おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

『第一回あかね噺の会』林家楽一「紙切り」・お囃子教室・鏡味仙成「大神楽」・林家けい木「つる」。・。(「落語鑑賞教室」その6。)

2024-08-18 18:35:04 | 落語の世界

寄席では、落語を2本見せると、次は必ず落語以外の演芸を見せる。紙切りを始めとして、漫才、漫談、奇術、太神楽、三味線漫談、ウクレレ漫談、バイオリン漫談、ものまね、など、目先の変わる芸を見せる。

落語2本あると、必ず次は「楽しい演芸」となる。

「紙切り」といえば、林家正楽さん。お客さんの注文に応じてハサミ一つで紙を切る。実に味のある芸でした。

「切れない」と言わない寄席紙切り芸の第一人者、林家正楽さん死去…76歳 2024/01/26 12:30

 東京都出身。高校卒業後、会社勤めを経て1966年に二代目林家正楽に入門した。林家小正楽を経て2000年に師匠の名跡を継いで三代目正楽を襲名。

どんな注文でも「切れない」とは決して言わず、ひょうひょうとした一人語りと共に体をユラユラと動かし、短い時間で紙を切り抜くスタイル。寄席でトリの一つ前に出演する色物「膝代わり」の代表選手として信頼も厚く、20年に芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)、23年に松尾芸能賞の功労賞を受賞した。今年度の浅草芸能大賞の大賞にも選ばれていた。(この項、「讀賣新聞オンライン」より)

この正楽さんの一番弟子「林家楽一」さん。

  紙とハサミとトーク。

「あかね噺」にちなんで。                

イラストを見ながら。

           

続いて、

    

             太鼓や笛などは二つ目・前座の担当。

「さつまさ」。

「ワンピース」より 

「太神楽」。

中学2年で太神楽師を志すが、国立劇場太神楽研修生の募集要件が中学卒業以上から23歳までというものであり、第7期募集時は中学3年であったため応募できなかった。そのため、直接鏡味仙三郎に入門志願を行い、1年間の稽古を経て第7期の3年間の課程の2年目に聴講生として編入している[2][3]

研修を修了した2014年4月に仙三郎に入門。芸名「仙成」。落語協会での前座修行に入る。

2015年に前座修行を終え、鏡味仙三郎社中に加入。

2021年に師匠仙三郎が死去。兄弟子鏡味仙志郎と共に鏡味仙志郎・仙成を結成。同年3月、令和2年度国立演芸場花形演芸大賞銀賞を受賞。

              

    

司会を担当していたのは、林家けい木さん。

     

 八っつあんが隠居のところに遊びに来た。「鶴の面白い話をしてあげよう。鶴は昔『首長鳥』と言ったんだ。それが鶴となったんだよ。大昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~』っと飛んできて、巌頭の松に『ポイ』と留まった。その後から雌の首長鳥が『る~』っと飛んできて、『つる』になったんだよ」、「えぇ?ツーと来てルーと来たから鶴になったんですか。『ヘー』と来て『ビー』と来たら今頃ヘビになっていたな」。もう一度その話を聞いて、飛び出した。

「昔は首長鳥と言ったんだが、どうして鶴というようになったか、知りたいだろう」、「知りたくない」。聞けとうるさく迫った、「俺は忙しいんだ。早くしろよ」。

 「大昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~る~』っと飛んできて、巌頭の松に『ポイ』と留まった。その後から雌の首長鳥が・・・。(沈黙、首をかしげて)昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~る~』っと飛んできて、巌頭の松に『ポイ』と留まった。その後から雌の・・・。さようなら」。
もう一度、隠居に教えててもらうと「つーとるーを離すんですね」。

 「源ちゃん、さっきの話ねぇ~~」、「まだその話しているのか。仕事をしろよ」、「大昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~』っと飛んできて、巌頭の松に『る』と留まったんだよ。その後から雌の首長鳥が、ん?・・・。大昔のこと、白髪の老人が遙か沖の方を眺めていると、唐土の方から雄の首長鳥が1羽『つ~』っと飛んできて、巌頭の松に『る』と留まったんだよ。その後から雌の・・・。(泣き声になって、もう一度言ったが、雌が)・・・」、「こいつ泣き出したよ。それで雌はなんて飛んできたんだよ」、「黙って飛んできた」。

噺の内容が単純でわかりやすい。次の回では「寿限無」を。これからの成長を期待。

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『第一回あかね噺の会』・柳亭小痴楽「明烏」。(「落語鑑賞教室」その5。)

2024-08-15 20:56:27 | 落語の世界

「明烏」は、八代目桂文楽師匠の得意中の得意なだし物。八代目文楽師匠は、上品な色気ときっちりした芸が売り。

・・・「明烏、一声鳴いて、夜が明ける」。「振られた者の起し番」で、結局、敵娼に振られた源兵衛と太助は歯磨きをしながらぶつぶつ言う仕草も絶妙。甘納豆を口に放り込みながら、時次郎を起こしに来る。

      

           

この、甘納豆を食べる仕草が絶妙で、この噺を聞いた後で、甘納豆がよく売れたとか。

※「明烏」は「明け方(朝)に鳴くカラス」を意味し、転じて男女の夜の契りの終わりを意味する。

さて、今回演じる「柳亭小痴楽」さん。

”クビ”になって初めて、落語への意識がガラッと変わりました

 五代目痴楽の次男として生まれ、幼い頃から独演会の手伝いに駆り出されていたという小痴楽師匠。落語家の道へと進んだのもその影響かと思いきや、きっかけは父とは別人の落語だったと話す。

 「15歳ぐらいの頃、たまたまCDプレーヤーに入っていた八代目春風亭柳枝師匠の『花色木綿』という噺を聞いたんです。当時僕は漫才が好きで落語には全く興味がなかったんですが、聴いている間ずっと爆笑で、『これ、すごくいいじゃん!』って。漫才は相方が必要だけど、落語だったら一人でできるって思っちゃったんですよ」

 当初は「中途半端な気持ちでやれるもんじゃない」とケンもホロロだった父だが、「それでも落語がやりたい」と食い下がる息子に、「じゃあこれを読んでみろ」と1冊の本を差し出した。

 「それが立川談志師匠の『現代落語論』でした。読んでみたらものすごく面白くて、親父に『この人、すごい落語家なんだな』って言ったら、今度は談志師匠の落語のカセットを貸してくれたんです。ところが、落語を聴き始めたばかりの子どもに談志師匠の高座は難しくて、つい『談志の落語は良くねぇな』みたいな生意気なことを言ったら、外に放り出されて親父にボコボコにされました。『今度落語家になりたいなんて言ったらただじゃおかねぇからな』と怒り狂って。きっと、何も知らねえくせに落語をなめるなよっていう気持ちだったんでしょうね」

 取り付く島もない怒りぶりに、しばらくは顔を合わせることを避けていたという小痴楽師匠。だが、改めて話し合う時間も持てないうちに、突然父が病に倒れてしまう。幸い一命は取り留めたものの、意識が戻るまでに2カ月近くかかり、言語障害などの後遺症も残った。

 「それで親父もちょっと気弱になったんでしょうね。ようやく言葉が出せるようになった頃、『やりたいんだったらやれ』と、桂平治(現・十一代目桂文治)師匠のところに入門させてくれたんです。その頃僕はもう高校を辞めてしまっていたので、何も深く考えず、16歳で落語の世界に飛び込みました」

 しかし、その覚悟のなさがやがて大きな挫折を招くことになる。1年たっても2年たっても寝坊癖が治らず、師匠の大切な羽織を寝過ごして高座に届け損なうなどのしくじりが続き、18歳にして父の元に帰されてしまうのだ。

 「つまりはクビです。でも、一度破門となってしまうと落語界では生きていけないので、『お父さんとこ戻んなよ』って、破門という経歴が残らないよう、みんなで体裁を整えてくれたんです。そういうのを見ていたら、本当にものすごく迷惑をかけたんだな、と初めて身に沁みました。それまでは落語家になるために修業を“している”だったのが、修業を“させてもらっている”に変わった瞬間でした。その反省から、自分では『破門になった』って言っています。あの時から本当に落語に対する意識がガラッと変わりましたね。口は悪いままですけど(笑)」

 以来父の門下で修業を積むが、残念ながら2009年、父は他界。父の弟弟子である柳亭楽輔の門下に移り、同じ年に二ツ目に昇進。神田松之丞(現・神田伯山)や桂宮治ら二ツ目の落語家と講談師が結成したユニット「成金」に参加するなど活躍の場を広げ、2019年、ついに真打への昇進を果たす。披露パーティでは「寝坊だけは気をつけます」と挨拶をし、大きな笑いを誘った。

(この項、「文春オンライン」より)

郭話・「明烏」を演じるにはまだまだ。というのが正直な印象。テンポで勝負、からの精進が楽しみです。

「阿良川志ん太」にそっくり。

なかなかの男前。

田所町3丁目にある日向屋の若旦那・時次郎は部屋に籠もって本を読むのが好きという堅物で、悪所遊びとは無縁の人物である。あまりの堅物ぶりに父親である大旦那も、遊びも知らぬ世間知らずでは店を継がせられないとして、2人の遊び人に息子を遊郭に連れていってくれるよう頼む。費用は店持ちということで2人も喜んで引き受ける。

2人はお稲荷様に参拝すると嘘をついて若旦那を連れ出す。吉原に入ってさすがに周りの様子がおかしいと若旦那も怪しみだすが、2人に上手く言いくるめられてしまう。

店に入って遊女たちに囲まれ、ようやくここが話に聞く遊郭だと気づき、慌てて逃げ出そうとするが、2人は大門には見張りがいて勝手には出られないと脅す。それを真に受けて若旦那は諦め、店一番の美しい花魁と一夜を共にすることになる。

翌朝、2人はどちらも女に振られたまま朝を迎える。若旦那も同じだろうと様子を見に行く。

源兵衛「けっこうなお籠もりで。そろそろ帰るから、早く起きてください」

浦里も「若旦那、早く起きなんし」と声を掛ける。
時次郎「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて・・・・」と云う始末。

頭に来た太助、「じゃ、ゆっくり遊んでらっしゃい。先に帰りますから」

時次郎は、布団から顔を出し、「あなた方、先へ帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で留められるから」

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『第一回あかね噺の会』・春風亭一朝「三方一両損」。(「落語鑑賞教室」その4。)

