後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

揖保の糸、三輪ソーメン、小豆島ソーメン、そしてドロソーメン

2015年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム
夏になりましたね。夏と言えばソーメンの季節なのでしょうか。私はソーメンが好きなので夏になると毎日のように一生懸命たべます。
しかし世の中には冷たいソバは好きだがソーメンは嫌いだという人もいます。
そこでそういう方々のために先日撮って来た上高地の美しい風景の写真をお送りいたします。
この先はソーメンに関するつまらない話です。お読み頂くほどの内容ではありません。
私はよく間違った思い込みをしています。例えば箱根山の西はウドンとソーメンの文化圏で、東側はソバの文化圏と思い込んでいます。
ところが東京のスーパーでは讃岐ウドンも揖保の糸、三輪ソーメン、小豆島ソーメンも沢山売っています。その上、ある大手食品メーカーは「熟成の極みソーメン」などというものを売っているのです。副題のように「唸るコシ、際立つなめらかさ」などと唄いあげています。
これを見て私はひどく悲しくなりました。
もともとこの日本には地方、地方に豊かなローカル文化があった筈です。それが日本人の心を豊かにしているのです。実に嘆かわしい事態です。
箱根山の東で生まれ育った私がソーメンが好きになった原因は幼児体験だったのです。
祖父が兵庫県の山郷のお寺の住職をしていて、そこで揖保の糸ソーメンを食べたのです。
仙台の大学で働いていた父が毎年、夏に帰省していたのです。そのお寺で何度もご馳走になったのが揖保の糸などの播州ソーメンだったのです。このお寺で最高のご馳走はそうめんでした。揖保の糸でした。祖母が大量のそうめんを茹でて大きな器に冷たい水をはり、ソーメンを漬けて出すのです。祖父、祖母、そして私たちの一家5人がその器を囲んで座り、めいめいが箸でそうめんを掬いガラスのコップの中のカツブシ味のツユに漬けて食べるのです。食べられるだけ食べてよいのです。その美味しさが私のそうめん好きの原因になったのです。
ですから私はソーメンといえば揖保の糸が最高と信じています。
しかし本当にそうでしょうか?
そこで三輪ソーメン、小豆島ソーメン、氷見ソーメン、などなどいろいろ買ってきて食べ較べて見ました。
そうしたら、どれも甲乙つけがたく美味しいのです。歯ごたえや味わいはそれぞれ微妙に違いますが、どれも美味しいのです。
そこで数日前に「唸るコシ、、、、」という大手メーカーのソーメンと埼玉県の名も無い会社が作ったソーメンを買ってきました。食べてみると揖保の糸などの箱根の西で作られるソーメンと比べても遜色がないのです。「唸るコシ、、、」というソーメンは別に唸っていませんでしたが美味です。
ああ、これでソーメンに関する日本のローカル文化は消滅したのです。
しかし負け惜しみになりますが、最後に長崎地方でしか作られていない「ド・ロさまソーメン」をご紹介いたします。
この四月に、五島列島に旅をしました。そうしたら明治時代に作られたド・ロさまそうめんを現在でも製造している会社があることを知りました。
その会社のことは、http://www.sunflead.co.jp/doro.htmlにございます。
最後の写真にド・ロさまそうめんの写真を示します。
このそうめんは明治時代にド・ロさまによって作り始められたのです。
ド・ロさまは、明治12年(1879年)に現在の長崎市の旧黒崎村出津の里に赴任した、フランス人宣教師のマルク・マリー・ド・ロ神父(1840~1914)のことです。
彼は、村人たちの暮らしが、あまりにも貧しいのに驚き、村人の生活の向上のために布教活動のかたわら授産所や救助院を設けます。その上、故国、フランスから小麦粉を取り寄せ、私財を投じてパン、マカロニ、ソーメンづくりなどの技術を教えました。
ド・ロさまは72歳で亡くなるまでの42年間、故郷のフランスに一度も帰りませんでした。終生、長崎の貧しい人々に優しく接したのです。信者でない人々へも等しく支援したのです。
ですから長崎の人は今でもド・ロさまを懐かしく思い出しているのです。決っしてド・ロ神父さまとは呼ばずに親しみを込めてド・ロ・さまと呼びます。
ド・ロ神父さまの活躍の詳細や彼の記念館のことはネット上に非常に沢山出ています。
それらによると、彼は信者であるなしに関係なく苦しむ人々の味方になって助けたのです。徹底的に助けたのです。精魂を込めて助けたのです。
九州の人々とフランス人のド・ロさまの絆の強さを想うと不思議でなりません。そしてソーメンのお蔭で私がド・ロさまと感じる絆も不思議です。このような不思議な絆がこの世にあるのですね。
ソーメンの話がド・ロ神父の話へと脱線してしまいごめんなさい。
こんな変わったソーメンが長崎にあるという話でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









