後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日のカトリック関口教会の年間第23主日のミサの動画配信」

2023年09月10日 | 日記
カトリック関口教会の年間第23主日のミサの動画配信は、
https://www.youtube.com/watch?v=eXTOUkODjps です。


9月10日10:00 司式 天本昭好神父(主任司祭) 入祭の歌  典76 神よあなたのことばは いつくしみ・栄光の賛歌 ミサ曲610・612 答唱詩編  典35①③④ 神に向かって アレルヤ唱 典270 年間第23主日 信仰宣言 ニケア・コンスタンチノープル信条(1) 奉納  典321 いつくしみと愛   感謝・平和の賛歌 ミサ曲613・614    拝領  典144 谷川の水を求めて 閉祭  典387 神はキリストのうちに


添付の写真は、東京のカトリック関口教会の写真です。


「徒手空拳で生きていても財布を落とせば狼狽する」

2023年09月10日 | 日記
この前の記事で徒手空拳で生きるのが理想の人生だと書きました。

しかし一昨日、私は財布を落として狼狽しています。
幸い拾ってくれた方がご親切にも私の家に電話をくださいました。
今日の午後その方の家に行って財布を頂きます。感謝です。

午後1時にその方にお会いし財布を受け取りました。丁重にお礼
を致しました。善意の人にお会いすると自分の気持ちも豊かになります。

財布を落とした小金井の野川付近の写真をお送りいたします。

「徒手空拳で生きるということ」

2023年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
「徒手空拳」という言葉が好きです。変な人脈や親の七光りに頼らないで清々しく人生を過ごす人に憧れます。そういう人を尊敬しています。
そんな訳で私は若い頃、「徒手空拳」の人生を送ろうと決心しました。そこで留学試験を受けて何の人脈も無いアメリカへ行きました。それ以来、「徒手空拳」は私の人生の目標になりました。多くのアメリカ人・日本人に助けられました。しかし理想と現実は違ったのです。時々私は「徒手空拳」を忘れ卑怯な生き方をしました。
それでも私は徒手空拳で外国に行き幸福に住みついている人を知っています。
その例はロンドンに数十年幸せに住んでいる友人の石山さんです。
彼が書いています。・・・英国に来てからの私の人生は「幸運」の連続であった。30歳で祖国日本を飛び出すというのは、そもそも大きな冒険であるが、それが、幸いにも変なことにならずに、上手くいった。
良い人にめぐり合い、生活は苦しかったが、幸せであったと言えるであろう。
嫌な目にあったとか、病気とか怪我とかいうのもない。住むところは、いつもあったし、借金をしたこともない。住宅ローンというのもない。こんな幸運な人生って、あるであろうか。・・・
 こんな考えを持った日本人は何処の外国に行っても幸せに暮らしていけるのです。
若い頃に留学したオハイオ州にもそんな日本人が沢山いました。徒手空拳で現地にとけ込み悠々と暮らしているのです。オハイオ州のコロンバス市で会った小泉さんもそんな人でした。何年が後に日本へ移住して来ました。お会いしたらコロンバス市でお会いした時と少しも変わっていないのです。
日本では出世のためには人脈が大切だとよく言います。しかし私はそう思いません。徒手空拳でで生きていると周りの他人が助てくれるのです。
私は留学先のコロンバスで結婚しました。妻になる人は独りで東京からはるばるやって来ました。結婚式にはアメリカ人が助けてくれました。
徒手空拳に生きるという人生観はどの外国でも通用するのです。そして他人を平等に信用して生きていくのです。
私はその生き方を理想として馬齢を重ねています。
馬齢と言えば馬を軽蔑しているようですが、私は馬を見るのが大好きです。よく雑木林に隣接した乗馬クラブで、人と馬が遊んでいる様子を見てくつろいで来ました。話が脱線しましたので止めます。

今日の挿絵代わりの写真はイギリスの花です。出典は、http://kaigaigo.com/united-kingdom-10446/ です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)



