後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

梅雨の無い北海道の爽快な風景をお楽しみ下さい

2018年06月16日 | 写真
梅雨です。毎日、毎日、雨が降って憂鬱です。梅雨なのだと諦めて日々を過ごしていますが、梅雨という季節の無い北海道の風景が懐かしく思い出されます。
そこで「後藤和弘のブログ、北海道の風景写真」というキーワードを検索しました。数十枚の写真が出て来ました。兎に角、私のブログには数千枚の写真が掲載されていて分類して検索することが出来ます。例えば「後藤和弘のブログ、富士五湖の風景写真」を検索すれば数十枚の写真が出て来ます。

それはさておき、今日は「後藤和弘のブログ、北海道の風景写真」から5枚の爽快な北海道の風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は長万部町の静狩の牧草地風景です。丸加高原を入り口付近から見た風景です。ここの牧場には「牛」「馬」「羊」が放牧されているそうです。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。

2番目の写真は北海道の稲作地の風景写真です。北海道は現在日本一の米の産地です。水田の背景の丘が北海道らしい風景です。空には白い雲が流れ爽やかな風景です。写真の出典は、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。

3番目の写真は私が撮ったルピナスやマーガレットの花の写真です。2016年5月12日のブログ記事に掲載した写真です。

4番目の写真は道端に咲いていたアヤメです。同じく2016年5月12日のブログ記事に掲載した写真です。
北海道は5月頃からルピナスやマーガレットやアヤメの花などが咲きだして美しい野原が広がっています。そして街路樹のアカシアも咲き出します。本州では季節ごとにずれて咲く花々が5月や6月に一斉に開くのです。
白樺や楡の木やブナノキの若葉が萌え、北海道の風景は急に華やかになります。

5番目の写真は富良野の富田ファームのラベンダー畑です。出典はhttp://polaris-t.seesaa.net/archives/20110718-1.html です。
北海道の魅力の一つは富良野のラベンダー畑の美しさではないでしょうか。 
1932年(昭和7年)に生まれた 富田忠雄さんが一生をかけて作りあげた花畑です。この広大な花畑のお蔭で富良野市は全国的にも有名な観光地になったのです。私どもも何度も行きましたが、なだらかな丘に広がる色とりどりの花畑に心を奪われてしまいます。それは本州では見られない風景です。

それにしても北海道に梅雨の季節がないのは羨ましいです。北海道の風景に魅了され何度も行きました。しかしもう元気が無くなりました。それも自然なことと思いますが、北海道の写真を見ていると毎日の梅雨の憂鬱な気分が吹き飛んでしまいます。
皆様も爽快な気分になられたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

北朝鮮のキリスト教徒、約7万人が労働収容所に!

2018年06月15日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国と北朝鮮の南北会談やシンガポールでの米朝会談で金正恩委員長は穏やかな笑顔を見せました。しかしその金正恩委員長の北朝鮮には数多くの強制収容所が存在しています。現在の世界で最も酷い人権抑圧政策を実施している国なのです。
トランプ大統領はこの事実を完全に無視して、北朝鮮の非核化と体制保障を約束した共同声明に署名したのです。
今日は北朝鮮の強制収容所と収容されている約7万人のキリスト教徒について簡略に書いてみたいと思います。

北朝鮮には金正恩の独裁体制を乱す行為をした者を収容する強制収容所が数多くあり、特に脱北者や体制批判者等の政治犯は強制収容所に即刻入れられます。
そこでは、男女ともに常に過酷な重労働を課せられたうえ、監視員に暴行や私的制裁を受けているのです。
一日の労働は約12時間、男女の差なく罪状により果樹園・炭鉱・森林伐採・採石などの重労働が課せられるのです。
ノルマの果たせない者はノルマを果たすまで重い労働を徹夜で行わされたり、その場で銃殺されることもあるそうです。
強制収容所に収容されている人数は不明ですが、数十万人はいると言われています。
特にキリスト教を信じている人々は宗教を禁じた共産主義に反するという理由だけで逮捕され労働収容所に入れられているのです。
その正確な数は不明ですが以下の資料によると約7万人と言われています。

このキリスト教の弾圧についてもう少し詳しくご紹介いたします。
以下は、「米朝首脳会談、キリスト教界の反応は?」からの抜粋です。
詳しくは、www.christiantoday.co.jp/articles/25663/20180613/us-north-korea-singapore-summit.htm をご覧下さい。
米朝会談後に共同声明の署名式が行われ、トランプ氏は同日夕に記者会見を開催。その中で記者団から北朝鮮のキリスト教徒について尋ねられ、トランプ氏は「われわれはそれ(北朝鮮のキリスト教徒)についても話し合った」と明らかにした。トランプ氏はさらに、北朝鮮への人道支援も行っているキリスト教支援団体「サマリタンズ・パース」の総裁で大衆伝道者のフランクリン・グラハム氏についても言及。「グラハム氏は北朝鮮のために多大な時間を費やしてきたし、また(今も)費やしている。彼は北朝鮮を心に留めている。その話も(会談中に)出たし、これから事が起こっていくだろう」と語った。
(後藤による注釈:グラハム氏はトランプ大統領の熱烈な支援者なのです。)
グラハム氏自身は12日、ツイッターに「祈りをありがとう。シンガポールでの会談は上手くいったようだ」とコメント。「これは北朝鮮と米国の新しい章の始まりにすぎない。私の変わらない祈りは、神が2人の指導者に知恵を与えられることだ。リスクをいとわない大統領がわれわれにいることを感謝する」と投稿した。

北朝鮮は、イギリスの人権監視団体「オープン・ドアーズ」によって、17年連続で、キリスト教徒に対する迫害が世界で最もひどい国に指定されている。米国務省も5月末に発表した「信仰の自由に関する国際報告書」で、北朝鮮では宗教活動に携わった人々が処刑や拷問の対象になるなど「過酷な状態」にあると報告している。

オープン・ドアーズ英国・アイルランド支部のゾエ・スミス氏は、英国クリスチャントゥデイ(英語)の取材に応じ、次のように語った。
「オープン・ドアーズは(北朝鮮で)推計約7万人のキリスト教徒が労働収容所に収容され、その信仰のみを理由に、想像しがたい拷問や非人道的で屈辱的な取り扱いを受けていると見ています。この組織的なキリスト教徒に対する迫害は、北朝鮮政権が犯している数多くの非道な人権侵害の1つにすぎません。この国に本当の変化が訪れるのであれば、われわれはそれを願っていますが、この絶望的な人権状況に正面から立ち向かうさらなる交渉が必要です」

バチカン放送(英語版)によると、駐韓バチカン(ローマ教皇庁)大使のシュエレブ大司教は、会談を「真に歴史的」と評価。「(平和に向けた)長く困難の多い道のりの始まりにおいて、重要なページを開いた」と語った。また、韓国カトリック教会の司教らは会談を受け、今月17日から25日まで、朝鮮半島の平和と和解、統一を願って「ノベナ(9日間の祈り)」を行うことを計画している。
シュエレブ大司教は「教皇庁は対話と和解に有益なあらゆる招きに対し、支援を提供することを望んでおり、これをイエス・キリストの良き知らせを北朝鮮に伝える機会とすることを願っている」と語った。

以上のように北朝鮮では宗教を信じていると逮捕されるのです。当然、仏教を信じてもいけないのです。それは宗教をこの世から排除しようとする共産主義に違反するからなのです。
共産党独裁の中国やベトナムには政府に反抗しないかぎり宗教は自由です。市場経済政策を実施すれば、宗教は自由になります。

トランプ大統領はシンガポールの米朝会談で金正恩委員長と信仰の自由や人権の保護の重要なことをあまり熱心に話合わなかったようです。
その重要性への信念がないのです。ですから拉致問題を取り上げてても、軽くとってつけたような言及に過ぎなかったのでしょう。
安倍総理に頼まれたから言っただけです。今後は安倍総理の人権の重要性への信念の強さが試されるでしょう。

日本のニュースでは北朝鮮の宗教弾圧は報道されていません。しかし欧米の報道をみると多くの報道があります。
宗教を信じている人々のトランプ大統領への評価は必ずしも高いとは言えないようです。困ったものです。

今日の挿し絵代わりの写真は我が家の庭に咲いている花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)









米朝会談が日本の将来に与える良い影響、悪い影響

2018年06月14日 | 日記・エッセイ・コラム
米国のトランプ大統領は、自分を「交渉の達人」と呼んでいましたが、北朝鮮の金正恩委員長の方がしたたかな「交渉の達人」だったようです。
6月12日の米朝首脳会談の結果、北朝鮮は非核化を曖昧のまま、米国からは「安全の保証」を約束させたのです。金正恩委員長の粘り勝ちのように見えます。
このシンガポール会談は日本の将来に大きな影響を与えるのは明らかです。良い影響と悪い影響があるのが当然です。
今日はこの良い影響と悪い影響を個条書きにして、問題を提起したいと思います。

A、日本にとって良い影響;
1)米朝戦争が回避出来たことが何よりも日本へ良い影響を与えます。
この戦争が起きれば日本にも北朝鮮のミサイルが飛んで来ます。自衛隊もアメリカ軍支援のために参戦せざるを得ません。日本が戦争に巻き込まれるのです。この危険を回避できたことは最も良いことでした。

