後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「江戸時代の面影残す甲州街道の台ケ原宿」

2023年09月16日 | 写真
江戸時代の面影を残している甲州街道の台ケ原宿をご紹介します。
甲斐駒岳の麓に甲州街道の台ケ原宿があります。江戸時代の面影があります。
私の山林の中の小屋の近所なので何度も行きました。七賢という地酒や和菓子
屋金精軒で元祖信玄餅を買いました。懐かしい台ケ原宿の写真をお送りいたします。
 
地域の祭りで賑わっていますが普段は静かな通りです。


「江戸の面影残す川越の町」 

2023年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム

日本の都会の家々はどんどん立て替えられ新しくなって行きます。市街の景観が時代とともにともに刷新されていきます。しかし地方の小さな町には江戸時代の雰囲気が残っている所があります。私の家から車で1時間半くらいの川越の町には江戸時代の雰囲気が残っています。そんな古い町も好きで何度も遊びに行きました。古い街をゆっくり歩きます。そして古風なうなぎ屋に入ります。荒川の支流が近くを流れているのでウナギが獲れるのです。そんな小江戸川越の町の風景写真を示します。家内が撮ったものです。0211 0164_2 0095 1番目の写真から3番目の写真は江戸時代の面影を残す川越の街の写真です。

4番目の写真は川越にあるうなぎ屋「いちのや」の写真です。川越市松江町一丁目信号角にあります。00835番目の写真は「いちのや」のうな重の写真です。

さて川越城と江戸城を1457年に同時に作ったのは関東管領、扇谷上杉家の家臣、大田道潅です。主君である扇谷上杉家の命令によって作ったと言われています。

大田道潅の築いた川越城の歴史を簡単に書きます。扇谷上杉家は川越城を1457年から1537年までの80年間にわたって守りました。しかし1537年、小田原に本拠を置く後北条氏が占領したのです。後北条氏は福島(北条)綱成を城代として川越城へ送り、後北条氏は関東一円の平定を完了したのです。しかし、それも長続きはしませんでした。53年後の天正18年、1590年、秀吉一派の前田利家によって攻め滅ぼされたのです。この年には甲州の武田家も、後北条氏の寄居城も八王子城も関東一円の後北条氏の全ての城とともに滅んだのです。

関が原で勝利した徳川家康は江戸に幕府を置くと同時に武田家や後北条氏の領地であった甲州と関東一円を直轄領とします。

1601年、川越城へ始めて配されたのは酒井河内守重忠です。その後は備後守忠利、酒井讃岐守忠勝、そして七代目に松平伊豆守信綱と続き、江戸幕府終焉まで22代の幕閣が城主として配されたのです。

関東一円の戦国時代の城は江戸幕府の出先行政機関的な役割を果たしましたが、八王子城のように江戸時代は全く放置され、草の茂るだけになった城も多いのです。その中で大田道灌の築いた川越城は明治維新まで使用されたのです。

川越城は、現在、その本殿が修復されて存在しています。江戸幕府の幕閣が城主となってきたので街も江戸風に作られています。現在はその江戸時代の街並みを修復して観光客で賑わっています。池袋から電車で1時間位の所ですので、一度是非御出掛け下さい。ウナ重がお好きな方は「いちのや」がお勧めです。小江戸通りより通りを一本北側に入った松江町一丁目信号角に大きな看板が高く上がっていて、駐車場も広いです。「うなぎ小川菊(おがきく)」もお薦めです。

今日は江戸時代の雰囲気が残っている川越の町をご紹介しました。古い街をゆっくり歩いてみて下さい。そして古風なうなぎ屋にも入ってみて下さい。江戸時代の雰囲気が楽しめます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 

「秋の楽しみだった落ち葉焚き」

2023年09月15日 | 写真
都会では落葉焚きをしていけないという。空気が汚れるかららしい。自宅の庭での焚き火を止めてから随分長い年月がたつ。ダイオキシン発生云々という通達が役所から出たらしい。
しかし私は山梨県の山奥の小屋で落葉焚きをしている。小屋の回りに一面につもった落葉を集めて綺麗にしている。落葉の煙の良い香りが周囲の木々の間にながれる。
昔、子供のころに庭の落葉焚きをしてサツマイモを焼いたことを懐かしく思い出した。黒こげになったり、生焼けだったり難しい仕事だった。ある時から濡れた新聞紙で包んで焼くようになってからは上手に焼けるようになった。
木々の葉は空気中の炭酸ガスを吸って酸素を吐き出している。炭水化物を合成して幹や枝や根を作っている。したがって落葉を焚いて出来る炭酸ガスは葉が吸収するよりも少ないという。
それでも都会地では落葉焚きは禁止されている。落葉焚きも焼き芋も作れない子供たちを可哀相だと思う。以前山小屋で写した写真を掲載します。