「福島県に咲く花々の写真」

2023年09月09日 | 写真
福島県に咲く花々の写真です。
写真の出典は、
https://www.daiwaresort.jp/urabandai/feature/160211_61688/index.html です。

1番目の写真はうつむき加減に咲くひめさゆりです
自生分布は福島と新潟、山形三県が接する朝日・飯豊山系など、限られた場所にしか自生しません。

2番目の写真は須賀川市にある「須賀川牡丹園」のボタンです。
約10ヘクタールの広大な園内には290種7000株の牡丹が大輪の花を咲かせます。

3番目の写真は伊佐須美神社外苑あやめ苑のあやめです。
150種10万株のあやめが咲き誇る様は、見ごたえがあります。

4番目の写真は約300万本の菜の花です。
標高650m程度にある会津盆地を一望できる三ノ倉スキー場のゲレンデなど約8ヘクタールを利用し、春には約300万本の菜の花が咲きます。

「感動的だった旅(9)美しき猪苗代湖と会津若松の鶴ヶ城への旅」

2023年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は「感動的だった旅」の(9)として美しき猪苗代湖と会津若松の鶴ヶ城への旅日記をお送り致したいと思います。福島県の会津盆地にある湖と城です。
では早速、会津地方の魅力を写真でご紹介いたします。
1番目の写真は冬の猪苗代湖と磐梯山です。この湖へは白鳥が群れをなしてシベリアから渡って来るのです。写真の出典は、http://find-travel.jp/article/6221です。
2番目の写真は夏の猪苗代湖のヨットの写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/theearth99/17541627.html です。
自分も今は亡き友人のこの写真のようなヨットに乗って猪苗代湖の花春カップレースに数回出たことを思い出します。
3番目の写真は春の夜の鶴ヶ城の写真です。出典は、http://www.tif.ne.jp/jp/photo/photo_disp.php?id=13337です。
戦国武将の蒲生氏郷が領主になって、城を拡張しました。その氏郷が茶道を持ち込み、城跡や御薬園には風雅な茶室があります。

4番目の写真は会津城主の蒲生氏郷が造った茶室の「麟閣」です。
蒲生氏郷は安土桃山時代の1590年に42万石(後に92万石)の大大名として会津城主となり会津若松城と城下町を整備しました。
私どももこの茶室で抹茶を楽しむことが出来ました。懐かしいです。
5番目の写真は「麟閣」の庭です。
天正19年(1591年)千利休は豊臣秀吉の怒りにふれ、死を命じられました。利休の茶道が絶えるのを惜しんだ、会津城主の蒲生氏郷は利休の子少庵(しょうあん)を会津にかくまいます。そして秀吉に千家の再興を願いでたのです。この時に建てたのがこの「麟閣」ですその後、少庵は許され京都へ帰って千家を再興したと伝えられています。
6番目の写真は白虎隊の墓の写真です。出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/chi_hiro_0926/53039601.htmlです。
白虎隊は会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊でした。戊辰戦争の時、江戸幕府軍として西軍と戦い、敗戦に追い込まれ19人が郊外の飯盛山で落城寸前の鶴ヶ城を見ながら自刃しました。
この事件は日本が明治維新によって近代国家に生まれ変わる過程で起きた数多くの悲劇の一つになりました。
7番目の写真は白虎隊の19人の墓の説明板の写真です。出典は、http://www.360navi.com/photo/07fukusima/02aizu/03byakko/10page.htmです。

さてこの会津地方の排他性について書いておきます。
他の地方の人をのけ者にし、排斥する文化は私の生まれ育った東北地方の各地にあります。津軽藩、南部藩、鶴岡藩、伊達藩などのあった地方は城下町を誇りにし、一般的に排他的な雰囲気があるのです。会津地方も排他的な文化を持っています。若者にとってそのような地方の息苦しさに耐えかねて、自由な東京に出て来る人も多いのです。
この感じは地方で生まれ育つた人には理解出来ると思います。都会で生まれ育ちの人にはなかなか判らない地方の文化なのです。東京の自由な雰囲気が若者を呼び寄せるのです。

