後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「年老いて振り返る我が人生(10)熱烈日中友好の時代」そのニ

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の日本人には信じられませんが、日中間に非常に熱烈な友好関係があった時代があったのです。それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代のことを振り返り、その歴史的な理解を深めるために以下のような記事を書きました。
「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一
続いて「年老いて振り返る我が人生」の(10)を書きたいと思います。
それでは今日の部分をご紹介いたします。
周 恩来(1898年 - 1976年)は中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた卓越した政治家でした。賢い政策と人情溢れる性格で中国人の絶大な信頼と尊敬を得ていました。
彼は毛沢東に下で慎重な助言をして全ての政策を毛沢東の手柄となるようにしました。
しかし大失敗をした1950年代の大躍進政策は周恩来のせいではないと言われています。
周恩来の功績は文化大革命の被害を少なくし、終了するように導いたことです。その故に毛沢東の妻であった江青に憎まれ何度も暗殺されそうになります。
さて周恩来の下した英断はいろいろありますが、日本に関することは2つあると思います。
1、ベトナム戦争への支援を止め、アメリカと国交を開く。
2、日中共同宣言を発し、日中間の友好を促進する。

中国はベトナム戦争の一方である北ベトナムを支援していました。揚子江以南の農民から米を供給させ北ベトナム軍へ送り続けたのです。そのため江南の農民は飢饉になったと言われています。
10年近く続いたベトナム戦争からはアメリカも手を引きたかったのです。
1970年12月8日になってパキスタン大使がホワイトハウスに周恩来からの書簡を持ってきた。内容は今後、中国はアメリカと国交を開きたいという趣旨でした。
これを受けて、1972年2月21日にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を初めて訪問したのです。
そして毛沢東主席や周恩来総理と会談して、米中関係をそれまでの対立から和解へと転換したのです。第二次世界大戦後の冷戦時代に新しい様相が加わったのです。

日米安保条約のある日本もすぐに追随します。1972年9月25日に、田中角栄内閣総理大臣が現職の総理大臣として中華人民共和国の北京を初めて訪問して、北京空港で出迎えの周恩来国務院総理と握手した後、人民大会堂で数回に渡って首脳会談を行いました。
9月29日には、「日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明」(日中共同声明)の調印式があり、田中角栄、周恩来両首相が署名します。
この共同声明の内容には以下のことも含まれていました。
両政府は、どんな場合でも力又は武力による威嚇に訴えないことを確認します。
日中両国間の国交正常化後は、両国のいずれも、アジア・太平洋地域において覇権を求めるべきではなく、このような覇権を確立しようとする他のいかなる国あるいは国の集団による試みにも反対すると明記したのです。

1981年に私は北京と瀋陽の大学から招待されます。その時、見聞した中国の実態は丁度日本の敗戦直後の荒廃した風景と全く同じだったのです。驚きました。それはさて置き、周恩来に関する2つのエピソードをご紹介します。
周恩来は1976年の1月に亡くなります。しかし政府の禁止令にもかかわらず一般の人々は秘密の部屋に周恩来の写真や書を飾り、その周囲に周恩来を讃える詩や文章を供えていたのです。私が案内された秘密の部屋は大学の深い地下室でした。4方の壁一面に周恩来の写真、周恩来を讃える詩や文章が所狭しと並んでいました。これは中國全土で行われた周恩来の追悼なのだそうです。

さて周恩来は毛沢東の妻の江青に憎まれていました。特に文化大革命の間は何度も殺されそうになったそうです。ある時はチベット出張から帰るとき乗った旅客機が江青の命令で飛び立った戦闘機に撃墜されそうになったそうです。戦闘機が2機、周恩来の乗った旅客機を挟んで接近してきます。あわや撃墜という場面です。しかし2機の戦闘機は打ちません。翼を上下に振りながら追い抜いて行っただけでした。戦闘機に乗っていた兵士が周恩来を好きだったのです。
北京に戻った周恩来は病床の毛沢東を訪問し。チベット出張の報告をします。そして最後に「あなたの妻に撃墜されそうになりました」と静かに言ったそうです。
そのせいかは分かりませんが、周恩来のガンの治療を江青一派に妨害されガンで亡くなったそうです。1981年に北京で中国人から直接聞いた話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は1972年2月の北京空港での写真です。
2番目の写真は1972年9月の北京空港での写真です。
3番目の写真は左から順に周恩来、毛沢東、田中角栄の写真です。