「木曽馬の写真を撮りました」

2023年09月15日 | 写真
以前に御嶽山の麓にある木曾馬の牧場を訪ねました。長い歴史を背負った小型の馬の走り回る姿、草をはむ姿、そして何よりも人が馬を愛し、馬が世話をする人に馴れ、愛している姿を見ると自分までが幸せになるのです。 
その時、家内が撮った木曾馬の写真をお送りいたします。
1番目の写真は夕方になったので放牧場から馬を家に連れ帰ろうとしている場面です。若い女性の飼育員がまず一頭を柵の外に出したら、もう1頭もついて出て来ようとします。飼育員がこの馬を家に入れたらすぐ戻って来るから待っててねと優しく話しかけている場面です。
2番目の写真はもう一人の若い女性の飼育員が放牧場の最後の一頭を連れて帰る場面です。馬が自分の首をぴったり飼育員の肩につけて歩いています。飼育員は馬に踏まれても良いように長靴の足の先の上に鉄板を丸くして入れています。こういう靴は重量物を扱う工場では安全靴として必ず履いています。木曽馬の目が安心したように、優し気に見えます。
3番目の写真は遠方の放牧場から親子の馬を連れ帰ってきた場面です。放牧場で思いっきり遊んだ子馬が母馬と家路へと歩いている姿です。連れている飼育員は3人目の女性です。飼育員は3人ですが馬にも見分けがつけ易いように違った色の帽子をかぶっています。
4番目の写真は夕方になったので放牧場の出口に集まって飼育員が連れに来るのを待っている馬たちの写真です。私が馬たちを飽かずに眺めています。
 
 5番目の写真は夕方になっても走り回っている一頭の馬の姿です。

ここは楽しい所なので2,3度遊びに行きました。
以上、以前に御嶽山の麓で撮った木曾馬の写真をお送り致しました。

「妻からの色々な影響、そして馬も好きになった」

2023年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
結婚して非常に驚いたことは妻からの色々な影響を受けることです。皆様も程度の差があっても同様と思います。特に理系だった私は妻から文学や芸術の楽しみ方を教わりました。
印象派の油彩画の素晴らしさが分るようになりました。茶道、華道の面白さが分るようになりました。日本文学や西洋文学も少し理解出来ます。そして吃驚したのは他所の家の犬や猫が寄ってきて体を家内に摺り寄せることです。
家内に驚いたことは沢山ありますが今日は一つの例だけをご紹介したいと思います。
それは妻は馬を見ると駆け寄り、猫や犬のように撫でまわし可愛いがるのです。私は馬が怖くて傍に寄れません。馬に噛みつかれそうで恐怖で足が止まるのです。
1番目の写真は以前に北海道で妻が大型の欧米系の道産馬に駆け寄り撫でまわし可愛いがっている場面です。馬も嬉しいのか妻にすり寄って首を上下に振るのです。
私には出来ない芸当です。あっけにとられてしまいました。
次第に私も馬が好きになりました。そうして北海道の土産馬、木曽駒、九州の都井岬の野生馬を見に行く旅をしました。
今日はいろいろな馬の写真をお送りしたいと思います。
2番目の写真は馬の親子がのどかに草を食んでいる風景です。この親子の馬の写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/hiroshiz_2010/3603332.html です。
この写真を見ると親子の馬が走り回れるかなり広い土地があり、その柵の向こうは牧草が生えている斜面になっています。そして牧場を管理する人が寝泊まりす小屋も見えます。このような広い土地にいる馬は幸せです。
3番目の写真は木曽駒です。背景の山は木曽の御嶽です。こんな風景を見に何度も開田高原に行きました。妻は馬小屋に入って行って馬を可愛がります。
写真の出典は、http://blogs.yahoo.co.jp/nihonzairaiba08/1030166.html です。
木曽馬とは長野県木曽地域(木曽郡)を中心に飼育されている日本在来種の馬です。岐阜県飛騨地方でも飼育されています。
日本在来種は他に北海道和種(俗称:道産子)、野間馬(愛媛県今治市野間)、対州馬(長崎県対馬市)、御崎馬(宮崎県都井岬)、トカラ馬(鹿児島県トカラ列島)、宮古馬(沖縄県宮古諸島)、与那国馬(沖縄県八重山諸島)があります。いろいろありあすが本州の在来種は木曽馬のみです。
一時絶滅寸前でしたが木曽馬保存会の活動のおかげで、木曽馬は増加しました。しかし以前のような乗馬、農耕を目的とした需要ではなく、種の保存と観光用として現在は200頭以下が飼育されています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9B%BD%E9%A6%AC )
さて九州には野生化した馬もいます。
4番目の写は都井岬の野生馬の写真です。宮崎県の都井岬に現在でも野生の馬が多数生息しています。この都井岬の野生馬は国の天然記念物に指定されています。
この野生馬は約300年前秋月藩主が放牧したのが始まりと明確に分かっています。
5番目の写真も都井岬の野生馬の写真です。出典は、http://www.kanko-miyazaki.jp/data/ja/smartphone-index?page-id=9265 です。
野生馬は日本の律令国家の時代に飼育され朝廷に献上された蒙古系の馬に近いと考えられています。木曽馬のような馬と言われています。
さて木曽馬は平安時代から江戸時代にかけて、武士の馬として使用されきたのです。
起源ははっきりしていませんが、元々は蒙古の大陸系の馬です。一説では紀元前1世紀の漢で改良された「蒙古草原馬」が2~3世紀に、朝鮮半島経由で渡来したと言われています。この馬が木曽地域という山岳地帯で保存、飼育されたのです。
さて世界で唯一の野生馬、「モンゴルの野生の馬」の写真を示します。
6番目の写真は世界で唯一の野生馬、「蒙古野馬」、モウコノウマの群れです。(http://cgi2.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/detail.cgi?sp=p348 より。)モウコノウマは、体高140センチ。ポニーほどの大きさで、足は短くずんぐりした体型です。モウコノウマは1頭のオスと複数のメス、そしてその子どもからなる家族単位の群れで暮らします。オスは、家族のリーダーとして移動のときは常に最後尾を歩き、オオカミなどの外敵を警戒、家族を守ります。
7番目の写真は野生馬、「蒙古野馬」、モウコノウマの親子です。(http://cgi2.nhk.or.jp/darwin/broadcasting/detail.cgi?sp=p348 より。)
モウコノウマは現在、モンゴルと中国にわずか数百頭しか生息していないため、絶滅危惧種に指定されています。気性が荒く人に慣れないので、家畜化は不可能だといいます。