21世紀にもなって、排他性など日本から消えてしまったと言う人もいるでしょう。しかし外国からの移民を絶体に入れない日本に、本当に排他性は消滅したと言えるでしょうか?そんなことを考える今日この頃です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料==============
白虎隊(びゃっこたい)とは、
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%99%8E%E9%9A%8A より抜粋。

会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊である。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発した。会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、新政府軍の仇敵となった。
会津藩では若松城(鶴ヶ城)を死守すべく、若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、その上重要な進軍路であった十六橋を落とすことに失敗したという防衛戦略上の不備も重なり、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊も、これを支援する形で前線へと進軍した。若年兵の投入が焼け石に水なのは誰もが承知のことであったが、老若男女が玉砕覚悟で臨む戦局にあっては是非もなく、白虎隊は各防衛拠点へと投入された。・・・以下省略。

「旧懐の情かきたてる農家と水車の写真」

2023年09月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はひどい雨です。気温も低く本当に秋が来たようです。こんな日には昔の秋の風景を思い出します。そして何故か疎開した農家や田舎の水車の風景を懐かしく思い出します。
そこで今日は昔ながらの農家と水車の写真をお送りいたします。小平ふるさと村で撮って来た写真です。
この農家は江戸時代中期に建てられ、戦後まで使用されていた比較的裕福な農家でした。
1番目の写真は南に向いた旧神山家の農家の右半分です。
2番目の写真は右手入り口から入って奥座敷の方の写真です。
3番目の写真は座敷に上がって入り口の前の庭を見た光景です。
板敷の広い台所の西端には神棚があります。
4番目の写真は台所の北の端にある座り式の流しです。
土間の左、台所の上がり口には囲炉裏があります。
5番目の写真は囲炉裏の反対側にある3基のおへっついです。特に右端の竈は大きくて多数の人々の宴会などに使われたのかも知れません。
台所には鉄釜やお櫃や酒入れや蒸篭(セイロ)などの炊事道具がキチンと積んでありました。
詳しくは、小平ふるさと村のHPは、http://kodaira-furusatomura.jp/institution にあります。
さて水車の写真をお送りいたします。長野県の穂高町にある大王わさび園で家内が撮った水車の写真です。
6番目の写真は穂高町にある大王わさび園にある水車です。
7番目の写真も穂高町にある大王わさび園にある水車です。
大王わさび園にある水車は黒沢監督が数十年前に「夢」という映画を撮影するためにわざわざ作ったものです。水車の間を笠智衆が扮した村の老人と村人が楽しげに踊り歩いている場面に出てくる水車です。水車が美しいだけでなく北アルプスの伏流水を集めた水量豊かな清流も美しいのです。
水車小屋と言えば1970年頃に住んでいたシュツットガルト市の郊外にもありました。ドイツ語でたしか Sieben Muhre(七つの水車)の道という中世から続く遊歩道でした。
車が通れない道なので子供を連れて行っても安心なのでよく散歩に行ったものでした。遊歩道のところどころにコーヒーとドイツ菓子を出す店があります。
その風景写真は、ドイツ語のSieben Muhre を検索すると出て来ます。水車小屋は洋の東西を問わず人々が好きなようです。

今日は旧懐の情かきたてる農家と水車の写真をお送りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「感動的だった旅(7)江戸時代の町並みの奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿」

2023年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
時が止まったような村や町の風景を見るといろいろなことを思い浮かべます。人々が活き活きと生き、そしてどんどん死んで行きます。そんな古い宿場町の家並みの風景が江戸時代のまま残っている所があります。シーンとして静かに時を刻んでいるだけです。

