おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その6。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-06-06 18:59:08 | 青梅街道
                          (13:52)小さな集落に近づきます。生活している方はいるようですが。

川合玉堂の歌碑。
 明治30年玉堂24歳の時の歌で、
 山の上の はなれ小むらの名を聞かむ やがてわが世を ここにへぬべく

(13:57)しばらく行くと、「道所橋」。この橋も吊り橋です。

                     

  

 ここで老夫婦と娘夫婦らしき4人連れに出会います。二人ともずいぶんご高齢に見えますが、しっかりした足取り。若い方々は振り返り振り返り、声をかけ、面倒をみながらゆっくり歩いて行きます。

振り返り、「道所橋」を望む。

上流方向。

沢筋には小さな滝が落ちる。

(14:09)ベンチとトイレがあり、「奥多摩むかし道記念植樹」。
 奥多摩町は水と緑を大切にし人と自然との調和した潤いのある町づくりをすすめています。平成元年かつて青梅街道として利用され小河内ダム建設によって廃道となったこの道を「奥多摩むかし道」として蘇らせました。・・・

その先で水道局の敷地となり、通行止めになります。旧道はこのまま敷地内に向かい、沿道の集落とともに「小河内ダム」で水没します。
案内板。

 舗装道路を急角度で切り返し(「西久保の切り返し」)、左手の山道に入って行きます。ここからは旧青梅街道ではなくなり、名実ともに「奥多摩むかし道」となります。
いきなり急な上り坂に。 

右手に何軒か建物跡らしきもの。



木の間越しにダムサイトが見え隠れ。

標高差150㍍くらいの上り坂が続きます。左手はガレ場。

(14:34)やっと民家のところに出ます。東側は眺望よし。
 

 数軒の家があります。北側に現青梅街道(国道411号線)があり、「中山」という集落の一部。民家の横を抜けるとまた山道が続きます。「浅間神社」を右に見てさらに進みます。左手は崖になっています。
ダムサイトが近づきます。

右手には小さな沢。

 (14:56)分岐点。この先、直進すると「青目立不動尊」を過ぎ、大きく回り込むように進むと、「むかし道水根入口」となり、一気に奥多摩湖に降りていくことになります。
 一方、左に折れると、国道と接するところに「廃線跡」がある、とか。進むかどうか迷いましたが、ここで左手の坂道をおりることに。


水根新道」解説板。
 水根集落への道は明治37年(1904)まで中山集落経由の不便な旧道だけでした。明治35年奥平周作氏の発議によって衆議一決、自らも大金を投じ有志の拠金・用地の寄付・労力奉仕と篤志家の寄付金によって2ヶ年の歳月をかけ鎧塚~水根間950m・幅1.8m・高度差150mの水根新道が開設されたのです。



足下の悪い急坂を一気に降ります。

(15:02)右下に廃線の橋脚が見え始めます。

朽ちかけた階段を上ると、左手にはトンネルがあります。

反対側(橋脚側)。

 以前、水根への山道が通行不能になったときにはこのトンネルが「奥多摩むかし道」の最終地点だったこともあったようです。
 トンネル内を進んでみようと思いましたが、手持ちの小さな懐中電灯では役に立たず、断念。
トンネル内から望む。

橋脚の上は雑草に覆われています。

 国道に降りて「滝のり沢」バス停から「奥多摩駅」まで戻りました(15:23)。駅前広場では賑やかにイベントが行われていました。
                       

 次回は、いよいよ「大菩薩峠」にチャレンジです。旧道はほとんど湖水の中に消滅しているので、再び旧道が復活する「奥多摩湖」の上流近くまでバスで向かい、「小菅」か「丹波山(たばやま)」の集落から「峠」に登るという若干、安易な方法を考えていますが、はたして。
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その5。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-06-04 19:09:56 | 青梅街道
                                       (13:13)「白鬚神社」。

 都指定の白鬚の大岩の側面に社殿があるとのこと。省略して先に進みます。そこでも地元のガイドさんに引率された大勢の団体さんとすれ違います。けっこう人が行き来しています。今までの街道歩きではなかった傾向。さすが人気のウォーキングコースです。

 (13:15)左手に「弁慶の腕ぬき岩」があります。
  
弁慶の腕ぬき岩
 高さ約3㍍の自然石。下の方に腕が入るほどの穴があることから、旧道往来の人々に親しまれ、力の強い弁慶に付会されて誰いうとなく「弁慶の腕ぬき岩」と呼ばれるようになりました。

 続いて右手には「耳神様」。
 
 昔は耳だれや耳が痛いときは、お医者様もいないしどうしようもなかったので穴のあいた小石を見つけて、耳神様に供えて御利益を一心に祈りました。
 民間信仰のひとつです。

 
(13:19)「いろは楓」。
 奥多摩の山々に自生する「山もみじ」の一種。この樹の紅葉は特にすぐれていて「名状すべがたい」といわれています。旧道往来の多くの人々を楽しませた樹です。11月中・下旬頃が見ごろ。樹齢は約200年位といわれています。



                        
                                           多摩川の渓谷。新緑がまぶしい。

多摩川に転落しそうな急斜面で農作業する老夫婦。

(13:29)薪を積み上げた民家。

 その先、「惣岳の不動尊」。右手を上ればバス停に。
 
明治時代、水根の法印奥平家と惣岳の奥平家によって成田不動尊が観請され、昭和10年に現本殿・覆舎を再建。

惣岳渓谷」。
 太古以来の大洪水と近くは寛保2年(1742)明治40年(1907)の奥多摩一帯を襲った未曾有の大水害によって、多摩川南岸しだくら谷より押し出された多数の巨岩怪岩が累々として「惣岳の荒」と呼ばれる渓谷美となっています。  



                     渓谷には巨岩がごろごろ。

落石防止のネットのところに「がんどう(厳道)の馬頭様」。
 

 現旧道以前の旧道にあります。「…一人ゆきかう許りなる細道…」(明治32年・小河内探勝記・露木敬身)という細い道であったので、多くの馬が谷底に落ちて死んでいます。その供養のため、沢山の馬頭様が造立されました。

 以前の写真では手前に丸い石仏があったようですが・・・。以下、それぞれ解説板がありますが、指しているものが定かではない(こちらに見る目がない)ものもあります。

左手に吊り橋「しだくら橋」。
「惣岳の荒」といわれて、多くの巨岩が渓谷美を見せています。巨岩から巨岩をつなぐように直径約20㌢程の杉丸太を4,5本ずつ藤蔓で結び架橋していました。現在は吊り橋となりました。

  
 注意書きに「5人以上で渡らないでください」の「5」の上に張り紙で「3」とあります。先客が戻ってくるのを待って、橋の中央まで。
            けっこう揺れます。高所恐怖症の方は足がすくむ。

縁結びの地蔵尊」解説板。
 恋しい人と結ばれたい…いとしい方と添いとげたい…いつの世でもおなじです。人に知られずにこっそりと二股大根を供えて一心に祈れば「結縁成就」といわれています。

 左手渓谷側に朽ちた家。そこに1台の自転車があります。人が行き来しているのか? すると若い女性が谷の方から上がってきます。「降りられるかと思いまして…」。サイクリングを楽しんでいるようです。この後も何台かすれ違います。
振り返る。

(13:44)その先、右手の崖際に「馬の水のみ場」。
 
馬の水のみ場
 ここで馬を休ませ、かいばを与えました。馬方衆は「たてば」と呼称されている茶店で一服休憩ということになりました。茶店はゴーロ・清水・大島屋の三軒があって駄菓子・うどん・まんじゅう・タバコ等が商われ、一杯酒もありました。

牛頭観音」。

 
 明治30年・小河内探勝記・露木敬身(漢学者)によれば「牛馬の背荷を輸出しての帰路に遇う三十余頭…岸壁に付して…通過を避く…婦女の牛を使役…多し…」とあるごとく馬よりは少数であったが牛も使役されていました。牛頭観音様の造立は珍しい。牛馬の息災を祈りました。

(13:51)「むし歯地蔵尊」。
 その昔、村の人々は歯が痛くなってもどうすることもできませんでした。煎った大豆をお地蔵さまに供えて、ひたすら一心に祈るのでした。すると奇態に痛みが治まった、といわれています。(民間信仰のひとつ)
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その4。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-06-01 21:11:35 | 青梅街道
                              「羽黒坂」。
 山手の石段73段上に古社羽黒三田神社が鎮座して坂の名となりました。
 旧青梅街道が明治32年に改修されてからは、小河内方面で生産された木炭運びの多数の馬力・大八車・背負荷の人々と青梅・氷川方面からの上げ荷の人々が苦労した坂です。 

 いきなり急坂「羽黒坂」を上がっていくと、右手に「羽黒三田神社」。平将門の子孫という豪族三田氏が尊崇した神々が祀られています。

 緩やかになって線路跡を越えます。。

                       左手にはトンネル跡。
 これは、「東京都水道局小河内線」の廃線跡です。
 起点氷川駅 終点水根駅 駅数2駅
 開業1952年 休止1957年 路線距離6.7 km
橋梁:23箇所、延長1,121m
トンネル:23箇所、延長2,285m

東京都水道局小河内線
 1952年(昭和27年)に開通し、1957年(昭和32年)まで運行していた、東京都水道局の専用鉄道。正式名称は「東京都専用線小河内線」であった。
 小河内ダムの建設用資材輸送用に東京都水道局が敷設・管理した貨物線であり、ダム竣工後は西武鉄道へ譲渡され、さらに奥多摩工業へ譲渡され、現在は「水根貨物線」として遺構が残っている。
 運行期間はわずか5年半のみという地味な鉄道路線であったが、東京の水がめである小河内ダムの完成に重要な役割を果たした。