今日は日本の在来種の馬と野生化した馬をご紹介いたしました。そして日本の馬の祖先の蒙古の野生馬もご紹介しました。

妻の影響で馬の姿を眺めるのが趣味になりました。私は馬を見るのが好きです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「乗馬の趣味の写真」

2023年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム
家内が以前に馬に時々乗っておりました。私も馬の姿に魅力を感じ木曽馬や乗馬用の西洋種の馬の姿を見に行きました。近辺の5か所の乗馬クラブを訪ね馬の姿を見て楽しんで来ました。今日はその乗馬クラブの写真をお送りします。
1番目の写真は狭山市の入間川のそばにあるシエンテ乗馬クラブで私が撮った写真です。
2番目の写真は日野市石田にある「マリアの風」という乗馬クラブのHPからお借りした写真です。
3番目の写真は「マリアの風」という乗馬クラブの馬が浅川の中を歩いているところです。
あきる野市の日の出乗馬倶楽部は雑木林に囲まれた馬場です。
入間川のそばのシエンテ乗馬クラブは遥か遠方の人里離れた雑木林の中にあります。見つけるのに苦労しました。
日本の乗馬人口は71000人位です。ところが「ドイツ」では250万人、「イギリス」では250~400万人、「フランス」ではは150万人ほどいるそうです。日本の人口を考えると日本は乗馬人口が極端に少ないのです。延べ年間500万人ともいわれるゴルフのようなメジャースポーツと比べると極端に少ないのです。(https://teiji-taisha.com/horseriding-population-in-japan )
伝統文化の違いからヨーロッパの人は馬の扱い方も馬とのコミュニケーション能力も格段に違うのです。
日本をはじめどこの国でも乗馬は女性の趣味のようです。証拠のような写真を示します。
4番目の写真は新座乗馬クラブで女の人が馬の足を洗っている光景です。馬が気持ち良さそうな表情をして洗っている女性を見降ろしています。家内が撮った写真です。
5番目の写真も新座乗馬クラブで馬と女の人が仔細ありげに話し合っている光景です。家内が撮った写真です。

今日は乗馬の趣味の写真をお送りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「ウクライナの国花のヒマワリの花と菜の花畑の写真」

2023年09月14日 | 写真
ウクライナの国花のヒマワリの花と菜の花畑の写真をお送りいたします。
写真は「ウクライナのヒマワリの写真」を検索してインターネットからお借りしました。
なお1番と3番目の写真は菜の花畑です。2番目と4番目の写真はヒマワリ畑の写真です。

