後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

調布飛行場の墜落事故と静かな今日の飛行場の様子

2015年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
調布飛行場は東京の杉並区や世田谷区に近い便利な場所にあります。
その飛行場で悲しい事故が起きてしまったのです。
7月26日午前10時58分頃、調布市富士見町の住宅街で、近くの調布飛行場を離陸した直後の米パイパー社製小型飛行機(全長8・7メートル、)が墜落しました。
5人が乗った小型機と民家が炎上し、操縦士を含む男性2人と、民家にいた女性1人の計3人が死亡し、小型機の同乗者の男性3人と、住民女性2人の計5人が重軽傷を負ったのです。
死亡したのは小型機を操縦していたとみられる川村泰史機長(36)(川崎市)、同乗の30歳代の早川充さん(東京都練馬区)、小型機が墜落した民家に住む鈴木希望さん(34)の3人でした。
 機体の後部座席に乗っていた田村康之さん(51)(埼玉県三郷市)、森口徳昭さん(36)(港区)、花房剛さん(35)(文京区)の3人も、やけどや腰椎骨折などで重傷です。
この小型機は、調布飛行場を南に向けて離陸し、やや左に曲がりながら高度を下げ、約700メートル先の民家2棟の屋根に接触した後、鈴木さん宅に突っ込んで炎上したのでした。
大変不幸な出来事です。亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。
この調布飛行場は私の家から車で10分位の近所です。
伊豆七島の大島、新島、神津島、そして三宅島へ定期航空路があり、東京と離島を結ぶ重要な空港です。そして会社や個人が所有する小型機が使っている楽しい飛行場でもあったのです。
そんな飛行場で悲しい事故が起きてしまったのです。
事故から3日がたち、少し落ち着いた頃と思い、先程、調布飛行所の写真を撮りに行きました。
それはそれとしてこの飛行場は1941年(昭和16年)4月30日、竣工式が行われ、東京府により公共用飛行場として開設されたのです。
第二次世界戦争末期は、首都圏に飛来するボーイングB-29爆撃機などを撃退するために戦闘機隊が配備された。中でも有名なのは飛燕戦闘機です。この戦闘機の掩体壕は現在でも保存、展示されています。
飛燕は京浜地区の空襲のたびに出動しB-29に体当たりするなどして戦果を挙げましたが、沖縄戦が始まると特攻作戦支援のために九州へ移動したため、調布飛行場には偵察機だけが残されたのです。この戦闘機の体当たりを当時、調布で目撃した西 澤 和 衛 さんの話を以下にご紹介します。出典は、
http://bokusen-nszw.jimdo.com/%E6%98%AD%E5%92%8C20%E5%B9%B4-b%EF%BC%92%EF%BC%99-%E6%92%83%E5%A2%9C/ です。 
・・・ボクは、いつものように防空壕の扉の隙間から必死に空を見上げていました。 日本の戦闘機が大きなB29を追いかけながら、果敢に攻撃を仕掛け、高射砲陣地からも盛んに射撃をしていましたが、B29には弾が届いていないのか、はるか低い所で破裂しているみたいでした。
 そして、7,8機のB29の梯団が次々に東京方面へ飛び去った時、新たに西のほうから飛んできた編隊の2番機に、日本の小さな戦闘機がキラリと光って体当たりをしたのです。
一瞬、白煙が出て、B29はガクンと速度を落として編隊を離れ、ゆっくりと回転しながら落下しはじめました。
「 やったっ! やったっ!」表で見ていたらしい、人たちの歓声や手を叩く音が聞こえました。 しかし、その後 B29は落下する途中でバラバラに空中分解し、ボクたちの住む調布の方に落ちてきたのです。
「 ぅわーっ! 逃げろ!」と言う声と共に、皆われ先に自分の家の防空壕に飛び込みました。・・・・
そして、少し離れた人垣の足の間から潜り込んで見たのは、仰向けに寝かされたアメリカ兵の姿でした。 ボクは、お兄ちゃんに「 怪我してるの?」と聞いたら、「 もう、死んでるんだよ」と言う返事でした。 そして、大人の人達は、「 コンチクショウ! お前たちのおかげで・・・」とか、「 コノヤロウ!」とか言って、蹴飛ばしたり、唾を吐きかけたりしていました。 中には「 お前たちには勿体無い!」等と言いながら、その兵隊さんの指輪などを抜き取ったり、ポケットに手を突っ込んで何かを取り上げたりしている人もいたのです。
ボクは幼なごころにも、そんな事までしなくても、と兵隊さんが可愛そうで悲しくなりました。
 その兵隊さんのカーキ色の軍服には、胸の辺りから足の方にかけて血で真っ赤に染まっていました。
 ボクがこわごわ、そっと覗いた茶色の飛行帽の中の顔は、茶色の髪の毛と薄く目を開いている、青い目をした綺麗な顔でした。
 ボクは、またまた驚きました。 アメリカ兵は「 鬼畜米英 」と聞かされていましたから、アメリカやイギリスの兵隊さんは、みんな鬼のような恐い顔をして、物凄く恐ろしい、獣のような人ばかりだと思っていたからです。
 ボクは、家に帰ってから出来るだけ詳しく、一生懸命母に話しました。
母は、先ず言う事を聞かなかった僕を𠮟った後、「 犬や猫でも、毛の色や顔が違っていても、犬は犬、猫は猫でしょう? 人間も一緒なのよ。 肌の色や髪の色や、言葉が違う外国人も、ボクたちと同じ人間なのにね。 どうして仲良くできないんだろうね~?」と言い、「 あの人たちにも、子供や家族が居るんだろうに、可哀想にね。」と言って、あの兵隊さんの方に向かって手を合わせました。
ボクは、母の言ってる意味が良く解らないまま、一緒に手を合わせました。
 後から聞いた話では、あの B29には10人ほどの戦闘員が乗っていたそうです、そのうちの3人は、一応、あちこちに落下傘でおりて怪我をしていたものの生きていたそうですが、一人は捕虜として憲兵隊に引き渡され、二人は民間人に鍬などで暴行されて死んだそうです。
 体当たりをした「 飛燕 」の兵隊さんは、当たる直前に落下傘で脱出し、世田谷あたりで救出されたそうです。・・・・以下省略。
こんなことを思いながら調布飛行場の写真を撮って来ました。
大島、新島、神津島、そして三宅島へ定期航空の飛行機(二番目の写真)は定刻通り飛んでいる様子でした。
三番目と四番目の写真は会社や個人の所有する小型機です。随分以前に義兄がセスナ機を共同所有していて乗せてもらい北関東を一回りしたことを思い出しました。
五番目の写真は戦時中の戦闘機の掩体壕です。
それにしても時代の移り変わりには驚きます。