2)北朝鮮に核兵器が残ったとしても、その日本へ対して使用は非常に限定される可能性があります。
北朝鮮の泰川には原子力発電所とウラン濃縮工場があります。豊渓里には核実験場があります。その他、新浦や嚀辺には原子炉、ウラン濃縮工場、再処理工場などがあります。そして博川や順川や平壌や平山などにも核兵器関連の施設があるのです。
これら全ての施設を査察し、廃棄させるというのが今回の共同声明の北朝鮮の非核化の意味なのです。しかし素人が考えても非核化には何年もかかることは容易に理解出来ます。
ですから北朝鮮の核兵器は減少するが大部分は残存すると考えられます。
残存しているのが判明すればアメリカが怒り狂います。
ですから北朝鮮は核兵器が使えなくなります。これは日本の安全にとって大変良いことです。

B、日本にとって悪い影響;
1)韓国と北朝鮮の経済が躍進して日本経済が苦しくなる。
北朝鮮は韓国の大型投資を導入してリゾート開発をしようとしています。その後では韓国の企業が北朝鮮の各地に工場を作り、北の安い労働力を利用して、一段と安い商品群を日本へ輸出します。アメリカへも輸出します。その結果、日本商品の国際的な競争力が低下します。これは日本にとって悪い影響です。

2)日本は拉致問題があるので北朝鮮とは経済投資が出来ません。北の安い労働力も利用できません。北朝鮮の新たな市場にも参入出来ません。韓国と中国の企業だけが参入出来るのです。これは日本にとって悪い影響です。

3)韓国と親密になった北朝鮮は日本へ多額のお金を要求して来るでしょう。
昔の朝鮮合併の賠償として日本が韓国を支援した8兆円くらいの大金を期待するという噂です。これは日本にとって悪い影響です。

4)北朝鮮と親しくなった韓国は昔の徴用工問題や慰安婦問題を北朝鮮へ教え、北朝鮮は同じ様なことを日本に対して行うでしょう。これは日本にとって悪い影響です。

以上の他にも、日本にとって良い影響も悪い影響も沢山あると思います。
米朝会談は手放しで喜べない日本の立場は複雑なのです。
朝鮮合併という負の遺産と拉致問題の存在が日本の立場を複雑にしているのです。

今日の挿し絵代わりの写真は先週、東村山市の北山公園で撮った色とりどりのアジサイの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)









米朝会談と韓国、北朝鮮の人々の歓喜とその幸福

2018年06月13日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日のシンガポールでの米朝会談の反響はいろいろありました。
今日、私は次の2つの感想を書きたいと思います。

(1)韓国、北朝鮮の人々の歓喜と今後の幸福について。
街頭で歓喜の表情を見せる多数の韓国人の姿を見ると、今回の会談は全ての朝鮮民族にとって大歓迎されたのです。在日朝鮮民族も歓喜の声を上げていました。

(2)北朝鮮の完全な非核化は非常に困難です。ほとんど不可能です。
近代工業技術というものは一旦手に入れたら、その詳細な設計図が残る限り完全に消滅させることは不可能なものです。核兵兵器製造工場の設計図が残る限り、再び核兵器の製造工場の建設は実に容易なのです。近代工業技術というものは、そういうものなのです。

1番目の写真は昨日の米朝会談で初めて会ったトランプ大統領と北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の写真です。

さて以下では今日の2つの問題についてもう少し分かり易い説明をしたいと思います。
(1)米朝会談は朝鮮民族の歓喜だということ。
皆様はベトナムのホーチーミン軍がアメリカ軍に勝って北ベトナムと南ベトナムを統一し、それが現在のベトナムの繁栄に繋がったことをご存知でしょう。勿論、これにはベトナムの市場経済政策のドイモイ政策があったことが必要でした。
またベルリンの壁崩壊後の東西ドイツの統一もありました。
貧しい東ドイツを背負った西ドイツは一時経済的に低迷しました。そしてその後、この経済低迷を克服して今や統一ドイツはEU の最も繁栄している代表的な国家になったのです。

ですから北朝鮮と韓国が経済交流を促進すれば南北朝鮮の国民の生活レベルは各段に上がることは確かなことです。南北朝鮮民族は必ずや現在よりも幸福になるのです。
しかし朝鮮民族の統一という悲願は達成されないでしょう。北と南の政治組織があまりにも違うからです。南北が統一国家になることは不可能です。
しかし今回の米朝会談は朝鮮民族に統一国家になる夢を与えました。明る明るい希望を与えました。
これこそ今回の米朝会談の最大の功績だと思います。文化人類学を趣味にしている私の偏った感想かも知れませんが、隣国の朝鮮民族が歓喜している姿に心打たれました。私も嬉しいのです。

(2)北朝鮮の完全な非核化は非常に困難です。ほとんど不可能です。
北朝鮮の泰川には原子力発電所とウラン濃縮工場があります。豊渓里には核実験場があります。新浦には軽水炉があります。
嚀辺には原子炉、ウラン濃縮工場、再処理工場などがあります。博川にはウラン製錬坑儒があります。順川にはウラン鉱山があります。
平壌の大学には小型原子炉があります。そして平山にはウラン精錬工場があります。
この他に原爆や核兵器製造工場が数カ所に存在しているのです。
これら全ての施設を査察し、廃棄させるというのが今回の共同声明の北朝鮮の非核化の意味なのです。
素人が考えても何年もかかることは容易の理解出来ます。

しかし今日の私の主張は、これら核関連工場の設計図が残る限り、核兵器の製造は簡単だということです。
アメリカの言う「不逆的な非核化」とは全ての設計図をアメリカへ渡せという意味なのです。
下に米朝共同声明全文を示しましたが、「不逆的な非核化」という表現が無いのはアメリ側が妥協したのでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

===米朝共同声明全文====================
アメリカのトランプ大統領と北朝鮮のキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長のシンガポールでのサミットにおける共同声明
トランプ大統領とキム委員長は、2018年6月12日に、シンガポールで、史上初めてとなる歴史的なサミットを開催した。トランプ大統領とキム委員長は、新たな米朝関係や、朝鮮半島における永続的で安定した平和の体制を構築するため、包括的で深く誠実に協議を行った。トランプ大統領は北朝鮮に体制の保証を提供する約束をし、キム委員長は朝鮮半島の完全な非核化について断固として揺るがない決意を確認した。

新たな米朝関係の構築が朝鮮半島のみならず、世界の平和と繁栄に貢献することを信じ、また、両国の信頼関係の構築によって、朝鮮半島の非核化を進めることができることを認識し、トランプ大統領とキム委員長は以下の通り、宣言する。

1・アメリカと北朝鮮は、平和と繁栄に向けた両国国民の願いに基づいて、新しい関係を樹立するために取り組んでいくことを約束する。

2・アメリカと北朝鮮は、朝鮮半島に、永続的で安定した平和の体制を構築するため、共に努力する。

3・2018年4月27日のパンムンジョム宣言を再確認し、北朝鮮は朝鮮半島の完全な非核化に向けて取り組むことを約束する。

4・アメリカと北朝鮮は、朝鮮戦争中の捕虜や・行方不明の兵士の遺骨の回収に取り組むとともに、すでに身元が判明したものについては、返還することを約束する。

史上初となる、アメリカと北朝鮮の首脳会談が、この数十年にわたった緊張と敵対関係を乗り越え、新しい未来を切り開く大きな転換点であることを確認し、トランプ大統領と金委員長は、この共同声明での内容を、完全かつ迅速に実行に移すことを約束する。

アメリカと北朝鮮は、首脳会談の成果を実行に移すため、可能な限りすみやかに、アメリカのポンペイオ国務長官と北朝鮮の高官による交渉を行うことを約束した。アメリカのトランプ大統領と北朝鮮のキム・ジョンウン朝鮮労働党委員長は、新たな米朝関係の発展と、朝鮮半島と世界の平和や繁栄、そして安全のために、協力していくことを約束する。

ドナルド・トランプ米大統領(署名)
 金正恩・北朝鮮国務委員長(署名)
 2018年6月12日
 セントーサ島
 シンガポール

朝鮮戦争を知る人々は今日の米朝会談開催に感激する!