「年老いて振り返る我が人生(9)熱烈日中友好の時代」その一

2024年11月28日 | 日記・エッセイ・コラム
これは古い話です。1970年代のことです。しかし忘れられない時代でした。日中関係が非常に良かった時代のことです。
正確に書くと、それは1970年代後半から1889年の天安門事件のあった頃までの周恩来と鄧小平の時代の約10年間でした。
この時代をもう一度思い出します。
まず1949年に中国が共産国家として成立した以後の歴史をもう一度振り返ってみましょう。
周恩来、鄧小平の熱烈日中友好の時代を考える場合に以下のような3段階に分けて考えてみたいと思います。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
(2)周恩来の英断による日中平和宣言の締結
(3)鄧小平による日本の先進技術と資金の導入

それでは上の3段階を順々に考えて行きます。
(1)毛沢東主席の新中国の誕生とソ連との離別
日中戦争は昭和5年(1930年)始まりました。当時の中国は国民党の蒋介石が勢力があり日本は蒋介石を倒すために激しく攻め込みました。一方、中国共産党も支配地区を広げつつありました。その国民党と共産党が合作し団結して日本軍に立ち向かいました。
しかし第二次大戦が終わる頃には日本軍は大部分の中国を占領してしまうのです。この日中戦争で日本軍は約55万人が戦死し、中国人は民間人も含めて、約200万人から1000万人の死者が出たといいます。
一方、日本の敗戦の1945年前後から共産党軍が国民党軍を各地で打ち破り、蒋介石は台湾に退いたのです。
そうして1949年の10月、晴れ上がった天安門広場で毛沢東主席が新しい中国の成立を高らかに宣言したのです。そこまでが毛沢東の輝かしい功績でした。

その後、ソ連のスターリンが死ぬと中国はソ連と仲間割れをします。中国への唯一の大きな支援国のソ連と断交したのですから、中国は困難な状態になります。
そして毛沢東の指導による「大躍進政策」も失敗に終わり、何百万人という農民や都会の市民が餓死したのです。
「大躍進政策」の非合理性は考えただけでも一目瞭然です。これは毛沢東の犯した大きな失敗でした。
大躍進政策では稲を密植すれば大きな収穫が得られると全国で水田に苗の間隔を開けずに密植したのです。結果は大減産で農村が飢饉に襲われたのです。鉄の増産をするとして近代科学に反する土坑製鉄を全国に展開し、逆に鉄の生産が低下したのです。それは滅茶苦茶な政策でした。
この大躍進政策の失敗で毛沢東の権力は低下します。合理的な経済政策を進めようとした政治家が権力を持ち始めたのです。
そこで毛沢東はもう一度権力を自分に集中しようとして「文化大革命」という権力闘争を全国的な規模で行ったのです。文化大革命は1966年から1976年まで続きます。

この間、若い学生を紅衛兵として動員し、権力を持っている政治家を次々に襲い失脚させたのです。
紅衛兵は軍隊のように北京や上海のような大都会の政治家、知識人、などを襲ったのです。その一方で紅衛兵には食料を補給する部隊がついていません。北京や上海では一般の民家に押し入り食料を強奪し、寝泊まりを強要したのです。
一部の紅衛兵は武器を手に入れる為に共産党の支配している正規軍を襲うようになります。
こうして文化大革命の後半になると、銃を入手した紅衛兵と正規軍との間で市街戦が行われるようになったのです。まさしく内戦のような状態になってしまったのです。

文化大革命は輝かしい中国共産党の歴史のなかで最大の大失敗です。従って、その後の中国共産党はこの大失敗を隠すために文化大革命は暴力や武力を一切使用しない討論だけによる権力闘争だったと宣伝しています。