神父さんのブログとカトリック聖歌の作曲者、新垣壬敏さんのことなど

2015年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なのでミサに行く日です。そして日曜日の朝には宗教に関する小文を書くことにしています。
しかし宗教にご興味の無い方々はここに添付したランの花の写真をお楽しみ下さい。昨日、三鷹のJマートの花売り場で撮ってきました。この花売り場では花束のラッピングが無料な上、実に多種多様な花を良心的な価格で売っているのです。東八道路に面していて駐車場も広いのでお薦めします。
さて今日は茨城県の修道会の神父さんが書いているブログをご紹介いたします。
もう少し詳しくは、「イエズス・マリアの聖心会」という修道会の神父さまです。
ハワイのモロカイ島でハンセン氏病患者のために尽くし、自らもその病となって帰天したダミアン神父も同じ修道会の会員です。このダミアン神父は聖人に列せられています。この修道会の本部は茨城県の笠間市にあります。
その詳細は、http://www.geocities.jp/sacred_hearts0508/ に出ています。
一般的に神父様はブログを書きません。珍しいのでご紹介します。
そのブログは、「みちあき神父のふぉと日記」、blog.goo.ne.jp/andrew-john と言います。
毎日のように小さい、しかし美しい花の写真を掲載してあります。そして修道会やカトリックのことに関してあれこれ気軽な随筆が書いてあるのです。
読んで行くとほのぼのとした神父さんの穏健なお人柄がしのばれます。心が明るくなります。
一例として2006年3月24 日の日記を以下にご紹介いたします。
明日25日と翌26日は、取手教会の四旬節黙想会として、カトリックの作曲家、新垣壬敏(つぐとし)先生をお迎えします。
新垣先生は、「ごらんよ空の鳥」や「マラナタ」、「キリストはぶどうの木」をはじめ、『典礼聖歌集』や新しい『カトリック典礼聖歌集』の中の数々の聖歌の作曲をされています(いずれもA.T.と書かれた曲)。
白百合女子大学教授で、長年、東京カトリック神学院でも神学生の典礼指導にあたっておられます。ぼくも、1989年から2年間、その神学院在学中、先生にはたいへんお世話になりました。
毎年、司祭叙階を記念して、聖歌を発表されておられてますが、ぼくの叙階式のときにも「イエズス・マリアわがよろこび」を作曲してくださり、今でも歌っていますが、とても感激したのを昨日のように覚えております。(今年の新曲は「恐れることはない」です。)
イエズス・マリアの聖心会ともかかわりが深く、「指なき合掌」という福者ダミアン神父(その後、聖者、)の歌も作曲くださり、『カトリック典礼聖歌集』に入っています。
そんな新垣先生が、明日取手に来てくださことは、本当にうれしいことです。
25日(土)は午後3時から5時頃まで、聖歌と時間があれば朗読の指導をしてくださる予定です(とくに聖週間の聖歌の練習が主になると思います)。
26日(日)はミサ後、午前11時から、先生の典礼音楽についての講話があります。
取手所属の信徒でなくても参加できますので、どうぞ奮ってご参加ください。
写真は、少し前にいただいたクリスマス・ローズ。名前はクリスマスですが、花期は1~4月頃とか。花は下向きに咲いて、色合いも落ち着いていますし、とても控えめな印象ですが、つぼみもまだあり、元気に咲いています。
なお、新垣壬敏先生は、1938年フィリピン・バナイ島イロイロ市生まれ。沖縄県出身。1938年国立音楽大学作曲科卒業。元尚美学園講師、お茶の水女子大学講師。現在、白百合女子大学教授、東京カトリック神学院講師。数多くの合唱曲の作曲家として有名な高田三郎氏の弟子です。===終わり====
ここで紹介されている新垣壬敏さんは1971年に私共が洗礼を受けたカトリック立川教会の脇に住んでいました。ご夫妻で協力して、塚本金明神父様の生活もお世話をしていました。
そして新垣さんの奥様が私の妻の代母になってくれたのです。寒い冬日の洗礼式のあと熱いスープを作って下さったことが忘れられません。
その後、新垣さん夫妻は東京大司教区の本部へ行ってしまい40年以上お会いしていません。
それが、「みちあき神父のふぉと日記」のおかげで再会したような気分になったのです。
何故か人間の絆の不思議さをしみじみと感じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









夏の都立薬草植物園の花々です

2015年07月11日 | 写真
昨日は夏日でした。暑い中を薬草植物園を歩き回り花の写真を撮りました。夏は花の種類が少くもう夏枯れのような植物園でした。それでも5種類の花が咲いていました。暑い夏の空気をご想像しながらお楽しみ下さい。









国宝、松本城の月見の宴と城の歴史

2015年07月11日 | 日記・エッセイ・コラム
国宝の松本城には文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守閣があります。現存する天守閣としては日本最古です。幾たびかの存続の危機を、市民の情熱により乗り越え、四百余年の風雪に耐え、戦国時代そのままの天守が保存されているのです。
ちなみに国宝のお城は姫路城、彦根城、犬山城と松江城の五つしかありません。
この松本城には広い堀を見下ろす月見楼という宴会用の広間があります。
随分昔に、この月見楼で松本市の市役所の職員が月見の宴会をしたことがありました。女子職員に和服を着せてはべらせたという話もありました。当時このことは新聞に大々的に報道されたのです。私はひそかに「これは楽しいアイデアだ」と感心しました。ところが国宝の月見楼で宴会をするとは何事かという批判がごうごうと起き、月見楼での宴会はそれ以後一切厳禁になりました。
しかし松本城の月見はこの事件で有名になりました。それを受けて松本市は2000年から毎年15夜に「月見の宴」を開催するようになりました。十五夜に合わせて松本城本丸庭園を無料開放し、ライトアップされた松本城の夜景や茶席などを楽しむイベントです。
詳しく情報は、http://www.matsumoto-castle.jp/lang/topics/423.html に出ています。
勿論、このイベントでは国宝の月見楼の内部は使いません。そとからライトアップした月見楼を見上げて夜祭を楽しむのです。
このように楽しい松本城にも存亡の危機が何度もあったのです。
近くは米軍のB29による空襲でした。しかし松本城は攻撃されず奇跡的に焼失しなかったのです。
それ以前、明治維新のあとには老朽化した松本城が民間に売り出されたのです。
明治維新後の明治5年に天守が競売にかけられ、一時は解体の危機が訪れましたが、市川量造氏ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れるのです。
明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学校長の小林有也氏らにより、天主保存会が設立され、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われたのです。
その無残に傾いた天守閣の写真は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%9F%8E に御座います。
そして江戸時代には、松本城は江戸幕府の直轄となり、城主が目まぐるしく変わったのです。
(http://north-alps.la.coocan.jp/image/matsumotocastle/jousyu/jousyu.html)
【石川氏 23年間】 天正18年(1590) 数正 - 康長
【小笠原氏 4年間】 慶長18年(1613) 秀政 - 忠真
【戸田氏 16年間】 元和3年(1617) 康長 - 康直
【松平氏 5年間】 寛永10年(1633) 直政
【堀田氏 4年間】 寛永15年(1638) 正盛
【水野氏 83年間】 寛永18年(1642) 忠清 - 忠職 - 忠直 - 忠周  - 忠恒
【戸田氏 144年間】 享保11年(1726)  - 光慈 - 光雄- 光年 - 光庸 - 光則
そして明治4年に松本藩は廃藩になったのです。
このように城主が幕府の都合で交代したにもかかわらず、文禄(1593~1594)年間に建てられた五重六階の天守閣が現存し国宝となっているのは奇蹟のようなものです。
そんな歴史を想いながら先週、この城の写真を撮ってきました。下の2枚は例の如く家内が駆け上がって撮って来たものです。61度の急な階段もあったそうです。
5枚の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









トヨタ重役の不起訴・釈放はケネディ大使と安倍政権の政治決着でした!

