後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

山里、下仁田の秋の風物詩・祭りと山車の写真

2014年10月24日 | 写真
終戦の前後に家内は群馬県の山里の下仁田町に疎開していました。その縁で私も何度か下仁田を訪ねたことがあります。
上毛三山の妙義山の南麓にある本当に静かな所です。現在は下仁田市になっていますが昔の日本そのままのような町のたたずまいです。
横山美知彦さんは家内が疎開した時の小学校で同級生でした。
その横山さんがときどき山里に暮らす四季折々の随筆や写真を送って下さいます。
======秋の風物詩・・・祭りと山車:横山美知彦=====
10月半ばになると、昼間の澄み切った秋の空の終わりに、夜の帳が足早にやって来る。お祭礼の提灯の明かりが何となく気分を、幼かった頃に引き戻してくれる。
かすかに見ることの出来るその明かりは、いったい何を私に訴えようとしているのだろう。そして何を教えようとしているのだろうか。遠くから静かに聞こえて来る笛や太鼓の独特な音は、私を特別な世界に引き入れてくれる。
町内を引き回す「山車」には、触れることさえ出来ず、上ずった気持ちとは裏腹に、遠巻きに眺めるのがやっと、と云う希望の叶えられないもどかしさを胸に秘めていたことなど、少子化の現在では想像さえ出来ない。山車の上から聞こえて来る笛、鐘、太鼓の音が、乱れる様に祭りを盛り上げる。山車の周りに取り付けられた、組々の提灯が左右に揺れる。正面の高い所に座した、町内自慢の人形も、山車の動きに合わせるが如く僅かに揺れる。・・・深まりし秋の祭りの笛の音は遠き昔と変わることなし・・・







下仁田の町内に位置する、諏訪神社は元は八幡社であったとのことだが、諏訪の 諏訪大社(長野県諏訪市)を崇拝した甲斐の武田氏の勢力が、国境を越えてこの地に進出したときに、現在の社名に変えられたと考えられる。今年の例大祭も10月11日、12日の二日間、町中を賑わし事故なく終了した。町内には七基の山車がある。何処でもそうである様に下仁田町でも若者が減ってはいるが、幼い頃から親しみ、目にして来た祭りには、遠方に居住を移して後も自然に集まり、旧交を温め会い、胸をわくわくさせ、山車に群がり、掛け声をかけながら夜遅くまで綱を引く。こんな状態がこれからも永く続くことを願っている私も、その一人である。平成26年10月23日





塩と砂糖(5)日本における砂糖の歴史と美しい和菓子

2014年10月24日 | 日記・エッセイ・コラム

(写真の出典は、http://m.noa195.net/sima/gallery49/index.phpです。)

砂糖は人間の食べもに夢を与えます。人間がこの世に現れると甘い美しい天然の果実を食べていたことは現在の猿たちの果物好きから想像できます。
砂糖はおもにサトウキビとテンサイからつくりますが、日本では奈良、平安の時代には枕草子にあるように甘蔦(あまづら)を削った氷にかけたりして楽しんでいました。蔓性の植物の樹液をを煮詰めて作っていたのです。
ところが驚くべきことにサトウキビから砂糖を作る方法は紀元前6000年頃に既に北インドで使われていたのです。
サトウキビを絞ってその甘い液体を煮詰めて黒砂糖を作ります。黒砂糖を精製して真っ白い砂糖にします。この方法で作った砂糖を始めて日本へもたらしたのが唐招提寺を建てた鑑真和尚だと言われています。その後、遣唐使が中国から砂糖を持ち帰ったことは正倉院の記録にも明記してあります。
しかし当時はほんの少しの砂糖を持ち帰り一握りの貴人たちだけが味見をしたに過ぎません。
一般の人々は甘い干し柿や熟した自然の果実をたべて甘さを楽しんでいたのです。
甘蔦からとった「あまづら」は上流階級しか味わえなかったのです。この「あまづら」のつくりかたと味わいは別の記事でご紹介します。
さて日本へサトウキビで作った砂糖が広まったのは何時からでしょうか?
それは江戸時代の初めころの1623年以後のことです。
その年に琉球王国が中国へ使いを出してサトウキビの栽培方法と黒砂糖の製造方法を導入してからです。現在、沖縄では何処に行っても、上の一番目の写真のようにサトウキビ畑が広大に茂っています。琉球王国の産業が現在も伝承されているのです。
しかし琉球王国は薩摩藩の支配も受けていたのです。薩摩藩は琉球の黒砂糖を大阪や江戸へ運び莫大な利益を得たのです。
砂糖は長崎の出島でも輸入され大阪の問屋へ送られたのです。
江戸幕府は財政の安定のために全国へサトウキビの栽培を奨励したのでしす。しかしサトウキビは九州や四国では生育しますが本州では無理でした。
四国の高松藩と徳島藩は特に熱心に黒砂糖を生産し、更にその黒砂糖を独特の精製法で白くして「和三盆」という上品な味の砂糖を作ったのです。
現在、徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆糖といい、香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖と呼ばれて7います。
現在、日本で日常の料理に使う砂糖はサトウキビやテンサイから工業的に抽出し精製した安価な白砂糖か、あるいは澱粉を糖化した砂糖です。
一方、和三盆は上質な和菓子を作るとき使用します。美しい和菓子の写真をお贈りして今日の記事の終わりといたします。
二番目の写真の出典は、
http://www.tamachi-baigetsu.co.jp/staff_blog/archives/2013_04.htmlです。
三番目の写真の出典は
http://www.kabegami.com/shashin-bu/C00201/show/id/PHOT0000000000058C6B/ です。
四番目から六番目の写真の出典は
http://www.kyoto-saryo.jp/staff/kyogashi/page/21 です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。
後藤和弘(藤山杜人)