 小河内貯水池(小河内ダム)の築造に伴い、ダム工事現場までの資材輸送(セメント約336,000トンおよび川砂約609,000トン)の方法について、戦時中の工事中止前に道路および索道によって運搬する計画が立案されていたが、1948年(昭和23年)の工事を再開した直後、東京都水道局は計画の見直しを行い、従来の計画は白紙に戻して、改めて鉄道、自動車および索道の3案について、技術的、経済的に検討した結果、鉄道案が採択され、氷川駅(現:奥多摩駅) - ダム現場間に専用鉄道を敷設する方針が決定した。
 1952年(昭和27年)3月に土木工事を完了。軌条敷設及び保安設備工事を実施し、同年11月に全工程を完了して氷川 - 水根間が開通した。
 1953年3月からダムコンクリート打設を開始することとなった。資材輸送を開始するに至って、専用鉄道の運転を東京都水道局直営運転とした。
 小河内線は急勾配のうえ最小半径の曲線部が連続しており、切取部が多く、竣工後間もない頃だったので、土砂崩壊や落石も多く保線作業は予想以上に困難であった。資材輸送が完了するまでの5年半の間に148件の土砂崩壊や落石に見舞われた。1956年(昭和31年)11月4日、大量の土砂崩壊によって、遂に列車転覆事故が発生し、6名の殉職者を出した。

年表
1952年(昭和27年)5月1日 - 氷川(奥多摩駅) - 水根間開通。
1952年12月16日 - 氷川駅分岐専用側線として運転開始。
1954年(昭和29年)12月7日 - 専用鉄道として運輸省から免許交付。
1955年(昭和30年)4月20日 - 専用鉄道として運転開始。
1957年(昭和32年)5月10日 - 小河内ダムの資材輸送完了。
1963年(昭和38年)9月21日 - 西武鉄道へ譲渡。
1978年(昭和53年)3月31日 - 奥多摩工業へ譲渡。
(以上「Wikipedia」参照)

路線図。

(地図はHPより拝借)
 この方は全線踏破していて、その記録が映像と共にUPされています。
 また、ネットには他の方々の記録がけっこう掲載されていて、「廃線」マニアにとってはたいそう魅力ある廃線跡です。

トンネルも線路もしっかり残っています。

 しばらく左手下に線路跡が続きます。


                        

眼下には橋梁。 

トンネル上から線路を望む。

 道沿いには家。急峻な地形で、見上げるほど高いところにも。家と道路を結ぶ簡易な昇降機が取り付けられています。


 (12:24)しばらく進んだ左手には「槐木(さいかちぎ)」の巨樹。マメ科サイカチ属。樹高 15㍍ 幹囲 3㍍ 
   
羽黒坂の急坂と桧村からの坂を登りつめた所
槐木の巨樹が地名となりました。
馬力・大八車や背負荷の上り荷・下り荷の人々の休み場として賑わった所です。槐木と向きあって、赤松の根元に正徳2年(1712)の修業僧木食三世真円唱謁の念仏供養塔・文化13年(1816)馬頭観音他があります。



 下の方からは国道を行く車の音が聞こえてきますが、まったく道は見えず、旧道からは急に落ちる森。


(12:34)路傍には古仏が二体。

しばらくすると、下に国道が見えてきます。

 この付近が現青梅街道(国道411号線)と最接近するところ。道標にしたがって右手の坂を上ります(12:51)。


ここで、「奥多摩駅」方向に向かう外国人3人連れに会います。「奥多摩むかし道」を歩き初めて最初の人達。
案内板。

 階段を上り道標にしたがって左手の階段を上っていきます。そこには中年の男女が休憩中。のんびりと進みます。急角度に曲がるところが「小中沢橋」。立派なトイレ。そこにはバイクの青年が。

「不動の上滝」はこの上部に。

 (13:01)今まで歩いたどの街道よりも山深く急峻な印象。

 しばらく行くと、小さな集落「境」に近づきます。

(13:06)はるか頭上に「水根貨物線廃線」の高架橋。

橋上を歩いた人がいるらしい。
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その3。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-05-31 21:14:42 | 青梅街道
                              渓谷巡りのための「案内標」。
     

 (11:23)この先、「新氷川トンネル」(1983年竣工)入口付近から左手の道に入ります。「今昔マップ」によると、明治中期以降、「青梅街道(旧道)」はこの道筋になっていたようです。
 江戸時代の「青梅街道」は「数馬の切り通し」から道筋ははっきりしません。峻厳な山間の道だったようですが。

「新氷川トンネル」。

 
                 「日向の馬頭さま」。 
 奥多摩は関東随一の急峻な地勢で道路問題は古くから住民の大きな負担となっていた。
 ここ、氷川と白丸は隣り合わせの集落でありながら地形が急峻で江戸時代中期までは、その往来は山上の根岩越えが主要道で、元禄時代に数馬の切り通しが開削されるまでひどい難儀を強いられていた。また、この氷川の七曲がりには、オオカミ落としの呼称のある多摩川まで逆落としに落ち込む岸壁があり、交通の難所で道路開削後も宝暦4年、嘉永2年を含め度々大がかりの道普請が行われている。
 この日向の馬頭観音は文化11年に建立されたものであるが、刻まれた銘等を見ると青梅をはじめ交通に関わり合いのある多くの人達により、供養されたものと思われる。
 当初は、現国道より10数㍍上部の旧道に建立されていたものであるが、現国道が昭和2年~4年に改修されたときに現在地より百㍍程青梅寄りの国道沿いに移築され、通行する人々の安全を見守っていたところである。
 今般、日向人道橋の工事に伴いこの地に移築したものである。
               平成8年12月4日 奥多摩町

左手に「奥多摩もえぎの湯」。

旧道の「氷川隧道(旧氷川トンネル)」を越えたあと、「新氷川トンネル」出口手前で右手の階段を上って行きます。
「川原キャンプ場」への吊り橋。

          (11:34)右手奥が奥多摩町の市街地。

坂道を左折し、青梅線の踏切を越えると、「奥多摩ビジターセンター」(11:40)。
右手が「奥多摩駅」。

国道沿いにある「奥多摩ビジターセンター」。ここで小休止。

   かつて登った山がズラリ。

 この日は「奥多摩100縁(円)商店街」を開催中。
 けっこう子供連れで賑わっています。

【西多摩郡奥多摩町】 おくたマルシェ 2018 Spring
2018年5月26日 9:00 から2018年5月27日 17:00 まで
HPより)

 昨年秋、同所で初めて開催された同マルシェは、行楽帰りの観光客など数多く立ち寄り、にぎわいを見せました。
 今回、奥多摩町観光協会、奥多摩で飲食店などを経営する未来計画工房、多摩地域で広域広報などの事業を行うグッドライフ多摩、JR東日本八王子支社による実行委員会が発足。西多摩地域の観光事業社などによる新しいプロジェクト「WILD TOKYOプロジェクト」がサポートし、規模を拡大して企画しました。
 当日は西多摩各地から13事業社が出店。奥多摩産クラフトビールやBBQ演出家によるローストポーク、久保田農園の季節のハーブや採れたて野菜の販売、林業家集団・東京チェンソーズによる木製品や焚火グッズの販売、手作りのカナディアンカヌーの展示などが行われます。
 奥多摩ゴスペルスパークルによるゴスペルライブ(26日、13時~13時30分・15時~15時30分)やDJイベント「国産レコードDJミックス・ショー!」(27日12時~17時)、青空左官ワークショップ「土としっくいの思い出手形」、アーティスト・MYMEさんによるライブペイント(26日)・ワークショップ(27日)も。
 また26日には奥多摩駅周辺で、40店以上の商店が100円商品を並べる「奥多摩町 100縁商店街」も開催され、地元の採れたて野菜や総菜、甘味、日用品などを販売。開催両日、立川駅から拝島、青梅、御嶽駅の3つの駅だけ停車し、奥多摩駅まで乗り換えなしで行ける春の臨時列車「青梅 奥多摩新緑号」も走ります。
 訪れたその日から、きっとあなたも奥多摩通! 出店者情報はHPで随時、お知らせします。ぜひお気軽にお立ち寄りください。

宿場時代の建物は見当たりませんが。

いよいよ「奥多摩むかし道」に向かいます。

 「奥多摩むかし道」は、旧青梅街道と呼ばれていた道で、氷川から 小河内に達するまでの道です。
 この街道は、小菅から大菩薩峠を越えて甲府に至る甲州裏街道で、 甲州街道より 8km ほど近道であったそうです。
 現在の青梅街道は、柳沢峠を越えて塩山 (甲州市)に至る道で明治 11 年に開通しました。
 昔、小河内の生活は、塩山との交易で支えられていました。大菩薩峠の無人小屋で物々交換をしていましたが、一度も間違いはなかっ たそうです。
 その後、小河内の物産は、氷川への厳しい山道(14km)を避け、歩きやすい五日市 (20km)に運ばれ、生活物資に変えられていました。 岫沢( くきざわ)から風張峠に出て、浅間尾根を通り、本宿に下りて五日市に向かう道を通りました。
 明治32年に、小河内と氷川間が、わりと平坦な山腹を通る道に改修され、道のりも 10km に短縮、交易ルートが氷川へと変わりました。以降、木炭の生産が飛躍的に増加しました。
 この後も氷川への道は、たびたび改修され生活の道となったのは大正から昭和初期に入ってからです。
 昭和 13 年、氷川~西久保間にム建設資材輸送専用として造られた道路が昭和 20 年に一般道として開放され、現在の国道411号線になりました。
                                (「奥多摩観光協会」パンフレットより)

むかし道の歴史
◇「奥多摩むかし道」は、奥多摩町氷川地区から小河内地区までの旧青梅街道を巡る歴史の道です。
◇青梅街道が最初に開拓されたのは慶長年間で、青梅と新宿を結ぶ道でした。当時、青梅の上成木周辺にて良質の白土(石灰)が多産され、江戸城の改築のために輸送されました。上成木が出発点のため、成木街道とも呼ばれました。
◇その後、青梅街道は多摩川に沿い西へと開拓され、小河内に達した後、大菩薩峠を越えて甲府に至ったため、江戸時代には甲州裏街道とも呼ばれました。甲州街道と比較すると2里(約8km)短く、多くの庶民に利用されました。尚、現在の青梅街道は明治11年に初めて開通した道で、鴨沢、丹波を経由し柳沢峠を越えて、甲州市の塩山を抜け甲府市に至るルートです。
◇この街道を通り、奥多摩から青梅へと、木炭、白箸、下駄材、山葵なども出荷されました。奥多摩氷川地区から青梅までは約5里の距離があり日帰りが困難であったため、氷川には馬方宿が営まれ繁盛しました。
◇旧青梅街道、つまり「むかし道」の路傍には、今でも石碑や塔、祠などが数多く見られ、いにしえの情景がうかがえます。また、そのルート自体は 現在においても各集落の人々にはなくてはならない生活道です。
(「奥多摩ビジターセンター」パンフレットより)