2015年07月10日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、「トヨタ常務役員の逮捕と釈放で感じるアメリカ人の自由と驕り」と題する記事を掲載しましたところ、それに関連して趣味人倶楽部の「アコギじじいさん」という方から昨夜遅くに今回の不起訴・釈放は日米間の政治決着だったという米紙のニュースを教えて頂きました。
以下に、 昨夜 23:20時に「アコギじじいさん」から頂いたコメントを示します。
先ずは、本件「入口」として、発覚の経緯自体がミステリーといえましょう。
どなたかのご指摘にもある通り、何らかの形での密告でもない限り、個人通関輸入貨物から何かを発見することなぞあり得ません。更に、「出口」として、本日付USA TODAY記事によれば、
釈放につき、キャロライン・ケネディ駐日大使の“関与”があった由、
http://www.usatoday.com/story/money/cars/2015/07/08/caroline-kennedy-japan-ambassador-julie-hamp/29860269/
何やら、一見単純に見えるこの事件の奥は深いようにも思われます。(終わり)
そこでさっそくアメリカの唯一の全国紙であるUSA TODAYの7月8日の記事を読んでみました。
以下に冒頭の部分だけ引用しました。
USA TODAY 2:46 p.m. EDT July 8, 2015:
「U.S. ambassador to Japan played an active role in helping Julie Hamp, an official said.」
Caroline Kennedy, the U.S. ambassador to Japan, helped secure former Toyota executive Julie Hamp's release from jail after the automaker's global communications chief became entangled in a drug case, an American official with direct knowledge of the discussions told USA TODAY.
Hamp, who was arrested on suspicion that she illegally imported prescription drugs into the country, was released Wednesday after Japanese prosecutors decided not to press charges. She immediately jumped on a plane to return to the U.S.
Kennedy's active role in the case — which was not previously disclosed —- involved advising Toyota officials and discussing the matter with Japanese authorities, said the official, who requested anonymity because of the sensitivity of such international diplomacy issues.以下省略します。
この記事によるとキャロライン・ケネディ大使はトヨタの幹部と相談して日本の外務省に接触し、交渉したようです。外務省は安倍政権側へ相談し、安倍政権が検察当局に釈放するうに指示したと想像出来ます。
私は非常に驚くとともに残念です。民間人の個人的な違法行為にアメリカ大使が干渉したのです。三権分立の日本国の司法システムへアメリカ大使が安倍政権を経由して圧力をかけたのです。言語道断な内政干渉です。
圧力をかけれた安倍政権側は即時釈放には応じるが、せめて在宅起訴で数十万円の罰金刑くらいは科すべきだったのではないでしょうか。完全な不起訴・釈放だったのでハンプさんは直に飛行機に乗ってアメリカへ帰ってしまったのです。これでは日本はやはりアメリカの従属国だと言われても抗弁も出来ません。
もう一つの重大な問題は、この日米間の政治的決着はアメリカの全国紙に報道されているのに日本の新聞では殆ど報道されていないことです。
USA TODAY の記事は7月8日のアメリカ時間の午後2:46時に掲載されています。日本でも報道しようと思えば今日の朝刊に充分間に合う時間だったのです。しかし今朝の読売新聞をいくら見てもこの日米間の政治的決着のことは出ていません。多分、今日の夕刊か明日の新聞に目だたないように小さく報道されるのかも知れません。安倍政権のご機嫌を損じないようにとする日本の新聞の体質を憂慮するのは私だけでしょうか。困ったものです。
何故か憂鬱な気分なので先週撮ってきた平湯大滝と安曇野の大王ワサビ農園の清流と上高地の梓川の清流の写真を見てこの不愉快な政治決着のことは水に流すことにします。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





トヨタ常務役員の逮捕と釈放で感じるアメリカ人の自由と驕り

2015年07月09日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、トヨタの常務役員のアメリカ人女性がいきなり逮捕され、昨日、不起訴で釈放されました。
この不運な目にあったのはジェリー・ハンプさんという優秀な経営者でした。新聞によると彼女の違法行為は自分の膝の痛みをとる麻薬成分を含む薬品を日本に持ち込んだことだそうです。犯罪に悪質性がないので不起訴にし、釈放したという経緯でした。
いきなり逮捕とは行き過ぎのようですが、麻薬に厳しい日本の法律では当然な逮捕でした。逮捕の後でハンプさんはトヨタの役員を辞任します。
アメリカ大使館が動くのではと新聞を注意深く見ていましたが、弁護のしようのない事件だったので流石に干渉しなかったようです。
この事件は些細な個人的な違法行為のように見えますが、その背景には考えるべき二つの大きな問題があると考えられます。
まず自由の国アメリカでは州によっても違いますが原則的に銃の売買は自由です。大きなホームセンターに行けば釣り道具売り場の隣には猟銃やピストルも売っています。簡単な手続きをすれば誰でも買えるのです。
そして麻薬の使用も個人の自由な判断に任せるべきという思想が強いのです。これは麻薬の習慣性を知らない人の間違った思想です。麻薬は一度使うと強い習慣になり体をボロボロにするものなのです。ですから日本では非常に厳しく禁止され所持していれば即逮捕です。
ここで麻薬と大雑把に書きましたが麻薬には覚醒剤、大麻、コカイン、ヘロイン、阿片、向精神薬などいろいろあります。そして医薬品の成分として使われている麻薬性の化合物もあります。今度の事件ではオキシコドンという成分を含んでいた痛み止めをハンプさんが使っていたのです。
これは日本では立派な麻薬と定義され取り締まりの対象です。しかしアメリカでは麻薬の定義が狭い範囲になっているのです。医者が処方する限りこの膝の痛み止めの使用は自由です。アメリカではその薬は麻薬でないと考えられているようです。
しかしハンプさんはこの錠剤が日本では禁止されているのを知りながら父親に送ってもらったのです。
今回の事件は、銃や麻薬をなるべく自由にすべきだというアメリカの文化をあらためて明らかにしたのです。その文化の本質は、どんな危険なことでも自分の判断で、自己責任をもって行うのが良いという考えなのです。
一方、日本では、少しでも危険なことは政府が規制しています。政府の規制通り生活していれば余計なことは考える必要が無いというのが日本の文化なのです。ですから何か悪いことが起きれば国民は政府の規制が甘いと政府を批判します。そして担当の大臣が規制の甘さを謝って一件落着です。この日本の文化では個人の判断や自己責任ということは重要視されません。
アメリカと日本は「自由と平等」の思想をもとにした同じ民主国家だと言います。
しかしアメリカと日本の民主主義の内容は非常に違うのです。これをあらためて思い知らされたのが今回の即逮捕と、不起訴・釈放の事件でした。
もう一つ考えるべきは「アメリカ人の驕りと傲慢さ」です。
戦後70年、日本は一応独立国家ですがアメリカ軍の基地が国内の方々に存在しています。
東京の近くにはアメリカ太平洋艦隊の母港の横須賀があります。福生飛行場も厚木飛行場もあります。独立国家と言っても遠いヨーロッパから見れば日本はアメリカの従属国家に見られるのが現実です。日本人がいくら逆立ちしてもこの現実は微動だにしません。
日本に来て活躍しているアメリカ人に、「多少なら日本の法律を犯してもどうにかなる」という驕りを持つのは人間として自然なことです。これをアメリカ人の傲慢さだと批判したら、それは行き過ぎだと思います。
聡明なジェリー・ハンプさんは即逮捕された時、自分の心の驕りに気づき反省したに違いありません。ですからトヨタの重役を辞任したのかもしれません。外国で働いていればその国の法律を守るというのは当然のことです。随分と高い授業料を払って、今回彼女はこのことを学んだのです。日本の新聞は不起訴になって釈放されたとだけ報じています。
しかし違法行為をしたので、まったくの無罪ではなく、罰金くらいは科するべきだと私は考えています。完全無罪にしない方が良いと思います。
それが法治国家というものと思います。
今日の挿絵代わりの写真は先週訪れた安曇野の大王ワサビ農園の清流と水車の写真です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