「山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の紅葉」

2023年09月13日 | 写真
自宅はから中央高速道路に乗ると富士五湖へは1時間30分ほどで行けます。便利なので若い頃からよく行きました。
特に紅葉の時は美しい風景になりす。山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖の紅葉の写真を順にお送り致します。 

「紅葉の風景を見ながら日本人の排他性を考える」

2023年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日光の紅葉の写真を見ながら日本人の排他性について考えました。紅葉の風景は中禅寺湖や日光のいろは坂の紅葉です。まずその紅葉風景の写真をお送りいたします。出典は、https://www.pixpot.net/articles/u_d_view/377/okunikko-autumn などです。

これらの写真で示したように日本は美しい国です。しかしその国民性は少し排他的です。この日本人の排他性についていろいろ考えてみました。
私は排他的な文化が必ずしも悪いと思いません。日本人はその排他性のお陰で日本古来の輝かしい伝統文化を守り、平和に暮らして来られたのです。ですから排他性には良い側面もあるのです。
しかし島国に住む日本民族は大陸に住む中国人や朝鮮半島の人と考え方が違います。ユーラシア大陸に住むモンゴル人、ペルシャ人、インド人、ヨーロッパ人と民族性が非常に違います。
違いにはいろいろありますが排他性の有無に問題を絞って考えてみたいと思います。日本民族の排他性は、住んでいる所が孤立した島国であるということに由来するのは明らかです。
日本は太平洋や日本海やオホーツク海や南シナ海に囲まれているのです。他民族の移住は容易でありません。他民族の文化の導入も命がけで行わなけれいけません。例えば遣隋使や遣唐使の船の遭難はたびたび起こりました。多数の人命を犠牲にして隋や唐の文化を取り入れたのです。
海。そうです海こそ日本民族の排他性の源だったのです。日本から海の沖を眺めても絶対に対岸の大陸は見えません。このように日本は絶海に浮かぶ列島からなっているのです。
ですから古くから他民族の大規模な移住もありませんでした。明治維新によって近代国家になった後も、かたくなに他国からの移民を受け入れませんでいた。少数のアイヌ民族を除けば、日本民族は単一な民族からなる国になっているのです。
これを現在の世界の国々に比べてみると、非常にまれにみる単一民族国家なのです。この単一民族の結果、排他的な民族文化をもつようになったと考えられます。
私が日本人の排他性を体験的に深く理解したのは1962年のアメリカ留学の時でした。留学先のオハイオに落ち着いてまずアメリカの豊かさに驚愕しました。これではアメリカとの戦争で日本が勝てる訳がないと何度もしみじみと思ったのです。
それからしばらく下宿先の近所や大学の構内を見回すと、そこには実に様々な人種の人々がいたのです。日本の学校で、人間は白人、黄色人、黒人の3種類に分けられると教わり、そのように信じていました。
しかしオハイオで見たのは白人、黄色人、黒人の3種類のどれにも当てはまらいないインド人、メキシコ人、南米系の原住民、南太平洋系の黒人とは言えない人々など実に多くの人種が混在していて、仲良く平和に暮らしているのです。
同級生のアメリカ人と次第に仲良くなり、ビールを一緒に飲むようになります。どこの国の人も酔えばお国自慢が始まります。
アメリカ人は自由と平等の国だとアメリカを縷々自慢します。どんな人種も、どんな宗教も差別しないと自慢するのです。
そしてアメリカの強みは世界中の全ての国々から移民を受け入れて来たことだと言うのです。別の言葉で言えばアメリカ人は絶対に排他的ではないことを意味します。アメリカ人は排他的な民族でないのです。開放的なのです。
そしてアメリカ人が「日本は移民を受け入れた来たか?」と聞くのです。受け入れないと答えると、日本は排他的な社会だといささか見下したような顔をします。酒席の雑談なので本気で反論しませんが、彼らの本音が出ているので面白いのです。
このように書くとヨーロッパの国々は排他的だという人がいます。後年、ドイツに住んだことがありますが、驚いたことに、ドイツはトルコから、ギリシャから、そしてルーマニアなどの東欧圏から多数の移民を受け入れているのです。
中国も多民族国家です。その上、中国の共産党政権に従順な限り、イスラム教もキリスト教もチベット仏教も平等に大切にしているのです。北京に行ってみるとイスラム教徒の多数の回族が白い帽子をかぶり悠々と闊歩しているのです。イスラム教のお寺も多数あります。大学には豚肉抜きの回族のための学生食堂が必ず別に作ってありました。
これらのことを考えると一般的に言えば日本は排他的な国だと言えます。排他的な島国なのです。私は排他的なことは悪いことだと思います。一般的に日本人はもう少し開放的になったほうが良いと思います。急には変わりませんが少し変えた方が良いと思います。