2024-08-13 19:13:21 | 落語の世界

「あかね噺連載1周年記念」。トリは、春風亭一之輔の師匠である「春風亭一朝」。

 落語家・春風亭一朝(72)は寄席に欠かすことのできない存在だ。江戸前の語り口でトリでの熱演はもちろん、浅い出番でサラッとつなぐこともできる。・・・寄席を大事にする思いは、弟子の春風亭一之輔(45)ら一門弟子にも受け継がれている。

 そもそもは大師匠にあたる8代目林家正蔵(後の彦六)に入門志願した。当時、正蔵にはあとむ(現・八光亭春輔)、九蔵(現・三遊亭好楽)の2人が前座にいたため、正蔵から総領弟子の5代目柳朝を紹介され一番弟子となった。初めての弟子をもった柳朝は楽屋でこう宣言したという。「ウチに入った弟子だからな! いじめたら張り倒すぞ、この野郎」。一朝は「助かりましたね」と述懐する。

 修業も一風変わっていた。当時は師匠宅で住み込みで掃除や洗濯など身の回りの世話をするのが通常だったが、柳朝は違った。「お前はウチに女中に来たわけじゃないから、掃除などはやらせない。ウチにも来なくていい。とにかく稽古しろ」。噺を教わる先輩も柳朝が選び、頼んでくれた。「師匠はその日の気分によってやるたびに違っちゃう。『基礎ができていないとダメだ』と前座のころはあまり稽古してくれなかったです。二ツ目になってからはボンボンやってくれましたけど…」。柳家小三治、9代目入船亭扇橋、三遊亭円窓、三遊亭円弥らから多くの噺を教わった。「小三治さんは(二ツ目の)さん治時代でしたからね」。柳朝が見込んだ噺のしっかりとした落語家から薫陶を受けた。「一月で5、6席覚えましたよ。稽古は苦しいけれど癖がつくと覚えるのが早くなるんです」。前座で覚えた噺は120を越えた。「1回覚えた噺は何十年やっていなくても、聞き直すとだんだん出てくるんです。忘れていない。面白いもんですね」

 現在は6代目柳朝、一之輔、三朝、一左、一蔵の5人の真打ちを含め10人の弟子がいる大きな一門になった。一朝一門の掟は「うそをつくな」「稽古しろ」だという。弟子の指導も師匠・柳朝のやり方を踏襲している。「一之輔も色んな人に頼んで稽古を付けてもらいました。色んな人に教わると、いいところが所々出てくるんです。そして自分にあった人が出てくるんです。その人だけに教わっていると、“小型化”みたいになる。(弟子で)私に似ているやつは誰もいないです」と笑った。

 弟子のことを語る一朝のまなざしは優しい。一之輔の真打ち昇進披露興行では、期せずして師弟で毎日ネタを変えたという。「せっかくだから同じ噺をやっても…と思っていたら一之輔も(毎日)変えてきた。そうしたら新宿(末広亭)の5日目だったかな。一之輔が『もう勘弁してください。大人げないですよ』と言ってきた。私は『どこまで続くかな。こいつも強情だから』と思っていたんです。楽しかったですよ」。

 初めて会ったときのことも鮮明に覚えている。「第一印象というか『この子なら大丈夫だな』という判断はだいたい当たっています」と一朝は言う。「一之輔は、(緊張で)どもるし…。でも、すごくいい目をしていた。決心が固いなと思いました。一蔵も同じですよ。あの(大柄な)体つきなので、一瞬『やばい』とひるみましたけど…」。弟子の成長が楽しみでもある。「お客さんから(弟子が)『良くなったね』と言われるのが一番うれしい。弟子へのジェラシー? 全然ないです。とにかくうれしいです」。

 一朝は笛の名手でもある。「談志師匠のお弟子さんが笛を習うというので、私も祭りのお囃子を吹きたかったので、紹介してもらいご一緒したんです」。談志一門の弟子は上達せずにすぐやめたが、笛の師匠から「あなたは残りなさい」と引き留められた。「鳳聲克美」の名前で名取にもなり、二ツ目時代には歌舞伎座、新橋演舞場などで歌舞伎の笛を務め「落語家やめませんか」と言われたことも。「歌舞伎で江戸言葉がいっぱい出てくる。こういう言葉はいいなというのを噺の中に取り入れます」。千住で生まれ、大工など職人の言葉を耳にして育った江戸っ子の一朝だが、歌舞伎の名優の台詞回しなどを近くで体感したことも江戸前の芸に生きている。

 今後はどのような噺に取り組んでいくのだろうか。「若い頃に覚えたけれどしっくりこなくて、高座にかけていない噺をまたやってみようと思う」と貪欲だ。師匠・柳朝ゆずりの「『天災』『三方一両損』のような江戸っ子の出てくる噺も大事にしたい」と言う。さらに「火焔太鼓」の名前を挙げた。前座時代に、古今亭志ん朝が柳朝に稽古した際に同席していた。「師匠は乱暴で志ん朝師匠を自宅に呼びつけて稽古してましたね」。「火焔太鼓」は昨年、初めて高座にかけた。

 一朝は3月23日に国立劇場小劇場で「見参!!一朝一門 隼町の会」に出演、一之輔とは初のリレー落語「百年目」を披露する。昭和の名人・三遊亭円生が得意としたネタで一朝は円生の弟子の円弥から教わった。国立劇場は立て替えのため10月で閉館となる。「あそこは地下に泳げるくらいの大浴場があるんですよ。国立演芸場の出番が終わって『今から湯行ってくるよ』なんて言ってね」と笑う。小劇場はTBS落語研究会でもおなじみだ。「前座をやって、二ツ目は笛で毎回入っていた。(新しい国立劇場が)どういう風になるか楽しみだし、修業した場所がなくなる寂しさもある」という。

 師匠が名乗った「柳朝」の名跡は総領弟子に襲名させ、出ばやし「さつまさ」は一之輔が使用している。「私は『林家』を尊敬しているで、少しでも林家に近づこうと…」。出ばやし「菖蒲浴衣」は使用する部分は違うものの先代正蔵と同じ。一朝の名前も二ツ目昇進の際に大師匠から名付けてもらった。三遊一朝は落語中興の祖と言われる三遊亭円朝の弟子で、先代正蔵にとっては稽古を付けてもらった恩人。最後は自身が名乗ろうと決めていた名前だった。「『一朝』をやるよ。私もそんなに長生きできないから」と言われたという。「ウチの師匠が『俺が欲しかった名前だ』というので『柳朝と取り換えましょうか?』って言ったら、怒ったね!」。正蔵、柳朝への尊敬の念を持ち続け、これからも高座で江戸前の芸をきわめていく。(高柳 義人)

(この項「春風亭一朝、師匠の柳朝、大師匠の正蔵から受け継ぐ江戸前の芸・一之輔は「すごくいい目をしていた」

一朝師匠。

イッチョウ懸命頑張ります」がキャッチフレーズ。必ず最初に。

今回の演目は「三方一両損」。

左官の金太郎は、三の金が入った財布を拾い、一緒にあった書付を見て持ち主に返そうとする。財布の持ち主はすぐに大工の吉五郎だとわかるが、江戸っ子である吉五郎はもはや諦めていたものだから金は受け取らないと言い張る。金太郎もまた江戸っ子であり、是が非でも吉五郎に返すと言って聞かない。互いに大金を押し付け合い、けんか沙汰に。

大家が仲を取り持とうとするが、今度は吉五郎が大家に向かって「くそったれおおや」と威勢のいい啖呵を切る。

長屋に戻ってきた金太郎は、大家に一部始終を話すが、両町内でけんか沙汰になっては、と、奉行所に持ち込まれ、名高い大岡越前(大岡忠相が裁くこととなった。

    

           

双方の言い分を聞いた越前は、どちらの言い分にも一理あると認め、その上で、自らの1両を加えて4両とし、2両ずつ金太郎と吉五郎に分け与える裁定を下す。金太郎は3両拾ったのに2両しかもらえず1両損、吉五郎は3両落としたのに2両しか返ってこず1両損、そして大岡越前は裁定のため1両失ったので三方一両損として双方を納得させる。

そして場が収まったところで越前の計らいでお膳が出てくる。普段は食べられないご馳走に舌鼓を打つ二人を見て越前は、いかに空腹だと言っても大食いは身体に悪いと注意する。すると、二人は答えた。

「多かあ(大岡)食わねえ。たった一膳(越前)」。

こぎみのいい江戸落語を視聴させてもらいました。  

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『第二回あかね噺の会』・柳家喬太郎「擬宝珠」。(「落語鑑賞教室」その3。)

2024-08-12 14:11:39 | 落語の世界

「キョンキョン」の登場。

膝を悪くしたようで、上方のように「見台」を置き、

「けっして笑点の司会をねらっているわけではありませんから」。

それでもお元気。

演目は、「擬宝珠」。あまりやらないお噺のようですが。

まくらで「緑青がふいた10円玉は最近見かけませんね」とさりげなく。

若旦那は原因不明の神経病にかかってしまう。年老いた両親は大変心配する。息子の悪友・熊さんに「倅は何か心に思い続けていることがあるに違いない。なんとか倅に聞き出してほしい」と。

「煮干しが食べたい」と勘違い。「煮干しじゃ無くて、擬宝珠だよ」

若旦那は金属をなめるのが趣味。カレーライスよりもスプーンをなめるのだ、と。

隅田川(おおかわ)に架かるの橋の欄干の擬宝珠をなめつくした、と。

若旦那は「実は私は観音様の五重塔のてっぺんにある擬宝珠がなめたいんだ」という。

「倅もやっぱり擬宝珠が好きだったのか。ばあさんとあちこちなめ歩いたものだ」と。

「橋の欄干のは、擬宝珠。五重塔のてっぺんにあるのは、宝珠だ」と。

そこで、たくさんお布施を包み、頼み込んで、足場を組んでもらう。

若旦那はトントン上がって、

宝珠をペロペロとなめた。


「五重の塔は、うまかったか」
「沢庵の味がしました。よほど塩がきいておりました」
「塩は三升か、四升か、五升か」
「なあに、六升(緑青)の味がしました」。

「10円玉」が、ここで活きてくる。

恭太郎師匠は、さすがです。

※ 屋根の頂上や刹柱先端のものは〈宝珠〉で,高欄のものを〈擬宝珠〉という。

(「Wikipedia」より)