登山が趣味とはこういうことなのでしょうか

2015年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今朝、「日本で一番美しい風景は上高地?」という題目で一つの記事を掲載いたしました。
そうしたら nishi ちゃんさんから以下のようなコメントを頂きました。登山を趣味にして来た人生が描かれているので私は感動いたしました。
山登りのお好きな方々へ以下を謹んでお送りいたします。
=== nishi ちゃんさんからのコメント======
2015/07/08 18:29
上高地その名の由来から? 神河内? 
19才の年に亡き兄貴に連れられ槍、穂高縦走。昔の岳沢ヒュッテの五エ衛門風呂に入りました。それから何回か、 数え切れない程穂高に入りました。彼女と登った穂高の峰峰、母ちゃんも結婚前に連れて涸沢にテントを張りました。もう既に40年以上の年月が・・・。山が好きで安曇野に住んでいた時、冬の上高地にも何度も入りました。
大正池の畔にテントを張って、何日も穂高を眺め、酒を飲んでは昼寝をしました。
夜は木枯らしが・・・六百山から吹き下ろして来ます。ごうごう・・・と。時々、雪崩の音がザザ・ザーと闇の中に響きます。やはり、今懐かしいのは20代半ば彼女と涸沢にテントを張り登った北穂、涸沢岳、奥穂、前穂、ジャンダルム等々・・・10月8日紅葉のま最中、新雪が降った涸沢槍の鉄ばしご、そして涸沢岳のクサリ場、穂高山荘のハシゴを登ったのを・・・今でも思い出します。
明日、安房峠よりの穂高の写真をUPします。
大キレットは5回そして屏風の頭も彼女と登りました。その後、別な彼女とも登ったのでした。穂高はいっぱい思い出があります。
しかし思い出は上高地、涸沢が多いですが・・・剣岳馬場島、そして谷川岳一ノ倉沢、また剣岳 長治郎、三の窓雪渓も思い出に残ります。
それに初めてクライミングし落ちたら死ぬと思った北岳バットレス、思い出の山々です。
単独冬期縦走を計画し、始めた厳冬の白馬岳 栂池、白馬大池も思い出深い今でも印象に残る場所でもあります。
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こういうコメントを頂くと老人の私も青春のころの気持ちがよみがえります。 そんな方々の為に nishi ちゃんさんからのコメントをお送り致します。それにしても青春は遠い、遠い昔になったものです。
nishi ちゃんさん有難うございます。

3枚の写真は順に槍ケ岳、南岳と北穂の間の大キレット、とキレットから見た穂高の峰々です。

上の写真の出典は、http://heyheyyos.at.webry.info/201208/article_16.html です。





日本で一番美しい風景は上高地?

2015年07月08日 | 日記・エッセイ・コラム

一番美しい風景と問えば、人それぞれ違う答えが返ってくるのではないでしょうか?
しかし私の個人的な意見として迷わずに上高地と答えます。
北海道の雄大な風景も好きです。真っ白い砂浜にひかえめに打ち寄せる沖縄の海の美しさにも感動します。しかし何と言っても上高地は日本的な風景美の極致ではないでしょうか。
写真は先週の7月3日に撮ったものです。
大正池や梓川の向うに穂高の峰々を見上げると、遥かな昔に穂高に登ったことを思い出します。中房温泉から燕岳、大天井、槍、中岳、南岳、大キレット、北穂、涸沢、そして上高地と縦走した時のことを思い出します。それは自分が23歳だった1959年の夏のことでした。
ほぼ3日間にわたる縦走で疲れ果てて上高地に降りてくるとその美しい風景で疲れが一瞬に消えてしまったのです。
梓川の清流沿いのケショウ柳や白樺の木々の向うに昨日登った穂高の峰々が見えるのです。
縦走の終わった安堵感と充実感で眺めた平和な上高地の風景ほど印象深いものがありません。
あの頃は人生に対する不安と孤独感で精神が飢えていたのです。その飢えた精神で上高地の風景を眺めたので一層感激したのでしょう。
あれからいろいろなことがありました。そして79歳になって梓川の岸辺に立ち、穂高の峰々を眺めると私の一生は邯鄲の夢だったと感じます。
しかし唯一つのなぐさめは傍らに妻が同じように穂高の峰々を見上げていることです。もう52年も一緒に住んでいるのです。優しくて聡明な妻でした。これだけが唯一つのなぐさめです。
感謝の気持ちもあって帝国ホテルに泊まりました。
従業員のサービスは申し分ありません。しかしディナーのフランス料理が数年前に泊まった時と違うのです。以前はバターや生クリームやチーズをたっぷり使ったオーソドックなフランス料理だったのでとても満足しました。しかし今回は健康志向のフランス料理です。美しく手の込んだ料理ですが淡泊で味気ないのです。
ああ、これも時代の流れなのです。寿司や和食が世界中に広まった現在は食文化もどんどん変わるのが自然なのです。それにしても屋根を赤い色に塗ったホテルのたたずまいは昔と変わりません。
上高地の風景もよく保全されていて50年前と変わりません。ハルゼミの鳴き声や、ウグイスやホトトギスの啼き声が自然林の中でこだましている様子も昔と変わりません。
ただ大正池に立っていた立ち枯れの樹木の数がめっきり減ってしまって湖面だけがただ広がっています。
それにしても、この上高地の風景は子々孫々へおくる遺産として大事にしたいと強く思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