2018年06月12日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ数か月、私は激動する北朝鮮の動向に興奮しています。毎日、北朝鮮・韓国・中国・米国間の交渉に関するニュースを息をつめて見ています。これこそまれに見る激動のドラマです。何故、私がこのように興奮しているのでしょうか?
それは戦前生まれの高齢者なので1950年に始まった朝鮮戦争の悲惨な実態の一部を知っているからです。
この残虐な朝鮮戦争は今日の米朝会談で本当の終結に向かうからです。

私は北京の天安門広場で毛沢東主席が高らかに「中華人民共和国」の成立を宣言した場面をニュース映画で何度も見て心に焼き付いています。それは1949年の10月の晴天の日のことでした。
この共産勢力の勢いに乗じて、1950年に北朝鮮が韓国を奇襲攻撃をして南部の釜山近郊まで占領してしまったのです。
朝鮮半島があわや共産党政権の支配下になろうとした時、マッカーサー司令司令官が韓国北部の仁川に海兵隊を上陸させ戦線を一挙に挽回し北朝鮮の北部まで占領してしまったのです。ここで中国が立ち上がります。多数の義勇兵を北朝鮮へ送り、その人海戦術で再びソウルを奪還したのです。最終的に戦線は現在の38度線付近で膠着状態になったのです。
マッカーサーは中国国境を越えて中共軍を原爆で攻撃することを主張し、トルーマン大統領に解任されます。戦争は休戦になりましたが戦争状態は現在まで続いています。
この北朝鮮・中国と韓国・アメリカの戦争状態が今日の米朝会談で終結する可能性が示されるかも知れないのです。
会談が行われることだけでも感動します。それはまさしく歴史の大転換なのです。

そこで朝鮮戦争をもう一度考えてみましょう。
そのために巨視的に理解する方法を(1)で示します。そして巨視的には見えて来ない戦場の悲惨さの一端を(2)で示します。
それぞれは以下の通りです。

(1)『5分で分かる朝鮮戦争!原因、休戦状態が続いている理由をわかりやすく解説!』
https://honcierge.jp/articles/shelf_story/4612 よりの抜粋です。

朝鮮戦争は朝鮮半島において、1950年から始まった大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の戦争です。
死者は南北合わせて500万人にものぼるといわれています。街は荒廃し、多くの戦争孤児が出るなど、朝鮮半島は大混乱となってしまったのです。
約3年にわたって泥沼化したこの戦争において、 アメリカではマッカーサーが原爆の使用をも検討していました。結局当時の大統領トルーマンにより解雇され、また世論もあって現実になることはありませんでしたが、第二次世界大戦以降初めての核戦争の危機があったことは事実です。
1953年の7月27日に、南北の代表とソ連およびアメリカの代表が会合をおこない、休戦協定が成立しましたが、実質的な終戦にはいまだ至っていません。以下省略します。

(2)朝鮮戦争の残虐な実態
国連軍の北進と中朝軍の攻勢、https://ja.wikipedia.org/wiki/朝鮮戦争 より抜粋。
MiG-15の導入による一時的な制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した(韓国語版)。1月6日、韓国軍・民兵は北朝鮮に協力したなどとして江華島住民を虐殺した(江華良民虐殺事件)。韓国軍・国連軍の戦線はもはや潰滅し、2月までに忠清道まで退却した。また、この様に激しく動く戦線に追われ、国民防衛軍事件などの横領事件によって食糧が不足して9万名の韓国兵が死亡した。2月9日には韓国陸軍第11師団によって居昌良民虐殺事件が引き起こされた。
37度線付近に後退した国連軍は、西からアメリカ第1軍団、アメリカ第9軍団、アメリカ第10軍団、韓国第3軍団、韓国第1軍団を第一線に配置し、後方にアメリカ第1騎兵師団を配置、アメリカ第1海兵師団と韓国第11師団は太白山脈や智異山付近のゲリラ討伐に任じていた。
国連軍の士気は低下し、中国軍は前線から姿を消していた。 12月23日、さらに第8軍司令のウォーカーが前線視察中に交通事故で死亡するという不運に見舞われた。マッカーサーはウォーカーの訃報を聞くや、かつてよりこの状況を挽回できる唯一の人物として考えていた統合参謀本部マシュー・リッジウェイ副参謀長を後任として推薦した。以下省略します。


さてここで朝鮮戦争にかかわる写真を示します。

1番目の写真は朝鮮半島を南北に移動する戦線を示す図です。

2番目の写真は破壊されたソウル市内の建物の様子です。

3番目の写真は国連軍の艦艇に避難する韓国の避難民です。

4番目の写真はダグラスC-54「バターン号」を背にするマッカーサー(右2人目)です。

5番目の写真はマッカーサー解任・リッジウェイ着任を報じる新聞(世界通信)です。


今日これから開催されるトランプ大統領と金正恩委員長の会談がどのようになるかは予断を許されません。
しかし会談が開催されることだけでも歴史的な、そして感動的なことなのです。
会談の成功を祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

最近の日本社会の変化(6)都電が消え車社会への変化

2018年06月11日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年生まれの私は大学卒業まで仙台に育ちました。仙台市の市電に良く乗りました。乗り物が好きだった私は、運転席の後ろに立って、風景が変わるのを楽しみました。それは楽しい思い出として心に残っています。
1962年にアメリカ留学から帰って東京に住むようになりました。
当時は都電の全盛時代のなごりで、都電が都区内の全域に走っていました。
仙台の楽しかった市電を思い出しながら都電にもしょっちゅう乗ったものです。

今日は都電が消え去り、日本中が車社会になった頃のことを書きたいと思います。
都電の最盛期は1955年頃だったそうです。その頃の営業キロは約213kmもあり、40の運転系統があったそうです。そして毎日、約175万人が利用する日本最大の路面電車だったそうです。
しかし都電は消え去る運命にあったのです。
東京都交通局が財政再建団体に指定されると再建策の一環として1972年まで都電が廃止されることになったのです。しかし唯一つ荒川線だけが存続することになったのです。
都電が消えた原因は地下鉄網の完備と自家用車の普及です。
日本国中で高速道路が建設され日本全体が車社会になってしまったのです。
しかし、まだ路面電車を大切に使っている都市も幾つか残っています。

それでは東京に都電が走っていた頃の風景と車社会になった後の風景を示します。

1番目から3番目の写真の出典は、http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html です。38系統、砂町方面行きの都電です。

2番目の写真は13系統、新宿行きの都電です。

3番目の写真は19系統、王子行きの都電が須田町の停留所に停まっている風景です。

4番目の写真は車が充満している道路の風景写真です。

5番目の写真は都電が撤去され美しく整備された新宿の風景です。


さて日本から市電や都電などの路面電車が消え、車社会になって日本はどのように変わりましたでしょうか?
今日はこの問題を提起するだけです。皆様にお考え頂けたら幸いです。
私の浅薄な考えを書く代わりに以下に都電に馴染んでいた人の回想をお送りいたします。

以下は、インタビュー:都電網研究会、
http://interview-todenmo.cocolog-nifty.com/blog/cat35588006/index.html からの抜粋です。
前文;
根津のまちを歩いていたときのこと、上野動物園に程近い、池之端(いけのはた)で店頭に都電の写真を掲げている写真館を偶然「発見」しました。後日に、その写真館「志田フォト」の店主、志田英雄さんと奥様の伊久代さん、そして志田さんの都電写真仲間である関口さんに、都電についてのお話しを伺うことができました。以下、その模様をお伝えします。そして雨宮敏夫さんの回想も付け加えました。
(1)昔日の池之端七軒町(しちけんちょう)界隈
志田英雄さん(以下H):
私は、昭和3年の3月7日生まれなのですが、生まれた場所はまさにここ(写真館)の裏でしてね。その頃の昭和4年あたりは、父はここで書画などの骨董品を扱う店をやっていました。母は理容学校の経営をしていて、弟子の中に山野愛子さんがいました。ウチに勉強しに来た後、江東区にお店を出されたようです。
市電(その後の都電)は、確か大正7年に、計画が持ち上がったと聞いています。それで、市電の軌道が不忍通りをこの池之端で曲がって、不忍池 (しのばずのいけ)の方へ通るようになったんです。私はそのだいぶ後に生まれたわけですが、私の小さい頃は、市電のレール沿いにずーっとドブ川が流れていて、そこでエビガニだとか、オタマジャクシを捕ったりしたものです。
(2)間一髪 !! アメリカの爆撃機に狙われ・・・
>>市電や、その後の都電を利用しての印象的な出来事は、ありましたか。
H:
やはり戦争中ですね。昭和20年3月の東京大空襲の後、5月だったか、私は都立工芸の夜学に通っていたのですが、授業中に空襲警報が発せられて(笑)。皆、家に帰るようにっていうので、水道橋からきて須田町で乗り換えて、こちらに帰ってくる時に末広町で爆弾が落っこったんですよね。
それがねえ、乗っていた電車が当時は「ポール集電」だったでしょう。電車を走らせていると、時々、ポールと架線が離れたりまたくっついたりして、そのときに電流が「バチッ!」とスパークして火花が散るんですよ。灯火管制で町中が真っ暗のなか、アメリカの爆撃機はその一瞬の、火花の光をめがけて爆弾を落っことしてくるんですよね。
火花が散って30秒くらいして、急にドドドーッと爆撃機のエンジン音がしてきたと思ったら、すぐにボカーンと後ろで爆発したんですよ。後続の電車に乗っていた人に怪我人が出たと聞いて、うわあ、これは後ろの電車に乗っていたら危なかったなあ、とかね。スパークしたのは私の乗っていた電車で、そのスパークした場所に正確に爆弾が落とされて、その後続の電車が被害を受けた、というわけです。
(3)雨宮敏夫さん(喫茶店「コーヒーハウスあめみや」店主)
2012年7月22日 三ノ輪橋にて
◇私は昭和27年の生まれなんですけれども、そのときからここ(ジョイフル三ノ輪商店街内 コーヒーハウスあめみや)が自分の住居だったんです。都電27系統、ご存知の通り今の荒川線の一部ですが、当時は三ノ輪橋から赤羽までいく電車でして、僕らの子どもの頃、この辺の人は誰もが都電と呼ばず「王電 (おうでん)」と呼んでいました。
既に東京都が運営してましたから、正しくは都電になっていたわけですけど、この呼び名はそれ以前の「王子電車(註:かつて存在した軌道線の会社)」時代の名残なんですね。ここからすぐそこの梅沢写真館は、かつて王電ビルでして、そこに「王電」と大きく看板が出ていた時代がありましたので、世田谷を走っている「玉電(たまでん:玉川電気軌道)」にも引っかけて、皆「王電、王電」と言ってました。

