甲斐駒岳の麓に甲州街道の台ケ原宿があります。江戸時代の面影があります。
私の山林の中の小屋の近所なので何度も行きました。七賢という地酒や和菓子
日本の都会の家々はどんどん立て替えられ新しくなって行きます。市街の景観が時代とともにともに刷新されていきます。しかし地方の小さな町には江戸時代の雰囲気が残っている所があります。私の家から車で1時間半くらいの川越の町には江戸時代の雰囲気が残っています。そんな古い町も好きで何度も遊びに行きました。古い街をゆっくり歩きます。そして古風なうなぎ屋に入ります。荒川の支流が近くを流れているのでウナギが獲れるのです。そんな小江戸川越の町の風景写真を示します。家内が撮ったものです。 1番目の写真から3番目の写真は江戸時代の面影を残す川越の街の写真です。
4番目の写真は川越にあるうなぎ屋「いちのや」の写真です。川越市松江町一丁目信号角にあります。5番目の写真は「いちのや」のうな重の写真です。
さて川越城と江戸城を1457年に同時に作ったのは関東管領、扇谷上杉家の家臣、大田道潅です。主君である扇谷上杉家の命令によって作ったと言われています。
大田道潅の築いた川越城の歴史を簡単に書きます。扇谷上杉家は川越城を1457年から1537年までの80年間にわたって守りました。しかし1537年、小田原に本拠を置く後北条氏が占領したのです。後北条氏は福島(北条)綱成を城代として川越城へ送り、後北条氏は関東一円の平定を完了したのです。しかし、それも長続きはしませんでした。53年後の天正18年、1590年、秀吉一派の前田利家によって攻め滅ぼされたのです。この年には甲州の武田家も、後北条氏の寄居城も八王子城も関東一円の後北条氏の全ての城とともに滅んだのです。
関が原で勝利した徳川家康は江戸に幕府を置くと同時に武田家や後北条氏の領地であった甲州と関東一円を直轄領とします。
1601年、川越城へ始めて配されたのは酒井河内守重忠です。その後は備後守忠利、酒井讃岐守忠勝、そして七代目に松平伊豆守信綱と続き、江戸幕府終焉まで22代の幕閣が城主として配されたのです。
関東一円の戦国時代の城は江戸幕府の出先行政機関的な役割を果たしましたが、八王子城のように江戸時代は全く放置され、草の茂るだけになった城も多いのです。その中で大田道灌の築いた川越城は明治維新まで使用されたのです。
川越城は、現在、その本殿が修復されて存在しています。江戸幕府の幕閣が城主となってきたので街も江戸風に作られています。現在はその江戸時代の街並みを修復して観光客で賑わっています。池袋から電車で1時間位の所ですので、一度是非御出掛け下さい。ウナ重がお好きな方は「いちのや」がお勧めです。小江戸通りより通りを一本北側に入った松江町一丁目信号角に大きな看板が高く上がっていて、駐車場も広いです。「うなぎ小川菊(おがきく)」もお薦めです。