江戸時代の庶民の哀歓が流れる高山の町

2015年07月07日 | 日記・エッセイ・コラム
高山の歴史は悲しい。関ヶ原の戦いで徳川側についた金森長近が高山城をつくり小京都のような町並を作りました。しかし金森氏は江戸幕府によって1692年に山形へ転封されます。
そして美しくて有名だった高山城は1695に江戸幕府によって取り壊され消滅したのです。
その後は幕府直轄として177年間、代官が25代続きました。もとより水田の少なかった飛騨からの年貢が直轄領となってからは一層厳しく取り立てられ、しばしば農民一揆が起きます。農民の代表も数多く処刑され、ある郡代は八丈島へ流されたのです。
このような騒動の悲劇は山国の飛騨の貧しさが原因になっているのです。
現在、江戸時代そのままに残っている3つの通りには昔の商店や酒蔵が軒を並べています。
残っているのはこの3筋の通りと、代官の陣屋と、そして東山にある古いお寺だけです。
今回散歩した3筋の通りは一之町、二之町、三之町です。訪れたのが夕方に近かったせいか人も居なく森閑としています。そして店々を一つ一つと丁寧に見て行くとその小ささと暗い色とに胸がつぶれます。貧しい庶民たちが僅かなお金をふところに古着や古道具に買いに来た町です。祝い事がある度にしか飲めないお酒を少しだけ買いにきた所です。幕府の圧政に苦しんでた庶民たちがここで買い物をすることはささやかな楽しみだったのでしょう。
そのような江戸時代の庶民の哀歓が流れる高山の古い町の写真をお送りいたします。













下に参考資料として高山の金森氏時代と江戸幕府直轄領の時代の歴史を付けます。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料==============
関ヶ原の戦いで徳川側についた金森長近の時代と江戸幕府直轄領になった以後の時代:http://www.hida.jp/rekishi/
(1)金森時代
 天正14年(1586)、金森長近は飛騨国3万3千の石の国主として入府し、ここから金森氏6代、107年の政治が始まる。関ケ原の戦いでは徳川方について前線で戦い、高山へ入国した長近は、城の建設を天正16年(1588)から始め、慶長5年(1600)までの13年間で本丸、二之丸を完成させ、以後三年かけて三之丸が築かれた。日本国中に5つとない見事な城だと記録が残っている。
 また、城と同時に城下町の工事も行われている。城を取り囲むように高台を武家地とし、一段低いところ(三町)を町人の町とし、京都になぞられて東山に寺院群を設けた。農民一揆の対策としては、門徒の多い照蓮寺(現在の高山別院)を高山城と向かい合わせに配置し、人の心を安め、宗和流茶道を始め、寺社の再興、様々な文化をおこすことも積極的に行った。
 高山における金森氏は6代107年間続いたが、元禄5年(1692)7月28日、頼_(よりとき)の時代に突然、出羽国上ノ山(でわのくにかみのやま・山形県)に転封となって金森氏による政治は終わった。
 頼とき(よりとき)は上ノ山に5年間いたが、元禄10年(1697)、今度は美濃国郡上藩に転封となった。頼_は江戸芝の屋敷で亡くなり、孫の頼錦(よりかね)が後を継ぎ、幕府の奏者役(そうじゃやく)を命ぜられた。そのため多くの費用を必要としたこともあり、年貢を定免(じょうめん)法から検見(けみ)取りに改めたため4年半にわたる「宝暦郡上(ほうれきぐじょう)騒動」が起っている。これで金森の本家はとりつぶされてしまったが、分家の旗本左京(さきょう)家は3千石のまま越前に領地替えになり、現在も越前市に子孫が在住している。
(2)幕府直轄地(天領)時代
 金森氏移封後の飛騨は幕府直轄地となり、代官には関東郡代・伊奈半十郎忠篤が兼任、金沢藩主前田綱紀(つなのり)が高山城在藩を命ぜられた。
 元禄8年(1695)1月12日、幕府から高山城破却の命令が出され、同年4月22日から取り壊しを開始、6月18日には全て終えて帰藩した。今は「高山城跡」として県史跡に指定され、緑豊かな城山公園になっている。幕府直轄地時代は25代、177年間続き11代までが代官、12代大原彦四郎から郡代に昇格した。
 明和8年(1771)、大原代官は幕府の命令で飛州全山に官材の元伐(もとぎり)を中止、安永2年(1773)には飛騨の村々の代表を集め、検地のし直しを言い渡した。飛騨の農民たちは田を少ししか持っておらず、新しい年貢がさらに厳しくなると越訴(おっそ)、駕籠訴(かごそ)などをして検地中止を願い出た。ここに明和8年(1771)から寛政元年(1789)までの大原父子2代、18年間にわたる農民一揆が起きた。その中に主な事件が3つ含まれており、明和、安永、天明騒動と名づけられている。明和、安永騒動では9千人余の農民が罰せられ、若き指導者本郷村善九郎ら、多くの農民代表が犠牲になった。しかし、天明騒動では大原亀五郎郡代の政治不正が問われて、郡代は八丈島へ流罪、農民側の罪は軽くて済んでいる。
 善政をつくした代官・郡代もいる。7代長谷川忠崇(ただたか)は『飛州志』を著している。第8代幸田善太夫(こうだぜんだゆう)は飢饉のために馬れいしょ(ジャガイモ)を農民に作らせ、飛騨では「善太夫(ぜんだゆう)いも」、「せんだいも」とも今も呼ぶ。19代大井帯刀(たてわき)は天保飢饉の際に、飛騨はもちろん出張陣屋(越前本保)領内でも救済措置を講じた。20代豊田藤之進(とよたふじのしん)は渋草焼を起こし、養蚕を盛んにしている。