 「旧青梅街道」は、小河内ダムの建設によってダムサイト付近から沿道の村落とともに「奥多摩湖」に水没してしまいました。今回歩く「奥多摩むかし道」も途中、「西久保の切り返し」付近からの山道は旧道ではなさそうです。「今昔マップ」によると、旧道は多摩川左岸(西側)を遡上していたと思えます。

小河内ダム・奥多摩湖
 小河内ダム建設のために移転を余儀なくされた世帯は総数945世帯に及び、その大多数は旧小河内村の村民だった。昭和13年、ようやく小河内村との補償の合意がなされたが、小河内村長小澤市平氏は、『湖底のふるさと小河内村報告書』(昭和13年)のなかで、「千數百年の歴史の地先祖累代の郷土、一朝にして湖底に影も見ざるに至る。實に斷腸の思ひがある。けれども此の斷腸の思ひも、既に、東京市發展のため其の犠牲となることに覺悟したのである」と思いを述べている。
「旧小河内村」

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により、川野村、原村、河内村、留浦村が合併し神奈川県西多摩郡小河内村が成立。
1893年(明治26年)4月1日 - 西多摩郡が南多摩郡、北多摩郡と共に神奈川県から東京府へ編入。
1931年(昭和6年)6月 - 小河内ダム建設計画発表。村の田畑が荒廃していく。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。
1951年(昭和26年)9月 - 解村式挙行。
1955年(昭和30年)4月1日 - 小河内村は氷川町、古里村とともに合併し奥多摩町が発足。小河内村は消滅。
1957年(昭和32年)11月26日 小河内ダム竣工に伴い、多摩川沿いの旧小河内村集落の大部分が水没。

(以上、「Wikipedia」参照)

 戦前、小河内ダム建設のため水没する村から三多摩地域の代替地に移住した人々は、そこになかなか順応できず、戦後も窮乏や流転をくりかえしたといいます。
 1937年当時、作家石川達三はその様子を「日陰の村」という小説に描きました。

(12:02)「奥多摩むかし道」へ左折します。
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その2。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-05-29 20:24:36 | 青梅街道
                                    (10:18)「白丸ダム」。

「花折トンネル」手前を左に曲がると、「白丸ダム」。立ち寄ってみます。

このダムは東京都交通局の発電用のダムです。見下ろす。

白丸ダム
 高さ30.3mの重力式コンクリートダムで、東京都交通局の発電用ダムである。同局の水力発電所・多摩川第三発電所および白丸発電所に送水し、合計最大1万7,500kWの電力を発電する。ダム湖(人造湖)の名は白丸湖(しろまるこ)という。
 1963年(昭和38年)、東京都交通局が白丸狭窄地帯と呼ばれる多摩川断崖の谷に建設した。貯えた水は下流の御岳にある多摩川第三発電所に送水し、最大16,400kWの電力を発電させる。
 2001年(平成13)、「魚ののぼりやすい川づくり推進モデル事業」の一環として国土交通省によって魚道が新設された。魚道落差27m、魚道延長332m(トンネル区間125m)魚道幅2mという都内最大規模のもの。
 また、白丸ダム直下に白丸発電所が建設され、観光のための放流水を利用して1,100kWの電力を発電できるようにした。
 上流には小河内ダム(奥多摩湖)があり、その直下にも東京都交通局の多摩川第一発電所がある。白丸ダムが東京都交通局による発電用ダムであるのに対し、小河内ダムは上水道用水確保を主目的とした東京都水道局のダムである。(以上、「Wikipedia」参照)

案内板。東京湾の河口から79.2㎞の地点にあたる。

 資料館のおじさんと立ち話。ついでに「魚道」を見るならと案内されたのがここ。遙か下まで目がくらむようならせん階段。かなり躊躇。


「魚道」の解説板で済ませます。

 遡上する魚も大変そうです。ちなみに、白丸ダムを遡上する魚には、ヤマメ、アユ、ニジマス、ウグイ、イワナなどがいるそうです。

 (10:29)はるか眼下の白丸貯水池(白丸湖)にはカヌー・カヤックがけっこう水面に。エメラルドグリーンの湖面が映えています。


御岳ひぐらし日記」HPより。
 フェリーグライドインストラクターの工藤が、カヤックのこと、ツーリングのこと、御岳渓谷の日々の出来事、奥多摩の観光情報などを綴ります。

 奥多摩湖は知っているけれども白丸湖なんて知らないっていう人がほとんどでしょう。カヌーを漕いでいる人でも知らない人が多いですから。
 大きな地図では見つからないかもしれませんが、白丸湖は青梅線奥多摩駅のひとつ手前、白丸駅の直下にあります。
 白丸ダムという小さなダムで多摩川をせき止めて出来た貯水池なのです。縦に長いため、おおざっぱな地図では多摩川と見分けがつきません。
・・・
 「白丸湖」の特徴は、多摩川を堰き止めて出来た湖ですので縦に長く(1km弱)横幅は狭い(最も広い場所で100m位)ことです。
 上流は多摩川なので緩やかな流れの練習に最適です。最上流に氷川発電所の放水口があり、条件によっては強い流れを楽しむことが出来ます。
 湖水の綺麗さは東京にある湖とは思えないほど。上流にダム湖がある川としては異例なほど水が澄んでいます。ダム湖の底の冷たい水が流れ込むため、水温はとても低いです。夏でもサウナの水風呂よりちょっと冷たいぐらいです。

 ※「じゃらん」では「白丸湖カヤック体験ツアー 1日コースのプラン」を募集しています。

 しばらく国道歩きが続きます。「白丸駅入口」で右の坂道を進みます。踏切を越えて行きます。
(10:42)「白丸散策マップ」。

 目指すは、「数馬の切り通し」。駅入口の階段で小休止ながら、電車を待っている地元の方に確認。次の駅が終点の奥多摩。「けっこう歩きますよ。」と。

左、正面奥に尖った山。「天地山」。

川合玉堂さんの歌 名に負える天地岳は人知らず 奥多摩槍と言わば知らまし


(10:49)「十一面観音堂」の前を通ります。

 (10:53)車道から右の小道(旧道)に入ります。その先に岩を開削して街道を通した「数馬の切通し」があります。


                            




南側(出口)から。この先、道は途切れます。

 この地は江戸時代のはじめまで上部の山越が唯一の道でしたが元禄の頃に切り通しが開鑿され、その後の改修によって奥地との物流交流が可能になった。
 岩盤に火を焚いて水をかけツルハシと石鑿で切り開いたもので、向かい側に宝暦年間の供養碑が、下の国道脇に大正末期の隧道がある。

     

 その昔、奥多摩地方の交通は、東西関係には支障が多く南北につながる尾根筋交通を主としていました。このため、小河内方面及び多摩川南岸の住民は五日市方面と、日原から大丹波にわたる地帯は秩父方面との交通が重要でありました。元禄年間、この数馬の切通しの完成によって、初めて東部方面との関係が密接となりました。
 数馬峡は氷川~白丸間の交通の難所。初めゴンザス尾根の根岩( ネーヤ) 越えで行き来していた。
 江戸中期に関係の村々の出資で、白丸トンネルの上の硬い岩塊を砕いて切り通しを造り、峡谷沿いに街道の真上辺りを海沢に出る小道を造った。その後改良を重ね、ほぼ今の川沿いに通れる青梅街道になったのは大正末期といいます。

              

(11:06)再び元の道に戻って国道に出ます。眼下にはカヤックの姿。

 「白丸トンネル」を振り返る。上部に「数馬の切り通し」がある。断崖絶壁。また、現トンネルの右手には解説板にあった大正時代に開削された旧隧道(トンネル)があります。
 旧道が「切り通し」を抜けた後、どのルートをたどったのかよく分からない。

                       
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川井駅~「奥多摩むかし道」~滝のり沢バス停。その1。(「青梅街道」をゆく。第4日目。)

2018-05-28 22:54:41 | 青梅街道

                     5月26日(土)。晴れ時々曇り。(8:57)「川井」駅から再開。

しばらく進んで右手の道に入ります。

急坂を振り返ると、「奥多摩大橋」。

 集落の中を進みます。右手上には、「川井八雲神社」。

(9:07)その道もJR青梅線に近づくと、国道(青梅街道)に合流。

 しばらく国道を歩き、(9:31)古里駅の先で左手の道に入ります。


                   

その角に小さな「馬頭観音」。

車もほとんど通らない静かな道を進みます。

右手に石灯籠など三基。

趣のある建物。木工屋さんらしい。

 (9:36)その先に「釜の水」。湧水を大きな釜で溜めています。ひと頃前の集落の共同生活飲用水。現在は水道が完備しているので、飲み水としては使用していないようです。


「清見橋」。右手の沢には小さな滝。道沿いには「多摩川」に注ぐ沢筋が多くあり、切り立った崖状になっています。
 

 多摩川沿いの遊歩道が左手にありますが、右の坂を上って国道に出ます。


眼下に多摩川に架かる「寸庭橋」。

右手には青梅線。

(9:49)「将門」交差点。左は多摩川南岸道路。

 この地に「将門」? 崖の上には将門神社があるようです。
 そこで案内板にしたがって、右手の細い坂道を上っていきます。足元はしっかりしていますが、けっこう急坂。
振り返る。

 途中、右手に上がる道が参道のようです。しかし、そのまま進むと広い道に出ます。これがさきほど「釜の水」の道から続く旧道の一部?