以上は何気ない都電に関する思い出です。日本の政治や国際関係に関係の無い話です。
しかし都電が走っていた時代の人々の感情が描かれています。それは義理人情の生きていた社会でした。
車社会になって義理人情も消えました。しかし車社会では人々が他人に優しくなりました。ボランティアの精神が行き渡り、見ず知らずの誰にでも優しくなったのです。
昔は義理のある人だけに情をかけました。それは恩に報いるという社会でした。
現在は恩が有る、無しに関係なく他人へ親切にする社会になったのです。
本当に良い時代になったのです。私はそのように楽観的に考えることにしています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

自然葬の普及と檀家制、寺院仏教の衰退

2018年06月10日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はに日曜日なので宗教に関連した記事を書きます。最近、増加した日本人の自然葬への憧れと寺院仏教、特に檀家制の衰退について簡単に書いてみたいと思います。

宗教は人間の精神生活を豊かにします。愛する人々の死別の悲しみをやわらげてくれます。私自身も宗教というものが大好きです。キリスト教も仏教も神道も大好きです。
ですから最近の日本人の宗教離れ、特に寺院仏教から離れる現象を悲しい気持ちで見守っています。
悲しいことですが、社会の変化や人々の考え方の変化は冷静に客観的に見て、静かに受け入れています。

日本の経済の高度成長にしたがって先祖代々のお墓を郷里の寺から、自宅のそばの共同墓地へ移す人が増えて来ました。民間会社が開発した無宗教の大型共同墓地が全国的に流行し、そこに自分のお墓や先祖代々のお墓を作る人が急に増加したのです。
江戸幕府のキリシタン禁教政策の一つとして全ての家はお寺の檀家になっていたのです。その風習は明治、大正、昭和になっても連綿と続いていた日本の仏教的風習でした。
その仏教的風習が1970年代そして1980年代と次第に大きく崩れ出したのです。
この社会的風潮をもって日本人の仏教離れや宗教離れと判断するのは少し厳密性に欠けるかも知れません。しかし大雑把に言うと、日本人の仏教離れや宗教離れの具体的な一例と考えられます。そこでこの社会現象について少し詳しく書いてみます。

檀家制度が崩れ、多くの人々はお寺とは縁が切れ出しただけではありません。宗教抜きの葬儀を行い、宗教抜きの遺骨の取り扱いが流行のように広がり出したのです。
この宗教離れの葬儀の例は樹林葬と海への散骨葬など自然葬のことです。それは大雑把に言って1990年頃から生まれた日本の新しい社会現象でした。
1990年頃、以前は、遺骨を決められた墓地以外に埋めると、刑法190条により「遺骨遺棄罪」になったのです。この刑法を支えているのが戦後の昭和23年に出来た「墓地、埋葬等に関する法律」の規定です。しかし1991年に法務省と厚生省がこの法律をゆるめたのです。
1991年に「葬送の自由をすすめる会」が神奈川県の相模湾で海への散骨をしたのです。その後、この会は全国に12の支部を作り、会員も12000人になります。
15年後の2006年までに全国で1137回の自然葬を行い、1945人の遺骨を自然へ還しています。現在は毎年100回程の自然葬を行い200人ほどの遺骨を自然へ還しています。

1991年に、法務省と厚生省は新しい解釈を発表し、「葬送の自由をすすめる会」の葬送は違法ではないという趣旨を公にしたのです。
適切な方法なら海への散骨だけでなく樹林葬や桜葬や山岳などなどへの散骨葬は違法でないという解釈です。しかし「適切な方法」は具体的に規定していません。
この法務省や厚生省の法律への新見解以後、多くの宗教団体や業者が「自然葬」を斡旋し、代行する事業を始めたのです。
このような自然葬を行ってくれる会社は急増し、現在は一つの大きなビジネス分野として育っています。
例えば株式会社ジール、(http://www.sankotsu.net/company.html )は北海道の知床から沖縄の石垣島まで全国の都道府県に事業を展開し、海の散骨・海洋散骨「グランブルーセレモニー」業務を実施しています。
一方、樹木葬や樹林墓地の全国情報は、http://en-park.net/books/571 に掲載してあります。
それによると樹木葬とは、1999年に岩手県の祥雲寺(現、知勝院)ではじめて行われたそうです。樹木を墓標(目印)として遺骨を埋葬し、供養する方法です。そして里山型の樹林墓地もあります。
この方法では都市部から離れた山林など広い墓域で埋葬されます。自然と一体になるイメージが強く、一見するとどこがお墓にあたる場所がわからないほど自然に溶け込んでいます。里山の環境保全に繋がります。

そこで最後に東京都立小平霊園の樹木葬について説明いたします。
この都立霊園では末尾の参考資料の(3)に示したような条件で自然葬の受付をしているのです。

さてところで樹林葬式を希望している人はどの位いるのでしょうか?
都立霊園の統計によると、東京都では毎年ほぼ10万人が死亡していて、そのうち25000人位の人が散骨を希望しているそうです。
私は2012年の7月に、都立小平霊園の管理事務所を訪問し、樹林墓地の実態について取材して来ました。
管理事務所の話では、2012年3月に10700体の遺灰を埋蔵可能な樹林墓地が完成し、2012年には試しに、500人の募集をしました。それに対して5000人の希望者があったそうです。平成26年からは本格的に多数の募集をする予定だそうです。(小平霊園の樹林葬については参考資料の(3)も是非ご覧下さい。)
総合的に観察すると自然葬はますます増加する傾向があると考えられるのです。

以下に自然葬に関連する写真を示します。

1番目の写真は、2012年7月に撮って来た都立小平霊園の樹林墓地の写真です。樹林墓地の入り口の門から撮った写真です。

2番目の写真はその中の一段高くなった芝生を示しています。粉状の遺灰は水に溶ける紙の容器に入れ、この芝生の下に埋葬します。

3番目の写真は、海へ散骨するヨットの写真です。
ヨットの上から散骨してくれる会社は、風という会社:http://sankotsu-kaze.com/about/index.html です。 

そして4番目の写真は海への散骨をしているある会社のモーターボートの写真です。写真の出典は、7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/ です。

さて、一般的に、1990年前後のバブル経済の崩壊から後を「伝統文化の変革期」と私は定義したいと思います。それは江戸時代から明治、大正、昭和と続いた日本人の伝統的な価値観や民族特有の文化がどんどん変化し出した時期だからです。
いろいろな新しい社会現象が起きていますが、今日はその一例として「自然葬の普及」について書いてみました。
皆様は自然葬をどのようにお考えでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料======================
(1)自然葬を行っている団体の数例:
風という会社:http://sankotsu-kaze.com/about/index.html
NPO葬送の自由を進める会:http://www.shizensou.net/
家族葬の会:自然葬(海洋葬・里山葬):http://www.npo-kazokusou.net/support/nature.html
7つの海で海洋散骨:http://shizensou.com/
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(2)自然葬に要求される必要な条件:
1、火葬にした遺骨は必ず米粒以下の粒子か粉にすること。一見して遺骨と判らないようにし、海水中や土中へ溶けやすい状態にすること。(遺骨はリン酸カルシュウムが主成分で水には難溶性です)

2、海への散骨は海水浴場や湾内の養殖筏の近辺はいけない。沖でも漁場に使われる海域はいけない。風評で魚が売れなくなることへ充分配慮する。

3、陸上での散骨は土地の所有者の承諾を得ること。自分の所有する山でもキノコや山菜取りの入会権へ充分配慮する。自分の別荘の庭に散骨するのは別荘が他人の手に渡った場合についても充分な配慮をする。(アメリカでその為に不動産価格が下がって裁判になった例があるそうです。)

4、国有林は広大で散骨に適しているが、管理している農水省や国土交通省の明確な見解が発表されていない。NPO葬送の自由を進める会が現在、国有林の散骨葬への解放運動をしている。