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『第一回あかね噺の会』・林屋つる子「反対俥」。(「落語鑑賞教室」その2。)

2024-08-11 21:38:24 | 落語の世界

林屋つる子「反対俥」。

※林家つる子

 (中央大学 文学部人文社会学科 中国言語文化専攻)
2010(平成22)年9月林家正蔵に入門
2011(平成23)年3月 前座となる 前座名「つる子」
2015(平成27)年11月1日 二ッ目昇進

さて「反対俥」。

 桂文治の噺、「反対俥」によると、 

 今は無くなってしまった人力車だが、その当時の話です。
 今川(いまがわ)橋で客待ちの居眠りをしている車夫に声をかけた。「万世橋から上野までやってくれ」の注文で、とろりとろりと走り始めた。と思ったが、かじ棒が上がりすぎ車夫は空中で足をばたつかせ、走り初めても提灯が借り物だからと、丁寧にゆっくりと走らせて(歩いて)いる。若い車夫に抜かれると「若い者に花を持たせやしょう」と動じない。今度は年取った車夫に抜かれて「年寄りにも花を持たせましょう」。心臓が悪いので、走ると死んじゃうかも知れません。その時は身寄りがないので、お弔いをお願いします。
 急いでいるので降ろしてもらった。
 「そこにいる若いの、早そうだな」。俺は早いよ、と言うなりかけだした。まだ乗っていないのに・・・。角を曲がって戻ってきた「道理で軽かった」。乗るから「万世を渡って北へ真っ直(つ)ぐやってくれ」、アラよっ、アラよっと走り始めた。風を切って走った。土管を飛び越え、しゃべる車夫の唾が風に飛ばされ客に飛んだ。土手に突き当たり俥はやっと止まったが、そこは埼玉県川口と書いてあった。「『北に』と言われたのでここまで来たが、上野なら戻ります」。
 またアラよっ、アラよっと走り始めた。「こないだは急行列車を追い抜いた」。今は汗が目に入って前が見えない。「止めてくれ」、「勢いが付いているので止まらない。トラックが来たら避けてください」。「お客さん、保険に入っていますか」、「そんなのには入っていないヨ」。「奥さんはいますか」、「二十八だよ」。「二十八で後家さんにしては可哀相。奥さんだけでも私が引き取りましょう」、「冗談言っちゃいけねェ~」。

(この項、「」HPより)

「落語芸術協会」HPでは、

あらすじ

日本橋あたりで上野の駅まで人力に乗った男。最初に乗った俥は遅くてしょうがない。乗り換えると、今度は威勢がよくて早い俥。どんどん飛ばして気持ちいいが、そのうち止まらなくなってしまう。やっとのことで止まると、そこは仙台だった。あわてて引き返すと今度は小田原。「これでは終列車に間に合わない。」「なぁに、明日の一番には間に合いますよ。」

・・・

しかし、今回、かなり改作しています。前半の車夫の話は短くして後の車夫が話の中心に。客の言動を主にして、人力車のとてつもない早さを表現。この落語は、耳で聞くよりも実際に演じる姿を見るのが魅力。

そして、つる子さん。口角、泡を飛ばしての熱演。喬太郎師匠だったら腰をひねってリタイヤーになるに違いなさそう。

ドラム缶を飛び越える仕草、3つ並んでいるのも飛び越える。・・・

ようやく着いたところがなんと「鎌倉」。そのかんに川にそのまま突っ込んで水中を。

さかなのつもり。

「行きたいのは大宮だ」そこで北に引き返す。後ろ向きになって走る。

     

途中で芸者衆にぶつかり、池に落としてしまう。「芸者を上げなよ」「芸者を上げるくらいなら車引きなんぞやってない」というオチ。観客も拍手。お囃子まで入って、

本人も苦笑い。

で終わらず、また走り出し、やっと大宮に。

「いけねえ、土産買うのを忘れた」「ではまた」「待て、懐に生きのいいうなぎが付いてきた」とやっとオチに。

大熱演でした。

2021年に演じていたのと同じようですが、相変わらずの熱演でした。この方の他の演目も見たいものです。

 ※人力車(じんりきしゃ)とは、人の力で人を輸送するために設計された車。

日本では、主に明治から大正・昭和初期に移動手段として用いられたが、現在も観光地などで用いられている。人力俥とも表記する。

(「」HPより)

今や外国人にも大人気。浅草などではひっきりなしに。猛暑の中、若い方が頑張っています。

夏目漱石は「落ちぶれ果てて車引き」などと言っていますが。

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『第二回あかね噺の会』・桃月庵白酒「替り目」。(「落語鑑賞教室」その1。)

2024-08-10 14:17:08 | 落語の世界

暇に任せてたまには落語でも、と。「youtube」で探していましたら、こんな動画がありました。

「『あかね噺』連載2周年記念 『第二回あかね噺の会』に潜入! 桃月庵白酒 古典落語『替り目』」。

『あかね噺』連載2周年突破を記念して行われたリアル落語イベント『第二回あかね噺の会』。 『あかね噺』に縁のある演目を落語家たちが実際の高座で披露! 今回の演目はあかねが披露した古典落語『替り目』。

『少年ジャンプ』で連載の漫画。

というわけです。

※小生、この年になって、『少年ジャンプ』は読む(見る)機会は、なし! 今も連載中?

演者の「 三代 桃月庵白酒」。 

昭和43(1968)年 鹿児島県生まれ

【芸歴】
平成 4(1992)年 4月 早稲田大学中退後、六代 五街道雲助に入門
前座名「 はたご 」
    同     年 6月 上野鈴本演芸場にて初高座
平成 7(1995)年 6月 二つ目に昇進 「 喜助 」に改名

平成17(2005)年 9月 真打に昇進 「 三代 桃月庵白酒 」を襲名

※師匠の「六代 五街道雲助」さんは、2023年7月21日、重要無形文化財保持者(人間国宝)に。落語家の人間国宝は五代目柳家小さん(1995年)、三代目桂米朝(1996年)、十代目柳家小三治(2014年)に次ぐ4人目の認定となりました。

さて、この演目。

酔っ払って自分の家の前で車に乗って帰ってくる。女房は早く寝かせようとするが、寝酒を飲まなければ寝られないとからむ。仕方なく女房は夜明かしのおでん屋へ出かけていく。亭主はその間にうどん屋をつかまえて酒のかんをつけさせ、にか食べてほしいというのを追っ払ってしまう。うどんやにお燗をつけてもらった後、新内流しを呼び込んだと思ったら、義太夫流しだった。夜中に大音声で、うるさいうるさい!

そこへ女房が帰ってきた。

実に飲みっぷりや絡みが抜群。

「おや、どうやっておかんをしたの」「いまうどん屋につけさせた」「なんか食べたの」「なにも食わねえでけんつくを食わせた」

気の毒に思い、自分が食べると言い、

女房 「うどん屋さ~ん、うどん屋さ~ん」

通行人 「おい、うどん屋、呼んでるで」

うどん屋 「呼んでるって、どこです?」

通行人 「向こうの家やないかい」

うどん屋 「えぇどこの~、だぁはぁ~、向こうへは行けま せん」

通行人 「何で?」

うどん屋 「 いま時分行ったら、ちょうど銚子の替わり目でございます」。

他にも面白い演目がありましたので、勝手にUPします。

※映像などは、すべて「youtube」より。

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「落語鑑賞教室」その18。七代目立川談志「源平盛衰記」。

2021-09-05 18:15:08 | 落語の世界

立川談志師匠。ちょっと斜に構えて登場しますが、深々とお辞儀を。

この方の高座でお辞儀のしかたは、他の方では見られません。

語り出すととたんに相変わらずの毒舌ときわどい話で満場の笑いを誘う。さすがです。

「源平盛衰記」といえば、この方の持ちネタ。先代林家三平師匠から伝授されたようですが。

「Wikipedia」によれば、

筋のようなものは存在せず、実際には「漫談」「地噺」と呼ばれるものに近い。古典の『源平盛衰記』との関連性はあまり深くはなく、落語全集の類でも話の題名が「源平」「平家物語」等と記されているほどである。

「祇園精舎の鐘の声~」のくだりをひとくさり述べたあと、『平家物語』の粗筋を断片的に話し、それに関係しているかしていないか微妙なギャグやジョーク、小噺(時事ネタなど、現代の話でも全くかまわない)を連発、一段落ついたところでまた『平家物語』に戻る、という構成がとられる。小噺で笑いを取るほうが重要で、極端に言えば『平家物語』は数々の小噺をつなぎ止める接着剤の役割にすぎない。

藤井宗哲は「高座に余りかかることはなく、別の言い方をすれば時事落語で、内容は演者によって大きく変わる。いわば落語家のセンスによって変化する落語である。落語界では、(『源平盛衰記』のような)地ばなしを行う噺家は軽視されているが、この話は江戸初期の落語草創期の形態を残すものだと考えられる。演じている落語家は立派である」と述べている。

落語家の7代目林家正蔵、初代林家三平、10代目桂文治、七代目立川談志らの得意ネタとなっていた。

元々は「源平盛衰記」といえば7代目林家正蔵の十八番であり、これを東宝名人会で聞き覚えていた息子の初代三平が後輩の柳家小ゑん(後の談志)に伝授した。

これにより、「源平」は多くの落語家に演じられるようになった。演者ごとのストーリーの例を大まかに記すが、実際には筋はないので、口演ごとに異なっていた。

特に談志のものは初代三平から教わった「源平」に吉川英治の『新・平家物語』のエッセンスを加えたものである。

マクラ(歴史上の人物の評価の変遷について)→平家物語冒頭→義経と弁慶の出会い→平家追討令下る→義仲入京→義経頼朝黄瀬川対面→義仲討ち死に→扇の的→ソビエト崩壊についての小噺→壇ノ浦の戦い

なお、談志が演じた源平盛衰記にはサゲが無く、平家物語の冒頭部分を最後に再び語るが、元の三平や文治が演じた源平盛衰記には地口落ちのサゲが存在する。

注:桂文治(十代目)のサゲ

・・・(時子が義経に首を切られるときに平家方の教経が止めに入る)