私は1981年に中国に行き、文化大革命で紅衛兵の暴力を受け、農村に放逐された人から文化革命の凄惨さをさんざん聞きました。その人は大学教授でした。農村では毎日豚の糞尿の掃除をし、わずかな食糧で飢えの毎日だったそうです。彼は怒っていました。共産党軍に参加して、天津市を解放し、新しい中国の成立に協力した自分の受けた仕打ちを怒っていました。
そんな文化革命を多くの日本人は討論だけによる権力闘争だったと信じているのです。
私は何故、文化大革命のことを詳しく書くのでしょうか?
それはその後の周恩来と田中角栄による日中国交回復の原動力になったと考えるからです。
鄧小平による市場経済路線への大転換と日本との熱烈友好関係の原動力になったと私は考えるからです。
もっともその背景には1966年から1975年まで続いたベトナム戦争が深い影響を与えていました。
キッシンジャー国務長官と周恩来の信頼関係が米中友好関係を推進し、それが日中関係へ深い影響を与えていたと考えるのが公平な歴史認識だと信じています。
少し長くなりましたので続きは次回にいたします。
今日の写真は周恩来と鄧小平と毛沢東の3人の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%81%A9%E6%9D%A5
周 恩来(1898年3月5日 - 1976年1月8日)は中華人民共和国の政治家。字は翔宇。中華人民共和国が建国された1949年10月1日以来、死去するまで一貫して政務院総理・国務院総理(首相)を務めた。毛沢東の信任を繋ぎとめ、文化大革命中も失脚しなかったことなどから「不倒翁」(起き上がり小法師)の異名がある。1972年に、日本国首相の田中角栄(当時)と日中共同声明に調印したことでも知られている。
妻は鄧穎超、子女は孫維世(養女・文化大革命で迫害死)、李鵬(養子・のちに首相)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%A6%E5%B0%8F%E5%B9%B3
鄧 小平(1904年8月22日 - 1997年2月19日)は、中華人民共和国の政治家。中華人民共和国を建国した毛沢東の死後、その後継者である華国鋒から実権を奪い、事実上の中華人民共和国の最高指導者となる。毛沢東が発動した文化大革命によって疲弊した中華人民共和国の再建に取り組み、「改革開放」政策を推進して社会主義経済の下に市場経済の導入を図るなど、同国の現代化建設の礎を築いた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E6%B2%A2%E6%9D%B1
毛 沢東(1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。字は詠芝、潤芝、潤之。筆名は子任。中国共産党の創立党員の1人で、長征、日中戦争を経て党内の指導権を獲得し、1945年より中国共産党中央委員会主席と中央軍事委員会主席を務めた。日中戦争後の国共内戦では蒋介石率いる中華民国を台湾に追いやり、中華人民共和国を建国した。以後、死去するまで同国の最高指導者の地位にあった。

「私の好きなユトリロのパリの風景画」

2024年11月27日 | アート・文化
私が先程から見ていたユトリロのパリの風景画の写真をお送りします。
モーリス・ユトリロは 1883年 に生まれ 1955年に亡くなりました。生涯アルコール依存症に苦しみ私生活は悲惨なものでした。

1883年12月、パリ・モンマルトルの丘の麓に私生児として生まれモーリスと名付けられました。精神薄弱児だったそうです。母の薦めで絵を描くことに目覚めました。

そんなユトリロが多くの人々を感動させる美しい油彩画を沢山描いたのす。私は昔からユトリロの絵が大好きでした。7枚の彼の絵をお送り致します。

1番目の写真はサクレクール寺院の見える風景画です。出典は、 http://nekoarena.blog31.fc2.com/blog-entry-2628.html です。晩年の作品です。ユトリロがモンマルトルに居た期間は短かったそうですが、過去の自分の絵や絵葉書を元にして、何度もモンマルトルを描いています。
昔、サクレクール寺院にブラリと入って暗いお堂のなかで祈ったことを懐かしく思い出しています。何を祈ったかは忘れてしまいましたが。

2番目の写真はパリの北にあるモンマニー街の風景です。義父のポール・ムジスの建てた家のあった所だそうです。

3番目の写真は「トルシー=アン=ヴァロワの教会」です。 

4番目の写真は「コタン小路」です。

5番目の写真は「サン=ベルナールの教会(アン県)」です。変わったタッチの絵画です。

6番目の写真は「モンマルトルのキャバレー・ラパン・アジル」です。
ユトリロがよく描いた酒場で、ピカソなど若い画家が集っていました。隣のサン・ヴァンサン墓地にはユトリロの墓もあります。

7番目の写真は「サノワの風車」です。出典は、https://www.musey.net/16758 です。
1912年の春、ユトリロはパリの郊外にあるサノワのサナトリウムに入所し、アルコール依存症の治療をします。ユトリロは特に風車に魅了されたのです。

ユトリロの絵画は風景画ですが人生の哀歓をしみじみと感じさせます。そして何よりも美しいのです。優しい美しさです。ユトリロの絵画をじっと眺めていると胸に迫るものがあります。世界のかけがえのない宝です。

今日はユトリロのパリの風景画をお送り致しました。お楽しみ頂きましたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「アルフレッド・シスレーの油彩画」

2024年11月27日 | 写真
アルフレッド・シスレーは1839年、フランスのパリでイギリス人の両親の下に生まれました。
実業家であった父親のおかげで、家庭は経済的に困ることはありませんでした。シスレーは18歳の時に商学を学ぶためにロンドンに留学します。
約3年間のロンドン生活を終えたシスレーは再びパリに帰還。この時からシスレーの画家としての人生が始まります。

