後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

夏の都立薬草植物園の花々です

2015年07月11日 | 写真
昨日は夏日でした。暑い中を薬草植物園を歩き回り花の写真を撮りました。夏は花の種類が少くもう夏枯れのような植物園でした。それでも5種類の花が咲いていました。暑い夏の空気をご想像しながらお楽しみ下さい。









国宝、松本城の月見の宴と城の歴史

2015年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム
国宝の松本城には文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守閣があります。現存する天守閣としては日本最古です。幾たびかの存続の危機を、市民の情熱により乗り越え、四百余年の風雪に耐え、戦国時代そのままの天守が保存されているのです。
ちなみに国宝のお城は姫路城、彦根城、犬山城と松江城の五つしかありません。
この松本城には広い堀を見下ろす月見楼という宴会用の広間があります。
随分昔に、この月見楼で松本市の市役所の職員が月見の宴会をしたことがありました。女子職員に和服を着せてはべらせたという話もありました。当時このことは新聞に大々的に報道されたのです。私はひそかに「これは楽しいアイデアだ」と感心しました。ところが国宝の月見楼で宴会をするとは何事かという批判がごうごうと起き、月見楼での宴会はそれ以後一切厳禁になりました。
しかし松本城の月見はこの事件で有名になりました。それを受けて松本市は2000年から毎年15夜に「月見の宴」を開催するようになりました。十五夜に合わせて松本城本丸庭園を無料開放し、ライトアップされた松本城の夜景や茶席などを楽しむイベントです。
詳しく情報は、http://www.matsumoto-castle.jp/lang/topics/423.html に出ています。
勿論、このイベントでは国宝の月見楼の内部は使いません。そとからライトアップした月見楼を見上げて夜祭を楽しむのです。
このように楽しい松本城にも存亡の危機が何度もあったのです。
近くは米軍のB29による空襲でした。しかし松本城は攻撃されず奇跡的に焼失しなかったのです。
それ以前、明治維新のあとには老朽化した松本城が民間に売り出されたのです。
明治維新後の明治5年に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れましたが、市川量造氏ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れるのです。
明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学校長の小林有也氏らにより、天主保存会が設立され、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われたのです。
その無残に傾いた天守閣の写真は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%9F%8E に御座います。
そして江戸時代には、松本城は江戸幕府の直轄となり、城主が目まぐるしく変わったのです。
(http://north-alps.la.coocan.jp/image/matsumotocastle/jousyu/jousyu.html)
【石川氏 23年間】 天正18年(1590) 数正 - 康長
【小笠原氏 4年間】 慶長18年(1613) 秀政 - 忠真
【戸田氏 16年間】 元和3年(1617) 康長 - 康直
【松平氏 5年間】 寛永10年(1633) 直政
【堀田氏 4年間】 寛永15年(1638) 正盛
【水野氏 83年間】 寛永18年(1642) 忠清 - 忠職 - 忠直 - 忠周  - 忠恒
【戸田氏 144年間】 享保11年(1726)  - 光慈 - 光雄- 光年 - 光庸 - 光則
そして明治4年に松本藩は廃藩になったのです。
このように城主が幕府の都合で交代したにもかかわらず、文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守閣が現存し国宝となっているのは奇蹟のようなものです。
そんな歴史を想いながら先週、この城の写真を撮ってきました。下の2枚は例の如く家内が駆け上がって撮って来たものです。61度の急な階段もあったそうです。
5枚の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)