時子すこしも騒がず、声朗らかに辞世を八木節で、♪「あ~あ、さても一座の皆さま方よ、ちょいと辞世を読み奉る。長門壇の浦で切らりょとままよ」

義経♪「抜いた刀がしまわりょか、よいしょ」、教経も仕方なく「ピッ、ピッ、ピィヒャララ・・・」と踊り出した。

能登守が踊ったばっかりに、平家が西海に没落した。「踊れる(おごれる)平家は久しからず

談志師匠。マクラでは、戦争についての解釈を披露、そのうち、横山ノック、毒蝮三太夫、さらにニュートンなどの歴史上の人物をあれこれ批評・・・、やっと本題に入る。「源平盛衰記」を、と。

七代目立川談志。

古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けた。古典落語を現代的価値観・感性で表現し直そうとする野心的努力が高く評価されたが、その荒唐無稽・破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語のみならず、講談漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。参議院議員(1期)、沖縄開発庁政務次官三木内閣において36日間)、サイバー大学客員教授などを歴任した。

落語家としての全盛期の実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。談志の落語で特筆すべき点は、師匠から受け継いだ型を大事に伝承する古典落語において、「己を語る」独自の型を発明したことである。現代に生きる人々の価値観や美意識を内容に投入し、噺の途中で「このストーリーのここがおかしい」「こういう人情は違う」と、談志の意見や解説、哲学が入る。故に「客は『噺』ではなく、『談志』を聴きにくる」と言われたほどである。その芸を邪道とする意見も少なくなかったが、熱心なファンを獲得し続けた。

落語そのものについては、「落語とは、人間の業の肯定である」との見解を常々表明していたが、晩年は「イリュージョン」という独自の域に達したと自認していた。

志らくおよび談笑は、イリュージョン落語について以下の特徴を挙げている

  • (落語は、マクラも含めて)己れ(=談志)の感覚でしゃべるもの
  • 登場人物が談志と被っている
  • 落語ではなく談志という人間が面白い

               

            

画像だけでは、談志師匠の奇想天外でありながら筋立てがしっかりしているお噺(語り口)のすばらしさが分かりません。

ぜひ「youtube」で御覧下さい。ついでに先代林家三平師匠の「源平盛衰記」もあわせて。

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「落語鑑賞教室」その17。八代目桂文楽「明烏」。

2021-08-31 19:20:43 | 落語の世界

 八代目文楽師匠は、上品な色気ときっちりした芸が売りもので、特にこの“明烏”は得意中の得意なだし物。

気が弱く女の扱いがわからない若旦那、時次郎と吉原に誘う札付きの遊び人源兵衛と太助の二人の会話も小気味よいテンポで進む。

これは有名な話ですが、甘納豆を食べる仕草が絶妙で、この噺を聞いた後で、甘納豆がよく売れたとか。

磨きぬかれた芸は何度聞いても飽きない。完成度の高い芸となっています。

前にも紹介しましたが、文楽師匠の最後の高座。噺の途中で登場人物の名前を忘れてしまい「また勉強して参ります」と言って高座をおり、そのまま二度と高座にあがることはなく、その後、しばらくして亡くなりました。

文楽師匠は、上野の黒門町という所に住んでいたので、今でも「黒門町の師匠」と言えばこの人の事です。

さて、お噺は、

日本橋田所町三丁目、日向屋半兵衛のせがれ時次郎。19才。勉強ばかりして青い顔して部屋に閉じこもってばかり。

今日もお稲荷さまの参詣で赤飯を三膳ごちそうになってきたと、おやじの半兵衛に報告する。おやじは跡継ぎとしてこれからの世間付き合いができるだろうか、と心配だ。


すると、町内きっての札付きの遊び人、源兵衛と多助にお稲荷さんのお籠もりに行こうと誘われたことを父親に報告する。どこにあるかと聞くと、何でも浅草の観音様の裏手にあってけっこう繁昌している、と。これは、もちろん吉原のこと。
本人には、お賽銭が少ないとご利益がないから、向こうへ着いたら費用はおまえが全部払ってしまえと送り出す。

       

時次郎を待つ二人の会話も実に面白い。親から頼まれたいきさつを話したり、・・・。

大勢の人で賑わう吉原に着くと、あそこの見返り柳の下で待ってますから、と時次郎。

大門をくぐって吉原遊郭へ入った時次郎、お茶屋まではよかったが、大見世に入れば花魁・遊女たちが廊下をカランコロンと歩いている。いくら初心(うぶ)でも、ここがどこで、何をする所くらいは知っている時次郎。
 お稲荷さまとだましてこんな所へ連れて来られたと泣いて騒ぎ出し、帰るとだだをこねる。

源兵衛と太助は大門を三人で入ったのに、一人で出て行くと怪しいやつ思われて会所で留められ、縛られてしまうとおどして、やっと部屋に上がらせる。
 芸者連が来て賑やかな酒の座敷が始まるが、時次郎は隅で泣いている。あげくには「女郎なんか買うと瘡をかく」なんてことを言い出す始末。
 早いことお引けと、いやがる時次郎を敵娼(あいかた)の待つ部屋へ押し込む。時次郎の敵娼は十八になる浦里という絶世美女。初心な時次郎にこちらも積極的。連れの一人は、障子に穴を開けてのぞきこんだりする。

 明烏、一声鳴いて、夜が明ける。「振られた者の起し番」で、結局、敵娼に振られた源兵衛と太助は歯磨きをしながらぶつぶつ言う仕草も絶妙。甘納豆を口に放り込みながら、時次郎を起こしに来る。

      

           


照れているのか、布団にもぐったままの時次郎。

源兵衛「けっこうなお籠もりで。そろそろ帰るから、早く起きてください」

浦里も「若旦那、早く起きなんし」と声を掛ける。
時次郎「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて・・・・」と云う始末。

甘納豆を食べながら、ぶつくさ言う二人。
頭に来た太助、「じゃ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは横浜に行くので、先に帰りますから」

時次郎は、布団から顔を出し、「あなた方、先へ帰れるものなら帰ってごらんなさい。大門で留められるから」

        

※写真は、「youtube」より。

 

この舞台は?

「日本堤通り」をはさんで少しくねった道が「吉原」への道。手前の道路際に「見返り柳」。

見返り柳」。「吉原大門交差点」にあるガソリンスタンドの前。
「見返り柳の碑」。

 旧吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門口の柳を模したという。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったということから「見返り柳」の名があり、
 きぬぎぬのうしろ髪ひく柳かな
 見返れば意見か柳顔をうち

など、多くの川柳の題材となっている。
 かつては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い現在地に移され、また震災・戦災による焼失などによって、数代にわたり植え替えられている。      平成8年9月 台東区教育委員会


この奥に遊郭が広がっていた。

1880年代のようす。○が吉原。斜め右に「山谷堀」。

明烏」=夜明けがたに鳴く烏。また、その声。近世、男女の朝の別れの情緒を表現するのに用いられた。

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「落語鑑賞教室」その16。古今亭志ん朝「船徳」。

2021-08-29 20:29:32 | 落語の世界

夏にふさわしい「船徳」を、今は亡き、古今亭志ん朝師匠で。「youtube」にUPされていましたので。

国立劇場にて。

名人芸。何度視聴してもあきません。

三代目古今亭志ん朝。1938年(昭和13年)3月10日 - 2001年(平成13年)年10月1日。

東京都文京区本駒込出身の落語家。本名∶美濃部 強次。出囃子は『老松』。定紋は『鬼蔦』。

五代目古今亭志ん生の次男で、十代目金原亭馬生の弟、女優の池波志乃は姪、俳優の中尾彬は義甥にあたる。

獨協高等学校でドイツ語を学んだ。噺家になる意志はなかったが、志ん生から「歌舞伎役者は親が役者でないと上に行けないが噺家は扇子一本で偉くなれる。」と説得され入門した。父の志ん生に入門してから5年目という異例のスピードで真打に昇進し、主に八代目桂文楽の演じ方を基調としながら、のちに六代目笑福亭松鶴に心酔して豪胆さを修学し、名実共に大看板として人気を博した。若い頃はテレビ出演も多く、喜劇俳優としての仕事もあったが、後にはタレント的な活動をセーブして本業の落語家としての活動に注力した。独演会のチケットはすぐに完売するほどの人気であり、古典芸能の住吉踊りを復興させたことでも有名である。

同業者からの評価も非常に高く、若手の頃の志ん朝を指して八代目桂文楽は「圓朝を襲名出来るのはこの人」と父志ん生に述べた。圓朝は落語界では誰も継げない止め名であり、文楽はそれほどに志ん朝を買っていた。入門から5年目の真打昇進は文楽の鶴の一声によるものだった。志ん朝の晩年に七代目立川談志は「金を払って聞く価値のあるのは志ん朝だけ」と語っている。

一部のファンや俳優仲間からは「朝(チョウ)様」の愛称で呼ばれた。また、長らく新宿区早稲田鶴巻町に居を構えていたが、その後新宿区矢来町に転居し、以後一部では「矢来町」という呼び名でも親しまれた。

所属団体は落語協会で、若手時代には将来の落語協会の大幹部候補としても嘱望されたが、落語協会分裂騒動の際の自身の身の振り方の経緯や、騒動以後は高座に専念し協会内部の政治的なことからは比較的距離を置いていたこともあって、58歳から亡くなるまでの5年間、副会長職を務めるに留まった。

父、兄同様に酒を愛したが長年に渡って糖尿病を患い、時折入院加療していた。

最後の高座は2001年8月11日~20日までの浅草演芸ホール「住吉踊り」。公演途中の14日から緊急入院していたが、病院から寄席に出演し続けた。

2001年10月1日、肝臓がんのため、自宅で家族、弟子に見守られる中、63歳で死去。

(この項、「Wikipedia」参照)

船徳

船宿に居候している若旦那。船頭になると言い出す。

親方「若旦那、あなたみたいな細い体で、船頭なんぞになれやしません」

徳兵衛「なれやしねえったって、おんなし人間じゃねえか、みんなにやれてなぜ俺にできねえんだ」と食い下がる。親方は船頭の大変さをくどくどと説くが、

徳兵衛「そうかい、親方のとこが駄目だって言うなら、よそへ行って船頭になるよ」と強情だ。

親方「若旦那、”竿は三年、艪(ろ)は三月”と言いやすが、本当に辛抱できますか?」、「もちろん、するとも」で、そこまで言うならと親方は承知して船頭たちを呼び、徳兵衛を船頭仲間へ紹介する。

            

 集まった船頭たちはてっきり親方から小言を食らうと思って、叱られる前に謝ってしまおうと、それぞれの不始末をあれこれと白状するが、全部親方の知らないことばかりでかえってやぶ蛇に。