僻地の町や村の所有する山林はその役場に願い出ると許可される場合もあるそうです。
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(3)都立小平霊園の樹林葬式の詳細:
都立小平霊園の場合;費用は粉状の遺骨で持ち込めば44000円です。纏めて44000円支払えば、以後一切の費用は不要です。粉状でない普通の遺骨の状態で持ちこめば134000円です。
遺骨を粉状にするには火葬場に頼むとしてくれるそうです。設備が無くて粉状に出来ない火葬場もあるので、あらかじめ相談の上火葬を頼むことが肝要だそうです。
遺灰は水に溶ける紙製の容器に入れ、何個か纏めて樹林に囲まれた芝生の中に埋めるそうです。30年間そのままにして土中へ自然に混合するのを待ちます。30年後に残った遺灰はまとめて共同埋蔵します。
埋葬後、故人へ花や線香を供えるための献花台は用意するそうです。詳しくは管理お事務所、電話:042-341-0050へお聞き下さい。
以上は東京都の場合ですが、全国の市町村役場で管理している墓地や、お寺が管理している墓地でも急速に樹林葬墓地が普及していると想像できます。

色とりどりの花菖蒲の写真をお楽しみ下さい

2018年06月09日 | 写真
次第に蒸し暑くなって参りました。皆様お元気にお過ごしでしょうか?
昨日の午後、毎年、写真を撮りに行く東村山市、北山公園の花菖蒲園に行ってきました。
広大な花菖蒲園に一面に花が咲いて、風に揺れています。よく見ると花の色彩と模様が多種多様なのです。品種を作り栽培した人々の美しい花を作ろうとする情熱が溢れています。
広い公園をあちこち歩きながら気持ちを込めて写真を撮りました。独りで撮っていると気が散らいないで花が話しかけてくる声が聞こえるようです。花は見るだけでなく丁寧に写真を撮っている時間も楽しいのです。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
























ご参考までに全国の花菖蒲園の一覧のURLをお知らせいたします。
『各地の花菖蒲園のご紹介』、http://www.japan-iris.org/syoubuen.html
 各地の花菖蒲園をまとめました。お近くの花菖蒲園をぜひ訪ねてみてください。そして,花菖蒲をそだててみてください。
北海道・東北  関東  中部  近畿  中国  四国・九州、各地方の花菖蒲園の一覧表が出ています。

また「花菖蒲・あやめ園」の全国の122ケ所の一覧表は、http://www.ne.jp/asahi/ashikawa/smile/HanaSyoubuguide.html にも出ています。

老愁は払えども尽きず、又春が過ぎる

2018年06月08日 | 日記・エッセイ・コラム
何度も何度も甲斐駒の山になびく白い雲を見上げ、足もとに咲く花々を見る度に思います。
この風景は毎年変わりません。しかし私の老愁はますます深くなっていきます。
私に親しかった人々は一人一人相ついで逝ってしまいました。私を知っている人が居なくなったのです。淋しいです。これが老愁というものでしょうか?
先週撮って来た写真をお送りします。









年老いると毎日自由に遊べて楽しいものです。老境の華やぎも感じます。しかし心の底は淋しいのです。
親しかった人々は一人一人相ついで逝ってしまいました。そして自分も愛する家族と別れて旅立つ定めなのです。この悲しさをまぎらわすためにあちこち旅をします。近くの花園や植物園に足繁く通います。毎日、明るく生きています。
しかし老愁は払えども尽きません。春が過ぎ梅雨の季節になりました。毎年、毎年、同じように春を送るのです。
憂鬱な梅雨の毎日になったので暗い気持ちになります。老愁が深まります。
こんな気分になります。

そんな時家内が八木重吉の詩を見せてくれました。
      雨
  窓をあけて雨をみていると
  なんにもいらないから
  こうしておだやかなきもちでいたいとおもう

また、何気なく永井荷風の墨東綺譚の最後の部分を読んでいたら「老愁は払えども尽きず、又秋を送る」という句がありました。丁度良いのでそれを少し変えて今日の題目にしました。

その墨東綺譚の最後の部分は次のようなものです。

・・・窓の外に聞える人の話声と箒の音とに、わたくしはいつもより朝早く眼をさました。臥床の中から手を伸して枕もとに近い窓の幕を片よせると、朝日の光が軒を蔽う椎しいの茂みにさしこみ、垣根際に立っている柿の木の、取残された柿の実を一層ひとしお色濃く照している。
箒の音と人の声とは隣の女中とわたくしの家の女中とが垣根越しに話をしながら、それぞれ庭の落葉を掃いているのであった。乾いた木の葉のひびきを立てる音が、いつもより耳元ちかく聞えたのは、両方の庭を埋うずめた落葉が、両方ともに一度に掃き寄せられるためであった。

 わたくしは毎年冬の寝覚に、落葉を掃く同じようなこの響をきくと、やはり毎年同じように、「老愁ハ葉ノ如ク掃ハラヘドモ尽キズ又秋ヲ送ル。」と言った館柳湾の句を心頭に思浮べる。その日の朝も、わたくしは此句を黙誦しながら、寝間着のまま起たって窓に倚よると、崖の榎の黄ばんだ其葉も大方散ってしまった梢から、鋭い百舌もずの声がきこえ、庭の隅に咲いた石蕗花の黄い花に赤蜻蛉がとまっていた。赤蜻蛉は数知れず透明な其翼をきらきらさせながら青々と澄渡った空にも高く飛んでいる。

 曇りがちであった十一月の天気も二三日前の雨と風とにすっかり定って、いよいよ「一年ノ好景コレヲ見ヨ」と東坡の言ったような小春の好時節になったのである。今まで、どうかすると、一筋二筋と糸のように残って聞えた虫の音も全く絶えてしまった。耳にひびく物音は悉く昨日のものとは変って、今年の秋は名残りもなく過ぎ去ってしまったのだと思うと、寝苦しかった残暑の夜の夢も涼しい月の夜に眺めた景色も、何やら遠いむかしの事であったような気がして来る。

年々見るところの景物に変りはない。年々変らない景物に対して、心に思うところの感懐もまた変りはないのである。花の散るが如く、葉の落おつるが如く、わたくしには親しかった彼かの人々は一人一人相ついで逝いってしまった。わたくしもまた彼の人々と同じように、その後を追うべき時の既に甚しくおそくない事を知っている。晴れわたった今日の天気に、わたくしはかの人々の墓を掃はらいに行こう。落葉はわたくしの庭と同じように、かの人々の墓をも埋めつくしているのであろう。・・・昭和十一年丙子十一月脱稿

どうも梅雨の憂鬱な季節は暗い気持ちになりがちです。その気持ちを書いてしまったので気分がはれました。老境では強がらず悲しい時は悲しい、淋しい時は淋しいと言ったほうが良いと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料=============
永井荷風の外国体験;https://ja.wikipedia.org/wiki/永井荷風 より抜粋。
1903年(24歳)、父の意向で実業を学ぶべく渡米、1907年までタコマ、カラマズー、ニューヨーク、ワシントンD.C.などにあってフランス語を修める傍ら、日本大使館や横浜正金銀行に勤めた。銀行勤めとアメリカに結局なじめず、たっての願いであったフランス行きを父親のコネを使って実現させ、1907年から1908年にかけてフランスに10ヶ月滞在した。横浜正金銀行リヨン支店に8か月勤め(当時リヨンは一大金融都市だった)、退職後パリに遊び、モーパッサンら文人の由緒を巡り、上田敏と知り合った。
外遊中の荷風は繁くオペラや演奏会に通い、それが『西洋音楽最近の傾向』『欧州歌劇の現状』などに実った。ヨーロッパのクラシック音楽の現状、知識やリヒャルト・シュトラウス、ドビュッシーなど近代音楽家を紹介した端緒といわれ、我が国の音楽史に功績を残している。

第二次世界大戦中の永井荷風の苦難;
戦争の深まりにつれ、新作の新刊上梓は難しくなったが、荷風は『浮沈』『勲章』『踊子』などの作品や『断腸亭日乗』の執筆を続けた。草稿は複数部筆写して知友に預け、危急に備えている。戦争の影響は容赦なく私生活に悪影響を与え、食料や燃料に事欠くようになる。1945年3月10日払暁の東京大空襲で偏奇館は焼亡、荷風は草稿を抱えて避難したがおびただしい蔵書は灰燼に帰した。
以降、荷風は菅原夫妻を頼って中野区住吉町(現東中野四丁目)から明石市、さらに岡山市を転々とするがそのたびに罹災し、ようよう7月3日同市巌井三門町(現岡山市北区三門東町)の民家に落ち着く。すでに66歳となっていた荷風は、この倉皇の期にも散策と日記を怠っていないが、度重なる空襲と避難の連続で下痢に悩まされたり、不安神経症の症状が見られなど身体に変調をきたす。同行した永井智子の大島一雄宛の手紙には、「最近はすつかり恐怖病におかかりになり、あのまめだつた方が横のものをたてになさることもなく、まるで子供のようにわからなくなつてしまひ、私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあつても、『困るから出かけないでくれ』と云われるし、食べた食事も忘れて『朝食べたかしら』なぞと、云われる始末です。……」と荷風の状況が生々しく書かれている。・・・・