 将門神社の紹介
 天慶の乱(935年~940年)に敗れた平将門没後、その子となる将軍太郎良門が亡き父の像を刻んで祀ったことに始まりました。その後、多摩川流域を領した青梅の三田氏は、将門後胤を称し、三田弾正忠平次秀のときには、将門宮を再修して神剣を奉納した、といいます。
 明治維新後、将門神社は廃され、同村の熊野神社に合祀されました。そのため一時この場所は荒廃しましたが、昭和50年(1975)に地元住民の有志により総檜造りの社殿が再建されました。

 平将門に関しては、東京・大手町にある「将門塚」が有名です。
首塚の碑
 この地はかつて武蔵国豊嶋郡芝崎村と呼ばれた。住民は長らく将門の怨霊に苦しめられてきたという。諸国を遊行回国中であった遊行二祖他阿真教が徳治2年(1307年)、将門に「蓮阿弥陀仏」の法名を贈って首塚の上に自らが揮毫した板碑を建立し、かたわらの天台宗寺院日輪寺を時宗(じしゅう)芝崎道場に改宗したという。日輪寺は、将門の「体」が訛って「神田」になったという神田明神の別当として将門信仰を伝えてきた。その後江戸時代になって日輪寺は浅草に移転させられるが、今なお神田明神とともに首塚を護持している。時宗における怨霊済度の好例である。
 首塚そのものは関東大震災によって損壊した。その後周辺跡地に大蔵省仮庁舎が建てられることとなり、石室など首塚の大規模な発掘調査が行われた。昭和2年(1926年)に将門鎮魂碑が建立され、神田明神の宮司が祭主となって盛大な将門鎮魂祭が執り行われる。この将門鎮魂碑には日輪寺にある他阿真教上人の直筆の石版から「南無阿弥陀仏」が拓本された。
 この地は東京駅に近く皇居の間近に位置するため、周辺にはオフィスビルが林立しているが、この一角だけは広い敷地ではないにもかかわらず鬱蒼とした木が茂っている。敷地内には蛙(ガマガエル)の置物が数多く石碑の周囲に置かれている。
 数十年にわたり地元のボランティア団体が浄財を元に周辺の清掃、整備を行っているが、その資金の預金先として、隣接する三菱UFJ銀行に「平将門」名義で口座が開かれていた。

エピソード
 ・・・古くから江戸の地における霊地として、尊崇と畏怖とが入り混じった崇敬を受け続けてきた。この地に対して不敬な行為に及べば祟りがあるという伝承が出来た。そのことを最も象徴的に表すのが、関東大震災後の跡地に大蔵省の仮庁舎を建てようとした際、工事関係者や省職員、さらには時の大臣早速整爾の相次ぐ不審死が起こったことで将門の祟りが省内で噂されることとなり、省内の動揺を抑えるため仮庁舎を取り壊した事件や、第二次世界大戦後にGHQが周辺の区画整理にとって障害となるこの地を造成しようとした時、不審な事故が相次いだため計画を取り止めたという事件である。
 結果、首塚はバブル景気後も残ることとなり、今日まで、その人気のない様に反し、毎日、香華の絶えない程の崇敬ぶりを示している。近隣の企業が参加した「史蹟将門塚保存会」が設立され、維持管理を行っている。
 隣接するビルは「塚を見下ろすことのないよう窓は設けていない」「塚に対して管理職などが尻を向けないように特殊な机の配置を行っている」とされることがある。

蛙の置物
 首塚の境内には所狭しと多数の蛙の置物が奉納されている。将門の首が京都から飛んで帰ったことから、必ず「帰る(カエル)」にひっかけ、伝承で次の二つの利益があるとされている。
・左遷になった会社員が、元の会社に無事に戻ってこられるように、蛙を供える。
・誘拐されたり、行方不明になった子供が無事帰ってこられるように、蛙を供える。

評価の変遷
 関東一円では武芸に優れているばかりでなく、世に受け入れられない者の代弁に努めたという点で、その壮絶で悲劇的な死とも相まって、長い間将門は逸話や伝説として人々に語り継がれてきた。これは、将門が重い負担を強いられ続けた東国の人々の代弁者として捉えられたためだと考えられる。
 中世、将門塚(平将門を葬った墳墓)の周辺で天変地異が頻繁に起こり、これを将門の祟りと恐れた当時の民衆を静めるために時宗の遊行僧・真教(他阿)によって神と祀られ、延慶2年(1309年)には神田明神に合祀されることとなった。
 神田明神は戦国時代の太田道灌・北条氏綱等の武将が武運祈願のため崇敬するところとなり、さらに関ヶ原の戦いの際には徳川家康が戦勝祈祷を行った。このようなことから、江戸時代には江戸幕府により平将門を祭る神田明神は江戸総鎮守として重視された。
 また、将門の朝敵としての認識は江戸幕府三代将軍徳川家光の時代に、勅使として江戸に下向した大納言烏丸光広が幕府より将門の事績について聞かされ、「将門は朝敵に非ず」との奏上により除かれた。
 なお、神田明神は幕府によって江戸城の鬼門にあたる現在地に遷座されたと言われる。これは、徳川氏が朝廷に反逆した将門を将軍居城の鬼門に据えることにより、幕政に朝廷を関与させない決意の現われだという。神田明神の「かんだ」とは首を斬られて殺された将門の胴体、つまり「からだ」が変化したものという説がある。
 明治維新後は将門は朝廷に戈を向けた朝敵であることが再び問題視され、逆賊として扱われた。そして1874年(明治7年)には教部省の指示により神田明神の祭神から外され、将門神社に遷座されてしまう。
 第二次世界大戦終結後、皇室批判へのタブーがなくなると、朝廷の横暴な支配に敢然と立ち向かい、新皇に即位して新たな時代を切り開いた英雄として扱われることが多くなった。そして、1976年(昭和51年)には将門を主人公としたNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』が放映されるに及んで、将門の祭神復帰への機運が高まり、ついに1984年(昭和59年)になって、平将門神は再度、神田明神に合祀されている。
 このように将門の評価は、古代の朝敵から、中世の崇敬対象へ、さらに明治時代の逆賊視、ついで戦後の英雄化と激しく揺れ動いた。・・・
(以上、「Wikipedia」参照)

(10:00)前方に「鳩ノ巣駅」が見えてきます。

 途中の路傍に馬頭観音や供養碑などがあり、旧道らしい趣き。


                           

 下り坂を進み、「鳩ノ巣駅」の西側の踏切を渡って、国道に合流(10:08)。
         

鳩ノ巣」という地名の由来
 現在のようなトラックや鉄道などの運搬手段が無かった時代。奥多摩の木材は多摩川を使って下流まで運びました。上流で伐採した木材は、この下の渓谷で集積され、さらに約1.5㎞下流の寸庭というところで、いかだに組んで六郷まで運びました。集積場となった水神の森に、2羽のハトが巣を作り、とても仲むつまじかったので、人々は鳩ノ巣と呼ぶようになりました。

 「奥多摩観光協会」のパンフレットには、以下のような記述。
 江戸期、ここには上流から一本流しで来る丸太の貯木場があり、飯場小屋があった。
 魚留滝(ナルタキ) の上の飯場に祭った水神社の森に、二羽の鳩が仲睦まじく巣を営んだ様子が人々の心を和ませ、いつしか鳩の巣の飯場と呼ぶようになり、これが地名になったという。
 魚留滝は江戸末期の大洪水で崩壊した。

 鋭く切り込まれた多摩川の渓谷が眼下に広がります。
  
上流。                                 下流。「はとのす荘」。
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久々の青梅街道。河辺駅~川井駅。その4。(「青梅街道」をゆく。第3日目。)

2018-05-21 21:16:43 | 青梅街道
                                多摩川の対岸。深い緑に囲まれた住宅。

(11:56)ここから「御嶽」駅まで多摩川沿いの渓谷歩きができます。
                              「御嶽渓谷遊歩道」入口。

               

(12:06)右手に「福島家住宅」。
 福島家は「過去帳」によると、中世に遡る系譜を持つ旧家で、江戸時代初期より多摩郡沢井下分の名主役を代々勤め、江戸中期から幕末には三田領二ヶ村技師組合の惣代に就任し、地域社会の中で指導的な地位を確立していた。
 この建物は同家所蔵の古文書などから推定して、第26代目重富の時代(18世紀中頃)に建築され、「当家中興之主」と伝えられる第27代家寛の時、現位置に曳き家・整備されたものと考えられている。
 桁行き9間、梁間4間半。入母屋造り、茅・杉皮葺き、平屋建て(一部に二階)で建築面積は200.69平方㍍。平面形式は喰い違い六つ間型で、ダイドコロ・ザシキ・カッテ・ナンド・ヘヤなどの日常のための生活空間と、トコノマ・オクノマ・ナカノマなどの接客空間からなる。
 当建造物は福島家がもっとも繁栄した当時に建立されたものと推定され、格式的な家構えで、江戸末期の整形六つ間型になる以前の喰い違い六つ間型の姿をよく残している。

 東京都教育委員会
                   

見事な藁葺き屋根。

杉玉が軒先に。はて? 

すぐお隣に「澤乃井」の幟と「福島屋酒店」。

(12:09)そしてすぐ隣が待望の「澤乃井・小澤酒造」。

                       

小澤酒造
 青梅市沢井に本社および工場を置く酒造会社。現在、東京にて伝統を守っている10軒の酒造業者の一つである。
 創業は明確ではないが、1702年(元禄15年)の古文書に記録があることから、これ以前に既に酒造業を営んでいた模様である。1966年(昭和41年)、酒蔵の見学を始める。1984年(昭和59年)、社員杜氏の育成を開始、後に、社員杜氏の第1号・田中充郎が誕生した。1992年(平成4年)、小澤順一郎、22代目当主を継承、「澤乃井」ブランドの日本酒を醸造販売する老舗酒造メーカーである。

「澤乃井」の由来
 現在地の沢井は、その昔、「澤井村」と呼ばれており、その地名に因んで命名された。「沢井」とは、豊かな名水が沢となって流れるところからつけられた地名。1967年(昭和42年)、見学者用の施設として「沢乃井園」を開設し、観光酒造としての第一歩踏み出す。さらに、豆腐・湯葉の料理やレストランを開き、高付加価値酒の拡販を強化し、1988年(平成元年)、「中小企業合理化モデル工場」に指定された。
(以上、「Wikipedia」参照)
 

 酒蔵見学は予約制だったので、通りの向かい側にある「澤乃井園」へ。渓谷を眺めながら休息。利き酒コーナーへ。


  「きき酒処メニュー」。軽くお猪口に一杯ずつ、いくつか。

                          

眼下を見下ろす。

                        