親方は船頭に”若旦那”の呼び名は似合はないので、これからは「徳」と呼ぶことにすると言って徳兵衛を船頭の仲間入りをさせる。

            

 さて、今日は、暑い盛りの浅草観音様の「四万六千日」。船頭たちは出払ってしまい、船宿には徳一人。そこへなじみの客が、船が嫌いな友達を連れてやって来て大桟橋まで行ってほしいと言う。

 船宿のおかみは今日は船頭は出払ってしまっていないと断るが、客は柱に寄りかかって居眠りをしている徳さんを見つける。おかみさんは断り切れずに、徳さんが船を出すことになる。

徳は出てこない。聞くとひげをあたてていたと。

さて、船を出そうとするが、舫(もや)ったまま。

竿を流してしまったり、同じ所を三回も回ったりして、「ここんとこはいつも三度ずつ回ることになってまして・・・」なんて言いながらも、なんとか大川へ船を出した徳。

船の嫌いな相客は心配する。

徳「この間、赤ん坊連れのおかみさんを川に落としてしまったけど・・・」

大川に出たは出たが船は揺れすぎて、たばこ盆を寄せて吸うのも大変。

そのうち、石垣の方に寄って行ってしまい、石垣にくっついて身動きがとれない。

徳は客のこうもり傘で石垣を突かせ船は離れたが、こうもり傘が石垣の間に挟まってしまう。もう二度とそこへは着けられないと言われ、客はこうもり傘をあきらめるしかない。

 漕ぎ疲れてきた徳、暑くて汗が目に入り前が見えない。客に「前から船が来たらよけてください」なんて言い出した。ようやく大桟橋の近くまで来たが、浅瀬に乗り上げ、それ以上進まない。

客は一人を背負ってやっとのことで岸に上がる。客が船の方を振ると、徳はぐったりしている。

客「おーい、若い衆、大丈夫か」

徳「上がりましたらね、柳橋まで船頭ひとり雇ってください」

枕も船遊びのおもしろさにちょっと触れただけで、いきなり本題へ。枕、それも楽屋話が長すぎて本題になかなか入らない最近の落語とは異なり、このへんのテンポは実に巧み。羽織を脱ぐと、話にふさわしく、夏を感じさせる、爽やかな着物。

徳、船宿の主人、おかみさん、船頭達、お客の二人(相客は船が嫌い)とそれぞれ役どころが異なる人物を演じきる。船をこぐ仕草など、名人芸でした。

ところで、舞台の場所はどこなのか?

 話のオチにもあるように神田川と隅田川の合流付近の柳橋が船に乗った所です。今でも船宿があり、神田川には船がたくさん浮かんでいます。

                     現在の柳橋付近

 到着したところは、駒形橋の西詰めにある駒形堂。ここに隅田川(大川)に突き出た大桟橋があったようです。明治期入ってからも船の発着場がありました。そこから上がると、雷門、浅草寺にと繋がります。

名所江戸百景 駒形堂吾嬬橋」(広重)。

駒形堂は隅田川にかかる駒形橋の傍らに建つ。推古天皇36年(628)に浅草寺ご本尊の聖観世音菩薩が宮戸川(隅田川)にご示現されたおり、この地に上陸されて草堂に祀られたという。すなわち、浅草寺発祥の霊地に建つお堂である。

 駒形堂は、天慶5年(942)に平公雅によって建立されたと伝えられる。江戸時代は駒形堂のすぐ前に船着き場があり、ここから上陸した人びとはまず駒形堂のご本尊を拝んでから浅草寺に参拝した。堂宇の正面ははじめ川側に向いていたが、時代とともに現在のように川を背にするようになった。現在の堂宇は平成15年(2003)に再建されたもの。

  (「浅草寺の駒形堂」由来より)

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「落語鑑賞教室」その15。春風亭一之輔「子別れ(子は鎹=かすがい)」。そして「処暑」。

2021-08-28 20:47:55 | 落語の世界

             「夏の神保町まつり 一之輔一門会」より。

                    

                   

      楽屋話ばかりで本題に入らないので、師匠に怒られる。 

師匠登場。人情話の中でも笑いと涙で聞かせる「子別れ」を。

枕で弟子達の話をからめ、先代師匠の話から、師匠として弟子のかわいさを淡々と思い出話風に語り出します。

「子別れ」初代春風亭柳枝創作落語で、3代目麗々亭柳橋4代目柳家小さんの手を経て磨かれた人情噺の大ネタです。

上は「強飯の女郎買い」、下は「子はかすがい(鎹)」の名で呼ばれることがあります。一之輔師匠は、この下の部分を。「大酒飲みが下では酒を断って改心したのか、どうも分からない、」とか、ぼそぼそつぶやきながら。

上。熊五郎は腕のいい大工だが酒好きなのが玉に瑕。ある日、泥酔して帰ってくると妻のお光に向かって女郎の惚気話まで始めてしまい、夫婦げんかの末にお光は一人息子の亀を連れて家を出てしまう。

中。熊はお光と離縁して女郎を身請けし、一緒に暮らし始めるが、彼女は一切の家事をせず、朝から酒を飲んでは寝てばかり。結局他所に男を作って出ていってしまう。

そして下。家から出て行った親子と別れてから3年。熊は酒を断って心を入れ替え、懸命になって働いたおかげでなんとか身を持ち直し、親方の身分に。

 ある日、熊五郎はお店(たな)の番頭と茶室に使う木口を木場へ見に行く。途中で前の花魁の悪妻女房のお島、その前の亀吉の母親の良妻賢母のお徳の話や、亀吉が好きだったまんじゅうの話などする。

 話ながら歩いていると番頭が亀吉が歩いてくるのを見つける。熊五郎は番頭を先に行かせ亀吉に話かける。

熊五郎 「今度のおとっつぁんは、おめえを可愛がってくれるか」

亀吉 「おとっつぁんは、おまえじゃないか」

熊五郎 「おれは先(せん)のおとっつぁんだ。新しいおとっつぁんがあるだろ?」

亀吉 「そんな分からない道理があるもんか。子どもが先に出来て、親が後から出来るのは芋ぐらいのもんだ」

 母親のお徳は独りで仕立ての針仕事をして、貧乏暮らしをしながら亀吉を育てているという。

足元を見ると貧乏生活で、クツも履いていない、また虐められて、額に傷まで出来ている。

熊五郎はこれまでのことを亀吉に詫び、50銭銀貨の小遣いをやり、ウナギを食わせるから明日また会おうと約束する。

 家に帰った亀吉は母親の糸巻の手伝いをしている時にお金を持っているのを見つる。

                     
お徳 「なんだい、こりゃあ、まあ、50銭銀貨じゃないか。どうしたんだい、お使いを頼まれたのかい。どうしたんだい?・・・おまえまさか悪い了見出して盗んだんじゃないだろうね。はっきりとお言いな、言わないと、おとっつぁんの玄翁(げんのう)で叩くよ」、ついに亀吉は泣きながら父親に会ったこと、小遣いをもらったことを話し出す。

                   

 あくる日、亀吉は約束通りに鰻屋へ行って父親とウナギを食べていると、鰻屋の前を母親が行ったり来たり。亀吉は母親を座敷へ引き入れて両親が再会するが、二人ともかしこまって堅くなり、他人行儀でもどかしい。

      

熊五郎 「えへん、えへん、じつは昨日ねえ、亀坊に会ったんだよ。で、ウナギが食いてえって言うもんだから、じゃあ、食わせてやろうじゃねえかってことになって、・・・えへん、えへん、じつは昨日ねえ・・・」なんども同じことを繰り返していて埒があかない。

亀吉の「元のように3人で一緒に暮らそうよ」の一言で熊五郎はお徳に頭を下げ、元の鞘に収まることになります。

お徳 「こうやって夫婦が元の鞘に収まれるのも、この子が有ったればこそ。お前さん、子は夫婦の鎹(かすがい)ですね」。

亀吉 「え、あたい鎹かい、それで昨日、おっかさんが頭を玄翁(げんのう)でぶつと言ったんだ」。

約45分。父親と母親、子供と使い分けながらの熱演でした。

鎹。玄翁(げんのう)。

春風亭一之輔

1978年1月28日生まれ、千葉県野田市出身。2001(平成13)年3月 日本大学芸術学部卒業。


2001(平成13)年5月 春風亭一朝に入門
2001(平成13)年7月 前座となる 前座名「朝左久」
2004(平成16)年11月 二ツ目昇進 「一之輔」と改名
2012(平成24)年3月 真打昇進

プロフィール
主な持ちネタ:不動坊 茶の湯 鈴ヶ森 初天神 など
趣味:程をわきまえた飲酒 映画・芝居鑑賞 徒歩による散策 料理 喫茶店めぐり 洗濯
自己PR:自他共に認める「十八番」のある噺家を目指し、精進致しております。ごひいきのほど宜しくお願い申し上げます。
ホームページ:https://www.ichinosuke-en.com
Twitter:ichinosuke111

《出演が予定されている定席》
鈴本演芸場 9月上席 昼席
浅草演芸ホール 9月上席 昼席
末廣亭 9月中席 夜席 
池袋演芸場 9月中席 夜席
鈴本演芸場 9月下席 昼席
浅草演芸ホール 9月下席 昼席

・・・

先週の月曜日・23日は、「処暑」でした。

 「処暑(しょしょ)」は、厳しい暑さの峠を越した頃のこと。暦の上では朝夕には涼しい風が吹き、心地よい虫の声が聞こえてくるころで、暑さが和らぎ、穀物が実り始めます。同時に台風シーズンにもなります。

どうも昨今の気候。「処暑」以降も残暑厳しい日々が続きます。

「七十二侯」では、

・8月23日〜8月27日頃「綿柎開」わたのはなしべひらく

綿を包む柎が開き始める頃。柎とは花の萼(がく)のこと。柎が開き始めるとふわふわとした綿毛が中からとび出してきます。

・8月28日〜9月1日頃「天地始粛」てんちはじめてさむし

ようやく暑さが静まる頃。秋雨前線が冷たい空気とともに秋を運んできます。とはいっても、日中はまだまだ暑い日が続きます。

・9月2日〜9月6日頃「禾乃登」こくものすなわちみのる

日に日に稲穂の先が重くなってくる頃。稲穂が実り、色づき始めます。

 