5年前に訪ねた中山道の奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿がそうです。何故か旧懐の情で胸がかきむしられるような思いをしました。江戸時代に生きた私の先祖に親しく会ったような気がしたのです。
そんな思い出を考えながら撮って来ました写真を7枚お送り致します。
1番目の写真は奈良井宿です。江戸時代の宿場町がそのまま保存してあります。
2番目の写真も奈良井宿です。
3番目の写真は妻籠の宿場町の風景です。
中山道の奈良井宿から南に行った場所にある妻籠です。これらの宿場町は以前に3度ほど訪ねております。
4番目の写真も妻籠です。3番目と4番目の写真の出典は、「自分を探す旅 見つめ直す旅 」というブログからお借りしました。素晴らしい旅行記のブログです。(https://rtrp.jp/articles/83879/ )
5番目の写真は中山道をさらに南に行った所にある馬籠の宿場町です。馬籠の宿場町へも3度ほど行きました。
6番目の写真も馬籠の宿場町です。
5番目と6番目の写真の出典は、http://www.livedo.net/tabi/276.html です。
7番目の写真は庄屋をしていた馬籠の島崎藤村の生家です。

以上のような奈良井宿や妻籠宿や馬籠宿へ行く道は険しい山の谷に沿った危険な道でした。ここは木曾十一宿と言い、11の宿場町がつらなっていました。

木曽福島の厳重な関所の向こうの馬篭までは木曽川に沿い、分水嶺の奈良井から下って塩尻までは日本海へ注ぐ川に沿っています。

その中山道の険しさは島崎藤村の「夜明け前」の序文に描かれていますので、下にご紹介します。
出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html です。

・・・島崎藤村の「夜明け前」の序文・・・
木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖がけの道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。

 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間に埋うずもれた。名高い桟も、蔦のかずらを頼みにしたような危い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。

新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降くだって来た。道の狭いところには、木を伐きって並べ、藤づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄り最寄りの宿場に逗留して、道路の開通を待つこともめずらしくない。

 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷けいこくの最も深いところには木曾福島の関所も隠れていた。

 東山道とも言い、木曾街道六十九次とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋を経て江戸に続き、西は大津を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否でも応でもこの道を踏まねばならぬ。

一里ごとに塚を築き、榎を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
馬籠まごめは木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。・・・

この中山道は現在、国道19号線として立派な舗装の自動車道路になっています。車で走りながらこの島崎藤村が描いた昔の中山道を思い浮かべていました。昔の道らしい細い道路が所々で19号線から分かれて山の斜面に入っています。

昔の中山道は現在、奈良井、妻籠、馬籠の宿場町の真ん中に残っているだけなのです。嗚呼、時はどんどん流れ行きますが、そこだけは江戸時代のまま時が止まっているのです。

此処で生活し、古い建物を維持している人々のご苦労は如何ばかりかと感じ入りながらの旅でした。

新幹線が走り高速自動車道路が出来ても奈良井、妻籠、馬籠の宿の人々は頓着しません。影響を受けません。

それにしても人間は何故そんなにいそぐのでしょうか?

今日は「感動的だった旅」の(7)として)江戸時代の町並みの奈良井の宿、妻籠の宿、馬籠の宿をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「感動的だった旅(6)江戸時代そのままの大内宿への旅」

2023年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
大内宿(おおうちじゅく)は、福島県南会津郡にある江戸時代の会津西街道の宿場です。明治期の鉄道開通に伴って宿場としての役割は無くなりました。しかし茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並ぶ集落は観光名所として有名です。
地名として現在も受け継がれている。1981年(昭和56年)に重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
私どもも2度訪問しました。江戸時代そのままの宿場の風景に感動したものです。 全長約450mの道路の両側に藁ぶきの民家が整然と建っています。江戸時代には会津西街道の「半農半宿」の宿場でした。泊り客が少ないので周囲の畑で農業もしていたのです。 
1980年(昭和55年)7月に「下郷町伝統的建造物群保存地区保存条例」が制定され、1981年(昭和56年)の4月に国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されました。
宿場町としては長野県の妻籠宿および奈良井宿に続いて全国で3番目の選定でした。「大内宿保存会」も出来、住民による町並み保存活動が始まりました。
近くのJR湯野上温泉駅も1987年に茅葺屋根の駅舎に建て替えられなした。
そんな所が観光名所の大内宿なのです。
大内宿は何度も行った懐かしい宿場町です。写真をインターネットからお借りしてお送り致します。
写真で示したような大内宿の道路をゆっくり歩きました。自分自身が江戸時代の人間になったような気分になります。そして最後の写真のような古い民家の中に入りんました。古い和服を着た老婆がいてダンゴを売ってます。家内と私は囲炉裏端に坐って無言でダンゴを食べます。
外に出て道を山の方向に登り小山の上に立ちました。そこからは整然と藁葺き屋根が並ぶ宿場町が見下ろせたのです。何故か感動しました。