河原遊びをする家族連れ。

(12:51)しばらく堪能して出発。小澤酒造。

軽くほろ酔い気分で。御岳山方向。

沿道には食事処が点々。「ゆずの里・勝仙閣」。

(13:11)「御嶽駅」に到着。

駅前の「青梅街道」のようす。

先ほど右に分けた「青渭(あおい)通り」と再会。
                                        

木立越しの多摩川。

(13:33)見下ろすと「奥多摩フィッシングセンタ-」。

奥多摩フィッシングセンター
 梅の産地として有名な青梅市にある「奥多摩フィッシングセンター」は都内でも最大規模の渓流釣りを楽しめる場所として人気のスポットです。
多摩川の本流、上流部をそのまま利用したこの管理釣り場は、お子様から女性、初心者まで気軽にニジマス釣りを体験できます。
また、夏場などは川原遊びやバーベキューなどご家族でのんびりと1日を過ごすことのできるレジャースポットとなっています。
各釣り場は目的に応じて区画が分けられており、団体釣り場、ファミリー釣り場、一般エサ釣り場、ルアー・フライ釣り場と、ベテランから初心者まで幅広い層に対応した釣り場となっています。
 時期によってはヤマメやイワナの放流もありますので多彩な釣りが楽しめますね。
 そしてこの釣り場の1番の醍醐味はなんといっても魚のサイズが大きいこと。
 釣れる魚は標準サイズに混ざって一回り大きなものがヒットしてきます。
 川の流れの中で育った魚は筋肉質で大きく、引きもすさまじいです!
 是非、1度「奥多摩フィッシングセンター」で暑い夏の日の1日を満喫してみてくださいね!
HPより)

                      

「青梅市」とお別れ。振り返って望む。

                   右手高台に「青梅線」。

(13:40)「奥多摩町」となります。巨樹と清流の町」。

沿道はぐっと緑が濃くなった感じ。
 

 緩やかに上がった、峠のようなところにある古民家。


                    

そろそろ疲れてきました。

(13:58)左手が開けてきて橋が見えてきます。

                     
 橋の名は「奥多摩大橋」。1996年(平成8)に完成。長さ265m、幅12m。構造は専門用語でいうと「2径間複合斜張橋」というのだそうです。
                    

そろそろ「川井」駅。「大丹波川」に架かる「大正橋」のたもとにある「大橋供養塔」(左)と「庚申塔(欠損)」。


「たいしょうばし・TAISHO BASHI」。架橋当時は煉瓦造りだったようです。 
                                  「由来碑」。
 これによると、文化11年(1814)完成した橋は猿橋に似た構造の「刎ね橋」だったようです。橋の長さ7間(14.5m)幅員4尺(1.2m)の立派な木橋で、20年毎に架けかえられた、とのこと。地元でも有名な橋だった、と。下流には、当時の橋台が残っているそうです。
 その後、大正時代になって赤煉瓦のトラス橋に付け替えられ、さらに現在のコンクリート橋になりました。

かなり深い渓谷。上は青梅線の橋脚。

まだ陽は高いですが、今回はここまで。

(14:09)「川井駅」。

ホームからの「奥多摩大橋」。
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久々の青梅街道。河辺駅~川井駅。その3。(「青梅街道」をゆく。第3日目。)

2018-05-18 19:35:03 | 青梅街道
                              左手に「へそまん総本舗」。へそまんじゅうを購入。

 (11:01)温かい「へそまんじゅう」を食べながら進みます。「神代万年橋跡」解説板。

神代万年橋跡
 神代万年橋はいつ築かれたかは明らかではないが、北岸の村々(青梅村・日向和田村・二俣尾村)と南岸の村々(下村・日陰和田村等)を結ぶ重要な通路であった。また、万年橋とは一年中往来できる橋という意味と考えられている。
 文政3年(1820)に書かれた『武蔵名勝図会』には次のように記されている。
 「下村橋とも唱え、或は永久橋とも号せり。蜷多和田と二俣尾と領地の堺にあり。街道附きにて、玉川通路の橋なり。両岸より大木を投げ渡して、柱なく組み上げたり。長さ19間、橋3尺余。水際まで4丈許。下村、日陰和田、二俣尾、日向和田と4ヶ村普請なり。常に牛馬を通ぜず。ー中略ー御嶽山参詣のもの多くは青梅村へかかり、夫よりこの橋を越えて、下村、柚木、御嶽を行くを順路となす。」
 神代万年橋は奥多摩町梅沢万年橋、御嶽万年橋と共に江戸時代に多摩川に架けられていた万年橋のうち最下流に架けられた橋であるが、現在も川岸に橋台が残り往時が偲ばれる。

 この内容からすると、奇橋「猿橋」と同じ「刎ね橋」にも見えますが。この先の川井にある「大正橋」も同様な構造の橋だったようです。

※刎ね橋
 岸の岩盤に穴を開けて刎ね木を斜めに差込み、中空に突き出させる。その上に同様の刎ね木を突き出し、下の刎ね木に支えさせる。支えを受けた分、上の刎ね木は下のものより少しだけ長く出す。これを何本も重ねて、中空に向けて遠く刎ねだしていく。これを足場に上部構造を組み上げ、板を敷いて橋にする。 
               

地元の方でしょうか、親子連れが踏切を渡って、森の中に入っていきます。

ブリヂストンの保養所「ブリヂストン奥多摩園」。

奥多摩の山並みが遠くに。

(11:22)堂々としたログハウス。「カフェ・喫茶 らびっと」

(11:27)
桃の里の歌碑
 花を見てかへるといはぬ人はなし
 たもとを桃のにしきたちきて 逍遙院内府公
 春の日のひかりもそらにみちとせの
 名におふ桃のはなの下陰 桑門浄月
 立ちよりてあかぬ色香や花のなの
 ももたびちたび春あふとも 中原典則
 みちとせの春をふくみてこのさとに
 花のにしきのをりはへて見ゆ 青木維吉

                  

気温は高くなっていますが、爽やかな風が。

 今回、ひたすら「現青梅街道(国道411号線)」を歩いていますが、

  「石神前」駅から「二俣尾駅」付近まで、旧青梅街道は青梅線の北側を進んでいました。さらに「軍畑駅」駅付近では大きく北側にカーブして渓谷を渡っていたようです。(この項、「今昔マップ」さんの地図を参照しました。)現在もその一部は残っています。

(11:37)「桜橋の由来」。
 昔の街道は、三角山新道の段丘上に江戸往還の道(甲州裏街道)が、東西に貫くように伸びていますが、鎌倉街道と行き交う「奥澤」から東へ、西木戸の急坂を登り切ると開けた台地に出ます。ここが「桜橋」です。縄文の人々が暮らした遺跡があり、時代が下ると三田氏が後北条氏と一戦を交えた古戦場でもありました。
「桜橋」の名の起こりは「田の入り(屋号・谷合弘平さん宅)」の裏山から流れ出た小さな沢が、街道を横切り多摩川に落ち流れていますが、そこに小さな土橋が架かり橋際に大きな
えられています。後に、鉄道延線工事の際、沢は暗渠となり橋も桜もなくなりました。
 近くに住む市川善一さんから「家の古い屋号は『桜林』だった」と伺ったことがあります。桜の木々に囲まれた家があったのか、裏山全体が「桜の林」だったのかと思いを巡らしながら、調べてみると意外な事実がありました。
 慶長3年(1598)検地の記録に「さくらばし」が既にあり、さらに「さくら木」「さくら木道上」「さくら木のこし」ほか「桜」と名の付く小字名がたくさんありました。春ともなればこの一帯は、桜の花が咲き誇る自然豊かな里山だったのではと思われてなりません。
 新橋の完成によって交通の難所が取り除かれ、安全でしかも快適に通行できることは誠に喜ばしいことですが、反面その利便さと恩恵の陰にともすると歴史や出来事が忘れられがちです。「桜橋」の開通に寄せて昔日のことごとを御紹介しました。

平成22年1月吉日
青梅市自治会連合会第5支会(文:福島和夫氏)

          

この道が旧道? 

                         

(11:43)「鎧(よろい)橋」。この付近は古戦場だったようです。
 駅名の「軍畑」の由来は南北朝から戦国時代にかけて青梅一体を支配した三田氏と小田原の北条氏の合戦場所だったことから名づけられました。

新緑がまぶしい。

深い渓谷。

旧道は、大きく上流に迂回していました。

直線の道を進みます。

左手の坂道が旧鎌倉街道? (11:45)「軍畑駅入口」交差点。
      

軍畑駅付近の案内図。

 「青渭(あおい)通り」。
「青渭神社」への道。

 次の駅が「沢井」。今回の目的地、酒蔵「澤乃井」を目指して。
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久々の青梅街道。河辺駅~川井駅。その2。(「青梅街道」をゆく。第3日目。)

2018-05-17 21:36:48 | 青梅街道
                                沿道には立派な建物が続く。


                   


(9:57)右手に「旧稲葉家住宅」。

 
稲葉家は、江戸時代に青梅宿の町年寄を務めた家柄で、青梅でも有数の豪商でした。青梅街道に沿って、土蔵造り二階建ての主屋、棟割り長屋が並び、主屋の東側に井戸と、北側には土蔵があります。
 間口5間半、奥行き7間の土蔵造りの主屋の表部分は、店舗として商業活動に充てられ、奥の部分は生活の場となっていました。
 店舗部分は、間口いっぱいに土間を持つ前土間形式で、防火戸の収納部となる袖壁を左右にもつ一階部分と、土戸で守られた登り梁形式の二階部分からなっています。軒の低い登り梁形式から、江戸時代後期(18世紀後半)建築であると考えられています。
 また土蔵は明治19年(1886)頃の建築、棟割り長屋・門・井戸屋方はその後の建築と考えられます。

                    

 (10:00)その先、森下陣屋の跡地に建つ熊野神社付近は宿場特有の枡形になっています。写真の左手の坂を下ると、「金剛寺」。金剛寺は、青梅の地名の元になった平将門ゆかりの梅の木で有名。


                          
森下陣屋跡
 天正18年(1590)に家康が関東に入国してまもなく、八王子に代官所が設置され、初代の代官に大久保石見守長安が任命された。
 当地には、その出張所ともいうべき陣屋が青梅宿西端の森下に設けられ、大野善八郎尊長、鈴木孫右衛門らがその任にあたった。青梅陣屋の支配地域は、現在の八高線沿線から多摩川上流域にかけての三田領・加治領・高麗領・毛呂領にわたる範囲で、山の根2万5千石と称した。青梅(森下)陣屋は、延享元年(1744)頃に伊那平左衛門忠達の代で廃止された。
 陣屋の敷地面積は、6千3百平方㍍程度と推定されるが、現在は、陣屋の敷地の鎮守と伝えられる熊野神社が祀られている。
 江戸時代の青梅宿の成立と繁栄が偲ばれる貴重な旧跡である。