1番目の写真は『マルリのマシン』 1873年作です。

2番目の写真は「マルリ・ル・ロア」1875年制作です。

3番目の写真は『ポール=マルリーの洪水』1876年作です。

4番目の写真は「モレのポプラ並木」1888年の作品です。

写真の出典は、https://muterium.com/magazine/stories/si

「印象派の中心にいたピサロの油彩画」

2024年11月27日 | 日記・エッセイ・コラム
何故かわかりませんが、私はピサロの絵が好きです。そこでその油彩画をお送りいたします。
カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830年 - 1903年)は19世紀フランスの印象派の画家で 印象派の中心的な存在でした。風景画を数多く残しています。どれも穏やかで静謐な情感に溢れています。
カリブ海のセント・トーマス島の生まれです。家業の金物屋を手伝っていましたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年(22歳頃)から1854年(24歳頃)まで、島を出ました。
1855年(25歳)の時に画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合ったのです。
1859年(29歳頃)にサロン・ド・パリに初入選しましましたが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し生活は困窮します。
当時はコローにならった画風でした。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれています。年長のピサロもこれに加わるようになります。
1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作をさかんに行っています。明るい色調の絵画を描いていました。
その後、ピサロは、1872年4月から1882年末までオワーズ川のほとり、ポントワーズのエルミタージュ地区に住みます。ここで畑を耕す農民や、道を行き交う人々、市場の様子など、田園の日常の姿を描きます。
ピサロは1903年の夏をル・アーヴルで過ごした後、10月、パリに戻ります。そのパリで突然倒れ11月13日、前立腺の感染症で亡くなったのです。享年73歳でした。
ピサロの遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬され、葬儀には、モネとルノワールが参列しました。
ピサロは常に印象派の中心にいましたが生活は苦しかったのです。そんな生涯に描き続けた油彩画の幾つかをお送りいたします。絵は私の好きなものをえらびました。
1番目の写真は『ポントワーズのオワーズ川のほとり』です。1872年。油彩、キャンバス、35 × 91 cm。個人コレクション。 

2番目の写真は『ヴォワザン村の入口』です。1872年。油彩、キャンバス、46 × 55.5 cm。オルセー美術館。 
3番目の写真は『ポントワーズの眺め』です。1873年。油彩、キャンバス、55 × 81 cm。個人コレクション。 
4番目の写真は『マチュランの庭、ポントワーズ』です。1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。 
5番目の写真は『マチュランの庭、ポントワーズ』で」す。1876年。油彩、キャンバス、113.35 × 165.42 cm。ネルソン・アトキンス美術館。第3回印象派展出品。です。
6番目の写真は『カフェ・オ・レを飲む若い農婦』です。1881年。油彩、キャンバス、65.3 × 54.8 cm。シカゴ美術館。第7回印象派展出品。 
7番目の写真は『リンゴの収穫、エラニー』です。1888年。油彩、キャンバス、61.0 × 74.0 cm。ダラス美術館 点描で描いています。」
8番目の写真は『オクターヴ・ミルボーの庭、テラス、レ・ダン』です。1892年。油彩、キャンバス、73 × 92 cm。個人コレクション。
今日の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%B5%E3%83%AD でした。

以上、私の好きなカミーユ・ピサロ の油彩画をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人) 

「何度見ても感動するクロード・モネの油絵」

2024年11月27日 | アート・文化
今日は印象派の油彩画を見て一日が始まります。印象派の画家は何人かいますがクロード・モネから始めたいと思います。何度見ても感動するクロード・モネの油絵から始めたいと思います。
Claude Monet,は1840年11月14日に生まれ、 1926年12月5日に亡くなりました。
彼の絵を見ると私はしみじみと旧懐の情が湧いてきます。100年前のフランスの風景に強く魅了されるのです。昔の風景に魅了されるのです。そんな7枚の風景画をお送りいたします。
出典は、https://ja.wikipedia.org/.../%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%BC... です。
1番目の写真は『サン=ラザール駅』1877年です。(油彩、キャンバス、75 × 104)
2番目の写真は『かささぎ(英語版)』1868 - 69年です。(油彩、キャンバス、89 × 130 cm。オルセー美術館。1869年サロン落選)
3番目の写真は『ひなげし』1873年です。(油彩、キャンバス、50 × 50 cm。オルセー美術館)
4番目の写真は『ザーンダムの風車』1871年です。(50 × 75 cm。個人コレクション。)
5番目の写真は『ラヴァクール』1880年です。(油彩、キャンバス、100 × 150 cm。ダラス美術館。)
6番目の写真は『セーヌ河岸、ベンヌクール』1868年です。
1868年の春、モネはセーヌ川添いの町ボニエール・シュル・セーヌ近くのベンヌクールに滞在し、そこでセーヌの水辺の光景を描いたのです。
7番目の写真は『サン=タドレスのテラス』1867年です。(油彩、キャンバス、98.1 × 129.9 cm。メトロポリタン美術館

