長い人生でいろいろな所へ旅に行きました。日本国内は勿論、アメリカやヨーロッパの辺境へも旅に行きました。その数多くの旅の中から感動的だった旅を選び連載として旅日記をお送り致します。
今日の第一回目は別世界のような伊豆半島への旅について書いてみたいと思います。そして江戸時代末期に下田に初めて来たアメリカのハリス初代領事のことをご紹介します。
さて伊豆半島は何故別世界のようなのでしょう?それは伊豆半島が小さな火山の連続的爆発で盛り上がった山々で出来ているからです。
従って山々が急峻で、黒い溶岩が固まった凸凹の激しい地形になっています。溶岩がそのまま海に流れ落ちて崖になっていて、その崖が伊豆半島をぐるりと囲んでいます。
それでも注意深く観察すると狭い砂浜が所々にあり小さい漁船が発着できます。堤防で囲って漁港が崖のくぼみにあります。
溶岩で出来た半島なので稲作や畑作は無理です。しかし人間は山影にしがみつくようにして住んでいます。温かい黒潮が半島を洗っているので冬でも温暖です。
山々は常緑樹で覆われています。ミカンの栽培が盛んです。関東地方の平野にはケヤキ、クヌギ、コナラ、カシワなどの樹木が生えていますが、伊豆半島はタブノキ類の樹木種で覆われています。
伊豆半島の植生は武蔵野と全く違います。伊豆半島は伊豆七島の大島や神津島、そして八丈島と土地の出来方が非常に良く似ているのです。
本州に繋がっていますが、元来は伊豆七島のように太平洋に浮かぶ島だったのかも知れません。植生が本州とあまりにも違うのです。伊豆半島は別世界なのです。
伊豆半島を紹介する方法はいろいろあります。多くの観光名所もあります。しかし私はこの半島が伊豆七島の親類だということを最初に強調したいのです。写真は以前私共が撮ったものです。
伊豆七島には北から大島、利島(としま)、ウドネ島、新島、式根島、神津島、遠く離れて三宅島が有ります。そして八丈島や青ヶ島も伊豆七島では重要な島です。島の数は多いのですが略して伊豆七島と言います。
1番目の写真は伊豆半島の稲取海岸から見た伊豆七島です。左から新島、それに付いているように見える式根島、そして右へ離れて神津島などが写っています。大島は左の方で視界に入っていません。
2番目の写真も稲取海岸かから見た新島です。新島の右にあるのは式根島です。その右が神津島などです。
3番目の写真の真ん中に横たわっているのが大島です。稲取海岸から北へ数キロ行ったところから大島を撮った写真です。
伊豆半島が伊豆七島の親類だという話はこれくらいにして以下では伊豆半島の観光名所をご紹介いたします。
伊豆半島の東側の観光名所は城ガ崎海岸、一碧湖、池田20世紀美術館、稲取漁港、外浦海水浴場、爪木崎の野生の水仙群生地、須崎のえびす島、下田の玉泉寺、などなどです。
4番目の写真は城ガ崎海岸です。
5番目の写真は城ガ崎海岸の岩礁に砕ける波の光景です。
6番目の写真は下田港です。ヨットが舫っています。
7番目の写真はアメリカの最初の総領事館が3年間あった玉泉寺です。
ペリー提督が三浦半島の浦賀で江戸幕府と日米和親条約を作ったのが1852年。帰国後、ペリーはタウンゼント・ハリスを初代の在日総領事として下田へ派遣したのが1856年です。ハリスを乗せた3本マストの帆船で蒸気機関を持ったサン・ジャシント号が下田港に錨を下ろした所は6番目の写真の付近です。この写真の海からボートで陸に上がった所に玉泉寺があります。
玉泉寺は420年の歴史のある曹洞宗の古刹です。江戸幕府はその寺をハリスにアメリカ領事館として与えたのです。
1856年8月5日にハリスは通訳官ヒュースケンを伴い、玉泉寺に入ります。次の日に高い旗竿を立てて、日本で初めて、星条旗を掲揚したのです。それから2年10ケ月の間、ハリスはこの寺にとどまり、アメリカの初代総領事館を守ったのです。
7番目の写真の寺の入口の階段でハリスが登り降りした階段です。ハリスが住んでいたのは本堂でした。この中にアメリカから運んできた大きな薪ストーブを取りつけ、冬の寒さをしのいだのです。
本堂の前庭では牛を殺して牛肉を食べていたと記録にあります。牛乳も飲んでいました。夏は暑くて、大きな蚊に悩まされたとハリス日記に書いてあります。ハリスの世話をしたのが唐人お吉でした。
寺の本堂の右手に大きなハリス記念館があり、当時ハリスが使っていた文房具、家具、調度などが展示してあります。展示物は数多く、ハリスの人物像もあり当時の生活の実態がよく分かります。
このお寺の裏山には、ペリー艦隊の5人の死亡者のお墓もあります。ロシアの黒船の3人の墓もあります。
アメリカ人の5つの墓もロシア人の3つの墓も見かけは佛教風な作りですが、墓石の前面には大きく十字架が彫り込んであります。 特に興味深いのはアメリカ人の墓の一つは若い海兵隊員のものです。海兵隊(Marine)が当時からアメリカの軍隊組織の中に独立した組織として区別されていたのです。
江戸時代からアメリカ領事館が日本に有ったのです。やがて明治維新が起き、アメリカ総領事館は東京へと移転して行くのです。幕府の外交方針は閉鎖的な考えに基ずいて居ました。外国人は江戸からなるべく遠方に離して置いたのです。それは函館に最初のロシア領事館を置いたことでも分かります。
今日は伊豆半島から見える伊豆七島をご紹介し、その後でアメリカの最初の総領事ハリスについて詳しくご紹介致しました。江戸時代末期に下田にアメリカの総領事館があったのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)