豪華客船への反発とその圧倒的な魅力

2015年07月06日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ数年、豪華客船に乗りませんかという勧誘のパンフレットが数多く来るようになりました。
しかし私はその豪華客船へ対して三つの理由で反発していました。
一つは豪華という言葉が嫌いなのです。戦前生まれ戦後育ちの私は清貧こそ一番良いという教育を受けました。質素こそ和の文化の神髄だとも教わりました。その反対の華美とか豪華はいけないと教わりました。華美や豪華とは見た目は華やかですが、内容が貧弱なことが多いものです。ですから豪華客船という呼び名が嫌いでした。
二つ目の理由は乗船料が桁違いに高いのです。経済的な部屋でも一人三食つき一泊で5万円から10万円します。これではわざわざ豪華客船に乗らなくても高級旅館に泊まった方が良いと思います。あまりにも高いので反発を感じていました。
三つめの理由はドレスコードという服装の規則があり、船内でのマナーも厳しそうで楽しくないような感じがしていました。そんな世界は私とは別世界だと思っていました。
ところが十数年前に伊豆七島を周航する一泊の豪華客船に乗ってから私の豪華客船への反発は雲散霧消してしまったのです。
その理由はたった一つです。
乗組員の接客態度に感動してしまったのです。日本の旅館や料亭の接客態度とまったく違うのです。西洋式の接客です。これは十数回乗りましたがいつも感心させられます。
日本の接客の根底にはお客を身分を高い人とし、接客側の人はへり下るという精神が無意識のうちに流れています。「お客様は神様」という言葉がそれを示しています。
しかし豪華客船の乗組員はすべてお客さんと平等なのです。平等な立場に立って、あくまでもお客の一人一人が自由に船内生活を楽しめるように全身全霊でサービスをするのです。
乗組員の大分部はフィリピンを中心にした東南アジア諸国の人々です。そしてカフェなどのウェイトレスは若いウクライナ人を中心にした東欧の国の人です。
日本の船なら船長や機関長などの幹部は日本人ですがその部下は国籍がいろいろです。
乗組員の教育と訓練は専門の学校で厳しく行っているようです。
日本の豪華客船は現在、日本丸と飛鳥IIとパシフィック・ヴィーナスの3隻しかありませんが世界中には数百の豪華客船があるのです。乗組員としての教育を修了しれば就職には絶対に困らない衣食住つきの職場なのです。
ですから日本の豪華客船の乗組員の質の高さは世界にある数多くの豪華客船によって支えられているのです。
そして注目すべきは客数に対する乗組員の数です。例えば飛鳥IIでは客の定員は940名で乗組員は440人です。
質の高い乗員が数多くいることが非常に重要なのです。
例えばメイン・ダイニングで100名のお客が一斉にディナーを食べる場合でもウェイターが50人位いて迅速に料理を運んでくるのです。そして気の利いた会話をちょっとだけします。
人間として親しみが湧くような会話です。馴れ馴れしすぎることはありません。決して料理の説明を押し付けるように長々とすることはしません。ああ、これがプロフェッショナルなサービスだと感動します。
今回、乗ったパシフィック・ヴィーナスのディナーもそのようでした。サービスの質が良かったので食事の後でマネージャーに接客態度の良さを褒めて、何処の国の人ですかと聞いてみました。ダイニングのウェイターは殆どフィリピン人だという話でした。
豪華客船の内部の構造の華やかさは写真で示すことにして、ここでは省略します。
おわりに今回の旅の企画をした「クルーズのゆたか倶楽部株式会社」のことを付記します。
『クルーズのゆたか倶楽部』は1984年(昭和59年)創業の、日本で最初のクルーズ専門の旅行会社です。今回の旅の添乗員はこの会社を創立し、1984年から2015年まで31年間社長をしていた松浦睦夫さんでした。社長職を今年の3月に息子さんに譲ったそうです。
その松浦睦夫さんから、旅の間に豪華客船にまつわる面白い話もお聞きしました。
そして会社を立ち上げてから8年間は赤字で、借金が増える一方だったそうです。
しかし彼には信念がありました。豪華客船の魅力を日本人も必ず分かるという信念でした。
西洋と日本の文化は違ってても本物の良さは日本人にも分かるのです。
この会社の旅程は1泊から世界一周までのいろいろなクルーズがあります。
現在、日本クルーズ客船の「ぱしふぃっくびーなす」をはじめ、外国船もプリンセスクルーズ、カーニバルクルーズ、など、河船を含め世界22の船会社の船100余隻の取り扱いをしているそうです。
日本船は八重山諸島、東北夏祭りなど190コース、海外はカリブ海、アラスカ、北欧、地中海・エーゲ海クルーズ、リバークルーズなど年間60コース、フェリーは日本一周、上海など30コースを毎年実施しているのです。
創業以来今までに延べ約126,800名のお客がクルーズに参加したそうです。(2009年9月1日現在)
詳しくは、「クルーズのゆたか倶楽部株式会社」のHPををご覧下さい。
写真では今回、横浜から名古屋まで乗った「ぱしふぃっくびーなす」の船内風景の写真を示します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)