最近の日本社会の変化(5)瞬時に大金を入手できる社会

2018年06月07日 | 日記・エッセイ・コラム
2011年からインターネットを利用して資金を集める方法を提供する会社が日本にも現れました。クラウドファンディングのサービスを提供する株式会社の「Ready for ?」という変な名前の会社です。その後、同じような会社が数社現れ日本の社会を大きく変えようとしています。
古い考え方を持っている高齢者にとっては、とても理解困難な資金調達の方法です。そして、それを取り巻く文化が斬新なのです。斬新過ぎるのです。
後期高齢者の私にとってもなかなか理解出来なくて、これは一種の詐欺行為だと誤解してしまいました。時間をかけて調べたり考えたりした結果、これは良い新文化であると理解出来たのです。そこで今日は日本で盛んになりつつあるこのクラウドファンディングの内容を分かり易くご説明しようと思います。

まずクラウドファンディングの言葉の意味です。クラウドとは不特定多数の大衆を意味します。ファンディングとは資金調達のことです。
ですからクラウドファンディングとは不特定多数の大衆からネットを利用して資金調達をする方法なのです。
アメリカ生まれの、いかにもアメリカらしい資金調達の方法なのです。

それには典型的なアメリカ文化の厳格なルールがあるのです。
(1)大金を欲しい人は、まず何故お金が必要なのか明快な説明文を「Ready for ?」などのHPに発表します。新しいアイディア商品の開発や社会的に有意義な理由ほどお金が集まります。

(2)大金を欲しい人は資金調達の目標額と大衆からの募集期間を決めて発表します。

(3)大金を欲しい人の明快な理由に感動したり、共鳴した人が「Ready for ?」などの会社へ送金します。

(4)資金調達の目標額を募集期間中に達成出来たらプロジェクト成立となります。
すると「Ready for ?」などの会社は集まった全額のほぼ17%の手数料を差し引いてプロジェクト提案者(大金を欲しい人)へ全額を支払います。

(5)ここがいかにもアメリカらしいところですが、募集期間中に目標金額が達成出来なかったら、全てご破算になります。大金を欲しい人は一銭も貰えません。「Ready for ?」などの会社は送金してくれた人々へ返金します。All or nothing です。ポーカーゲームみたいなルールなのです。

(6)たとえプロジェクトが成功しても、送金した支援者へは、お金は返金されません。プロジェクトの進捗状態の報告書を貰ってプロジェクトの展開を楽しむだけです。その他の楽しい関連の情報の提供も受けます。

現在進行中の多数のプロジェクトの全ては「Ready for ?」などの会社のHPに公表されています。
その中から4つの例だけをご紹介します。

(1)「成功すれば世界初記録!全盲者セーリングによる太平洋横断」
        ---9000kmの太平洋横断を盲目&素人で!ーーー
岩本光弘さんの文章です。
・・・こんにちは。ブラインドセーラーの岩本光弘です。アメリカではヒロと呼ばれています。私は目が全く見えませんが、太陽が肌に射す位置や風を使って方向を計算し、ヨットでのセーリングをしています。
最初は見えないことに気づかないくらいの軽度な先天性弱視であったものの、高校生の時に全盲になりました。多感な思春期の時期に少しずつ3年間かけて視力を失ったので、見えなくなっていくことの恐怖と日々葛藤し、自殺を図ったこともありました。しかし、5年前になくなったおじさんが耳元で言った「一度切りの人生、ネガティブに不幸を呪うくらいなら、ポジティブに希望を求めて生きろ」という声にあてられ、やたらとポジティブになりました。
それ以上でもそれ以下でもありません。そして、教員を目指し大学に入学、奨学金を得てアメリカへ留学を挟み、卒業後は教員になりました。その後、英会話教室で出会ったキャレンさんと結婚し、ヨットにはまり、ブラインドセーラーとして、日本視覚障害者セーリング協会(JBSA)で積極的に活動しました。授かった子どもの教育のためにと、今では公務員という安定を捨てアメリカで暮らしています。
そんな私は今回、成功すれば世界初となるブラインドセーラーによる太平洋横断(アメリカ西海岸〜日本)にチャレンジします。※当チーム調べ。前回チャレンジが成功すれば世界初だった(参照元:Wikipedia)・・・

以上の募集の支援総額は3,483,000円になりましが、目標金額3,680,000円には達していません。
支援者数は145人ですが、さらに募集の残り日数は22 日 です
目標額に達成しなければ岩本光弘さんは一銭も貰えません。「Ready for ?」社も手数料が貰えません。支援者へ返金する仕事だけが残ります。
これがアメリカ文化なのです。

1番目の写真は岩本光弘さんのヨットです。成程、太平洋を横断出来る装備になっています。
その他の例は長くなるのでプロジェクトの名前と写真だけを掲載いたします。
詳しくは、https://readyfor.jp/projects をご覧下さい。

(2)「走行距離200万キロ!感動を運び続けた山形交響楽団バス再購入へ」
これは新しいバスを買うのでお金を下さいという意味です。

2番目の写真は山形交響楽団の演奏者の写真です。

(3)「洋画家・松本竣介。創作と思索の源「アトリエの時間」を展示室に」
これは自分が働いている美術館に松本竣介の展示室を作るからお金を下さいという意味です。

3番目の写真は洋画家・松本竣介の油彩画です。

(4)「ゲストと住民をつなげる「泊まれる出版社」が2号店をオープン。」
これは真鶴に出版社の支店を作るのでお金を下さいという意味です。

4番目の写真は真鶴湾の風景写真です。

如何でしょうか?クラウドファンディングということがご理解頂けたでしょうか?
それは決して詐欺でも犯罪でもありません。アメリカから入ってきた全く新しい文化なのです。新しい文化を拒絶するのも自由です。しかしそれは「参加型社会」に変革する日本社会の現象なのです。時代は変わって行くと、つくづく感じます。何故か昔の日本が懐かしいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)



写真で見る信州白馬山麓、安曇野、大町、仁科3湖をめぐる旅

2018年06月06日 | 日記・エッセイ・コラム
関東地方は今日から梅雨入りと発表されました。朝からどんよりと曇った空です。成程、本当に梅雨の季節になったという実感がします。
毎日、雨で憂鬱な日々が続くのです。
何か明るい梅雨の間の思い出は無いかと考えました。そうです昨年の梅雨の晴れ間に信州の白馬山麓、安曇野、大町、仁科3湖を車でめぐる旅に行ったことを思い出しました。
そこで今日は去年のアルバムをめくって、皆様を写真で見る信州の白馬山麓、安曇野、大町、仁科3湖をめぐる旅へご案内しようと存じます。

去年の6月18日と19日に、この信州への旅をいたしました。
まず最初に白馬山の山麓の東急白馬ホテルに行き、それから安曇野を中心にして、仁科3湖、碌山美術館、大王山葵園、大町山岳博物館、などを丁寧にめぐりました。6月18日の夜は大町温泉の黒部ビューホテルに泊まりました。
帰りに松本城に寄り、さらに八ヶ岳の清里の清泉寮の広い牧場の前で車を停め、富士山や甲斐駒岳の遠景をしばし眺めて帰ってきました。走行650Kmの家内と2人だけののんびりした楽しい旅でした。
旅の間、この地方の歴史や、30歳で夭折した彫刻家の碌山のことをいろいろと考えました。
それはさておき、この信州への旅を10枚の写真でご案内したいと思います。

1番目の写真は残雪の白馬山の尾根です。白馬は標高2932mだそうです。
白馬岳や杓子岳、そして白馬鑓ケ岳に登り、白馬の日本一の大雪渓を渡るのが学生時代からの夢でしたが、見果てぬ夢に終わってしまいました。

2番目の写真は昔何度か泊まった懐かしい白馬東急ホテルです。
昔のホテルはスイスの山岳ホテルのような三角屋根の木造でした。部屋は屋根裏部屋の感じのような内装で、小さな縦型の窓がついていました。庭には芝生が広がり、その向こうは森になっています。古いヨーロッパのホテルの雰囲気でした。その森を抜けると白馬連峰が見渡せるのです。
近くのゴンドラに乗ると八方池まで登れたのです。そこからは八方尾根の向うに広がる白馬鑓ケ岳、杓子岳、白馬岳、小蓮華岳などがパノラマのように見えたものです。その初めての旅は私ども家族にとっては非常に印象深い旅でした。

3番目の写真は仁科3湖の青木湖です。仁科3湖は北アルプスの麓の白馬村と安曇野の間に、西から青木湖,中綱湖,木崎湖の3つの静かな湖です。

4番目の写真は碌山美術館です。碌山は明治12年安曇郡東穂高村に生まれ30歳結核で死にました。郷里の相馬愛蔵・黒光の店である新宿中村屋で亡くなったのです。

5番目の写真は碌山の代表作の「女」のブロンズ像です。碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入したのです。その功績を忘れるべきではありません。
碌山は明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
1908年(明治41年)に帰国し、新宿にて彫刻家として活動を始めます。
そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。しかし第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。

6番目の写真は大王山葵園の傍にある北アルプスからの雪解け水の清流の風景です。

7番目の写真も雪解け水の清流の風景です。この水流はあまりにも美しく豊かに流れているので長い間眺めていました。

8番目の写真は黒沢監督の『夢』の撮影に使用された水車です。昔見た「夢」という映画の場面が鮮明に思い出されます。笠智衆が村の老爺になっていました。

9番目の写真は大町山岳博物館の前から撮った大町市と北アルプスの山並みです。数多くの登山家達が大町から穂高、槍、大天井、燕岳、そして白馬、唐松、五竜、立山へと登ったのです。そして何人もの若者が帰らぬ人になったのです。