それはそれとして、 今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「昔懐かしいクラシックカーの写真をお送りします」

2023年09月12日 | 写真
2010年代に河口湖自動車博物館へ何度か行きました
河口湖自動車博物館の隣には河口湖飛行機館も並んであります。この両方の博物館の展示物は原田信雄氏の個人的なコレクションなのです。以前は通年開館していましたが、現在は8月だけオープンしています。
自動車の展示はイギリス、ドイツ、イタリア、フランス、日本など各国の数多くのクラシックカーが展示してあります。
1886年から1950年までの車はHALL-Aに展示してあり、1950年から2000年までの車はHALL-Bに展示してあります。
自動車には作られた国々のいろいろな時代の文化を積んでいます。乗り回した家族の喜びと悲しみが沁みこんでいます。戦前生まれの私にとって、いろいろな時代の車を見ると当時の社会の雰囲気がよみがえって来ます。
自動車はまさしく文化遺産です。展示してある自動車の一台、一台を見ながら過ぎ去りし日々の思い出が蘇って来ました。

(1)イギリスとフランスの戦前の車の写真
1番目の写真は1933年のイギリスのライレー/ケストレルで6気筒1083cc・26馬力のスポーティ・セダンです。イギリスの落着いた伝統的なスタイルをしています。当時のイギリスの中流階級に人気があったそうです。
2番目の写真は1934年のシトロエン7CVで4気筒1303cc・32馬力です。
前輪駆動、フラット床、独立懸架など現在の前輪駆動の乗用車の構造の基礎を作った車です。
1934年から1957年までの23年間で75万台が作られたそうです。
尚、河口湖自動車博物館の別館には河口湖飛行機博物館もありゼロ戦や戦後のジェット戦闘機が展示してあります。
詳しくは、http://www.car-airmuseum.com/ をご覧下さい。
ここに掲載した写真は2013年の8月31日に私が撮影しました。

(2)戦前のイタリアとドイツの乗用車の写真
3番目の写真はよく分かりませんが、色彩が綺麗なのでお送りします。自動車が作られ始めた頃のプジョー・ベベらしいです。この当時はまだ走れば良いという時代ですから、現代の基準を当てはめるならエンジンは非力でした。ようやく冷却のためのラジエーターグリルが誕生したという時代です。
4番目の写真は1938年のイタリアのランチアアプリリア、1352CC,Ⅴ型4気筒、4輪独立懸架。120Kmの巡航速度でした。実用車らしい頑丈な作りになっています。
5番目の写真はアルファロメオ、6気筒、2500CCです。いかにもイタリアらしい華麗なデザインです。
6番目の写真はヒットラーがよく乗っていたベンツと同じ型のメルセデス・ベンツ/540Kです。3500CCのエンジンで2.7トンと重い車体でも時速170Kmで走れました。やがて第二次世界大戦を始めるドイツの武力を連想させるような重厚な作りになっています。
その他の車は,http://auto.ultimative.org/2012/car-airmuseum/ にも掲載されています。

(3)戦前の日産のダットサンの写真
戦前、1936年から1938年の日産のダットサン自動車の写真です。
7番目の写真は日産の2人乗りの幌付きクーペです。エンジンは800CCで16馬力くらいでした。
8番目の写真は幌付きの4人乗りです。エンジンなどは同じ800CCクラスです。
9番目の写真は幌で覆った2人乗りのクーペです。
10番目の写真は日本で初めて量産された日産の乗用車で、4気筒、722cc、でした。戦前、戦後に街でよく見かけてたダットサンです。
11番目の写真は金属製の車体の2人乗りです。
12番目の写真は大田自動車のオオタOD型トラックの写真です。
オオタOD型トラックは1937年製、736CC,16馬力でした。 いずれも私が河口湖自動車博物館で撮った写真です。

以上の昔の車の写真を見ると次のことが判ります。
(1)戦前の日本の自動車産業は西洋に比べて非常に遅れていた。
(2)西洋では舗装した自動車道路があったので車も大きく、また重量も大きかった。
(3)日本製の車は小さくて馬力も小さかった。
要するに工業技術が西洋に比べて非常に遅れていたのです。
こんな状態だった日本が今や世界一の自動車生産を誇っているのです。隔世の感です。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「日本とは非常に違う韓国と台湾における宗教のあり方」