今日は「感動的だった旅」の(6)として江戸時代そのままの大内宿への旅をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「感動的だった旅(5)長崎の教会を訪れる旅」

2023年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
長崎は日本のカトリックの揺籃の地です。隠れキリシタンが250年の厳しい禁教にもかかわらず信仰を守り続けた土地です。
その長崎の大浦天主堂と出津教会の写真を掲載します。
1番目の写真は国宝の大浦天主堂の写真です。
 長崎市への原爆投下によって破損しましたが、爆心地から離れていたため焼失は免れました。そして昭和28年に文化財保護法に基づき国宝に指定されました。これは洋風建築としては初の国宝指定でした。
2番目の写真は大浦天主堂の横にある司祭館です。現在はキリシタンの遺物の展示館になっています。私どもも訪問しました。
3番目の写真は出津教会です。ド・ロ神父が長崎の出津に 建てました。彼は宣教師として1868年に来日してから1914年に亡くなるまで一度も故郷に帰ることなく、私財をなげうって日本、特に長崎の貧しい人々のために自分を捧げた司祭でした。 
4番目の写真はド・ロ神父記念館です。私どもも訪問しました。
ド・ロ神父は長崎の出津教会の主任をしながら手を付けたのが福祉事業だった。遭難漁民の寡婦ら貧しい婦女子に機織りや食品製造などの技術を教え、自力で生きて行く道を開けるよう援助する施設として「救助院」を開いたのです。 

「感動的だった旅」の(5)として長崎の教会、大浦天主堂と出津教会を訪れる旅の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)


「五能線で行った太宰治記念館、『斜陽館』の写真」

2023年09月06日 | 写真
この前の記事、「感動的だった旅(4)はるか最果ての五能線の淋しい旅」の五能線で五所川原市へ行って太宰治記念館、『斜陽館』を訪問しました。
斜陽館は太宰治が生まれ県立青森中学校に入学するまで住んでいた青森県の津軽平野にある大きな家です。占領軍の農地解放、小作人制度廃止で大地主の津島家が没落し、昭和23年に当主の津島文治氏が同じ金木町の角田唯五郎氏に売り渡しました。昭和22年、太宰治の「斜陽」という小説が大ベストセラーになったので買い取った建物を、角田氏は昭和23年に斜陽館という名前の旅館にしました。この経営方針は成功しましたが、次第に客足も減り、その後、斜陽館は廃屋同然になっていました。
その後、昭和51年に黒滝氏が買い取りました。平成8年には、金木町が地域の活性化のためにこの家を買い取り、1億5千万円をかけて復元工事を完成し、太宰治記念館として一般公開しているのです。家内が2013年5月31日に撮影した斜陽館の写真です。