10番目の写真は国宝、松本城です。明治維新の後、競売にかけられ取り壊されそうになった天主閣を市民が買って保存したことで有名なお城です。

信州は山国と言いますが広い盆地があり、水が豊富で稲作地帯が広がっているのです。長野市を中心にした北信州の盆地、中心の松本盆地、天竜川沿いの南の伊那谷の稲作地帯と風景も文化もそれぞれ違うのです。
今日は松本盆地とその西に広がる安曇野から大町、仁科3湖、そして白馬村の範囲だけをご紹介いたしました。

関東地方は今日から梅雨に入りました。
毎日、鬱陶しい天気が続きますが、時々、2、3日は晴間がある筈です。そんな折に旅に出ると心が晴れ晴れとします。
皆様が体調を崩さないで明るい気分でこの季節を過ごしますように願っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

最近の日本社会の変化(4)インターネットによる社会革命

2018年06月05日 | 日記・エッセイ・コラム
1990年頃、いわゆるバブル経済が崩壊しました。それまでの日本社会では、大会社が傘下に数多くの中小企業を従え、日本経済の発展を牽引して来たのです。ところがバブル経済の崩壊で、この大会社が中小企業を支配するという社会構造が一挙に崩れ去ったのです。
その上、1990年ころからインターネットが普及しはじめました。このインターネットの普及が大会社中心の社会の崩壊に拍車をかけたのです。それは日本の多くの分野の人間関係まで変える大きな社会革命を起こしたのです。
日本の縦社会が横社会に変わったのです。
今日はこのインターネットの普及がどのように日本社会を横社会へと変革していったかを簡略に書いてみようと思います。

初めに私の体験を書かせて下さい。
昔、私は大学の工学部で研究をしていました。研究の関連で幾つもの大会社の中央研究所の方々に大変お世話になりました。
一緒にビールも飲みました。すると時々ハッとする発言をするのです。
傘下の子会社の人々を軽蔑し、見下したような発言をするのです。あしざまに批判するのです。
そして会社内の出世速度と派閥の関係を説明してくれるのです。
転勤は絶対命令だと言います。会社への忠誠心が最も重要だとも言います。
そして他の会社外の人とは親しくなってはいけないのす。企業秘密が漏れる恐れがあるからです。
終生同じ会社で働けば、出世も出来るのです。会社の中は年功序列のタテ型身分制度なのです。
そして、定年後は子会社へ天下りさせてくれるのです。
これが高度成長期の大会社で働いていた人々の共通な考え方であったのです。

ところが1990年前後に「バブル経済」が破綻します。不動産を担保にして業務拡大してきた大手銀行が破綻する。銀行から多額の借り入れをして、生産設備拡大を繰り返してきた大会社も当然、経営に行詰まる。関連子会社を独占的に傘下に入れて面倒をみる経済的な余力が無くなる。子会社群の解散が必然的に起きる。こんな社会現象が起きたのです。

その時あたかも各家庭にコンピューターが普及したのです。インターネットを使うことが日常茶飯事になったのです。多くの日本人がFace Book やその他のSNS(Social Network System)に入会します。ブログを書く人も何百万人と増大しました。
すると異なった分野の人の交流が盛んになります。老いも若いも一緒になって意見を交換します。男女の間でも話合いが盛んになります。知り合った人同士も会って友人になります。Face Book を通して外国人とも直接交流します。
すると従来は同じ会社の人としか話をしなかった人があらゆる分野の人々と話し合うようになります。

その結果は明白です。人間の価値は国籍や所属する会社とは関係ないということを体験的に知ることになるのです。
私もその体験をしました。人間の価値は国籍や所属する会社とは関係ないと確信するようになりました。
これが横社会の基盤になるのです。
個人が自由に、そして平等な立場で考えや作品を発表することが出来るのがインタ-ネットなのです。
それはタテ社会の崩壊を起こしました。同時に、国立や公立の組織や、その他、多くの組織に残ったタテ社会を弱める重要な社会的貢献もしているのです。
一方、インタ-ネットの普及で生活が便利になりました。航空便の席の予約もホテルの予約も自宅から出来るようになりました。全国の珍しい食品もインタ-ネットで取り寄せられます。知りたい情報もインタ-ネットで検索すると瞬時に分かります。百科事典も要りません。図書館へ行く必要もありません。手紙も写真も世界各地へ瞬時に送れます。
このように生活を便利にしたこともインタ-ネットの重要な働きです。

しかしそれ以上に重要な働きは、日本のタテ社会をヨコ社会にし、人間の完全な平等をもたらした働きだったのです。
ですから私はインターネットが日本社会に革命を起こしたと言うのです。それは銃口から生まれた革命ではなく、静かな革命でした。一朝一夕に起きた革命ではなく数年かかった革命でした。静かに起きたので気が付かなかった人々も多いのです。

今日の挿し絵代わりの写真は青梅市の「吹き上しょうぶ公園」の写真です。去年の今日撮った写真です。
紫、白、水色の絞り、覆輪など様々な花の写真をお楽しみ下さい。
開花情報や交通の便などは、http://www.omekanko.gr.jp/Iris/Iris.php にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)













大入島太郎さんのヨットによる田舎暮らし候補地探し

2018年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
日本全国に民宿ブームが起きたのは随分前のことでした。しかしそのブームも消えさり廃業した民宿が沢山残りました。地方に行くと荒れ果てた昔の民宿の建物が残っています。
栄枯盛衰と言いながらも淋しいものです。
しかし現在でも繁盛している民宿もあるのです。何故でしょう?

今日はこの謎解きをしたいと思います。
その民宿は大分県の佐伯市の大入島にあります。花水木という名前の民宿です。
経営者は7年前に東京から移住した大入島太郎(本名、大熊 敏広)さんです。
何故、繁盛しているか?その解答を先に書いてしまいます。
原因は3つ程あります。
(1)都会の田舎暮らし希望者へ移住に必要なことを具体的に指導しています。
(2)大入島太郎さん所有のヨットで九州を一周して都会人の移住先を探し回ります。
(3)世界中のヨットの好きな外国人が、ヨットの帆走つきの「花水木」に宿泊します。

1番目の写真は大分県の佐伯市の大入島です。

2番目の写真は大入島太郎さん所有のヨットです。

さて上記の(1)、(2)、(3)についてもう少し説明をしたいと思います。
何と言っても大入島太郎さんは独創的な方でです。
民宿宿泊と田舎暮らしの指導を組み合わせてお客を招んでいます。
所有のヨットを使って楽しい帆走と組み合わせてお客を招んでいます。
九州を一周しながら田舎の移住先を探すことと組み合わせてお客を招んでいます。
そして世界中のヨットの好きな人を民宿「花水木」へ招んでいます。
勿論、海辺の民宿なので小型漁船でお客を海釣りにも案内します。大物が釣れます。

3番目の写真は海釣りで得た魚です。

(1)移住に必要な指導とは次のようなことです。
田舎暮らしや離島に移住を考えている方に、移住の前に実際に仕事や暮らしを体験できるようにします。
例えば仕事としての民泊の集客方法や運営、漁師としての申請やその実際、船の操船方法(免許取得の方法)、野菜作りや米作り等を教えています。

(2)大入島太郎さん所有のヨットで九州を一周して都会人の移住先を探し回ります。
これは大変独創的な企画なので、昨年の11月に1ケ月間程の九州一周の計画を示します。
・・・11月1日から1か月にわたり九州クルージングセイルトレーニングを開催します。
ヨットの楽しみと秋の海の自然を充分に感じられます
コースは大分県をスタートし反時計回り、下関、対馬、壱岐、長崎、五島列島、下甑島、枕崎港、硫黄島、種子島、日南、佐伯と回ります。
初心者歓迎!女性は別室あります。もちろん途中乗船、途中下船かまいません
ベテラン船長、クルーが乗船しますので一緒に遊びましょう!・・・

4番目の写真はこの企画を紹介した新聞記事の写真です。以下は大入島太郎さんから頂いたメールの抜粋です。
・・・東京では家の前にヨットを係留することは夢の夢です。家の価格も湘南の海岸では30坪4億位します。しかし、ここ大分では数百万もしないで家が購入でき、船が無料で置けます。
添付の新聞のようなクルーズで、10万坪の山を購入した方や、家を購入した方や、島で移住の許可をもらえた方がいました。楽しいことがありました。まだまだ日本国内にはこんな場所があります。東京とは価値観が全く違います。・・・
・・・ちなみに、隣の津久見市のある漁港では、漁港から100mに60坪の家、平屋5LDK、築年数は古い。この家5万です。家賃ではなく購入価格です。私のいる島、100坪 平屋 8LDK 畑あり 30万です。宿泊に来た親子が帰りに購入しました 格安です!・・・