====参考資料=====================
日本に砂糖が伝えられたのは中国から
(http://www.alic.go.jp/koho/kikaku03_000078.html より)
我が国における砂糖の歴史は古く、鑑真和上が伝えたという説もありますが、遣唐使によって中国からもたらされたものと考えられています。
日本における砂糖の最初の記録は、「正倉院」献納目録の「種々薬帖」の中に「蔗糖二斤一二両三分并椀」の記録があります(825年)。当時は大変な貴重品であったため、ごく一部の上流階級が用い、それも食用ではなく、むしろ薬用でした。その後、鎌倉時代末頃から大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加しました。1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子をもたらしましたが、当時の大陸貿易の品目の中では生糸、絹織物、綿織物に次ぐ重要輸入品が砂糖でした。
日本での砂糖の製造
さとうきび
江戸時代の初期、最初に砂糖の製造を始めたのは当時の琉球(沖縄県)でした。1623年に琉球の儀間真常が中国に使いを出し、砂糖の製造方法を学ばせ黒糖を製造したと言われています。その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島おいても、さとうきびは製造増産され、管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。
 当時は鎖国状態であったため、貿易の窓口である長崎の出島に限定して陸揚げされた砂糖のほとんどが、中央市場である大阪の問屋(当初は薬種問屋のちに砂糖問屋)へ運ばれ、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷されていきました。
幕府は砂糖の国産化の方針を打ち出し サトウキビの作付けを全国に奨励します。江戸時代の中期以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まっていきました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します.
和三盆とは:(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86)
徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励すると、高松藩が特産物創生と財源確保を目的としてこれに呼応した。
その後、徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、領内各地で栽培できるまでなった。しかし精糖の方法については不明だったため、他国における秘伝扱いの情報を収集し、高松藩とほぼ同時期の1700年代末に精糖方法を確立させた。徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆糖、香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖と呼ぶ。
和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出され、全国の和菓子や郷土菓子の発展に大いなる貢献を果たした。

gooブログへ自動転送にしてしまってご免なさい!

2014年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
gooブログへ自動転送にしてしまってご免なさい!

手違いで今までの「OCNブログ人」ブログを早々とgooブログへ自動転送にしてしまってご免なさい!
「ブログ人」ブログと違った写真と文章の配置で困惑されたと存じます。

2、3日後に元に戻るように手配しました。

しかし、OCNの方は11月30日で営業停止になりますので、11月25日以降はこちらのgooブログへ自動転送にいたします。

従来どうりお付き合いのほどを謹んでお願い申しあげます。

たかがブログといえども私自身も少しガッカリしています。大げさに言えば無常感をかんじています。

それはそれとして、皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘

世界遺産の最も古い岩塩鉱山の写真です

2014年10月23日 | 写真
ポーランドの岩塩の採掘坑は1978年にユネスコの世界遺産に登録されました。最初に登録された12件のうちのひとつです。
創業は1044年で、クラクフ首都圏内の都市ヴィエリチカで稼働していましたが、コストの問題と坑内で洪水が起きる危険性があることから1996年に商業採掘は中止されました。
坑道は3キロ以上にわたってカトリック信者だった坑夫たちの深い信仰から彫った数多くの作品が陳列されていて観光名所になっています。毎年110万人もの観光客が訪れているのです。
訪問者にはコペルニクスやゲーテやヨハネ・パウロ2世やビル・クリントンなどの著名人がいるそうです。
一番目の写真は最後の晩餐を岩塩で彫り出した作品です。
二番目の写真は岩塩を掘って作った礼拝堂です。
この様にヨーロッパでは昔から岩塩の採掘が続き、海水からの食塩より多量に作られていました。