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「感動的だった旅(4)はるか最果ての五能線の淋しい旅」

2023年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
全国の地方には単線で電化されていない昔風の鉄道があちこちに走っています。多くの人がそのようなノスタルジックな鉄道に乗るためにわざわざ旅に出ます。
今日は「感動的だった旅」の(4)として、はるか最果ての単線の五能線の旅の思い出をお送り致します。津軽へ行くため五能線に乗ったのです。
秋田県の東能代駅から日本海側を走り、青森県の五所川原を経て、川部駅まで行く路線を五能線といいます。全長147kmの鉄道です。
沿線には海からの強風に耐えかねて過疎になってしまった小さな漁村が所々にあるだけです。
私も一度は乗って見たいと長い間憧れていた五能線です。
津軽への旅行の途中に、その深浦駅から鰺ヶ沢駅までの約1時間の区間を乗りました。2013年5月30日のことでした。
昔風のジーゼル車の車窓からの眺めは荒涼とした日本海が広がるだけで、人間が居ないのです。たまに廃屋の目立つ村落を通過しますが、人の気配がしません。
昔、日本が貧しかった頃の汽車の旅を思い出しながら車窓の外に広がる海をただボンヤリン眺めていました。すると何故か穏やかな気分なるのです。家内が撮った写真をお送りします。
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1番目の写真はいかにもローカル線といった風情の2両編成の車両です。
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2番目の写真は運転士さんの後ろに立って写しました。
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3番目の写真は寂しい日本海の荒磯の風景です。五能線の沿線はこんな風景が続きます。
波打ち際からほんの少し上がった所に水田がありました。稲作があるのにはびっくりしました。五能線は線路の手入れが悪いのか、とにかく凄く揺れるジーゼル車の旅でした。深浦駅で乗り込み鰺ヶ沢駅で下車しました。
ところでいろいろな鉄道の雑誌では、「五能線の魅力は冬に行かないと分からない」と書いてあります。そこで検索をして冬の景色の写真をお送りいたします。写真の出典は、http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/da/%E5%86%AC%E3%81%AE%E4%BA%94%E8%83%BD%E7%B7%9AImg406.jpg です。

4番目の写真は冬の日本海の荒磯の風景です。
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5番目の写真も冬の日本海の風景です。
このような冬の五能線の写真を見ていると確かに冬が魅力的な路線だと分かります。冬は別世界です。はるばる地の果てにやって来たという感じが胸を打つに違いありません。

今日ははるか最果ての単線の五能線の淋しい旅の思い出をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「感動的だった旅(3)蔵王山の一軒宿、峩々温泉への旅」

2023年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台の大学を卒業したのは1958年でした。その頃は蔵王山に何度か登り麓の峩々温泉に泊りました。
峩々温泉は、北海道開拓使であった初代の佐賀藩主鍋島直正 が、宿営の建物を建てたことからその歴史が始まったそうです。明治初期のことでした。
視界に入るのは深い森と山ばかりです。自然とかけ流しの天然温泉です。携帯の電波が届かない山奥です。
蔵王山は宮城県と山形県にまたがる大きな火山です。火山ですのでその中腹や麓に幾つかの温泉が湧き出しています。宮城県側には遠刈田温泉、青根温泉、峩々温泉、そして山形県側には上山温泉、蔵王温泉(昔の高湯温泉)などです。
仙台や山形の人々はこの温泉へ湯治に行きます。四季折々賑わう温泉地ですが特に秋の紅葉の時期にはとても賑わいます。その一方蔵王山は登山やスキーを楽しむ山でもあります。
刈田岳や熊野岳が登山者をさそいます。刈田岳の噴火口、お釜の景観が登山の疲れを癒してくれます。そして冬は樹氷に輝くスキー場になるのです。
1960年に仙台を離れるまで何度も蔵王に行き山奥の峩々温泉に泊まりました。
結婚して東京に住むようになります。しかし家内を峩々温泉だけは連れて行きませんでした。当時の峩々温泉はあまりにも粗末で家内が驚くと思ったからです。
そんな峩々温泉の改築した現在の写真をお送りいたします。
1番目の写真は大きく改築した現在の峩々温泉です。建物が7棟もありますが1958年当時は1棟だけでした。
2番目の写真は峩々温泉の近景です。険しい山に囲まれています。
3番目の写真は峩々温泉の湯舟です。
4番目の写真は蔵王の頂上にある御釜の紅葉の風景です。傍の駐車場からかなり登ると眼前に急にこの風景が広がるのです。健在だった父母や家族と一緒に見たのも30年以上も前になりました。

自分の故郷の蔵王山の麓の峩々温泉をご紹介しました。思い出いっぱいの峩々温泉です。
故郷の山と峩々温泉は一生私の心に中にあり我が人生を豊かにしてくれます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)