この7月4日に乗鞍スカイラインをバスで登りました。主峰の剣ヶ峰のすぐ下の広い畳平まで立派な自動車道路が出来ています。畳平は標高2700mで、剣ヶ峰が約3000mですから、わずかに300m登れば乗鞍山の頂上に立てるのです。
このスカイラインからの風景が雄大です。北を見ると、穂高、大キレット、南岳、そして槍ケ岳へと縦走出来る連山が残雪に輝いています。その少し西を眺めると大きな谷をへだてて笠ヶ嶽の峰々が碧く光っているのです。
そして畳平の大きな駐車場にバスをとめて周辺を散策します。
剣ヶ峰を見上げると戦後に出来たコロナ観測所の白いドームが見えます。そこへ続く大雪渓を登山者が一列に並んでゆっくり歩いています。傾斜が急でないので、私でも若ければ簡単に登れそうです。
新鮮な空気を楽しんでいたら気温が7度しかないことを知り、急に寒くなりました。
とにかく乗鞍スカイラインからと畳平からの風景は雄大な絶景なのです。
7月4日はあいにくの曇りで鮮明な写真を撮れませんでした。5枚を選んでお送りいたします。
風景は美しいのですが、この山岳道路を登るたびに戦前生まれの私の気持ちは悲しみで満ちるのです。太平洋戦争で酷い敗け方をしたことを思い出すのです。そして特攻隊の悲劇を考えてしまうのです。
特攻隊の乗って行った戦闘機のエンジンの改良の研究をこの乗鞍山でしていたのです。
高度10000m以上になっても出力の落ちないエンジンを作ろうとして帝国陸軍戦闘機実験場を作ったのです。そのために畳平まで軍用トラックが登れる道路を建設しはじめたのが1941年です。
そして19年5月ごろから、約80人の技術将校や学生らがグループごとに試作エンジンとともに運ばれ、10日間程度ずつ実験したそうです。
しかしその頃から日本は負け戦に転じ、ラバウル、グアム、サイパン、硫黄島、と占領され沖縄線へと奈落に落ちて行ったのです。
現在、観光バスが楽しげに登っている「乗鞍スカイライン」は帝国陸軍戦闘機実験場のための軍用道路として建設されたのです。
それから幾星霜、この旧帝国陸軍戦闘機実験場だった建物は約65年後の2008年11月に解体されたのです。
この建物の解体に関しては、末尾の参考資料に付けたように信濃毎日新聞が詳しく報道しています。
軍用道路が観光道路になっているのです。
それだけではありません。全国に数多く作られた軍用飛行場が現在は民間飛行場として活用されているのです。その一覧表は、http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8258573.html にあります。
こんなにあらゆる努力をしたのに日本は完全に敗れ去ったのです。
乗鞍スカイラインに登るとこのようなことを想い悲しくなるのです。
戦後生まれの若い家族連れが、そんなことを考えないで畳平の新鮮な空気を楽しみ、登れる所まで気楽に散策しています。それを見るのはまた楽しいものです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
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====参考資料===================
(1)「姿消す本土防空の一舞台 乗鞍山頂の戦闘機実験場解体」
信濃毎日新聞:2008.11.04
第2次大戦中に旧日本軍の陸軍航空技術研究所が、長野・岐阜県境の乗鞍岳(3、026メートル)山頂近くに建てた実験所を前身とする「乗鞍山荘」が今秋、老朽化などで解体された。高度約1万メートルを飛ぶ米軍のB29爆撃機に対抗する戦闘機のエンジン改良を極秘に進めた場所で、軍が造ったアクセス道路が今の乗鞍スカイラインのもとになった。本土防空に向けた歴史の一舞台が消えたことを惜しみつつ、平和への願いを新たにする人も少なくない。
実験所は岐阜側の畳平(標高約2700メートル)に一部二階建てで建設。空気の薄い高高度を飛ぶため過給機(ターボチャージャー)を備えたエンジンの開発が目的で、1944(昭和19)年5月ごろから、約80人の技術将校や学生らがグループごとに試作エンジンとともに運ばれ、10日間程度ずつ実験したという。
東京工大名誉教授の一色尚次さん(86)=東京都=は、東大で航空工学を学んでいた同年4月、同研究所に動員され、10月に技術将校2人と実験所へ。「高高度の寒さを想定し、毎日午前2時から5時まで、屋外でエンジンをつなげた模型の操縦席内で計器を見つめてデータを記録した」。潤滑油内の空気だまりを抑える実験でエンジンを火鉢で温め、漏れた油が燃え上がる騒ぎもあった。
高高度用のエンジンは資材不足などで実用化はならなかったとされている。ただ、一色さんは「実験所での成果を生かした改良エンジンが多くの戦闘機に搭載された」という。同年11月から日本本土は本格的にB29の襲撃を受け、友人の弟が戦闘機でB29に体当たりして死んだことを新聞記事で知った。当時は「悲しみより、改良したエンジンでB29を撃墜できたことや体当たりしたことをすごいと思った」と打ち明ける。
戦後は旧運輸省に勤めた後、東工大などで教え、日本機械学会長も務めた。実験所で一緒だった技術将校や東大生は大学の研究者や自動車メーカーの役員になった。一色さんは、実験所で培った技術も戦後復興を支えたと考える一方、再び兵器製造を求められたとしたら「拒否する。兵器は人を殺すものだ」と話す。
実験所は戦後、国鉄に所有が移って乗鞍山荘となり、その後JR東海が管理。この間、建て増ししながら観光客や登山客を受け入れた。だが老朽化や、2003年度からのマイカー規制に伴う利用客減少などで07年3月末に閉鎖、今年9月末に解体された。
閉鎖まで約10年間、山荘支配人だった森本三継さん(66)=岐阜県飛騨市=は、乗鞍スカイラインができた経緯を宿泊客らに説明して驚かれたと振り返り、「歴史を語る建物として、できれば残してほしかった」と話した。