写真と下の参考資料の出典は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%81%E3%82%AB%E5%B2%A9%E5%A1%A9%E5%9D%91 です。
====参考飼料========================
ポーランドのヴィエリチカ岩塩坑とは:
1044年の創業(ポーランド王国のクラクフへの遷都は1038年)。「キンガ妃の指輪事件」がきっかけとなり国営企業となったのは1250年。廃坑になっていない岩塩坑としては世界最古で、同時に世界最古の製塩企業でもある。深さは地下 327 m 、全長は 300 km 以上に及ぶ(廃坑になっているものも含めると世界最古の岩塩坑は同じくポーランド共和国マウォポルスカ県にあるボフニャ岩塩坑。また現在操業中の岩塩坑でポーランド最大規模のものはヴィエルコポルスカ県クウォダヴァ町にあるクウォダヴァ岩塩坑)。
特筆すべきは、観光客向けの 3.5 km の坑道で、歴史上や神話上の様々なモチーフを象った彫像が並んでいる。その全ては、坑夫たちが信仰のために岩塩を彫り上げたものである。さらには屈曲した部屋や礼拝堂が岩塩で形成され、岩塩採掘史の展示までがなされている。さながらそこは岩塩製の地下大聖堂のごとき景観を呈しているのである。
この岩塩坑には年間110万人もの観光客が訪れる。長い歴史においてこの岩塩坑を訪れた有名人には、ニコラウス・コペルニクス、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、アレクサンダー・フォン・フンボルト、ドミトリ・メンデレーエフ、イグナツィ・パデレフスキ、ロバート・ベーデン=パウエル、カロル・ボイティワ(後のヨハネ・パウロ2世)、ビル・クリントンなどがいる。
第二次世界大戦中には、この岩塩坑を占領したドイツ軍がその一部を軍需物資の製造拠点として使用した。

今日も雨で暗い日なので気分が良くなる写真をお送りします

2014年10月23日 | 写真
今朝の「塩と砂糖(4)藻塩、山塩から世界の塩へ視野を広げよう」と題する記事の中に出て来る「塩湖」の風景です。この湖は有名なウニ湖です。
三枚の写真の出典は、http://sekaishinbun.net/2013/12/28/uyunisaltlake-2014/ です。





塩と砂糖(4)藻塩、山塩から世界の塩へ視野を広げよう

2014年10月23日 | 日記・エッセイ・コラム
この「塩と砂糖」と題する連載では縄文時代の塩の作り方や萬葉集に出てくる藻塩の作り方を説明しました。そして塩を含んだ温泉からとった山塩についても紹介しました。
ここで話題を砂糖に変えたいところですが、その前に視野を一挙に広げて世界の塩の生産と、その工業的な利用の状況を概観してみましょう。
塩は世界で毎年2億8千万トン位生産されています。おもに岩塩や塩湖の塩ですが、海水から塩田で生産される量もかなりあります。
この年間3億トンに近い多量の塩の大半はいろいろな製造工業の副原料として石鹸、化学繊維、紙、パルプ、化学薬品、食品工業、など幅広く使用されています。
塩から電気分解により苛性ソーダを作り、その苛性ソーダを多量に使っているのです。この工業分野をソーダ工業と言います。
塩すなわちNaClから苛性ソーダを作るには電気分解を利用して参考資料で示したような化学反応で作ります。
さてそれでは日本は毎年どれだけの塩を外国から輸入しているのでしょうか。
下の図には輸入量と使用目的が示したあります。

(図面の出典は、http://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/2008/0807jul/04_01.html です。)
日本で毎年使用する塩は約930トンで、そのうち調味料の食塩として使用される量はたったの3%、29万トンだけです。その他の食品加工業で使われる塩の量を合わせても15%、121万トンにしかなりません。
そして塩の85%は外国から輸入しているのです。
以上のような事情をまとめると日本の食生活に使用されている食塩は主に外国産の岩塩を精製したものであると言っても大きな間違いがありません。
スーパーで売っている安価な塩は工業的に精製した製品なので安心して使用出来ます。塩の味が違うのは粒子の大きさの違いです。藻塩や山塩には海藻の味やミネラルの味がほんのりついていて文字通り味わいが深いのです。
参考資料には世界の塩の生産方法と国別生産量が掲載されています。お暇の折にゆっくりご覧下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==================
(1)塩から電気分解によって苛性ソーダを作る化学反応:

(反応) NaCl + H2O → NaOH + 1/2H2 + 1/2Cl2
           苛性ソーダ  水素 塩素

(2)世界の塩の生産方法と国別生産量:
世界には、様々な塩資源がありますが、どれもみな海水が形を変えたものであり、もとをたどれば全て海水です。資源別に塩の製法を詳しく見ていきましょう。
出典は、http://www.shiojigyo.com/a040encyclopedia/encyclopedia2/encyclopedia2_5/ です。
海水:
雨が少なく乾燥した地域では、海水を塩田に引き込み、太陽熱と風で水分を蒸発させ塩の結晶を得る天日製塩の方法がとられています。
日本では、多雨多湿の気候から天日製塩は難しく、古来から海水を一旦濃縮し、それを煮つめるという2段階方式で塩をつくってきました。
この海水を濃縮する方法が、塩浜(揚浜式塩田、入浜式塩田、流下式塩田)やイオン膜であり、最近はタワー式やネット式などいろいろな方法で行っている商品も見受けられます。
岩塩:
大昔、海の一部が大陸の移動や地殻変動で陸地に閉じ込められ海水の湖となったものが干上がって塩分が結晶化し、その上に土砂が堆積してできたと考えられています。
形成時期は5億年から200万年前といわれ、世界にある岩塩の推定埋蔵量は、現在知られているだけでも数千億トンにもなり、岩塩由来の地下塩水(岩塩が地下水で溶かされて濃い塩水になったものを地下塩水(地下かん水)といいます。)も含めると、世界の塩の生産量の約3分の2が岩塩からつくられています。
このように地球上には多くの岩塩が埋蔵されていますが、日本国内には存在しません。
岩塩の採鉱法には「乾式採鉱法」と「溶解採鉱法」の2通りあります。
岩塩は鉱物などの異物を含んでいることがあるため、一旦水に溶かして異物を取り除いてから再び結晶化させる方法もとられています。
湖塩:
大昔、海だったところが地殻の変動で陸に封じこめられ、水分が蒸発して濃度が濃くなったのが塩湖(濃い塩水の湖)です。塩湖から採取した塩を湖塩といいます。塩湖で析出した塩を掘り出すほか、濃い塩水を使って、天日製塩と同じ方法で塩をつくる場合もあります。
主要国の主な製法と生産量の推移:http://www.shiojigyo.com/a080data/img/sekainosioseisan2011.pdf をクリックすると一覧表が出て来ます。是非、ご覧下さい。
2011年の上位5ケ国の塩の生産量は以下の通りです。
1位、中国、6400万トン (岩塩、海水、湖塩)
2位、アメリカ、4400万トン (岩塩、海水、湖塩)
3位、インド、2200万トン (海水と岩塩)
4位、ドイツ、1740万トン (岩塩)
5位、カナダ、1260万トン (岩塩)
・・・・・・
32位、日本、約100万トン (海水)

詳しく示すと以下のようになります。
順位 国名 主な塩資源 生産量(百万トン)
--------------------------------2007 2008 2009 2010 2011 年
1位 中国 岩塩、海水、湖塩 61.7 66.6 66.6 70.4 64.3
2位 アメリカ 岩塩、海水、湖塩 44.5 47.3 46.5 44.0 44.0
3位 インド 海水、岩塩 17.8 19.2 24.0 18.6 22.2
4位 ドイツ 岩塩 13.4 13.8 16.9 16.6 17.4
5位 カナダ 岩塩 11.9 14.4 14.7 10.5 12.6
6位 オーストラリア 海水 10.8 11.2 10.3 12.1 11.4
7位 チリ 岩塩 4.4 6.4 8.4 7.7 10.0
8位 メキシコ 海水 8.0 8.8 7.4 8.6 9.4
9位 ブラジル 海水、岩塩 7.0 6.7 5.9 7.0 7.0
10位 オランダ 岩塩 6.2 6.2 6.0 6.0 6.9
11位 イギリス 岩塩 5.6 5.6 6.2 6.7 6.7
12位 フランス 岩塩、海水 6.1 6.0 6.1 6.1 6.0
13位 ウクライナ 岩塩 5.5 4.4 5.4 4.9 5.9
14位 トルコ 海水、岩塩 2.9 3.0 4.3 4.6 4.6
15位 スペイン 岩塩、海水 4.1 4.3 4.2 4.5 4.5

32位 日本 海水 1.1 1.1 1.1 1.1 1.0

世界計 255.0  270.4  279.0  277.7  281.8 (百万トン)

暗い日ですがこんな写真を見て気分を明るくして下さい

2014年10月22日 | 写真
今日は朝から雨で暗い一日です。
気分が明るくなるように沖縄のサトウキビの畑と空の写真をお送りいたします。
一番目の写真の出典は、http://blog.livedoor.jp/mringo/archives/26138045.html です。
二番目の写真の出典は、http://shimanookurimono.ti-da.net/e595881.html です。
三番目の写真の出典は、http://reynolds.exblog.jp/12370531/ です。