案内図。枡形がはっきりと分かります。

「青梅宿」を出て、一路、西へ。

(10:07)右手に「七兵衛公園」
                             実在した裏宿七兵衛の住居跡。入口の左に多数の石仏が。
裏宿七兵衛
 むかし、 青梅の町はずれの裏宿に七兵衛という百姓が住んでいた。ひるまは、ふつうに百姓をしていたが、夜になると盗賊に変身した。七兵衛はまれにみる俊足で、いち夜に十数里を走ることができた。あまり足が速いので、笠を胸にあてて走っても落ちず、1反に布をひいて走っても端が地につかないほどだったという。ぬすんだ銭は、貧しい人に分け与えた義賊だったという。
 だが、ついに捕らえられ、処刑された。笹ノ門でさらし首になったが、ある夜暴風雨になり、首は別当沢を流れて宗建寺の近くに着いた。そこで住職が手厚く葬った。
 その後、七兵衛の屋敷跡では、ふしぎなことが次々におこった。七兵衛の畑を耕したり家を建てたりすると、病人・事故・事業の失敗など、悪いことばかり続く。ついに、だれも住む人がいなくなって、長いこと空地になっていた。(現在は七兵衛公園になっている)
 また、青梅図書館のところも七兵衛の畑で、以前、郡役所が建てられたが、何回も悪いことがおこったので、敷地の一隅に地蔵堂が建てられた。
(「青梅資料館」HPより)

 このあたりが「裏宿町」。

「旧道」は多摩川に向かって下っていたようです。

                       

そこで、「天ヶ瀬通り」を下っていきますが、途中で道は途切れます。


再び国道に戻って、「神明橋通り」を進みます。

             のどかな通り。

 左手下に集落があるので、旧道はそこを過ぎていたと思いますが、そこへの道路(降り口)を見失い、そのまま。


                     

(10:32)「神明橋通り」から国道を横切り、斜めの道に。
                                     
土蔵造り。右手奥に「青梅線」。

青梅線と国道との間の静かな道。


しばらくして国道に復帰します。

(10:43)JR「日向和田」駅。「梅一路 心の里 吉野梅郷」。

 多摩川を越えた向こうに「吉野梅郷」があります。ずいぶん昔に来たことがあります。御岳山から日の出山を越えて・・・。見事な梅林が一面で、堪能した記憶が。

駅前の案内板。

 かつては日の出山から伸びる丘陵と多摩川との間の長さ4kmほどの地域に25,000本の梅が植えられていました。
 ところが、2009年4月に、植物防疫法の法令検疫対象のプラムポックスウイルスの感染が梅の木としては世界で初めて確認され、2014年4月4日から5月30日までの間に園内の梅1,266本を全て伐採することとなってしまいます。今後、梅を植樹するには、この伐採から3年間に付近で新たな感染が無いことが条件となっているようです。
 2015年、梅の里再生を目指し、NPO法人「青梅吉野梅郷梅の里未来プロジェクト」が設立されました。
 かつての全山梅林という景観を早く取り戻してもらいたいものです。

かつてのようす。

現在の公園マップ。 (HPより)
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久々の青梅街道。河辺駅~川井駅。その1。(「青梅街道」をゆく。第3日目。)

2018-05-16 22:00:49 | 青梅街道
                                (8:56)「道間公園」。旧道?
                       
 5月5日(土)。快晴。久々に「青梅街道」を歩きました。青梅を経て、「川井」駅まで。途中、「澤ノ井」で利き酒を楽しみつつ。のんびり。
 約26,000歩。もう少し進めたのですが、・・・。

 JR青梅線「河辺」駅を降りて、前回のところまで。この付近で「旧青梅街道」は大きく西北に曲がっていたようですが、その道筋は?
 ただ、少しは残っていて道標などもあるようです。

(9:01)「東青梅5北」交差点を斜めに進む。

                       

 (9:06)右手、分岐点の角にある自然石でできた「道標」。
 
                 「右 江戸道 左 はんのふ かわこゑみち」と刻まれてようですが、判読不能。

 途中、右手角に「六万部薬師堂」があります。

道は少し曲がりながら「東青梅駅」方向へ。

 現「青梅街道」に合流し、右へ。


                交差点を振り返る。

成木街道入口交差点」。

第3話 御用石灰と青梅街道
 甲州街道の裏街道として、首都東京の主要道路の一つである青梅街道。今では物流のほかに通勤、レジャーなどの車の往来が途絶えず、都心と多摩地域を結ぶ大動脈となっています。
 青梅街道が開かれ整備されたのは、江戸城大改修に伴なう城壁の漆喰に必要な石灰を、青梅の成木地区から輸送するためでした。約400年前の慶長11年(1606)、武蔵野の原野がほぼ一直線に江戸城へ向かって開かれ、江戸と青梅は青梅街道により結ばれたのです。
 青梅街道の前身は、石灰の産地である成木地区を抜ける峠道、成木街道と言われています。成木地区では江戸幕府が開かれる以前から石灰が製造されており、八王子城などの城壁にも使用されていたと言われています。このことが幕府の耳に入り、慶長11年の江戸城大改修に伴い石灰の幕府用達を命じられました。成木の石灰は「八王子白土焼」と命名され、厳重な警備のもと「御用石灰」として江戸へ輸送されました。
 ここに「成木往還と青梅街道」の歴史が始まったのです。
(この項、 HPより)

案内図。左から来て青梅線の線路を越えると、「青梅宿」。

            (9:18)



 (9:25)古い家並みが残っています。
 

                       


「鍛冶屋」さん。懐かしい響き。

街道筋らしい家並み。

                   

 青梅駅周辺(青梅街道沿い等)は、洋画の看板が店先などに掲げられています。懐かしい名画の数々。「哀愁」、「荒野の決闘」、「第三の男」・・・。
 

                      

「青梅宿」の通り。

                      

(9:33)「青梅赤塚不二夫会館」。

 青梅駅周辺商店街は、映画看板(特に昭和の雰囲気がある物)で街おこしする事をモットーとしており、昭和を代表する漫画家であり、青年時代(新潟市在住時代)に映画看板の仕事に従事した事がある赤塚不二夫(親族を含め赤塚不二夫と青梅市に縁は特にない。)に白羽の矢を立てて、2003年10月18日に開館した。建物は、元々土蔵造りの医院だった。
 館内は、赤塚作品のキャラクター(『おそ松くん』、『ひみつのアッコちゃん』、『天才バカボン』など)が数多く展示されており、ファンには垂涎の博物館となっている。また生前可愛がっていた猫の「菊千代」に関するレプリカ(ちなみに菊千代を祀った”バカ田神社”なる小さな神社もある)や漫画家を志すきっかけとなった映画『駅馬車』の看板が飾ってあった。(現在は外されている。)2008年(平成20年)8月2日に赤塚が死去した際には、臨時の記帳台が設けられ800人が記帳に訪れた。
 隣に昭和レトロ商品博物館、はす向かいに昭和幻燈館があり、三館共通券も発売されている。尚、三館とも横川秀利が館長を務めている。

以前撮った写真。

古風な店舗の隣に「シェーン」の看板。

中央、東西に通じる道が「旧青梅街道」。

「雪守横丁」。こういう路地裏があります。

「青梅赤塚不二夫シネマチックロード」。

昭和初期の看板建築と思われる建物が何棟か。

こちらは重厚な商家建築。

(9:50)ここから「旧青梅街道」は「青梅街道(国道411号線)」となります。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その7。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-29 20:03:16 | 青梅街道
 7時まで戻らなければならない用事が出てきました。さて、どこまで進むか? 「青梅駅」は無理としてその手前の駅は? と思案しつつ。

 
                  (16:11)右手に「桜株広場」。広場の真ん中に大きな桜の木。何か曰くがあるのか?
 
道路沿いに「・・・井戸跡」という標識がいくつかあります。

 この付近は丘陵地帯で水には苦労したようです。井戸をかなり深く掘らないと水を得ることができなかったようです。
 「まいまいず井戸」(地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう。「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれる。「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難之井)がこれを指すものと見られる)が「大井戸公園」や羽村駅近くに残っています。また、「堀兼之井」は、都内では神楽坂付近にその跡があります。
羽村駅北口にある「まいまいず井戸」。

史跡 掘兼の井・新宿区市谷船河原町9番地
 掘兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味。
 ・いかでかと思ふ心は堀かねの 井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)
 ・はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)
 ・武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)
 ・汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを(西行)

(この項、「都内の坂」巡りの時の投稿)

(16:19)さらに進んだ右手には、
「旧吉野家住宅」。

                    

解説板。
東京都指定文化財 旧吉野家住宅
 慶長16年(1611)、吉野織部之助(?~1639)は新田の開発に着手し、新町村が誕生しました。吉野家は、新町村の名主を代々勤めました。現存するこの住宅は、安政2年(1855)3月、下馬淵村(現在の青森市長淵)の棟梁新兵衛らによって建てられたものです。桁行10.5間(約19.1m)、梁間4.5間(約8.1m)の茅葺き入母屋造りで、建築面積は75.2坪(248.7㎡)です。建物は整形6ッ間型、向かって右側はダイドコロ、隣接するカッテは板の間でイロリが切られています。左手奥の部屋(オク)は床・違い棚・附書院を完備し、玄関には式台が付いています。天井裏に当たる小屋組みの内部には、長妻用のタナ・オオダナが設けられています。幕末の名主階級の民家として完成された室間取りの姿をよく伝え、多摩地方を代表する建造物です。

 
                    

ここにも井戸跡碑。 

 (16:23)「吉野家」のすぐ先が「鈴法寺公園」になっていて、虚無僧寺の総本寺として名高かった「鈴法寺」跡となっています。


                   
東京都指定史跡 鈴法寺(れいほうじ)跡
 鈴法寺は、普化宗(ふけしゅう)総本寺の一つとして武蔵幸手の藤袴村に創建され、天文元年(1532)に川越の葦草村に移りました。普化宗は中国の唐代に成立した禅宗の一派で、宗徒が虚無僧の姿をしていることで有名です。慶長18年(1613)、住持月山養風は、同じくかつて後北条氏の家臣で忍城にいた吉野織部兵衛が新町村を開拓しいたことから、再度、寺を新町村に移転しました。
 徳川幕府によって普化宗は庇護され、鈴法寺は全国120箇所余りあった普化宗寺院の根本道場として、明治4年(1871)の普化宗廃宗まで栄えました。しかし、明治28年に火災に遭い、堂宇は消失、現在では寺域の北東隅に歴代住持の墓が残るにすぎません。
                     