ヴァチカンのサンピエ トロ大寺院で日本のミサ曲を歌った日本の合唱団

2015年07月05日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なのでミサに行きたいのですが昨日までの旅行で疲れてしまいましたので欠席しました。
そこでヴァチカンのサンピエ トロ大寺院でのミサの風景をネットにある写真でいろい眺めていました。そして日本のカトリック教会で歌われているミサ曲を心の中で唄いました。
ネットに日本のミサ曲を調べていましたら、偶然にもサンピエ トロ大寺院で日本のミサ曲を歌った日本の合唱団があることが分かりました。
その詳細は、ブログ、「六甲男声合唱団」の増川真澄さんが以下のように書いています。
知らない方も多いと思いますので、以下にその抜粋をお送り致します。
報告全文は「ヴァチカンで日本のミサを歌う」(rokkomcinfo.web.fc2.com/masukawa2.html)に出ています。
・・・去る4月28日から5月5日までローマに行ってきました。
・・・ヴァチカンのサンピエトロ大寺院は、ご承知の通りカトリック教の総本山、ローマ法王がおられる所です。
・・・ 私達がここで歌うことになったのは、大寺院が主宰するミサに聖歌隊として式次第に参加をするため です。私達が参加したミサは、大寺院の中央祭壇で催される日曜礼拝の“荘厳ミサ”(ハイミサともいいます)で、全枢機卿が出席される、カトリック信徒十億 人にとって最も神聖視される儀式で、法王が臨席されるミサに次ぐ格式の高いものです。
 このような栄誉を担うことになったのは、約2年前、「日本のミサ曲を日本人の手で日本語で歌えないか」という東海メールクワイアーからの打診に、高田三 郎と親交があったローマ在住のガブリエル・ブドロー神父が奔走し、いろいろな検討と周到な準備の上で実現したものです。
 さて、先ほど「日本のミサ曲」ということを書きました。「日本のミサ曲とはなに?」 「日本にもミサ曲はあるの?」とお思いになる方がおられると思いま すので、そのことについて少し触れてみたいと思います。1962年~1965年にかけておこなわれた「第Ⅱヴァチカン公会議」において、ラテン語のみに限られていた典礼を、各国の言葉で捧げる 道が開かれました。「神のことばを母国語によってより深く味わい、神のことばに立ち返る」、これが典礼の国語化の目的でした。
 この公会議の決定をうけて、日本でも日本語による新しい聖歌を作ることになりました。
その日本のミサ曲は「典礼聖歌」と呼ばれ、この「TENREI-SEIKA」は日本を代表する宗教音楽として世界中に知られつつあります。
以上のような経緯もあって、今回の典礼聖歌によるミサ挙行が行われた次第です。カトリックの総本山の“荘厳ミサ”が日本の合唱団に開放され、日本語のミ サ曲が歌われたのはサンピエトロ大寺院にとっても、また日本の合唱界にとっても、歴史にきざまれる画期的なことでした。
・・・この度ローマに行くについては、こういった高田音楽で結ばれた多くの合唱団に参加を呼びかけられ、これに応えて全国から19の合唱団(個人の資格で参加 された方の所属合唱団を加えれば20以上の合唱団)から男声73名、女声53名が集まり、高田典礼聖歌男声合唱団、「平和の祈り」合唱団(混声)が編成さ れました。
 (参加された合唱団)
東海メールクワイアー(名古屋)、アンサンブル エヴォリュエ(大阪)
女声アンサンブル アトリエ(大阪)、やまびこ男声合唱団(岡谷)
市川男声合唱団(千葉)、新居浜混声合唱団(新居浜)
豊中混声合唱団(大阪)、女声合唱団ヴェルフィーヌ(大阪)
泉ヶ丘混声合唱団(岐阜)、所沢メンネルコール(所沢)
南蛮コール(長崎、いそべとし記念男声合唱団(東京)
米子第九合唱団(米子)、日本男声合唱協会(東京)
京都エコー(京都)、 東海フィメール(名古屋)
四ツ橋筋中年合唱隊(大阪)、元寺小路教会(仙台)
フルトン男声合唱団(長崎)
ミサは午前10時、主祭壇で開式されました。開式に先立ち、私達「高田典礼聖歌男声合唱団」(以下TTDGといいます)は聖歌隊席につきました。大寺院 が主宰するミサでは慣例に従い、ミサの式次第に参加できるのは男性に限られています。従って聖歌隊として参加できるのは男声(TTDG)だけです。同行の 混声合唱団の女声は、一般会衆とともに会衆席でミサの進行を見守るだけです。
まずTTDGが歌う入祭の歌「天は神の栄光を語り」によって、枢機卿はじめ燭台を捧げた司祭など入祭の行列が主祭壇に上がり、着席して式が始まります。  その後は司祭と会衆がラテン語で節をつけた言葉を交わしながら、大寺院専属のジュリア聖歌隊とTTDGの交唱によるグレゴリア聖歌と、TTDGによる典 礼聖歌を交互に歌う、というかたちでミサは進められました。
 ・・・ ミサはGLORIA、CREDO、AGNUS DEI・・・と進み、聖体拝領―キリストの血と肉を現すワインとパンを頂くミサのクライマックスになりました。信者にとって最も緊張し最も感動を覚える一 瞬です。実際、この時には頬を紅潮させ、涙を流す信者さんもおられます。
 TTDGの歌う「谷川の水をもとめて」「ちいさなひとびとの」の中を、信者の方々が一人ずつ祭壇の前に進み出て、司祭からパンを拝領します。聖体拝領が 終わると、「閉祭の挨拶」とともに、TTDGの歌う「行け地の果てまで」にのって順次会衆は退席される、はずだったのですが、誰一人立とうとはされませ ん。私達は会衆の皆さんがほぼ退席されてしまうまで歌い続ける手はずになっていたのですが・・・。やむを得ず楽長のポール神父の合図でキリのいいところで 歌うのをやめたのですが、今度は会衆席の会衆はいうにおよばず、大聖堂のつめかけた観光客を含む多くの人達の間から大きな拍手が沸き起こり、その拍手がい つまでも鳴り止まないのです。いわばアンコールのようになり、急遽ポール神父の指示でもう一度「行け地の果てまで」を歌いました。 ・・・・
以上の増川真澄さんの臨場感の溢れる報告書を読むと、自分も大寺院が主宰するミサにあずかったような気分になります。
私は暇の折りにいろいろな他の教会のミサ風景をネットで調べて見ていますが、今日ははからずもサンピエ トロ大寺院でのミサの様子を見ることが出来ました。
ちなみに増川真澄さんはカトリックの信者ではありませんが、ここまで深くミサの内容をご紹介していることを不思議に思い、同時に感謝しています。有難うございました。
写真にヴァチカンでのミサの風景写真2枚とサンピエト ロ大寺院で歌う日本の合唱隊の写真をお送り致します。