塩と砂糖(3)山からとれる山塩の紹介

2014年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
日本人は縄文時代以前から海水から塩分をとってきました。土器が作れるようになった縄文時代からは海水を煮詰める専用の製塩土器で塩を作っていました。
しかし山からも塩が採れるのです。
日本列島の地質学を考えると岩塩は存在しませんが、温泉から塩がとれるのです。...
それを山塩といい限られた所で古来から使われてきたようです。
現在、山塩を商品として売っているところは長野県大鹿村にある鹿塩温泉と福島県の会津山塩企業組合です。
一番目の写真は鹿塩温泉の山塩のパックで、二番目の写真は会津の山塩のパックです。値段は数百円です。
詳しくは、それぞれ下のURLをご覧下さい。
http://yudetako.com/kashio.html
http://www.aizu-yamajio.com/syohin/
それにしても日本にも岩塩が埋まっていると信じて明治の初めころに坑道を掘って探した人がいました。彼は旧徳島藩士黒部銑次郎でした。岩塩の採掘が試みたのです。外国の岩塩についての文献を読んだ黒部は、岩塩の存在を信じていたのです。現在の地質学の知見では、砂漠になったことがない日本列島には、岩塩は存在しないと考えられています。
岩塩は発見できませんでしたが、塩泉を利用して湯治場が開かれました。これが現在の鹿塩温泉の始まりです。三番目の写真にこの鹿塩温泉の写真を示します。そして四番目の写真はこの温泉にある黒部銑次郎さんに関する説明板です。
山塩の作り方は塩を含む温泉水を煮詰めるだけです。
さて話は変わりますが日本各地には塩川とか塩山とか塩のついた地名が沢山あります。如何にも岩塩や温泉の塩と関係がありそうですが、全てほとんど塩と関係ありません。しおれるとかしぼむとか他の言葉を漢字にしたものです。なにせ日本列島には地質学的に岩塩の存在は否定されているのです。
例えば、山梨県甲州市塩山の地名は、市の中央に鎮座する「塩ノ山554m」に由来する。塩(しお)の意味は、もちろんNaclの意味ではなく、日本語の「しぼむ」「しおれる」という言葉から来ている。「しょぼくれる」という意味にも使われる「しお」だ。この「塩ノ山」は確かに遠くから見ると、甲府盆地の平らにあって、その姿がぽつんとしょぼくれて見えたり、ぎゅっとしぼんだ山にも見 える。土地の人は、素直に感じたままを山の名前にしたのだ。(この項の出典は、
http://baba72885.exblog.jp/13785670 です)
現在、山塩の生産量は非常に少ないので一般的に広く使用されていません。しかし前の記事の「藻塩」とともに食生活を豊かに楽しくしています。(続く)







ウチワを配るかワインを配るか・・・その比較文化人類学的考え方

2014年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
皆様は「風が吹けば桶屋がもうかる」という小話をご存じでしょうか。
風が吹くと砂埃がま舞い、目の不自由な人が増える。すると音曲で暮らしを立てることになり三味線の需要が増える。三味線を作るために猫の皮を用いる。猫が少なくなるとネズミが増える。ネズミが台所や物置にある桶を齧って穴をあけてしまう。新しい桶がどんどん売れる。だから桶屋が儲かる。
この小話は因果関係のないことを強引に繋いだところがおかしいのです。その上、昔の日本人の暮らしぶりを示しているので歴史的な価値があります。
前置きが長くなってしまいましたが今日これから書くことは「風が吹けば桶屋が儲かる」ような話です。信用しないで下さい。笑い飛ばして下さい。
最近、優秀な二人の女性大臣が有権者へウチワを配ったり、ワインを配ったりして辞職しました。
この2人を比較すると、ウチワよりもワインを配った方が悪いと感じます。
それが普通の感じ方ではないでしょうか?有権者を酔わせて投票してもらうのと、ウチワであおいで良い気分になって投票してもらうのとどちらが悪いのでしょうか?
この違いは二人の大臣の持っている文化の違いです。二人を取り囲む後援者の民度の違いです。お酒を貰いたい有権者が居る。お酒は選挙違反だと思っている有権者が居る。この違いが民度の違い、文化の違いです。
ところが比較文化人類学ではどんな民族、どんな文化にも絶対に優劣が無いと教えています。ですから民度の違いなどという考え方を厳しく否定します。
この原理に従えばウチワもワインも同じように選挙違反だという結論になるのです。優秀な二人の大臣が同じ日に辞めたことは比較文化人類学的には正しいことでした。
ここで「風が吹けば桶屋がもうかる」ように話を飛ばします。この世の全ては比較すると客観的に、公平に理解出来るという話へ飛躍するのです。
日本の政治体制とアメリカの政治体制を比較するとそれぞれの民主主義の違いが理解出来ます。しかし双方の民主主義には絶対に優劣が無いのです。
同じように仏教とキリスト教を比較すると絶対に優劣が無いのです。私がカトリックになったお蔭でそのことが確信するようになったのです。そのことを説明すると長くなるので稿をあらためて書きたいとおもいます。
結論を言えば上のような飛躍した話こそ「風が吹けば桶屋がもうかる」という話になります。なにせウチワとワインの違いが仏教とキリスト教の違いへつながっているのですから。
荒唐無稽な話を書いて失礼いたしました。今日の挿絵は私の好きな唐招提寺の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

===唐招提寺とは======================
唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。
多くの苦難の末、来日をはたされた鑑真大和上は、東大寺で5年を過ごした後、新田部(にたべ)親王の旧宅地(現在の奈良市五条町)を下賜されて、天平宝字3年(759)に戒律を学ぶ人たちのための修行の道場を開きました。
「唐律招提」と名付けられ鑑真和上の私寺として始まった当初は、講堂や新田部親王の旧宅を改造した経蔵、宝蔵などがあるだけでした。
金堂は8世紀後半、鑑真和上の弟子の一人であった如宝の尽力により、完成したといわれます。
現在では、奈良時代建立の金堂、講堂が天平の息吹を伝える、貴重な伽藍となっています。
http://www.toshodaiji.jp/about.html より。

塩と砂糖(2)藻塩を焼いて何故塩が出来るのでしょうか?