2023年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国と台湾は日本の隣国として経済的にも重要な国です。また観光客も多数日本に来ます。いろいろと交流の深い国です。それなのに韓国と台湾の宗教についてはほとんど知られていりません。驚くことに両国の宗教は日本とは非常に違うのす。
今日は韓国と台湾をよく理解するために両国の宗教をご紹介したいと思います。
さて韓国から始めます。
韓国の人口は5千107万人で、22.8%が仏教徒で18.3%がプロテスタント教徒、そして11.0%がカトリック教徒で残りの人々は様々な少数派の宗教、例えば道教、儒教、そして円仏教などを信奉しています。
ですからプロテスタントとカトリックを合わせたキリスト教全体では29.2%となって仏教より信者の数が多いのです。キリスト教信者数は約1376万人となります。韓国はフィリピンと同じくキリスト教国なのです。
このように韓国と日本と非常に違うのです。日本には宗教を信じない人が大部分です。日本は無宗教の国で韓国は宗教国なのです。非常に違います。
さてキリスト教の朝鮮半島への伝道活動は18世紀に始まりました。
カトリック教会の方がプロテスタント各派よりも早かったのです。パリ外国宣教会が宣教を担っていました。
しかし閉鎖的な社会的風潮と儒教の伝統の力によって宣教活動は遅々として進みませんでした。
例えば1866年には丙寅教獄が起こり、キリスト教徒から多くの殉教者を出したのです。韓国には日本より聖者の数が多いのはこれらの弾圧によって殉教した聖職者や信者が多かったからです。
このため戦前の信徒数は少なったのです。それが増加したのは朝鮮戦争後だったのです。
韓国社会では朝鮮戦争後のキリスト教の伸びが著しいのです。
https://ironna.jp/article/10287 によると、
2010年における韓国のキリスト教徒の割合は29パーセントに達し、仏教を越えました。
 キリスト教徒の割合は、1970年には18パーセント、85年には21パーセントに増えたのです。95年で26パーセント、2005年で28パーセントになりました。
日本のキリスト教徒の割合が1パーセント程度なのに比べると、韓国でのキリスト教の浸透はすさまじいものです。
こんな背景があるので1984年にはヨハネ・パウロ2世が、その翌年にはマザー・テレサが韓国を訪問しています。
幾つかの教会の写真を示します。1番目から5番目までの写真の出典は、
http://hanlove.jp/articles/1486 です。
1番目の写真は韓国カトリックのシンボルのようなソウルの明洞聖堂を裏側から見た写真です。
2番目の写真は大邱市にある桂山聖堂です。ロバート神父がステンドグラスなどの資材をフランスから持ち込み1902年に完成しました。
3番目の写真は忠清南道牙山市朱肉面コンセリにある「峨山コンセリ聖堂」です。韓国で最も美しいゴシック聖堂と言われています。
4番目の写真はソウルヤクヒョン聖堂です。静かな雰囲気です。教会結婚式の名所で有名です。1892年に建てられた韓国最初の西洋式聖堂です。
5番目の写真は韓国の近代建築様式の特徴を持っている全羅北道益山のナバウィ聖堂です。1897年に赴任したベルモレル神父が1907年に完成しました。西洋と韓国の伝統建築様式がよく調和をなしています。

さて次に台湾の宗教事情を見てみましょう。
台湾の2018年の人口は 2378万人です。
そのうち道教が79万人、基督新教(プロテスタント)が38万人、天主教(カトリック)が18万人、仏教が17万人です。
尚、中国本土のカトリック教会の写真は「ローマ法王と中国との和解、そして瀋陽の教会での思い出」(2019年09月08日掲載記事)にあります。
そして香港のカトリック教会の写真は「香港の武力鎮圧は起きるか?ローマ法王は動くか?」(2019年09月06日掲載記事)にあります。あわせてご覧頂けると中国全体のカトリック教会の写真を楽しめます。
今日はこの台湾のカトリック教会の写真をお送りいたします。
6番目の写真はメイ瑰聖母聖殿主教座堂です。出典は、https://4travel.jp/overseas/area/asia/taiwan/kaohsiung/kankospot/10413449/tips/10687907/ です。
高雄市にあり、清の時代の創建で台湾最初のカトリックの教会です。アジア三大聖堂の1つでもあるそうです。
7番目の写真は新竹市の聖母聖心司教座堂です。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/カトリック新竹教区 です。
8番目の写真は安平聖ラウレンティウス堂です。
出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/カトリック台南教区 です。
9番目の写真は台湾で一番古い1889年の「聖母無原罪司教座堂」です。
出典は、https://kaikyou.exblog.jp/23616503/ です。
10番目の写真は現在の「聖母無原罪司教座堂」です。
聖母無原罪司教座堂は 台湾 台北市大同区民生西路にあります。