クロード・モネは1840年にパリで生まれました。5歳の頃から少年時代の大半をノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごしました。少年の頃から絵がうまく、人物の肖像画を売るほどであったそうです。
18歳の頃、風景画家ブーダンと知り合い、戸外での油絵制作を教えられました。
1859年にパリに出て、絵の勉強を始め、ピサロ、シスレー、バジール、ルノワールといった仲間と知り合ったのです。1865年にサロン・ド・パリ(サロン)に初入選してから、サロンへの挑戦を続け、戸外制作と筆触分割の手法を確立していったのです。しかし1869年と1870年のサロンに続けて落選の憂き目に遭いました。
私生活では、カミーユとの交際を始め、長男も生まれます 。
最晩年は、視力低下や家族・友人の死去といった危機に直面します。
友人クレマンソーの励ましを受けながら、白内障の手術を乗り越えて、オランジュリー美術館に収められる『睡蓮』大装飾画の制作に没頭しました。その後の1926年に86歳で亡くなりました。

今日はクロード・モネの絵画の紹介を致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(8)オハイオ州の鍾乳洞と麦畑の写真」

2024年11月26日 | 写真
アメリカ人の親切さは留学したオハイイオ州立大学の人だけでなかったのです。見ず知らずの人も困っている私共を助けてくれたのです。
1番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞の入り口です。右の建物の中のエレベーターで降りると巨大な鍾乳洞がありました。
そこへ生後6か月の長女を家内が抱いて行った帰り道で車が故障しました。周囲はぼうぼうたるトウモロコシ畑です。人っ子一人いません。すっかり途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。ここでオハイオ州の田舎に似た風景写真を2枚示します。ネットで「アメリカの風景写真」を検索してお借りした写真です。
2番目の写真はオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ行く道によく似た麦畑の風景です。
3番目の写真もオハイオ・キャバーンという鍾乳洞へ行くに途中の農村によく似た風景です。
4番目の写真はトウモロコシ畑の収穫後の風景です。
写真のような茫漠たる大地で途方にくれていたら一台の車が通りがかったのです。運転していた若い男が下りてきます。私の車のボンネットを開け、これは重症だと言います。そしてロープで私の車をかなり遠方の町の修理屋まで引っ張って行ってくれたのです。
このようなことは数回経験しました。こんな体験をすると何時までもアメリカ人への感謝の気持ちが残るのです。アメリカのことは全て好意的に見てしまうのです。私の良い偏見です。

アメリカ留学は青春の冒険でした。あの頃は若かった。怖いもの知らずだった。しかし貧しくて生活は苦しかったものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(7)留学先のオハイオ州立大学のこと」

2024年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
老境になると懐かしいのは最初のアメリカ留学です。1960年に初めてアメリカへ留学しました。オハイオ州立大学に留学したのです。
その時アメリカの豊かさに驚愕する体験をしたのです。戦争で負けてひどく貧しい生活をしていた日本から豊かなアメリカに行って驚きました。それは人生で一番大きいな驚きでした。感動でした。これでは戦争に負けるとしみじみ思いました。真珠湾攻撃をした日本の愚かさに失望しました。
今日はアメリカの豊かさに驚いた留学体験を書いてみたいと思います。
まずオハイオ州立大学の規模があまりにも壮大なので驚き感動しました。大学専用の飛行場を持っているのです。そして学生が格安で使える18ホールのコースを2つ揃えたゴルフ場を持っていることです。その広さは日本の大学と比べようもありません。
アメリカ全土には、同じように壮大な規模の大学が数十あると聞いて、私は度肝を抜かれました。そうしてこんなにも豊かな国と戦争をした日本民族の愚かさをしみじみ想ったのです。国力の差で戦争に負けたとさんざん聞いていましたが、その差があまりに大きいことに愕然としたのです。はるばる遠いオハイオ州まで旅をして日米の国力の決定的な相違を始めて知ったのです。
オハイオ州立大学の風景を写真に従ってご紹介します。
アメリカの大学は広大な敷地の中に建物を建てています。その様子は街の中の古い建物をそのまま校舎として使っているヨーロッパの大学とは大いに違います。
1番目の写真は校地の中央にある芝生の広場とそれを囲む建物群の写真です。このような広い芝生の広場がもう一つありました。芝生の中に交差している通路は学生たちが芝生を踏まないように舗装した通路です。
2番目の写真は数万人を収容する巨大なスタジアムです。写真の下方に写っている自動車と比較してみるとスタジアムの巨大さが分かります。この大学はアメリカン・フットボールが強いので有名なので、スタジアムも立派なのです。試合のある時は入場券が売れすぎて入手が困難なのです。私はフルブライト留学生だったので地元の新聞社、コロンバス・デスパッチ社がすぐに招待してくれたお陰で観戦することが出来ました。
3番目の写真は私達が使っていた3階建てのロードホールという建物です。この写真では右のほうに玄関がありますが、その右の1階には、私が作った実験措置が置いてあった部屋があり、2階には講義室がありました。
4番目の写真はこの大学の金属工学科の入っている主な建物です。玄関を入ってすぐ右に学科主任のフォンタナ教授の部屋がありました。イタリア系の人でいシシリー島のギャングの親玉の風貌でしたがとても優しい性格の教授でした。そして学科主任の秘書はヘレンという面倒見の良い上品な女性でした。学科主任にアポ無しで何時行ってもニコニコしてすぐに学科主任に会わせてくれたのです。ヘレンが引退したとき、日本に観光旅行に来ました。帝国ホテルに泊まったので昔世話になった日本人留学生が集まり歓迎会をしました。ちょっと脱線しましたが今日は1960年代のアメリカの豊かさに驚いた留学体験を書きました。