上の写真の出典は、http://jin115.com/archives/52091267.html です。







40年前にスエーデンで教わった山小屋へ通う趣味

2015年07月29日 | 日記・エッセイ・コラム
それは1973年の夏のことでした。ストックホルムの王立工科大学へ私を招待してくれたエケトルプ先生が、海の傍にある粗末な木造の小屋につれていってくれたのです。
海に突き出た岬にある小屋の周囲には人家も無く荒涼とした岩山の上にポツンと建っています。はっきり言えば掘っ立て小屋です。潮風に吹き倒されそうに少し傾いています。
小屋に着くと先生夫妻は小屋の掃除や、周囲の雑草を取りをして忙しそうに働いています。私も手伝いました。
労働でお腹が空いたころ庭先のテーブルの上でランチです。フライドチキンと生のキューリをかじるだけの食事でした。周囲は入組んだ海です。
北欧の暗い海は夏になると碧く輝くことを発見しました。大きなカモメが時々鳴きながら飛んで行きます。
エケトルプ先生はこの小屋に来てボンヤリ海を眺めたり、小屋が倒れないように修理をするのが趣味だと言います。何も無い自然の中で時を過ごすだけで楽しいのですと言います。
もう何年もこの小屋に通っているそうです。
夏だけでなく厳寒の冬にも来るそうです。昼前に着いて、薪ストーブを焚いて昼食を食べ、そして夕方帰るのです。
帰りの車の中で、私はこの自然の中の小屋に通うエケトルプ先生の趣味を日本で始めることを決心したのです。
海ではなく山林の中に粗末な小屋を建てる決心をしたのです。そして1974年の晩秋に山梨県の甲斐駒岳の麓に小屋を建てました。
大工さんが小川の傍で深い森の中は湿気がひどいので木造ではすぐに腐りますと言います。そこで4畳と6畳とトイレの鉄筋コンクリートの小屋を建てて貰いました。その小屋は41年たっても腐らずに建てたままの姿です。
41年間、毎週のように通ったその山林の中の小屋へ先週も家内と行ってきました。
どのような所かを写真でご説明たします。
小屋は北杜市の甲斐駒岳の麓の武川町にあります。寒すぎて水田が出来ない標高の高い深い森の中にあります。

この写真が最後の水田です。これより高い所は寒すぎて稲が育たないのです。写真の右奥には鳳凰三山の地蔵岳が少し写っています。

水田地帯を過ぎると上の写真のように山道がえんえんと続いています。ゆっくり車を走らせます。

上の写真は小屋の屋根の上から撮った写真です。身軽な家内が屋根の上に生えた木を引き抜いてくれました。周囲には大きな樹木がビッシリと生えています。

この小屋が好きな理由はその庭を上の写真のような小川が何時も美しい音を立てて流れていることです。過去41年間、冬になっても豊かに清い水が流れているのです。
小屋に着くと掃除や雑草取りをします。それが終わると夏以外は薪ストーブを焚いて昼食です。しかし夏はこの小川に入って、その冷たい流れに足を入れて涼みます。

上の写真は家内が清流に足を入れて涼んでいる様子です。以前は男の孫3人がこの小川に全身を浸けて遊んでいたものでした。もう大きくなって一緒に小屋に来なくなりました。それも時の流れです。
小屋の周りの森では松蝉やヒグラシが鳴いていました。
その後、近所の山荘に住んでいる木内さん所に寄り、里に下りて花々の写真を撮りました。
山々の風景を見ながら写真を撮っている間が楽しいのです。
農産物の道の駅により、ズッキーニや七色のプチトマトと規格外の桃を多量に買って帰宅しました。
毎年、規格外の桃を買いますが味は同じで美味しいのです。規格外の桃は東京では売っていませんが、昔は野菜や果物に「規格」などと言うものが無かったのです。規格など無い方が自然で良いと信じています。余計なことまで書いて失礼しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)