2014年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
万葉集に次のような歌があります。・・・淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕なぎに “藻塩”焼きつつ 海人娘子 ありとは聞けど 見に行かむ ・・・
松帆の浦で藻塩を使って塩を作っている美しいという噂の娘を見に行きたいのだが・・・という男の歌です。彼は笠朝臣金村といい万葉集 巻六-935の歌です。
その他に万葉集には藻塩や塩を焼くという言葉が度々出て来ます。
塩を作る製法は次のように3段階です。
(1)海水を玉藻すなわちホンダワラにかけ天日に干します。乾いたらまた海水をかけ干します。これを何度も繰り返しホンダワラの上についた塩を増やします。
(2)塩が多量に付着したホンダワラを海水で洗い、濃厚な塩水、すなわち「かん水」(鹹水)を作ります。この鹹水にはホンダワラの風味が少しついています。
(3)この鹹水を製塩土器に入れて煮つめて塩の結晶を作ります。
この上の(3)の過程で乾燥させたホンダワラを焼いてその灰を鹹水に混ぜてホンダワラの味を濃くしたものもあります。
現在、全国のあちこちで「藻塩」を製造して販売しています。近代的な製造設備を使っているので「製塩土器」は使いません。
一番目の写真は市販されている藻塩の一例です。「藻塩」を検索すると数多くの店で販売していて、ネットで取り寄せられます。値段は一袋数百円です。
話は変わりますが宮城県の塩釜市には塩竃神社がありその中に御釜神社があります。この御窯神社の神事に藻塩焼神事があります。
その神事は上で示した3段階を忠実に行う神事です。
二番目の写真に御釜神社を示します。そして三番目の写真には藻塩焼神事の様子を示します。



大和朝廷が塩竃市の西隣に多賀城の砦を作ったころ、塩竃で藻塩焼きをして塩を作ったという伝承にもとずいた神事です。以下のような3段階の神事です。
(1)7月4日 藻刈 鹽竈神社の幟を立てた小船を宮城郡七ヶ浜町花淵湾(鼻節神社の沖合)に出し、海底より海藻のホンダワラを刈り取って櫃に納めて持ち帰り、社殿に御供えする。
(2)7月5日 御水替 午前10時、当社に奉告の祭典を行った後、松島湾の釜ヶ淵に小船を出す。船上で儀式を行い、満潮時の海水を汲み帰って神竈の柵内に置く。午後5時より旧来の神竈の古い水を新桶に汲み取って残水を去り、竈の内外を藤蔓で洗浄してから、汲み帰って来た潮水を竈に入れる。
(3)7月6日 藻塩焼例祭 神竈と同形に作った塩焼竈の上に竹で編んだ棚を置き、4日の藻刈により刈り取って来たホンダワラを広げる。その上から潮水を注いで竈の中に鹹水を蓄え、時間をかけて煮詰める。できた荒塩は採集して、まず御釜神社の神前に供え、10日に鹽竈神社の3座の神前に御供えする。

現在市販されている「藻塩」の味は塩にホンダワラの味を加えたようなまろやかな美味しい味だそうです。試に購入されて味わうのも良いと思います。

塩と砂糖(1)縄文時代の製塩方法と製塩土器

2014年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
塩と砂糖は現在の世界中の料理に使われています。大げさに言えば人間の必需品です。などと大きな話をしていきなり矮小なことを書きますと塩味と砂糖味はいつも私共夫婦の論争の原因になっています。
家内は塩や砂糖の少ない薄味の料理が好きです。鎌倉生まれ東京育ちなので関西の薄味好みとは違ういきさつがあります。
一方私は仙台生まれ、仙台育ちなので思いっきりショッパイものが好きです。鮭は超辛い塩引きが好物です。全ての料理は塩味が濃くて砂糖が沢山入っていたほうが好きです。私は塩は偉大な調味料として尊敬し大切にしています。
そこで今日は縄文人たちがどのようにして塩を作っていたか調べてみました。
簡単に言えば海水を土鍋に入れて煮詰めて塩を作っていたのです。
燃料を節約するために古墳時代や奈良時代には海藻を海水で濡らし、天日で干し、それを海水で洗って濃厚な塩水を作り、それを土鍋で煮詰めていたようです。
土鍋で煮詰めないで濃厚な塩のついた海藻を焼いて塩を作る方法もあったようです。万葉に、「藻塩やく」という言葉が出てきます。
塩田が出てくるのはずっと年代が下がってからです。
さて縄文時代に海水を煮詰めた土器を考古学では製塩土器というそうです。土器に多量の塩が浸みこんでいるので簡単に分かるのです。
そこで一、二、三の写真に示した日本の地域ごとの製塩土器の時代による変遷の図面を見て見ましょう。
出典は、http://www.jti.co.jp/Culture/museum/sio/japan/mosioyaki.html
たばこと塩の博物館 公式HPです。