日中の暑さは相変わらずで、熱帯夜も続きます。いつになったら寝苦しい夜から解放されるのやら。

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「落語鑑賞教室」。その14。橘家文蔵「笠碁」。碁敵(がたき)は憎さも憎し懐かしし(さ)。

2021-08-21 20:33:42 | 落語の世界

              「第4回文蔵組落語会」。

枕では、コロナ禍での手持ちぶさたな日常を描きながら、本題に入ります。

 碁がたき同士が、今日は「待った」なしで碁打ちはじめる。しばらくして形勢の悪い方が「待った」と言い出す。相手は待てないと言い、お互い「待て」、「待てない」と強情を張る。

 あげくの果てに一方はおととしの暮れに金を貸したのを恩に着せ、返す日を延ばしてくれと言われた時に、「待った」してあげたではないかと言い出す。

これには相手も怒りだし、お互い「へぼ」「ざる」、「大へぼ」、「大ざる」とののしりあって喧嘩別れとなる。

 そのうちに雨が何日も続き、碁が打てない腹いせに番頭や丁稚にあれこれ意見をするし、孫にまで当たる始末。碁会所に行くように勧められるが、皆強すぎて相手にしてもらえないのも承知しているので、ますますいらいらが募る。

 その相手も碁を打ちたくてしょうがなく、菅笠をかぶって出かけ、店先を行ったり来たり。

旦那の方も笠をかぶって前を行ったり来たりするのに気づくが、照れくさくて中へ呼び入れることができない。

         

碁盤を持ってこさせ一人でパチン、パチンとわざとらしく大きな音を立てて、碁石を置き始める。

相手も音が気になって近づいてくるが、また通り越してしまう。どうにもたまならくなって、

「やいやい、へぼ!・・・へぼやい!」
「へぼと言ったな、ざるの大ざるめ!」
「大ざるだと。俺がざるかへぼでないか一番やるか?」
「ああ、やるとも」

中に入ってきて、碁を打ち始めるが、なぜか碁盤に雨のしずくが落ちてくる。いくら拭いても落ちるので、ひょいと見上げる。

旦那 「ああ、まだかぶり笠取らねえじゃねえか」。

下げは不思議と碁盤が濡れているので雨漏りかと思えば相手の笠だったという下げであるが、普通は座敷に雨具をかぶったまま上がったりはしない。

それに旦那もなぜ濡れていることにこだわるのか、それは「雨垂れ」が「涙」を暗喩しているから。

つまり、旦那は嬉しさで涙が潤んでいるのを雨漏りのせいにし、相手も笠を被りっぱなしで、同じように嬉しい顔を見せられなかったと。

 代表的な人情噺として知られ、五代目柳家小さんや八代目桂文楽などが得意とした。

一見、単純な噺のようで、心中、複雑な二人のようすが、人情味豊かに描かれている。

また、碁敵ではなくても、無二の親友との間で、このような経験はありがちなことで、共感を呼ぶのでしょう。

幕前の、ゲストの柳家喬太郎師匠との掛け合い落語が面白い。

           

八代目林家正蔵一門の二代目橘家文蔵に入門。がっしりとした体格とドスが効いた威勢の良い口調で、「らくだ」の兄貴分や「天災」の八五郎など、豪快な「乱暴者」キャラを見事に演じる。落語界においても特異な存在感を放つのが、橘家文蔵だ。

「前座噺」と呼ばれるシンプルな構成の演目や、落語ファンにとってお馴染みの演目でも。破壊力抜群の人物描写と同時に、登場人物の心理を丁寧に繊細に表現する話芸と、随所に織り込まれるテンポの良いギャグで、観客を爆笑の渦に巻き込んでしまう。

2003(平成15)年からは、『BS笑点』に出演し、強面キャラを存分に発揮したパフォーマンスで人気を集める。

亡き師匠の得意ネタに挑む独演会『文蔵プレミアム』をはじめ、自ら座長・脚本・演出を務める『ボク達の鹿芝居』、『落語協会 大喜利王選手権』でプロデュース・司会を務めるなど、多才ぶりを発揮している。

そして、入船亭扇辰・柳家小せんと組み、フォークユニット「三K辰文舎(さんけいしんぶんしゃ)」では都内の落語会やライブハウスだけにとどまらず、全国各地の落語会で楽曲を披露している。

コロナ禍の2020年には、後援会「文蔵組」を結成すると同時に、いち早く業界初の無観客生配信落語会『文蔵組落語会』を全世界に配信。開始からの1か月で生配信の総視聴者数が延べ5,000人を記録し落語界に一石を投じ、オンライン配信落語会のパイオニアとしての地位を確立した。

(この項、「official Website」より)

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「落語鑑賞教室」。その13。入船亭扇遊。柳亭こみち。

2021-08-15 18:25:30 | 落語の世界

             入船亭扇遊「垂乳根(たらちね)」。

このお話。展開はよく聞き知っていますが、何度聞いても面白い。

ある長屋に住む独り者の八五郎は、大家さんから勧められ、結婚することにした。

気の早い話で、その日のうちに祝言をすることになり、早速床屋と銭湯に行って身綺麗にしてきた八五郎。七輪を取り出し、火をおこしながら夫婦生活に思いをめぐらせた。差し向かいで飯を食う様子を大声に出して歌う。

♪サークサクーのポーリポリのチンチロリン、ザークザクのバーリバリのガーシャガシャ

『食事が始まると茶漬けが出て来てさ、おかみさんはそれを上品にサークサク、沢庵を箸で摘んでポーリポリ。箸が茶碗に当たってチンチロリン。俺の方はでかい茶碗で茶漬けをザークザーク、沢庵だってでかい奴をバーリバリ。箸が茶碗に当たってガーシャガシャ』

話に偽りなく美人のお嬢さんに、八五郎は大喜び。

二人きりになった所で八五郎がご挨拶。すると、お嫁さんの返事。

「賤妾浅短にあって是れ学ばざれば勤たらんと欲す」

「なになに、『金太郎を干す』だって?」

わけがわからない。名前をたずねると、

「自らことの姓名は、父は元京の産にして、姓は安藤、名は慶三、字を五光。母は千代女(ちよじょ)と申せしが、わが母三十三歳の折、ある夜丹頂の鶴を夢見て妾(わらわ)を孕めるが故、垂乳根の胎内を出でしときは鶴女(つるじょ)。鶴女と申せしが、それは幼名、成長の後これを改め、清女(きよじょ)と申し侍るなり」

漢文調でよどみなく並べ立ててのける。紙に書いてもらい、早速読んでみた八五郎。しかし、途中から読経の節になってしまい、最後には「チーン、親戚の方からどうぞご焼香を」。

翌朝、お清、朝食を用意し始める。ところが、米がどこにあるかわからないので、寝ている八五郎のところへ尋ねに来た。

「アァラ、わが君! アァラ、わが君!」

八五郎もびっくり、「その『わが君』ってのは俺のことかい? そのうち『我が君のハチ公』だなんて変なあだ名がつくからやめてくんねえ」と苦情を言い、何事かと聞くと「シラゲの在り処、いずくんぞや?」。

米びつの場所一つを教えるのに一苦労。お清は料理を再開するが、今度は味噌汁の具がなくて困った。そこへ八百屋がやってくる。

「これこれ、門前に市をなす商人、一文字草を朝げのため買い求めるゆえ、門の敷居に控えておれ」

芝居がかった言葉につい釣られ、八百屋も思わず「はぁはぁー!」と平伏してしまう。

一文字草とは長ネギのこと。

そんなこんなでご飯が整い、八五郎を起こす。

「アァラわが君。日も東天に出御(しゅつぎょ)ましまさば、うがい手水に身を清め、神前仏前へ燈灯(みあかし)を備え、御飯も冷飯に相なり候へば、早く召し上がって然るべう存じたてまつる、恐惶謹言」

今度は八五郎が釣られて

「飯を食うのが『恐惶謹言』、酒なら『依って(=酔って)件の如し』か」

「たらちね」:『母』にかかる枕詞。漢字では『垂乳根』と書く。

「精げ(シラゲ)」:白米。宮中の女房言葉に由来。

「一文字草(ヒトモジグサ)」:『長ネギ』。これも、宮中の女房言葉に由来。

「恐惶謹言(キョウコウキンゲン)」:文書や手紙の末尾につける挨拶語で、『恐れかしこみ、謹んで申し上げる』。

「依って件の如し(ヨッテクダンノゴトシ)」:恐惶謹言とおなじく末尾の挨拶語。『以上、右(本文)に書いたとおりである』。

1972年に九代目入船亭扇橋に入門。前座名「扇ぽう」を名乗る。77年に二つ目昇進で「扇好」、85年に真打昇進で「扇遊」と改名した。

淀みないしゃべりと明るく粋な芸風で、観客を江戸情緒の世界へと引き込む古典落語の名手。表情豊かに艶っぽい女を見事に演じる。

「携帯電話も持っていない古いタイプの人間」とは本人の談。得意ネタは「明烏」「不動坊火焔」など。92年の「入船亭扇遊独演会」にて、文部省芸術祭賞を受賞。

1953年、静岡県生まれ。落語協会所属。

肩のこらない軽やかな芸風で、親しみやすい。。

柳亭こみち「蚤のかっぽれ」。

母蚤「坊や、そんなにちょこちょこ出歩いたら、あぶないじゃないか。」
子蚤「大丈夫だよ、あぶない時にはピョーンと跳ねちゃうから。

・・・

男「♪沖ぃぃの、暗ぁいのぉぉに、白ぁ帆が見える・・・」
母「ここの親父が帰って来たよ。」
男「♪あれは紀の国、ヤレコノオッコレワイサノサ・・・」
子「あのおじさん、踊ってらぁ、面白いな。サノサッサッサ・・・」
母「お前まで踊っちゃいけないよ。あれは、かっぽれという下等な踊りで、踊ると、お前の人柄、じゃない、蚤柄にかかわるから、およし。」
子「じゃあ、おっかちゃん、あの人は下等な人なのかい。」

母「下等だとも、ロクな人間じゃないよ。お父つぁんは、あの男に捕まって、親指の爪でつぶされちまったんだよ。だから、あの男は、お前にとって親の仇、私にとっては亭主の仇。」
子「そいじゃあ、あたいが親の仇を討ってくるから。あの男の血をうんと吸ってやるんだから・・・はは、やってら、おもしろいな、これで血を一杯呑みながら、かっぽれを見物したら、愉快だろうな。この辺で血を吸ってやれ。お父っちゃんの仇、覚悟しろ・・・いけない、堅いと思ったら、かっぽれに夢中になって、カカトを刺していた。背中へ廻ってみよう。」