このように台湾の教会を見ると台湾には日本より宗教を信じている人が多いようです。
その上さらに中国本土や香港の教会の写真を見るといろいろな感慨が湧いてきます。中国本土に宗教を否定する共産主義の政権が出来てから70年経ちました。しかし宗教は不滅です。共産党政権も宗教の自由を認めざるを得ませんでした。共産党政権を批判しない限り人々がどんな宗教を信じようが自由なのです。

今日は韓国と台湾の宗教事情をご紹介しました。写真では主にカトリックの教会の写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「町々にボンネットバスが走りマツダクーペやスバル360が走っていた頃」

2023年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
あれは随分と昔になってしまいました。まだ高度経済成長の時代に入る前の1950年代から1960年代の初めまでの人々が必死に生きていた頃のことです。日本はまだまだ貧しく、必死に働かないとに生きていけなかったのです。
そんな時代に町々に走っていたのはボンネットバスと路面電車でした。自家用車が憬れの時代でした。
スバル360やマツダクーペが出始めました。トヨペットクラウンやダットサンを買う人も出始めました。
外車と言えばアメリカ車や、イギリスのヒルマンや、ドイツのフォルクスワーゲン、そしてフランスのルノーなどが少しずつ増えていった時代でした。
住宅はまだ貧しく一部屋のアパートに家族で住む人も多かったのです。南こうせつさんの「神田川」という歌では4畳半のアパートに住む若い男女の様子がせつなく唄われていました。皆様は「あなたはもう忘れたかしら~赤い手ぬぐいマフラーにして~」という歌詞を憶えていらっしゃいますでしょうか?
そんな時代の生活を思い出させるボンネットバスとルノーの写真とマツダクーペやスバル360の写真をお送りいたします。
1番目の写真は1950年、昭和25年に日野自動車が作り、1966年まで製造されたボンネットバスです。日本全国の路線バスとして日本の風景の一部になったいたバスです。写真を撮った所は「日野オートプラザ」です。
アクセスなどは、http://www.hino.co.jp/autoplaza/access/index.html にあります。
直列水冷6気筒、80馬力のジーゼルエンジンがついていました。家内が撮ったので私も写っています。
2番目の写真は運転席です。当時はパワーステアリングでなかったのでハンドルを回すには力が必要でした。ですから運転手は男に限られていたのです。ギヤーもシンクロされていませんから運転手はダブルクラッチをしてギヤーを入れ替えていたのです。男の子は必ずのように運転席の後ろに立って運転の様子を見ていたものです。
3番目の写真はバスの椅子の様子です。椅子は全てこのような長いベンチ形式で、乗客が座ると女性の車掌が切符を切りに回って来るのです。満員になると車掌は動かないで、バスが止まった時、一番先に下りて出口の下で切符を切っていました。
4番目の写真は日野自動車が1957年、昭和32年から製造し始めたフランスのルノーです。フランスルノー公団と契約し製造技術を導入しました。当時は日本で製造される外車は珍しく数多く売れたようです。自家用車やタクシーとして広く普及しました。
私はルノーの如何にもフランスらしい姿に憧れて、タクシーに乗る時はルノーを選んで乗っていたものです。
後ろに水冷4気筒、750ccの15馬力のエンジンを積んでいました。現在の軽自動車のエンジン760ccと同じだったとは驚きです。その割には機敏に走り回っていました。
5番目の写真は日野自動車が1958年から販売していたハスラーという名前の小型三輪トラックです。製造は三井精機工業でした。エンジンは空冷単気筒、285cc、8・8馬力でした。
昭和30年代から40年代にはこのような小型三輪トラックが多数、全国に走っていたのです。マツダもダイハツも小型三輪トラックを大量に生産していました。

6番目の写真はマツダクーペ360です。私もアメリカ留学から帰国した1962年から数年間乗っていました。アメリカではダッジの大型車に乗っていたのでマツダクーペの小ささに驚いたものです。

7番目の写真はスバル360です。町をいっぱい走っていました。叔父もスバル360を持っていたのでマツダクーペ360を私が運転して2台で奥多摩湖までドライブしたこともありました。
日本の経済も成長してやがて高度成長期に入りました。
そうすると街から路面電車が消え、ボンネットバスやルノーやマツダクーペやスバル360も消えて行ったのです。愛用していたマツダクーペが懐かしいです。
こうして日本の車の風景がすっかり変わってしまったのです。
皆様は町々にボンネットバスが走り自家用車が憬れだった頃の思い出がありますでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