 以下は、「水戸街道」歩きの際の投稿。

「日蓮正宗・金龍山一月寺」。

 江戸時代は、「普化宗・金龍山一月(いちげつ)寺」といって、虚無僧寺の総本山でした。


注:普化宗(ふけしゅう)
 日本の仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
 1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
 心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
 普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
 江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
 江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
                                           (以上、「Wikipedia」参照)

 普化宗金龍山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には幸手(のち、青梅に移転)の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。
 ・・・以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの萬満寺の助力を得ながら在家が管理する形となりました。昭和30年代、本所吾妻橋・妙縁寺総代の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗。「いちがつじ」と読みを変更して現在に至っているそうです。

注:虚無僧
 「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。
 托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。(同上)

少年たちが遊んでいました。

 この先、「野上」交差点付近から旧道は大きく曲がって北西の方に進んでいたようです。その道筋はすでになくなっているそうですが、「東青梅5丁目北」交差点付近からは弓なりに旧道が残っている、とのこと。その道を歩いて行けば「東青梅駅」に。
 ただし、まだまだ時間がかかりそう。そこで、「河辺駅」入口のところで左折、駅に向かいました。今回はここまで。
(16:39)青梅街道を望む。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その6。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-28 20:02:06 | 青梅街道
                                  「瑞穂第一小学校」沿いに「江戸街道」という標識。

(14:33)旧家の雰囲気を残す「関谷」家のところで右折。

日光街道」。「箱根ヶ崎」宿はこの通り沿いに置かれた。
 この「日光街道」は、「千人同心日光道」のことで、八王子千人同心が日光東照宮の「火の番」の任に往来した道。「千人同心街道」、「日光脇街道」、「日光脇往還」などとも呼ばれました。街道沿いの表示板、説明板などには「日光街道」と記されたものが多いようです。
 八王子宿から甲州街道と分かれ、拝島→箱根ケ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→館林と進み、佐野(天明宿)で「日光例幣使街道」に合流しました。日光までは約40里、3泊4日の行程。

 八王子市の甲州街道沿いに「千人町」という町があります。珍しい町名ですね。なぜ「千人町」という町名なのでしょうか。それは江戸時代、この辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたからなのです。
・・・
 八王子千人同心の始まりは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)に求められます。9人の小人頭(こびとがしら)とその配下の人々で、武田氏の家臣でした。しかし武田氏は織田信長の攻撃により天正10年(1582年)に滅亡してしまいます。新たに甲斐国を治めたのが、後に江戸幕府を開いた徳川家康でした。小人頭と配下の同心も家康に召し抱えられ、新たな道を歩み始めます。
 戦国時代、関東に強大な勢力を持っていたのが北条氏です。八王子も北条氏の領地でした。秀吉は関東に侵攻し、天正18年(1590年)に北条氏を降伏させました。北条氏に替わり関東を治めることになったのが徳川家康で、八王子も家康の支配となりました。
 やがて八王子地域の治安維持を主な目的として、9人の頭(かしら)とおよそ250人の同心が八王子に移されたのです。彼らが最初に住んでいたのは、落城まもない八王子城下でした。以降、千人同心の組織が整えられていきます。翌天正19年(1591年)、小人頭を一人増やして10名、同心は500人に増員され、文禄2年(1593年)には八王子城下から、現在の千人町を中心とした地域に屋敷地を拝領して移転してきます。さらに関ヶ原の戦いが行われた慶長5年(1600年)頃、同心が新たに召し抱えられて1,000人となり、文字通り「千人同心」となりました。
八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭(せんにんがしら)10名に率いられた同心1,000名からなります。頭1名に100名の同心がつく構成です。
 千人同心の役割は、八王子の治安維持や国境警備、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣しました。千人同心は軍事集団の役割を担っていたのです。しかし幕府の体制が整い、世の中が安定して平和の時代が到来すると、千人同心の役割も変わっていきます。
 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
 千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
 当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
・・・

(以上、HPより)

 しばらく進むと、現在の青梅街道に合流します。左折する右の角に明治5年創業の「漢方の會田」というお店があります。


                            

「圓福寺」。

現青梅街道を西に進みます。沿道には土蔵造りの建物。

JR八高線の踏切に近づきます。

                     (14:44)

 この付近の今昔。

1880年代のようす。「箱根ヶ崎宿」は、「日光街道」沿いに発展しました。→が「日光街道」。○が合流地点。


2010年代のようす。左手の駅がJR八高線「箱根ヶ崎駅」。

しばらく進んだ右手、「岩藏街道」が分岐します。

茶畑。

 (14:59)「国道16号線(瑞穂バイパス)」を通り過ぎ、そろそろ休憩を。


                

さて、再開。「37㎞かち歩き」の幟。この地点が「37㎞ポスト」。

 新宿からは青梅までは「43㎞」。あと6㎞でゴールということに。

 

 ポスターの惹句「逞しい日本人の育成」が気になりますが・・・。

(15:28)沿道には大きなお屋敷が並んでいます。


                       

(15:40)いよいよ「青梅市」入り。「青梅新町境」交差点。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その5。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-27 20:54:39 | 青梅街道
                       正面右手に大きな「イオンモールむさし村山」。ここは、日産自動車村山工場の跡地の一部。

 (13:14)旧道はその敷地で途切れてしまうので、「残堀川」に架かる「伊奈平橋」方向へ進みます。


                    「残堀川」。
 狭山丘陵西端付近にある狭山池(東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)に源を発し、立川断層に沿って南東に流れ、武蔵村山市の旧日産村山工場の敷地(注:現在は「イオンモールむさし村山」等になっている)に突きあたってから南に流れを変える。ここから下流は河道付替工事による人工の流路である。立川市一番町付近で玉川上水を乗り越え、国営昭和記念公園の西辺に添いながら昭島市に入る。東向きに曲がって同公園の敷地に入り立川市域に再び入る。公園内で再び南に向きを変え、立川市富士見町3丁目でほぼ直角に曲がり、立川市柴崎町で多摩川に合流する。
 元々は狭山丘陵の小河川の水を集めて南東に流れ、矢川に注いでいたと考えられている。
・・・1963年(昭和38年)氾濫対策として、玉川上水を越える形に変え、1982年(昭和57年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。
 しかしそれ以降は年間を通じて、降雨時およびその直後を除くと水流の殆ど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまった。・・・
(以上「Wikipedia」参照)

うどん屋の手前から旧道が復活。左折し「上砂橋」を渡る。

  

渡って右の道へ。

(13:22)しばらく進むと、「榎」交差点で分かれた「江戸街道」に合流、西へ向かいます。
     

畑地が広がります。

珍しく桑畑があります。

梅。

西の方には奥多摩の山々が。

 この道はまっすぐ進むと「IHI」の工場の先で広大な「米軍横田基地」のために分断されてしまいます。そういえば、先ほどから頭上はヘリコプター行き交いたび、けっこうな騒音が。

(13:47)先達の案内に従い、「グリーンタウン南」信号で「武蔵村山高校」に向けて右折します。


 (13:52)その手前で道路を横切って直線で進む遊歩道。水道道(みち)?
西方向。東方向。
                       「野山北公園自転車道線」。
 実は「軽便鉄道」の跡のようです。
 昭和の初めに「山口貯水池」の建設のための砂利の運搬用に敷設された12.6km。羽村市の多摩川から引かれていました。
 大正時代にすでに設置されていた、羽村から「村山貯水池」までの水道管上を利用して敷設されました。この水道管は現在も使われています。武蔵村山市内を横断している鉄道跡が「野山北公園自転車道線」として残されています。特に鉄道遺跡はないようですが、当時のトンネルが4カ所残されています。また、横田基地の西側、羽村市内にも鉄道跡が「神明緑道」として残っているとのこと。地下には多摩川から村山貯水池や山口貯水池に水を送る導管(東京水道)が埋め込まれています。

 唯一鉄道が通っていない「武蔵村山市」市内。これはぜひ行ってみなければなりません。でも、どう行けばいいのか?

バス停の脇には明治4年建立の「道標」。
                       「右青梅道」「左羽村道」。当初の位置とは異なるようです。

正面の「ジョイフル本田瑞穂店」に向かって進む。

「一本榎」が見えてきます。

(14:10)榎の脇に「江戸街道」という標識。

「庚申塔」。

かなり大きなホームセンター。

この地域は「瑞穂町」。

 (14:18)「新青梅街道」に合流し、「瑞穂石畑」交差点を斜めに突っ切ります。


来た道を振り返る。

 「箱根ヶ崎」に向かって進みます。
 

この付近の今昔。


1880年代のようす。「至函根崎村道」が旧道か。流れは「残堀川」。



2010年代のようす。↑が「瑞穂石畑」交差点。交差点手前の旧道ははっきりしない。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その4。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-26 21:11:43 | 青梅街道
                             (12:03「桜街道(旧青梅街道)」。

開花にはまだ早かった! (3/17)

」碑。
 村山団地から東大和市駅を抜けて小平へ向かう旧青梅街道は、かつては江戸街道と呼ばれた美しい桜並木になっていました。
 花の咲く頃は遠く鹿島神社の裏山から、まるで白い幕をひいたかのように見えたそうです。
 この桜並木は明治15,6年頃に植えられ、小学校の遠足の場所でもあり、並木道を使って運動会が行われたそうです。
 桜の木は畑に植えられたさつまいもや桑の木の成長を妨げる「こさをひく(影ができる」
ということで切り倒されたりしたこともあったようです。
 この見事な桜並木も昭和20年4月24日の空襲で付近がほとんど壊滅状態になり、大部分がなくなってしまい、今となっては名前が残るだけになってしまいました。
 市では、桜並木を復活させるため、この道路の街路樹に桜を植え、道路の愛称も桜街道としました。