茫々、あれから60年です。親切に接してくれた全ての人に感謝の気持ちがいっぱいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(6)アメリカでの質素な結婚式とレセプション」

2024年11月26日 | 日記・エッセイ・コラム
結婚は人生の重大なことです。私は65年間幸福な結婚生活を続けています。今日は私どもの結婚に関することです。
67年前の1961年、私共はオハイオ州のコロンバス市で結婚しました。とても簡素な結婚式と質素なレセプションでした。しかしオハイオ州立大学の先生方や同級生が一生懸命世話をしてくれました。感謝の気持ちは今でも忘れません。もう67年にもなるので写真に写っている自分は容姿も完全に変わり、全くの他人のようになりました。結婚式とレセプションの写真を掲載します。
1番目の写真は我々の結婚を報ずるオハイオの新聞記事です。
 
2番目の写真はオハイオ州立大学の中にある結婚式場へ牧師さんが来て式をあげている場面です。私の左後ろはケン・ローリイという同級生で私の付添人をしてくれました。右端の半身だけ映っているのがケン・ローリイの奥さんのゲイルです。

3番目の写真は結婚式に出席してくれたはオハイオ州立大学の金属工学科の先生方と同級生です。

4番目の写真は結婚式の後のレセプションの写真です。レセプションはダウンタウンのディッシュラ―ヒルトンホテルで行いました。左の人が私の指導教官のセント・ピエール教授です。セント・ピエール教授の右に私の父は立っていましたがこの写真では人陰になって写っていません。

5番目の写真はデョッシュラ―ヒルトンホテルで行ったレセプションに出てくれた同級生です。

6番目の写真はレセプションに出てくれた同級生の奥さん達です。
結婚式とレセプションには内木先生夫妻や秦先生夫妻も出てくれました。内木先生と秦先生の奥さんは色鮮やか和服姿でした。
同級生の2人はレセプションの後で残った大きなウエディングケーキを私どもの家に届けてくれたのです。おかげで私どもは数日間ケーキを美味しく食べました。
7番目の写真は無事に結婚した直後の私どもと私の父の写真です。私どものアパートの駐車場でした。

今日は私どものオハイオ州のコロンバス市での結婚に関する写真を示しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(5)旧制の中学校のようだった仙台一高」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和26に宮城県立仙台第一高等学校へ入学しました。先生たちはみな旧制の仙台一中の先生でした。新制高校が出来て2年目なので旧制の中学の先生がそのまま残ったのです。自由で民主的な愛宕中学校から古い雰囲気の仙台一高に入ったのです。
印象的だったのは漢文とドイツ語の授業でした。旧制の中学の漢文の先生がいろいろな漢詩を朗々と謳います。ドイツ語の先生はリルケの詩をドイツ語で暗唱します。英語の先生はサマセット・モームの小説の原文を読ませます。
仙台第一高等学校の授業ははそういうものでした。
生徒たちは宮城県全域から集まった秀才です。旧制の教育はそういうものでした。
思い出の深いものは数々のクラブ活動でした。野蛮な応援歌の練習でした。
旧制の仙台第一中学校と仙台第二中学校の野球の試合は古くからの伝統だったのです。野蛮な応援歌の練習はそのためだったのです。
クラブ活動で海水浴場に近いある別荘に泊まり込んで毎日泳ぎました。上級生が厳しかったので辛い思いをしました。
クラブ活動として木工部に入りました。ところがそのクラブでは木工はせずに、松島湾でカッターを漕いだのです。カッターだけでなく細い艇身のスライデイングやフィックスを漕いだのです。スライデイングとは座席が前後に動く競走用のボートで、フィックスは座席が動きません。スライデイングやフィックスは東北大学の漕艇部から借りて来ました。東北大学の漕艇部はオリンピック出場めざしてスライデイングやフィックスを漕いだのです。
クラブ活動としての木工部では蔵王山にも登りました。中腹にテントを張り寒い夜を過ごしました。
仙台第一高等学校の校風は質実剛健でした。その質実剛健が懐かしいです。