男「♪エ、ヤレコノコレワイサ、と、なかなか上手くできねぇ、とてもシラフじゃできねぇ、一杯ひっかけてくるかな。」

子「あ、出かけるのかい、困ったな、背中の奥に潜り込んだから、出るに出られない。こっちも腰を据えてチビチビ頂くか・・・だんだん血が濃くなってきやがった、お酒入りだぞ。」
男「おい、姉さん、お銚子のお代わりだよ。ああ、痒い、姉さん、ちょっと背中を見てくんねぇ、背筋に蚤が一匹いやがるんだ。」
女中「ちょっと着物を脱いで、振るっちまえば落ちますよ。」
子「ああ、良い心持になってきたぞ。あ、いけねぇ、もう少しで振るい落されるところだった。見つからなければ良いんだが・・・あっ、しまった!」

           

男「ちくしょう、つかまえたぞ、人の血をさんざん吸いやがって。」
子「おじさん、勘弁しておくれよ。」
男「変だな、誰だい?」
子「蚤だい。勘弁しておくれよ。」
男「人の体を食い荒らして、つかまったら、勘弁してくれとは何だ。」
子「もし、勘弁してくれるなら、あたいがかっぽれを踊って見せるよ。」
男「かっぽれを踊るような粋な蚤ならむやみに殺すもんか。助けてやるから、さぁ、踊ってみろ。」

子「かっぽれなんてものは、シラフじゃ上手く出来ないだろ。おじさんは、何のために、ここへ酒を呑みにきたんだい?」
男「ぜいたく言ってやがら、さぁ、ついでやる。」
子「おっと、と、と、散ります散ります。」
男「ふん、いっぱしの口をきくねぇ。」
子「おじさん、ひとつ、返杯をしよう。」
男「なかなか心得てるねぇ。さあ、お前に返すぞ、おっと、銚子が空だ、姉さん、お銚子のお代わりだ。そろそろ、かっぽれが出そうなもんだ、俺が歌うから、ひとつ踊って見せてくれ。」

           

子「じゃおじさん、景気の良い声でたのまぁ。」
男「よしきた・・・♪アヨイヨイヨイ、沖ぃぃのぉ・・・」
子「セッセ(踊る)。」
男「ふうん、うめえもんだな・・・♪暗ぁいのぉに・・・」
子「アヨトコラサ。」
男「こりゃあおもしれぇや、こりゃ・・・♪白ぁ帆がぁ見える・・・」
子「アヨトコラサ。」

男「♪あれは紀の国、エヤレコのコレワイサ。」
子「サのサッサッサ。」
男「いや、どうも恐れ入ったね。鮮やかなもんだね・・・♪ぇ豊年じゃあ、満作じゃ、あすは旦那の稲刈りで、小束にからげてちょいと投げた、投げぇぇたぁ・・・おい、合いの手を入れねぇか、おい蚤、どこへ行った?どこかへ跳ねちまったのかな、あ、しまった、ノミ逃げをされた。」

今回は、出かける場面はなく、家でのお話に。

2003(平成15)年 早稲田大学卒業 社会人を経験後、柳亭燕路に入門 前座名「こみち」
2006(平成18)年11月 二ツ目昇進
2017(平成29)年9月21日 真打昇進

趣味
ピアノ・ギター・ウクレレ演奏 野球(落語協会野球部所属) 日本舞踊(吾妻流名取、名取名「吾妻春美」) 長唄

自己PR
唄って踊れて、古典落語がしっかりできる噺家を目指しています!

こみち師匠の文章を掲載。

20代前半までは芝居が好きで、売れる前の古田新太さんや堺雅人さんたちの芝居を観に、時間があれば小劇場に通っていました。ある日チケットがどうしても取れないときに、友人に寄席を勧められ、人生が変わりました。ジジイがただボソボソしゃべっているだけの落語がこんなに面白いなんて(笑)。芝居通いをぱったりやめ、寄席に通うようになり、挙句は「噺家になりたいです」と会社に辞表を出してしまいました。

政府の緊急事態宣言の発出で、高座に上がれなくなったときはつらくて仕方がなかったです。考えるとつらいので、新しいネタを練ったり、稽古をしたり、噺を覚えたりと、プラス思考に転換しました。

家庭では夫婦ともに「不要不急」の商売とされ、2DKの狭い部屋で2人の息子がどう楽しく過ごせるのか、家族全員が心身ともに元気でいられるように気を配りました。

・・・

寄席は再開されたけど、お客様はかなり減りました。そもそも、落語協会には真打は200人以上いますが、寄席に出られるのは一握りです。今後は、使っていただける噺家もさらに淘汰されるかもしれません。

自粛中はとてもつらかったけど、修業時代に比べれば、たいしたことはありません。落語がやりたいのに何年も掃除ばかり。そのうちに、ただただ「落語がやれればいい」と思うようになりました。

「ああ、これが修業の意味なのだ」ということが後になってわかりました。「竹に雪が積もって、その重さが取り払われたとき、すっと伸びるのだ」と師匠方に言われた意味を体感したのです。

・・・

入門当初の稽古では、抑揚や気持ちは置いておいて、大きな声を出します。何百回もやっているうちに、「ご隠居さん」や「八っつぁん」が身近になっていくのです。

ところが、男性の役を男性らしく演じることは、女性にとっては簡単ではありません。セリフの徹頭徹尾を男性である登場人物として成立させることができて、初めて「マイナスをゼロに戻した」ことになるのです。

これに対し、男性の噺家はゼロからスタートし、噺を面白くしていきます。少しの間、会わないうちにうまくなったなと感じることも少なくありません。

私は真打ちです。女性の噺家としては「違和感なく聞こえた」は及第点。「(違和感はないけど)男性のほうが面白かった」ではだめです。生き残っていくには、自分しかできない演出を加えなければなりません。

古典落語は脈々と語り継がれた確固たるものがあります。そして、男性が築いてきた伝統・文化を女性がやるとどうなるかを今、試されているのです。唄や踊りを取り入れたり、これまでスポットライトが当たらなかった江戸の女性を登場させたり、本当のチャレンジはこれからが本番です。

新型コロナウイルスは、現代社会に深刻な分断をもたらしている。ワクチンや治療薬が普及し、コロナ後の社会がやってきたとき、エンターテインメントが人々を癒し、協調を取り戻す力となる。

寄席に来るお客様は、コロナ禍でも寄席を盛り上げたいというお気持ちでいらしてくださいます。ソーシャルディスタンスの客席では笑いの火は付きにくいけど、いつも通りの笑顔です。

一方で、お年を召したお客様は寄席から遠ざかりました。「人込みが怖い」「電車に乗るのが怖い」とのお便りをいただき、お米やお肉を送ってくださる方もいます。

寄席に来られないお客様のために、インターネット配信やSNSで笑いや近況を発信していますが、お客様の中にはメールアドレスやインターネットとは無縁で、配信にたどり着くことができない方もいます。

でも無理して来ていただくことはないと思います。恐怖を感じながら、高座を見ても楽しめないですから。身の安全が第一です。お互いの気持ちは通じ合っていると思いたいです。というか、落語から離れてしまうお客様のことは、結構こちらは気にしていますよ。

時間はかかりますが、コロナ禍がいずれ終息し、寄席にお客様がどっといらっしゃるのを心待ちにしています。音楽や演劇などのエンターテインメントは、「不要」ではなく、人の心が元気でいるためにはなくてはならないものだと信じています。
 「コロナ危機に克つ:落語家 柳亭こみちさん

(この項、「社団法人 日本生産性本部」HPより)

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「落語鑑賞教室」。その12。柳家権太楼「百年目」。

2021-08-14 20:57:00 | 落語の世界

トリの柳家権太楼師匠。「寄席」では余りお目にかからない、約50分をかけて、「百年目」を演じました。ただし、権太楼師匠は毎年の5月興行では恒例になっていたようですが。

「金比羅」の出ばやしで登場。1947(昭和22)年生まれ。東京都出身。

枕で、10日間の演目を春夏秋冬に擬えて、冬は「うどんや」「二番煎じ」。夏は「船徳」「へっつい幽霊」。春は「百年目」「宿屋の仇討ち」。秋には、という趣向で演じようとした、と。今日は3日目なので「百年目」を、と。

それぞれ、古典落語の粋と言うべき演目がズラリ。コロナ禍での無観客の中での配信。権太楼師匠だけではなく、落語家の皆さん、その他の芸人さんたちの複雑な思いをかみしめながら、視聴しました。

この「百年目」。大坂・船場の商家を舞台にした大ネタで、かなりの技量と体力が演じ手に求められる。大旦那、番頭、丁稚、手代、幇間、芸者など多くの登場人物を描きわけ、さらに踊りの素養が必要、等、難しい噺である。

船場の商家の堅物番頭の次兵衛は今日も店の者に小言を並べている。定吉、佐助、喜助と続き、藤助には、芸者遊びをして帰った藤助には嫌みの限りを言い、ご本人は、得意先を回って来ると言い店を出た。

 その先には太鼓持ちの茂八が待っていて、桜の宮に花見に行く屋形船が待っている高麗橋へと向かう。途中、着物を預けてあるある駄菓子屋で、着物、羽織の紐から持ち物、帯、雪駄の鼻緒まで粋な物に着替える。

 芸者衆らが待つ高麗橋の浜から屋形船に乗った次兵衛は誰かに見られるとまずからと障子をぴったりしめ、ちびりちびりと酒を飲み始めた。船の中は締め切って蒸し暑く桜も見えず、芸者衆は不満でぶつぶつ言い始めるので、障子を開けると満開の桜の見事な春景色で、次兵衛は顔を扇子で隠して芸者衆らと土手に上がることにする。

 一方、店の旦那も桜が見ごろと聞き、医者の玄白先生と歩いて桜の宮へやって来た。玄白先生は扇子で顔を隠して芸者らと踊っている次兵衛をめざとく見つける。まさかと思った旦那もよく見ると次兵衛に違いない。