この図をよく見ると縄文時代は青森、岩手、宮城、茨城のような東日本が塩の主な生産地だったようです。
そして弥生時代から古墳時代になると能登、若狭、大阪、和歌山、瀬戸内海沿岸、そして九州で塩が生産されるように変わったのです。
この縄文時代の製塩方法は奈良時代や平安時代以降も行われていたことも驚きです。
四番目の写真の図は製塩土器を多数同時に焚火の中で焼いて海水を煮詰めている様子です。

この図は淡路島での製塩作業の様子イラストで、出典は
http://www5.ocn.ne.jp/~kokoken/index.html
考古幻想HPです。
このイラストを見ると製塩作業の効率が良いようで、それが当時の一つの産業になっていた様子がわかります。
このように製塩作業は縄文時代から組織的に一つの産業として海沿いの各地で行われていたのです。
塩田技術への進歩は平安中葉から鎌倉時代になってからのことですが、それについては稿を改めて書くつもりです。
今日書いたことは主に以下の優れた資料を参考にしました。記して感謝の意を表します。
勉強ノート、製塩土器:http://www.geocities.jp/shimizuke1955/304salt2.html

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

曇り日の武蔵野公園を散歩しながら写真を撮ってきました

2014年10月20日 | 写真
ケヤキの大木やユリノキが色づきはじめていました。
ススキの原っぱが晩秋の雰囲気です。
フユザクラがさびしげに咲いています。萩も咲いていました。
そしてサザンカも開いていました。
曇りで冷たい風が吹いています。それでも自然の中を歩くのは気持ちの良いものです。さきほど撮ってきた写真をお送りいたします。











孤独と老境・・・その悲しみと楽しみ

2014年10月20日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は矛盾した存在で孤独にあこがれ本当に孤独になると淋しくなり人間が恋しくなるものです。
特に老境にいたると年上の親兄弟、親類、そして恩人たちや友人が亡くなってしまって誰でも孤独になります。子供や孫たちも独立した頼れるのは妻だけになります。その上、間もなく独りで旅立つ日も現実感をもってせまってきます。
ですからこそ老境は悲しいものです。しかしその一方、自分を善い意味で束縛していた歳上の人々がみないなくなると自由な明るい空間が我が身をとり囲むのです。何をしても自由です。楽しいのです。自由の素晴らしが毎日実感出来ます。
ところが私のある知人はそんな自由な生活を山林の中で楽しんでいるのです。木内正夫さんです。
山梨県、北杜市にある甲斐駒や八ヶ岳、そして鳳凰三山の見える山林の中に20年以上一人で住んでいます。 山荘も自分でロマンチックな構造を考え建てたのです。
一番目の写真は左右にわかれている2階部分をつなぐ天空の橋です。

そこを渡ると二番目の写真のような鉢植えの花を一面に並べる屋上があり、その後ろは18畳くらいの大きな部屋です。

そしてコンピューター室は別棟の母屋の3階に作りました。陽射しが温かく、落葉した雑木林の梢が見渡せます。
母屋の南側を少し下ると一年中ヤマメの棲んでいる小川が流れています。そのほとりに木内さんは深い池を作りました。三番目の写真がその小川です。

ある年にこの池の近辺にモリアオガエルの白い泡の卵塊を見つけたそうです。そこでモリアオガエルの卵塊から数十匹のモリアオガエルを育て上げました。
自然界ではモリアオガエルは樹木の上で生きています。脚に吸盤がついていて木の葉に貼り付いて虫などを捕食して成長します。飛び跳ねる力が想像以上に大きくて、一度に3mくらい跳ぶそうです。こうして木から木へと樹上生活を続けるのです。卵を産む時だけ水辺に帰って行くのです。
木内さんは数十匹のモリアオガエルを箱の中に入れ、ヨーロッパコウロギを餌にして育て上げました。このコウロギの飼育も一苦労だったそうです。
四番目と五番目の写真が育ったモリアオガエルの写真です。



寒い冬になるとカエル達は冬眠をします。そこで鬼家さんは数十匹のモリアオガエルを入れた箱を家の中で暖房をしていない寒い部屋に入れて、注意深く低い温度に調整しています。
このように深い森の中で独りで暮らしているとめったに人に会いません。そして最近は六、七、八、九番目の写真のような小さな草花を丁寧に育ててその写真をブログに掲載しています。







このように独りで森の中で暮らしている木内さんの生活に憧れて何度も何度もお邪魔していろいろなことを教わりました。ブログを始める方法も7年前に教わりました。
木内さんは孤独です。しかし淋しそうにしません。いつも意気軒昂です。彼の生活ぶりを見ると全く自由な生き方を深く楽しんでいるのです。
老境は時々暗い気持ちになる時があるものです。そんな時はこの木内さんのブログ(http://sizen068.blog95.fc2.com/ )を見て元気になって下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