今日は旧制の中学校のような仙台一高のいろいろな思い出を書きました。

添付の写真は松島の風景と細い艇身のスライデイングやフィックスです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「年老いて振り返る我が人生(4)仙台の愛宕中学の高橋貞明先生の思い出」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐに日本の学校制度が新しく変りました。占領軍総司令部の命令です。
仙台市には新制中学校が幾つも出来ました。私共が入学した第十中学校は昭和22年に発足しました。学校の名前はすぐ後に愛宕中学校と改称されました。我々はその二期生として昭和23年に入学したのです。
その頃の新しい中学校の先生は本当に生徒や学生を愛していたのです。情熱的でした。自分の家に子供たちを招んでくれました。今でも忘れられません。
特に忘れられないのが高橋貞明先生です。愛宕中学で我々のクラスの担任をしていた先生です。高橋先生は熱心に数学の授業をしていました。
忘れられないのは踏査部の部活で一緒に仙台のすぐ西に聳える泉岳に登ったときの励ましの声です。喉がカラカラになったとき頒けてくれた生ぬるい水の美味しかったことです。
この先生は踏査部やテニス部やバレー部や演劇部や科学部などの数多くの部活を作り、毎日放課後に生徒の指導に汗まみれになっていました。
私は踏査部と科学部と演劇部に入って高橋先生のお世話になりました。
とにかく新しい日本を作るのは君たちなのだと言いながら生徒達に心血を注いでいたのです。私たちの悪童連を何度も自宅に招んでくれました。
そして科学部のとき、「君は科学者になってノーベル賞を取りなさい」と言うのです。
私は科学者になりました。残念ながらノーベル賞は高嶺のまた遥かその上にあったのです。
愛宕中学校卒業後に60年ほどたってから仙台で愛宕中学校の同期会がありました。
その時、話題になったのは高橋貞明先生のことでした。みんながいろいろな部活で熱心に指導してもらった思い出を話しています。
当時の新制中学校には他にも生徒達を愛してくれた先生が沢山いました。
終戦後の新制中学校には確かな師弟愛があったのです。情熱があふれていたのです。
ここで仙台の様子を示す写真をお送り致します。
1番目から3番目の写真は2012年10月18日に私が仙台に行き撮った片平町、お霊屋下、鹿落坂、の写真です。
1番目の写真はタクシーの窓から片平町の東北大学を撮った写真です。正面の赤レンガの建物が私が卒業した東北大学の金属工業科です。

2番目の写真は片平町と向山を結ぶお霊屋橋です。この橋を渡って毎日、片平町の東北大学に通ったのです。

3番目の写真はお霊屋下から向山に登って行く鹿落坂です。毎日、東北大学に通った坂です。
伊達政宗の廟所は経ヶ峰という山にあります。その下の町をお霊屋(おたまや)下と言います。片平丁から広瀬川を渡って霊屋下へ行く橋がお霊屋橋と言います。霊屋下から広瀬川に沿って経ヶ峰の中腹を登って向山へ行く坂路を鹿落坂(ししおちざか)と言います。
私は24歳で仙台を出るまで、鹿落坂の上の向山に住んでいました。家の東北方向には愛宕山があり、東南の方向には伊達家代々のお墓のある大年寺山があります。家から西の方面は八木山という広大な森林地でした。経が峯も、愛宕山も大年寺山もそして八木山の一部も自然保護区なので何十年経っても昔のままの森林に覆われています。
話が仙台の愛宕中学の高橋貞明先生からそれてしまいました。高橋貞明先生の話に戻します。
先生は情熱的でした。自分の家に私達を招んでくれました。しかし24歳で仙台を離れた私は高橋貞明先生のことを忘れていました。
ところが約30年後の1993年の息子の東京での結婚式・披露宴に出席してくれたのです。息子の結婚相手の親類だったのです。私は懐かしのあまり涙が出そうでした。貞明先生は昔のまま若々しくはつらつとしていました。これぞ奇跡です。忘れられないことでした。