「日本の秋の紅葉は本当に美しい」

2023年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
日本の自然は四季折々美しい姿を見せてくれます。そしてその山野には可憐な花々が季節のうつろいとともに次々と咲いてくれます。
早春の梅の花に始まり、絢爛な櫻花、そして梅雨時になればアヤメやアジサイが野山を飾ります。秋になると紅葉が華やかに野山を飾ります。日本の自然は本当に美しいのです。
今日は2016年10月に撮った北海道の支笏湖と紅葉の風景写真をお送りします。そして2015年の11月に撮った茨城県の袋田の滝の紅葉の写真をお送りします。
2016年10月の中旬、北海道の千歳空港の西の支笏湖の近くの北湯沢温泉に泊まり、羊蹄山の麓から日本海の岩内町に出て、海岸沿いに積丹半島まで行きました。余市のニッカウイスキー工場に寄り、2晩目は羊蹄山の麓のルスツリゾートに泊まりました。そして千歳から羽田に帰りました。その折に撮った写真です。
1番目の写真は支笏湖です。
2番目の写真は支笏湖の岸辺の紅葉です。北海道の紅葉は本州の紅葉より色あざやかです。
3番目の写真は支笏湖の岸辺のナナカマドの樹です。ナナカマドの実が美しい紅色になっています。
4番目の写真は高低差が大きく何段にもなっている袋田の滝です。周りの紅葉が美しく滝を飾っています。
5番目の写真も袋田の滝です。写真の左には昔の滝の展望台が写っています。昔はこんな高い展望台まで歩いて登って行ったのです。新しい展望台にはエレベーターがついています。

自然の風景や花々を愛するのは日本民族に限ったことではありません。
しかし日本では緑豊かな山々に囲まれ、花々が溢れるように咲き、秋には紅葉が野山を飾ります。
このように自然が四季折々美しい国はそんなに多くはないのです。
その上、緑に覆われた列島は美しい海にかこまれているのです。
それは幸運なことです。日本民族はその美しい風景に魂を吸いとられ、一層強く自然を愛し、崇敬していると思います。

これから紅葉や黄葉が益々美しくなります。
皆様も野山に出て紅葉を楽しむように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「感動的だった旅(10)海に向かって並ぶ伊根の舟屋に魅了された旅」

2023年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
「感動的だった旅」という連載記事を書いているともう一度旅をしているような気分になります。書きながら昔行った所へ旅するのです。鮮烈に記憶が蘇ります。
今日は1990年前後に3度訪れた伊根の舟屋をご紹介致したいと思います。
「伊根の舟屋」は本当に美しい風景です。日本三景の天の橋立のすぐそばです。
伊根の舟屋は京都府の日本海側の与謝郡、伊根町の海沿い立ち並ぶ家です。1階にある舟の収納場所の上の2階に人が住んでいます。これは独特な伝統的建造物です。舟屋は江戸時代中期頃から作られ ました。現在、240軒ほどあります。この地区は「伊根町伊根浦伝統的建造物群保存地区」として国の重要伝統的建造物群保存地区になっています。
この舟屋の多くは民宿をしています。民宿では舟屋の2階がお客の寝室になっているのです。私が泊った時には夕食に生け簀に泳いでいた地魚の塩焼きが出ました。ゆっくり地元の辛口の酒を楽しみました。もう30年も前に3度ほど行った旅を懐かしく思い出します。
その風景写真をお送りします。出典は、https://reki4.com/00201.html です。
1番目の写真は伊根湾の東側から見た伊根の舟屋の遠景です。
2番目の写真は舟屋の近景で1階が舟の収納庫になっています。2階は宿泊客の部屋です。私も2階の部屋で海を眺めながらゆっくり地元の辛口の酒を 飲みました。夜はその部屋に寝ました。
3番目の写真は漁船が大型化して1階の収納庫に入らなくなった様子を示します。大きな漁船が舟屋の前に舫ってあります。あまり良い光景ではありませんが私は仕方がないと諦めました。これも時代の変化です。
4番目の写真は伊根湾の夕日です。日本海にゆっくり沈んで行きます。

ここ伊根という地名は建久2年(1191年)に「長講堂所領注文」という史料に初めて出てきます。鎌倉時代末期には集落が形成されていたようです。
はじめは湾内だけの漁業だったようですが江戸時代以降は湾外へと舟が出て行きました。
江戸時代末期には短冊型の地割りが見られ現在の舟屋群の基礎が確立しています。
それにしても何故か旧懐の情をかき立てる風景です。

今日は私の曾遊の地、伊根の舟屋の写真をお送りいたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)