客船の旅、続けて高山、上高地、安曇野への旅

2015年07月05日 | 旅行記
高齢になると人間は我が儘になると思います。私もそうですが、周囲の人々に絶対に迷惑をかげないように心がけて、我が儘を楽しんでいます。
海を楽しむ旅と山国への旅を一緒にして、しかも体が楽な旅行をしたいと時々思います。
今回の3泊4日の旅はまさしくそのような旅程でした。
最初はパシフィック・ヴィーナスという客船に横浜大桟橋から乗り込みます。夕方乗船して、夕暮れのミナト・ヨコハマの風景を見ながら、ディナーを悠々と楽しみます。
ミナトが暮れて、ヨコハマの街のネオンが輝くころに出港です。
ライトアップしたベイブリッヂを出て観音崎の沖に向います。
翌朝、10時に名古屋港に着岸です。
船の前に待っていた小型の観光バスに乗ります。総勢12名の老夫婦の旅です。
名古屋港から関市にある包丁や高級なナイフを製造している工場を見学しました。
昼は同市の鮎料理を食べ、再びバスで郡上八幡を通って山々を越えて高山に向います。
高山のホテルに着いたのは午後3時頃でした。チェック・インを済ませてから、江戸時代そのままの町並を散策します。上三之町、上二之町、上一之町の店々が江戸時代の作りで、建物の材木が黒光りしています。古い小規模な酒蔵が現在でも昔のままに醸造して地酒を売っています。古物商が江戸時代らしい陶器や道具を商いしています。子供の喜びそうな駄菓子屋があります。店先に飛騨牛の串焼きと生ビールを飲むテーブルとイスがあります。
その夜はホテルに泊まり、翌朝は乗鞍岳の畳平までバスで登ります。笠ケ岳や槍、南岳、穂岳の連峰に残雪が輝いていました。
乗鞍岳を下りてきて平湯の旅館で飛騨料理の昼食です。午後は平湯大滝を見物してから上高地の老舗ホテルに3時頃着きました。
早速、梓川の田代橋に出て清流と穂高連峰の写真を撮りました。今年の岳沢の残雪は大きいようです。そのまま梓川に沿って中の瀬の遊歩道を河童橋まで登ります。河童橋の向う側で再び穂高連峰と明神岳の勇姿を楽しみ写真を撮ります。
帰りはもう夕暮れでした。帝国ホテルまでの最短の遊歩道を歩きました。往復3Kmを歩き少々つかれます。
次の朝は安曇野に下り、大王ワサビ農園を散歩します。昔、黒沢監督が作った「夢」という映画に出て来る水車のある風景で有名になった場所です。笠智衆が村の老人役で水車小屋の回りを歩いている場面が昔の農村風景そのもののようで旧懐の情で胸が熱くなったのを思い出します。豊かな清流と勢いよく回っている水車の写真を何枚も、何枚も撮りました。ワサビ畑は何十年まえに来た時と同じ風景です。しかし駐車場が広がり、お土産の生ワサビの売店があまりにも大規模になっているのに時代の流れを感じます。駐車場に大きな観光バスが並び、中国語や韓国語が飛び交っています。これも現在の日本の観光地の様子です。
その後は国宝の松本城に行きます。足の弱い私は堀の周囲をめぐり黒い松本城の写真をとります。家内は天守閣まで駆け上がって内部の写真と天守閣からの風景写真を撮ってくれました。
信州ソバの昼食後、JR中央線の特急で帰ってきました。
梅雨の季節の3泊4日の旅でしたが持参のコーモリを一度も開くことはありませんでした。天気に恵まれ幸運でした。
明日から今回の旅で乗った客船のことや訪れた地方の歴史た地方文化をご紹介したいと存じます。今日は最初の船上での夕食の時に窓から撮った「ミナト・ヨコハマ」の夕暮れの風景写真をお送り致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









仏教のあれこれ(1)民衆を大切にした弘法大師と密教

2015年07月01日 | 日記・エッセイ・コラム
なんと言っても日本の文化は仏教を抜きにしては理解出来ません。日本を誇りに思えばどうしても仏教のことをあれこれ考えるようになるのが自然ではないでしょうか。
私も素人ながら仏教のことを折りにふれていろいろ調べるのが趣味になっています。
そこで今日から「仏教のあれこれ」と題する連載を書いていこうと思います。間違いも多いとは思いますが、気楽にお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
まず日本の仏教二つに分類してみます。鎌倉時代の始まるまでの古い仏教と、新しい鎌倉仏教の二つに分けることが出来ます。
古い仏教には鑑真の持ってきた律宗や華厳宗や法相宗の奈良仏教と、最澄(伝教大師)の天台宗や空海(弘法大師)の真言宗の5つの宗派があります。そして天台宗と真言宗は密教と分類されています。
今日は民衆の救済を大切にした弘法大師(空海)と密教を取リ上げたいと思います。
弘法大師を取上げるのは私が尊敬しているからです。何故かというと彼は天才的な学僧でありながら、無知な民衆の救済のために各地を行脚したからです。学問の出来る人はとかく大衆を蔑み無視しがちです。ところが大師はそうではなかったのです。
その一方で弘法大師は、嵯峨天皇、惇和天皇、諸天皇の三代にわたる天皇家から篤い信頼を受け、天皇の依頼で国家安泰の修法を勤めたのです。
弘法大師は諸国を巡って人々の苦悩を解決し、農業用の溜池を作り、文化の恩恵を受けない大衆のために、綜芸種智院を開かれ、民衆教化を進めたのです。綜芸種智院は貴族やお金持ちの子弟だけが学ぶところではなく、文化の恩恵を受けることができなかった大衆も入学出来たのです。
 しかも、大師は都に留まることを望まず、やがて人里を遠く離れた高野山に移り、真言密教をそこで大成しました。詳しくは、(http://www.shingon.or.jp/daishi.html)をご覧下さい。
それはさておき私は昔から温泉が好きで、数多くの温泉を訪れました。そうすると幾つかの温泉では、弘法大師が杖を突いたら湯が出て来たと言うのです。
それは不思議なことです。奇蹟です。
弘法大師の真言宗では護摩を焚いたり加持祈祷をします。平安時代に書かれた源氏物語には出産や病気の時、祈祷専門の僧を呼んで安産や病気平癒を祈祷したと書いてあります。
その様子を見ると密教とはどういうものなのかが想像できます。
密教とは言葉で表せられない体験をとうしてお釈迦様の教えを深く理解しようという宗派のようです。これに対して言葉で説明のつく教えでお釈迦様の慈悲を理解させようとする宗派を顕教と言います。鎌倉仏教はこの顕教に分類する人が多いのです。勿論、禅宗は座禅や修業を重視しますから他の顕教とは少し違います。
日本では、密教といえば空海を開祖とする真言宗のいわゆる東密と、密教を導入した天台宗の台密の二つの宗派があります。
密教では不思議な宗教的な体験を経験することで悟りの境地に至るので山岳信仰や修験道と習合します。従って密教と修験道は密接に融合しているのです。
このように書くと合理的な現在の日本人は密教をその非合理性の故に見下します。しかしそれは浅慮なのかも知れません。
私は40年くらい前からカトリックになりました。そうすると密教との共通な考え方に気がつきます。カトリックでも奇蹟や不思議な宗教的な体験を重視し、それを信じています。
ですから弘法大師が杖を突いて温泉を出したという話も私は信じています。
話は飛びますが、日本は明治維新の文明開化以来、熱心に西洋文化を取り入れて来ました。しかし取り入れ方が科学や工業技術に重点が置かれたため合理的な文化のみに偏っていたのです。奇蹟を信じ、マリア様の処女懐妊を信じ、イエスの復活を信じる宗教を下敷きにした文化の導入にはあまり熱心ではなかったのです。ヨーロッパにある密教的な文化を無視し過ぎていたのです。
そのような不合理な考え方が時代遅れだと考えたら間違いです。現在、空海の始めた真言宗の信徒は以下のように、高野山真言宗:548万人、真言宗智山派:153万人、真言宗豊山派:120万人、真言宗醍醐派:56万人、合計約900万人もいるのです。
これは世界のカトリック教徒が非常に多いのことと一脈通じることかとも思われます。
今日の挿絵の写真は先週撮って来た季節の花々の写真です。
ところで明日から記事の掲載を休み、7月5日から再開する予定です。よろしくお願い申しあげます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)