人生にはいろいろな事があるものです。
今日は仙台の愛宕中学で大変お世話になった高橋貞明先生の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「年老いて振り返る我が人生(3)悲惨でも楽しかった新制中学校の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
終戦直後の昭和23年に新制中学校に入学しました。仙台市立愛宕中学校です。
新制中学校とはマッカーサー総司令官の命令で出来た新しい学校制度の中学校です。
それまでの旧中学校は新制の高等学校になりました。昔の学校制度では小学校までが義務教育でしたが新制の学校制度では新制中学3年までが義務教育になりました。
したがって全国に小学校の数と同じ中学校の校舎を急遽作らねばなりません。
悲惨なことは校舎のない愛宕中学校に入学したことです。
今日は校舎のない愛宕中学校での体験を書きたいと思います。
教室も体育館もありません。そこで既存の荒町小学校の教室を借りたのです。荒町小学校は一クラスの人数を増加して教室をあけてくれたのです。しかし机と椅子はありません。間借りした我々は木の床に座ってミカン箱を机にして勉強したのです。木の床は酷いものでした。荒れ果ててザラザラして冷たいのです。その木の床に座っての勉強が1年過ぎた頃机と椅子が来ました。
そしてその頃、愛宕中学校の新しい校舎が向山地区の遠藤山の上に出来ました。我々は机や椅子を担いで荒町小学校から2㎞離れた山の上に出来た新しい中学校の校舎へ引っ越しました。途中の道を歩く私の心は嬉しさでいっぱいでした。新しい校舎は木の香りがして先生もみな嬉しそうにしていました。
新しい校舎は遠藤山の上にあったので北には愛宕山があり、その向こうに仙台の中心街が広がっていました。
南側には大年寺山が連なり八木山へとつずいています。中学校の校舎は風光明媚な場所にあったのです。新しく校歌も出来ました。その後新しくいろいろ部が出来て楽しい思い出が出来ました。

今日は「年老いて振り返る我が人生」の(3)として「悲惨でも楽しかった新制中学校の頃」を書きました。

現在の愛宕中学の写真と鹿落坂と向山地区と愛宕神社の写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真は現在の愛宕中学の写真です。私が通っていた頃は粗末な木造校舎が2棟だけでした。
2番目の写真は霊屋下から向山地区へ登る鹿落坂xです。
3番目の写真は愛宕中学校のある向山地区です。愛宕中学校はこの写真の左端にありました。後ろの山並みは八木山です。
4番目の写真は愛宕神社の写真です。愛宕山は中学校の北にあり、その向こうに仙台の中心街が広がっています。

「年老いて振り返る我が人生(2)戦前、戦後の小学生の頃」

2024年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年に生まれ昭和17年、かぞえで7歳の時小学校に入学し昭和23年に卒業しました。真珠湾攻撃が昭和16年12月8日でした。私の小学校の頃は戦前、戦後をまたいでいました。戦前の仙台の様子も終戦直後の仙台を覚えています。
今日は戦前、戦後の小学生の頃のいろいろを書いてみたいと思います。当時新聞やラジオで知ったことと後に知ったことです。
一番驚いたことは新聞やラジオで大々的に報道された日本航空隊の真珠湾攻撃のニュースでした。大勝利で日本中が大騒ぎしていました。
今日は写真にしたがって真珠湾攻撃とそれに続く戦前、戦後のいろいろを書いてみたいと思います。
1番目の写真は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の写真です。
アメリカの大平洋艦隊が大打撃を受け日本中が大騒ぎになりました。真珠湾攻撃の写真はその後何度も新聞や雑誌に掲載されましたので真珠湾攻撃の写真は私の心に焼き付いています。

2番目の写真は真珠湾攻撃に向かう日本の攻撃機です。
数隻の航空母艦から飛び立ちました。真珠湾攻撃の司令官は山本五十六大将でした。その後、アメリカは山本五十六大将の乗機を打ち落とし真珠湾攻撃の仇を取ったのです。
3番目の写真は南太平洋のインドネシアのスマトラ島南部 のパレンバンに降り立った日本の落下傘部隊です。空の神兵です。
これも何度も新聞や雑誌に掲載されましたので私の心に焼き付いています。
4番目の写真はB29の焼夷弾で焼野原になった仙台の光景です。
小学校の3年生だった私は焼野原になった仙台の街を歩き回り見ました。
5番目の写真は8月15日の日本の敗戦後の9月に厚木基地に降りるマッカーサー総司令官です。コーンパイプを咥えて日本占領に来たのです。
6番目の写真は昭和天皇がマッカーサー総司令官を表敬訪問した時の写真です。昭和天皇は正装していますがマッカーサーは正装していません。日本の屈辱です。戦争に負けるとこういうことになるのです。
7番目の写真は戦後日本を占領したアメリカ兵と日本の女性達です。
さて戦前、戦後に小学生だった私はどんな経験をしたでしょうか。
何と言って一番悲しかった記憶は食糧難の記憶です。毎日飢えていました。終いには庭に生えていた「はこべ」を茹でて食べました。アクが強くて苦いのです。そしてイワシの配給に大喜びしました。イワシの美味しさを忘れられません。

今日は「年老いて振り返る我が人生 」の(2)として「戦前、戦後の小学生の頃」を書きました。一番悲しかった記憶は食糧難の記憶でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)