今日の村山貯水池・・秋の午後の陽射しを撮る

2014年10月19日 | 写真
午後3時頃に斜めになった秋の陽射しの写真を撮ろうと思い車で行ってみました。陽射しの弱弱しい感じを表現しようとしましたが、あまり成功しませんでした。
写真をご覧になって清浄な秋の空気を感じて頂けたら嬉しく思います。









野火止めの平林寺の紅葉・その見所いろいろ

2014年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
武蔵野の一角にある平林寺は紅葉の名所としてこれから11月にかけて訪れる人が多いところです。紅葉の季節だけなく、広い境内の自然が四季折々美しい景観を示してくれます。何度も散策した場所なので今日は紅葉の写真と共にこのお寺の見どころをいろいろご案内いたします。
建物では1664年に建てられた山門が静かなたたずまいで迎えてくれます。
本堂の他に僧堂、修行僧たちの住まいも静かな佇まいを見せています。
禅の専門道場なので静かに左の池を回り墓地の中に入ります。
墓地には島原の乱の犠牲者の供養塔や武将たちのお墓があり説明板があります。地方史に興味のある方には面白い墓地です。
その奥の松平家の墓所には立派な墓石が並んでいます。そこを抜けるといよいよ武蔵野の雑木林が広がる散策路です。木々の紅葉を充分楽しめます。
今頃は紅葉にはまだ早く、例年では11月が丁度良い頃です。
下の紅葉の写真は2012年の12月初旬に撮ったもので、紅葉の終わり頃のものです。
この雑木林は武蔵野の自然をそのまま残している貴重な場所です。植物に興味のある天皇陛下も2度訪れてています。
雑木林にはクリ、コナラ、クヌギ、アカマツなどの林が残存し、林床はクマザサなどに覆われています。 また、アカハラ、アオゲラ、キビタキ、ルリビタキなど約60種に及ぶ鳥類も見られます。
この雑木林を北へ進み奥の方にある歴代住職のお墓の並んでいる墓所も是非ご覧頂きたいと思います。
江戸時代に何度も飢饉があったり、明治維新のための戊辰戦争がありました。日清・日露の戦争もあり、そして太平洋戦争です。
しかしこの歴代住職のお墓の並んでいる墓所に立って、静かに墓碑を読んでいると何事も無かったような気がします。この世の騒がしさが、遠い遠いくにの出来事のように感じられのです。
そんな気分になる平林寺なのです。紅葉の写真をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料===============
(1)平林寺の歴史:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%9E%97%E5%AF%BA
永和元年(1375年)、現在のさいたま市岩槻区に創建。開山は石室善玖(せきしつぜんきゅう)、開基は大田備州沙弥・蘊沢(うんたく)。当初は臨済宗建長寺派。大徳寺派を経て妙心寺派の寺院となった。なお、蘊沢は、岩槻城・太田道真(道灌の父)と同一視されることがあるが、道真は平林寺創建の時点ではまだ生まれていない。寛文3年(1663年) 川越藩主・松平信綱の遺志をうけて、子の輝綱が菩提寺として野火止に移転。

(2)平林寺は禅修行のお寺:http://www.heirinji.or.jp/shugyou/hansoubou.html
山門の左側、放生池近くに唐破風をつけた入母屋造りの半僧坊感応殿があります。半僧坊は、静岡県引佐郡引佐町にある臨済宗方広寺の鎮守である半僧坊大権現がその源と言われています。権現とは、仏教の仏様が神として仮の姿で現れることを言います。
明治23年(1890)、鎌倉建長寺の守護神として分祀された半僧坊は、同27年、一九世玉圓禅師の代に平林寺に勧請されました。
毎年4月17日はこの大祭の日で、感応殿では大般若経600巻などの転読などが行われます。近隣法類のお練りや稚児行列などもあり、雅楽の音が響く平林寺の門前には200軒余りの各種露店や植木市などが軒を連ね、善男善女で大いに賑わいます。

(3)平林寺は国指定の天然記念物:http://www.weblio.jp/content/%E5%B9%B3%E6%9E%97%E5%AF%BA%E5%A2%83%E5%86%85%E6%9E%97
 平林寺は、野火止用水に沿ったいわゆる武蔵野の一角にある禅寺で、境内約40ヘクタールには、武蔵野の二次林であるクリ、コナラ、クヌギ、アカマツなどの林が残存し、林床はクマザサなどに覆われている。
 また、アカハラ、アオゲラ、キビタキ、ルリビタキなど約60種に及ぶ鳥類の繁殖地あるいは渡来地として、毎年利用されているほか、こん虫類もオオムラサキをはじめ多くの種類がここに生息し、いわゆる多摩丘陵以東の武蔵野における二次林を主体とした自然の残存地域として、学術上貴重であり、昭和43年に指定された。