 この付近も空襲でやられたのですね。
 以下HPより。

戦災遺跡 東大和市指定文化財 旧日立航空機株式会社変電所
 昭和13年、北多摩郡大和村(現在の東大和市)に戦闘機のエンジンを製作する大きな軍需工場が建設されました。東京瓦斯電気工業株式会社(翌年「日立航空機株式会社」となる)立川工場です。工場の敷地北西部に存在した変電所は、高圧電線で送られてきた電気を、減圧して工場内へと送る重要な施設でした。
 昭和20年、多摩地域一帯の他の軍需工場と同様に、当時の大和村でも合計10回の空襲があったといわれています。うち2月と4月の計3回の空襲では、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える方が亡くなり、建物のほとんどが破壊されましたが、変電所は奇跡的に生き残りました。
 もちろん窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。しかし鉄筋コンクリート製の建物本体は、致命的な損傷をうけなかったのです。
 戦後、工場はスレートや編み物機の製造など平和産業に転換し、自動車会社との合併や社名変更などを行いながら、平成5年まで操業を続けました。
 その間、変電所は主要設備機器の更新をしながら、工場へ電気を送り続けていました。しかも、外壁に刻まれた生々しい爆撃の傷跡や内部の一部にも痕跡を残したままの状態で使われていたのです。
 平成5年、都立公園の整備のため、変電所を含む工場の敷地の一部を東京都が買い上げることになり、変電施設としての役割を終えました。
 しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのまま保存されることになりました。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。
 戦争で多くの尊い命が犠牲になったことを、誰よりも雄弁に物語ってくれるこの変電所を、東大和市は平成7年10月1日に文化財に指定し、後世に伝えることにしました。
壁には機銃掃射の弾痕が残っている。

「イトーヨーカドー」の先、左手の公園の中に保存されています。寄れなかったのは、残念!

「森永乳業」の工場。今をときめく某さんの関係筋?

(12:13)多摩都市モノレール「桜街道駅」。多摩モノレールと交差したのは「甲州街道」歩き以来。
 

 「甲州街道」歩きで、立川から日野に入るとき、「多摩川」に架かる「立日橋」の上にあったのが「多摩都市モノレール」でした。

多摩都市モノレール線
 東京都東大和市と多摩市を結ぶモノレール路線。
 南北方向の交通手段の整備が望まれていた多摩地域を縦断する路線である。元々鉄道空白地帯だった地域とターミナル駅間の輸送が主力だが、接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際には、代替経路として振替輸送に利用される。
 基本的には高架駅で統一されているが、中央大学・明星大学駅のみ地上駅となっている。
 沿線はおおむね住宅地であるため、通勤・通学客の多い朝夕は非常に混雑する。また、周辺には大学などの教育機関が点在するため、その最寄り駅や他線との接続駅は学生で賑わっている。採用しているモノレールの仕組み上、悪天候に弱く、降雪や台風などによる強風の影響で遅延や運休が発生しやすい(改札付近に、運休の可能性がある旨の告知がしばしば見られる)。
 上北台駅から甲州街道駅の区間では高層建築物の多い立川周辺を除き南西方向に見える富士山の眺望が良い。(以上、「Wikipedia」参照)

《駅名》
上北台―桜街道―玉川上水―砂川七番―泉体育館―立飛―高松―立川北―立川南―柴崎体育館―甲州街道―万願寺―高幡不動―程久保―多摩動物公園―中央大学・明星大学―大塚・帝京大学―松が谷―多摩センター


その先、左手の農道が狭山丘陵南麓から八王子経由で大山に通じていた道のようです。


この付近の今昔。→が大山道。←が桜街道駅。

1880年代のようす。


2010年代のようす。

まっすぐ西に向かっています。

「江戸街道」という標示。

 (12:36)広大な「村山アパート」(「都営村山団地」)が左右に広がる。


                      

 土曜日の昼過ぎですが、ほとんど人通りはありません。たまにすれ違う人も年寄りの方が目立ちます。最寄り駅に行くのにもバスに乗るしか? それでも、北側の団地は高層に建て替えられ、敷地も広々としています。

都営村山団地 人情味残して進化
2016年6月5日

現在建て替えが進む都営村山団地(中央)。=本社ヘリ「おおづる」から(淡路久喜撮影)
 
 新宿から西へ約30キロ、多摩地域北部のほぼ中央にある武蔵村山市。都内の市で唯一、鉄道がないが、都心のベッドタウンとして発展してきた。ここに都営村山団地がある。
 村山団地は1964~66年度に5260戸が建設された。50年が過ぎた今、老朽化のため建て替えが進む。市によると今年1月1日現在の団地住民の高齢化率は49.3%と、住民の約半数が65歳以上だ。
 そんな団地内の村山団地中央商店会には、利用客を無料で送迎する自転車がある。体力的になかなか外出できない高齢者を中心に活発に利用されている。屋根付きで赤いボディーの自転車が団地内を走り、住民の生活と街を活気づけている。
 多摩都市モノレール立川北(立川市)-上北台(東大和市)が98年11月に開業、徒歩圏内にモノレール駅ができた。市内を通り箱根ケ崎(瑞穂町)まで延伸する計画もある。商店会の比留間誠一会長(67)は「団地には義理堅い人が多く、昔ながらの人情味が残っている。建て替わっても、モノレールが延びて便利になっても、団地のよさは変わらないでほしいね」と話した。 (萩原誠)

住宅に囲まれた畑地で農作業。

(12:56)「江戸」パーキング。「江戸街道」にちなんだ名?

しばらく進むと、「榎」交差点。「江戸街道」は右に折れていきますが、旧道は正面の細い道へ。
 

その先で旧道は消滅しています。
                A地点からB地点までが消滅。先ほどの「江戸街道」と合流して復活します。↓が元「原(はら)江戸道」
 白い空白部分は、「日産自動車」の村山工場跡地。
 広大な跡地の北側は大きなイオンモールなどになりましたが、南側の半分以上は、まだ空地のままになっています。イオンモールの先で旧道は復活し、残堀(ざんぼり)川に出会います。この通りは「原江戸道」とも呼ばれ、西に向かって進み、「米軍横田基地」のところで途切れてしまいます。

この付近の今昔。

1880年代のようす。原っぱが続きます。流れは「残堀川」。


2010年代のようす。中央が「イオンモール」。

左手はお茶畑。

右手は果樹園。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その3。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-23 20:14:35 | 青梅街道
                         (10:55)府中街道との分岐。

(11:01)「西武国分寺線」。 

                             

ここにも土蔵造りの建物が目立つ。農家の趣。


                     

(11:08)「中宿」バス停。

大きな家が目立つ。

小平市のマンホール。絵柄はタワー以外? 

「小平農家農産物直売所」があちこちに。

 (11:18)小川村を開いた小川九郎兵衛が開基となった「小川寺(しょうせんじ)」。


                 
 明暦2年(1656)小川九郎兵衛が小川村の開発を始めたとき、江戸市ヶ谷河田町(現新宿区)の月桂寺住職、雪山碩林大禅師を勧請し、開山として建立した寺院。・・・

 
                       「八雲せせらぎ水辺」。
 小平周辺には農業用水路が張りめぐらされ、今は、こうしたせせらぎ公園・遊歩道風になっています。

(11:22)「小川上宿」。三叉路。右に進む。

見事な垣根(市の保存対象)。

ケヤキ並木。

「小川用水」。

周囲にマンションなどの多い中で、広い敷地のおうち。

(11:37)西武拝島線「東大和市駅」に近づきます。

「←玉川上水放流口 野火止用水放流口→」。

 
 小平市と東大和市の境には「野火止用水」が流れていて、それを渡る青梅街道には青梅橋が架けられていました。現在、この付近は遊歩道になっています。
 青梅橋はなくなりましたが、橋の親柱が移設保存されており、「あをめはし」と彫られています。

青梅橋
 承応4年(1655)、玉川上水から分水された野火止用水を青梅街道が横断するために架けられました。両岸を石組みで固めた幅約2.5㍍、長さ約4㍍の木造の橋でしたが、昭和になってコンクリート製に架け替えられました。
 架橋から300年余りの後の昭和38年(1963)5月の東村山浄水場の開設にともない、玉川上水からの水の取り入れが、この橋のすぐ下流まで野火止用水路を利用した暗渠となったため、橋は取り壊され、青梅橋の名のみ残りました。
 往時、この橋から丸山台まで、4㌔にわたって幅約20㍍の道の中央に一列に植えられた千本桜と呼ばれる桜並木があり、季節には、近郊の人々の花見で賑わったといわれます。
 

野火止用水の歴史
 野火止用水は、立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
 開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれています。
 徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いましたが、この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654年)に完成しました。
 その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水が開通しました。この工事は、安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
 ところが、昭和24年(1949年)頃から生活様式が変わり始め、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に昭和38(1963年)頃から宅地化が進行し、用水への生活排水の排出が日常的におこなわれるようになりました。さらに昭和39年(1964年)に関東地方を大干ばつが襲い、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。昭和41年(1966年)、再度通水されるようになりますが水量が制限された為、水質汚染は改善されず昭和48年(1973年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止され、次第に用水路には蓋がされ暗渠化されていくようになったのです。
 しかし、歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。
 小平グリーンロードの一部でもある野火止用水は、春の富士見橋付近の桜や新緑の頃の野火止用水沿い樹林地など、身近でありながら四季折々豊かな自然を感じることのできるポイントが数多く点在しています。ぜひ一度、野火止用水の散策にお出かけください。
 そして、緑豊かな美しいまちづくりのためにも、皆さんの力でこの貴重な野火止用水と緑を美しい姿で後世に残していきましょう。

(以上HPより)

 「東大和市駅」の駅前広場を横切り、旧道の続きを行きます。かつては青梅橋から先約4kmにわたって桜並木があり千本桜と呼ばれていたといいます。現在はその桜は失われ、新しく街路樹として桜が植えられています。 東大和市ではこの街道を「桜街道」と呼んでいて、約1.8km先の「多摩モノレール」の駅も「桜街道駅」と名付けられています。
「東大和市案内図」。
 ↓が「青梅街道」、○が「桜街道」。

(11:42)駅前。大きなスケートリンクが。



(写真はHPより)

(11:49)「桜街道」へ。

この付近の今昔。


1880年代のようす。○の下方に「青梅橋」、斜めの流れが「野火止用水」。↓が旧「青梅街道(現桜街道)」。



2010年代のようす。
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