(3)世界中のヨットの好きな外国人が、ヨットの帆走つきの「花水木」に宿泊します。
長い記事になりますので、この項目は説明を省略して2枚の写真だけを示します。

5番目の写真は去年の外国人の来客です。

6番目の写真も去年の外国人の来客です。
このような外国からのお客さんはインターネットで集客しています。

さて結論を書きます。
大入島にある花水木という民宿が繁盛している原因は経営者が民宿とヨットを組み合わせて数々の面白い新企画を実行しているからなのです。集客方法が独創的なのです。
時代遅れの民宿でも経営企画が斬新で多くの人の興味を引きつけているのです。嗚呼、経営能力とはこういうものだと感動せざるを得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考資料====================================
(1)「東京のヨットクラブの経営者が離れ島へ移住、地域活性化に尽力、その二」2017年03月28日 掲載記事。
・・・大入島太郎さんは昔、私を彼の豪華なヨットに乗せてくれた人です。
彼の移住した勇気と、地元へ貢献しようとしている姿に感動したので昨日、「東京のヨットクラブの経営者が離れ島へ移住、地域活性化に尽力、その一」という記事を掲載しました。
今日はその続編を書きたいと思います。
佐伯市は佐伯藩の城下町として栄えた町です。「佐伯の殿様、浦でもつ」と言われたとうり豊富な海の幸と山の幸に恵まれていました。人口は7万人くらいですが、現在、佐伯市の島々は過疎化の問題が深刻です。
大入島もその一つで以前は3000人以上も住民がいましたが現在は600人位に減って高齢者ばかりです。この島は佐伯港はら700m、フェリーで7分、1日11便あります。面積は5.66平方キロメートルで、瓢箪型をしたかなり大きな島で、小学校と中学校もあります。
その島へ大入島太郎さんが6年前に移住し民宿を経営しているのです。・・・以下省略します

(2)「離島の元気な子供たちの写真をお送りします」2017年03月27日 掲載記事、
大分県の佐伯市の大入島という過疎化しつつある島でも子供たは元気です。今日は花の写真の代わりに離島の子供の写真をお送りします。写真の出典は、http://odoriko.wixsite.com/index です。
「踊り子IN大入島」というホームページからです。
踊りの塾の指導しているのが大熊 亜里紗さんという人です。大入島太郎さんの奥さまです。

7番目の写真は大熊亜里沙さんです。

8番目の写真は元気な島の子供達です。
大熊 亜里紗さんは2013年に、大入島で子供たちと共に地域の活性化を図るためにダンスチーム、「踊り子IN大入島」を結成しました。

「白い雲、緑の樹林の写真をお楽しみ下さい」

2018年06月03日 | 写真
今日は日曜日なので「カトリック小金井教会・・・」という記事を掲載しました。
しかし考えてみると宗教にご関心の無い方々にとっては、面白くない内容だと存じます。
そこで昨日、甲斐駒岳の麓で撮ってきた白い雲と緑の樹林の風景写真をお送りいたします。
写真をお楽しみ下さい。









カトリック小金井教会40周年記念ミサとムニ神父様の思い出

2018年06月03日 | 日記・エッセイ・コラム
3年ほど前の2015年11月23日にカトリック小金井小教区創立40周年の記念ミサがありました。
私共は1975年の小金井小教区の認可以前に着任したヨゼフ・ムニ神父のもとで古い木造の会堂でのミサに出席していましたので、もう43年以上もこの教会に通っていたことになります。
それだけに2015年の40周年記ミサは感慨深い良い思い出になりました。
そこで40周年記念ミサと初代ムニ主任司祭のことなどを気楽に書いておきたいと思います。

さて40周年記念ミサを写真にしたがってご説明いたします。

1番目のの写真は岡田大司教が香炉を振り回して会堂の中を清めている場面です。
この40周年記念ミサには小金井教会の3代目の主任司祭の山本量太郎神父さまや4代目の辻茂神父さまなどが来賓として出席していました。
特に3代目の主任司祭の山本神父さまは私の洗礼の時、代父をしてくださった山本大二郎先生のご子息なのでいろいろとお世話になりました。その山本神父さまが傍に居てくださるだけで感動します。
今日の40周年記念ミサは何時もの日曜日の主日のミサと同じでした。
聖歌を歌い、聖書の朗読があり岡田大司教さまの説教がありました。
ミサの終りの方ではイエスの体としてパン片を信者一人一人へ手渡します。

2番目の写真は山本神父様が信者へパン片を手渡している光景です。

3番目の写真はミサ後の記念写真を撮る準備をしている様子です。皆が楽しそうにしています。

4番目の写真はミサ後の祝賀会の様子です。小金井市にあるいろいろな宗派のプロテスタント教会の代表者も出席してくれました。
祝賀会の時、山本神父さまと握手をしました。山本神父様は時々このブログをご覧になっているそうです。

当日は朝から、親しくお世話になった主任司祭のヨゼフ・ムニ神父さまのことを思い出していました。
ボストン生まれのいかにもアメリカ人らしく気さくな、そして情熱的な方でした。私共の家にも何度か来てくださり、ある時は大相撲のテレビを一緒に見たこともあります。
めったに故郷に帰らないので弟さんが様子を見にいらしてました。その弟さんと一緒に食事をしたことも楽しい思い出です。
そして1988年の夏に突然のように帰天したのです。
聖堂に置かれたお棺の中のやすらかなお顔を見たのが最後になりました。

5番目の写真は府中市にあるムニ神父さまのお墓です。右側の質素な木造の十字架が墓です。
ムニ神父さまのことは何度かこのブログに書きました。
そこでその一部を再録いたします。

「2008年4月24日掲載記事の一部」
・・・ヨゼフ・ムニさまの粗末な木の十字架の墓はお世話になった日本人が作ったに違いない。毎日誰かが花を供えに来るようだ。彼の故郷はアメリカのボストンと聞く。家族は来ない。一生、日本人のために働いて、日本人が墓を作り、花を供える。
外国でその国の人々のために働き、その地の墓に眠る。そんな人生もあって良いと思う。・・・以下省略。

実はムニ神父さまは1951年に司祭叙階の後すぐに日本の四日市カトリック教会に着任して、それから1972年までの21年間を四日市で活躍していたのです。その当時の信者さん中根さんから私のブログへ以下のような投書がありました。
・・・ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた...
「2012-04-11掲載記事のへの中根さんからのコメントの一部」
・・・ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた時に、私(中根さん)は朝のミサでの侍者をする為、自転車でよく教会に通いました。まだ小学生の時ですが、ミサが終わった後にはアメリカの切手をいただき、私(中根さん)は今でも大切に保管をしています。
もう私も(中根さん)60を過ぎ、遠い昔の思い出ですが、神父さんたちと琵琶湖へ行ったり教会でのたくさんのイベントと、あの笑顔がいまだに忘れられません、ムニ神父さんの近くに行くと甘いパイプ煙草の匂いがして、その影響か今では私もパイプ煙草を愛用しています。今は横浜に住んでいますので、近々お墓に行きたいと思います。
懐かしい、ムニ神父さんへの色々なコメントを涙を流しながら拝見させていただきました、本当に有難うございました。・・・

そして以下のようなコメントも、四日市でムニ神父の侍者をしていた中根さんから頂きました。
「ムニ神父様を偲んで」、http://www4.cty-net.ne.jp/~johnmary/ribero217.htm
・・・四日市におられる間、ムニ神父様のご活躍はすばらしいものでありましたが、いろんな試練もありました。そのひとつは、昭和34年9月27日に当地を襲った伊勢湾台風でありました。
わたし(中根さん)は翌日、オートバイに乗って、教会を訪ねようと思いましたが、十七軒町の地区は浸水がひどかったので、一号線にオートバイをおいて、教会まで歩いて来ました。
司祭館並びに御聖堂は滅茶苦茶にやられて、ムニ神父様は後片付けを一生懸命にやっておられました。その日、神父様は昼、海星学園に来て、わたしどもと一緒に食事をし、しばらく休みました。
鉄筋コンクリートの海星学校の校舎があって、その中にわたしどもの臨時の住まいがありましたので、よろしければ夜もここで泊まられたら如何ですか、と誘いましたが、神父様は教会から離れないで、何とかすれば間に合うだろうと言われ、帰りました。
その後、ムニ神父様は、乗っていたグレーのワゴン車で被害者に、京都から送っていただいた布団、毛布、食物などを一生懸命に配ったことがありました。
それから4年後、即ち昭和38年に、数年前に立て直した立派な木造の教会が全焼いたしました。神父様はまた、ゼロから遣り直さなければならなかった時、神さまのみ摂理に対して、揺ぎない信仰をもって、見事にいまの御聖堂を完成させたのであります(勿論、信者の方の尽力はいうまでもありませんが)。
四日市において、すばらしいキリストの共同体を建てるために尽力されました。・・・以下省略・・・

ヨゼフ・ムニ神父の追悼集の本は平成元年8月14日に発行されています。この446ページの本を見ると情熱的に活躍し、ご自分を日本の信者の為に捧げたムニ神父の業績が詳しく書いてあります。私共の知っていることはその万分の一に過ぎないことがしみじみと判ります。
日本を占領したアメリカ人軍人達とは全く違った考えで日本人を助け、日本の地になったアメリ人もいたのです。わすれられません。

れはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)