段をえんえんと登るのが大変でした。懸造りの本殿は流石に豪華な造りでした。お賽銭を入れて参拝のあと階段を下ります。
すると下にはよく手入れの行き届いた日本庭園があり、ボタンやシャクナゲやシャガが満開になっていました。
写真をお楽し頂ければ嬉しいです。
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由緒:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E5%BE%B3%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE
鹿島藩主鍋島直朝夫人で、後陽成天皇の孫・左大臣花山院定好の娘の萬子媛が、朝廷の勅願所であった稲荷大神の御分霊を勧請したのに始まる。萬子媛が嫁ぐ際、父から稲荷大神の神鏡を授けられていた。貞享4年(1687年)、石壁山に社殿を建立し、萬子媛自ら奉仕していたが、宝永2年(1705年)、石壁山窟の寿蔵にて、断食して入定を果たした。以降、萬子媛の諡名から「祐徳院」と呼ばれるようになり、祭神の稲荷神とともに萬子媛の霊験により信仰を集めた。
明治の神仏分離により仏式の行事を廃し、祐徳稲荷神社に改称した。その際、萬子媛が入定した寿蔵は境内社の石壁神社とされ、萬子媛に「萬媛命」の神号が贈られた。
現在の本殿は、昭和初期に建て直されたものが昭和24年(1949年)に焼失したあと、伊勢神宮造営局長の角南隆が設計して昭和32年(1957年)に再建されたもので、3代目である。主要建物は総漆塗りである。
斎藤茂吉や野口雨情も祐徳稲荷神社を詠った詩を残している。
錦波川を境として西側に本殿、神楽殿、楼門がある。楼門から北側には参集殿、更にその北側には日本庭園がある。境内入口より北から祐徳バス門前出張所(祐徳神社前バス停)までの間の参道には門前商店街が軒を並べ、その北端には3000台が駐車できる無料駐車場がある。錦波川東の駐車場脇には神社が所蔵する美術工芸品や鎧・刀・鹿島錦など郷土の資料を展示した祐徳博物館が設置されている。