 旦那はこんなところで出会って恥を掻かせてもいけないと、脇を通り抜けようとして次兵衛につかまってしまった。顔の前の扇子を取った次兵衛は、「これはこれは、旦さんでございますかいな。長らくご無沙汰を致しております。承りますれば、お店も日夜ご繁盛やそうで、陰ながら・・・・」と、神妙な面持ちで喋り始めた。旦那は取り巻き連中に、「大事な番頭だからケガなどさせないように遊ばしてやって下さい」と言って帰って行った。

          

                 

 さあ次兵衛はいっぺんに酔いも醒め、顔面蒼白。歩いて駄菓子屋に行き、着替えて店に戻るが生きた心地もせず、店の者にいつもの小言を並べる余裕などなく、頭が痛いから布団を敷いくれと言って二階に上がったが寝られる心理状態ではない。荷物をまとめてこっちから先に店から逃げ出して行こうとしたり、あれこれと考えて悶々としているうちに夜が明けてしまった。

 帳場に座ったものの、帳簿の字なんか頭に入るはずもない。いつかいつかと思っているとやっと旦那からお呼びが掛かった。

 旦那の顔をまともに見られない次兵衛を前に、旦那は一家の主を旦那という由来を話し始めた。

「五天竺の一つの南天竺というところに赤栴檀 という見事な木があり、その根元に難莚草(なんえんそう)という雑草がはびこっているそうじゃ。難莚草をむしり取ってしまうと、赤栴檀も枯れるそうじゃて。 難莚草が生えては枯れるのが赤栴檀の肥やしになり、赤栴檀の下ろす露が、難莚草には肥やしになるんじゃそうな。 赤栴檀の「だん」と難莚草の「なん」と取って、『だんな』というようになったそうな」と、店の旦那と番頭、番頭と丁稚と互いに支え合う大事な関係だということを話した。

 ぺこぺことお辞儀ばかりしながら有り難そうに聞いている次兵衛に、旦那は次兵衛が店に来た十二才の頃の話しをし、やっと本題の昨日の一件に入った。この話の中で番頭には一年後に暖簾分けが決まっていることを話す。

 旦那は昨夜、帳面を全部調べたが一つの間違いもおかしな所もなかったと言い、「立派なもんじゃ。使うときはびっくりするほど使こうてこそ、またびっくりするよな商いもでけますのじゃ。やんなされ、やんなされ。わしも付き合うさかい誘うてや」と、次兵衛の目には涙が。

旦那 「けど昨日は、妙な挨拶をしたなぁ、”長らくご無沙汰をしとります”とか”陰ながら”とか、長いこと会わんようなことを言うたが、 あら酔うてたんじゃな?」

次兵衛 「お顔を見た途端に酒の酔いなんかきれいに消し飛びましたけど、あぁ申し上げるよりしょうがございませんでした」

旦那 「何でじゃいな?」

次兵衛 「こんなとこ見られたんで、こらもう”百年目”じゃと思いました」

「ここで会ったが百年目」とは、 悪事や企みが露見 して万事休す、もうおしまいと いう時に使う言葉。

演者によって少しずつ趣向が変わっているようです。

権太楼の『百年目』は、旦那に気づいた番頭が顔を扇子で隠して逃げる、旦那の方も顔を合わせまいとしてと逃げようとする。そのやりとりが面白い。

 翌朝、旦那は呼び出した番頭にいきなり「昨日は賑やかだったね、向島」と切り出し、番頭が「あれは商売上の……」と言い訳するのを「お付き合いで遊ぶときは相手より多くお金を使ってくださいよ」と軽くいなしてから「ゆうべ眠れたかい? 私は寝られなかった」と本題へ。

「帳面には穴がこれっぽっちも空いてない。あの出来の悪い子が、立派な商人になった」と思い出話に入り、そこで“栴檀と南縁草”の譬え話を持ち出して「旦那と番頭の関係から、丁稚へのしかり方」をこんこんと説く。

最初に向島の件を切り出して、“栴檀と南縁草”を最後に」という演じ方は志ん朝の演出と同じようです。

上方の噺を江戸の噺に仕立て上げたもの。

に大柄な身体を活かして、ダイナミックに演じた権太楼師匠。50分間、最後は少し着物の裾が乱れてしまうほどの熱演。

まったく飽きさせない話芸の粋でした。 

 

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「落語鑑賞教室」その11。桂文楽。林家三平。林家木久蔵。そして柳家さん喬。春風亭一朝。

2021-08-12 20:15:45 | 落語の世界

落語の世界も代替わりがあって、しばらく見ないうちに、当方がなじみの名跡もどんどん変わってしまいました。

        

桂文楽師匠。名人・先代の文楽師匠の落語は聴聞したことはありますが、当代(9代目)の師匠はかつて「ペヤング」のCMでなじみ深い、くらいの印象(申し訳ありませんが)。けっこう貫禄がついてきて、ビックリ。

先代と比較されてあれこれ批判もされたでしょうが、先代・「黒門町」をもう知る人も少なくなってきているので、安心して(堂々と)いきましょう。

《8代目桂文楽師匠の晩年》

高座に出る前には必ず演目のおさらいをした。最晩年は「高座で失敗した場合にお客に謝る謝り方」も毎朝稽古していた

1971年(昭和46年)8月31日国立劇場小劇場における第5次落語研究会第42回で三遊亭圓朝作『大仏餅』を演じることになった。前日に別会場(東横落語会恒例「圓朝祭」)で同一演目を演じたため、この日に限っては当日出演前の復習をしなかった

高座に上がって噺を進めたが、「あたくしは、芝片門前に住まいおりました……」に続く「神谷幸右衛門…」という台詞を思い出せず、絶句した8代目文楽は「台詞を忘れてしまいました……」「申し訳ありません。もう一度……」「……勉強をし直してまいります」と挨拶し、深々と頭を下げて話の途中で高座を降りた。

舞台袖で8代目文楽は「僕は三代目になっちゃったよ」と言った。明治の名人・3代目柳家小さんはその末期に重度の認知症になり、全盛期とはかけ離れた状態を見せていた

以降のすべてのスケジュールはキャンセルされた。8代目文楽自身からの引退宣言はなかったものの、二度と高座に上がることはなく、稽古すらしなくなった。ほどなく肝硬変で入院し同年12月12日逝去した。79歳没。

(この項「Wikipedia」より)

さらに、林家三平さん、林家木久蔵さんなど、本当に若くなって・・・、そのうち先代をしのぐ名落語家になっていく(ほしい)と。

        

昭和の爆笑王の息子としてのプレッシャーも大きいようですが。

9歳のときに、父の三平が死去したため、初代三平の弟子だった林屋こん平が惣領弟子となって初代三平一門を統率、こん平に直弟子として入門した。

       林家木久扇師匠の息子さん。

柳家喬太郎さんの師匠、柳家さん喬師匠も登場です。

             

実家は都営地下鉄・本所吾妻橋駅を上がってすぐにあった洋食店「キッチンイナバ」(ハンバーグなどを食べに行ったことがありましたが、現在は、「東日本銀行」の大きな建物のため、廃店しました。)。

幼少のときから祖父や父に寄席や演芸場に連れていってもらうなど、落語に親しむ環境にあった。得意とする演目は『うどん屋』『井戸の茶碗』『笠碁』『猫の災難』『野ざらし』『片棒』『そば清』『百川』『棒鱈』『幾代餅』『天狗裁き』『柳田格之進』『芝浜』『締め込み』『初天神』『真田小僧』など。

つやのある声と柔らかな物腰で女性ファンも多く、江戸の四季を色あざやかに浮かび上がらせる情景描写や男女の心理描写に定評がある。(以上、「Wikipedia」より)

そして、春風亭一朝師匠。

        

五代目春風亭柳朝の総領弟子。師匠柳朝と同じく江戸前噺家である。またNHK大河ドラマ龍馬伝』の江戸ことば指導も行なった。

柳朝の師匠八代目林家正蔵にとって最初の孫弟子である。実際に、最初に入門を願い出た先は彦六の門であり、面倒が見切れないということから、総領弟子柳朝に頼み、柳朝も快く引き受けたというエピソードがある。

総領弟子朝之助が六代目春風亭柳朝を襲名し、真打昇進する。2012年3月 二番弟子一之輔が21人抜きの大抜擢で真打昇進する。

(この項「Wikipedia」より)

弟子の一之輔が人気者なので、師匠が霞んでしまうようですが、上記のように江戸前噺家らしい雰囲気を持ち、話しぶり、所作など通好みの落語家です。

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「落語鑑賞教室」その10。林家木久扇「彦六外伝」。+林家正蔵・彦六。

2021-08-11 18:36:55 | 落語の世界

               「笑点」でお馴染み、林家木久扇師匠の「彦六外伝」。

師匠を語らせたら天下一品。

師匠は、八代目林家正蔵。後に林家彦六

                     

生年月日明治28年 5月16日 品川生まれの浅草育ち。

明治45年18歳で三遊亭三福(3代目三遊亭円遊)に入門、福よし。大正3年扇遊亭金八に改名するが、5年師と4代目橘家円蔵の門下に移り、6年橘家二三蔵で二ツ目。8年3代目三遊亭円楽を襲名し、9年真打ちに昇進。11年師・円蔵の死に伴い3代目柳家小さんの預かり弟子となった。12年大阪に赴き、2代目桂三木助から上方の噺を習い、「煙草の火」などを江戸の噺に作り直した。のち4代目蝶花楼馬楽の内輪弟子となり、昭和3年馬楽が4代目小さんを襲名するとともに5代目馬楽を譲られ、東宝名人会などで活動した。

戦後、7代目林家正蔵の遺族から一代限りの名乗りを許され、25年8代目林家正蔵を襲名。43年に人情ものの「淀五郎」で芸術祭賞、51年には怪談「牡丹灯籠」で芸術祭大賞を受賞。滋味あふれる語り口で、駆け出しの頃に初代三遊亭円朝の直弟子・三遊亭一朝に稽古をつけてもらったことから、円朝の衣鉢を継ぐ三遊派の人情噺や道具を使った怪談噺・芝居噺を得意とする一方、新作落語も手がけた。

正蔵の名は、7代目正蔵の長男である林家三平が生きているうちに譲り渡すつもりでいたが、三平が若くして死去したため、56年海老名家に正蔵の名を返還し、以後は彦六を名乗った。

反骨心があり曲がったことが大嫌いな性格から“トンガリ”とあだ名され、弟子に対しても、失敗する度に破門を口にする。しかし謝れば許し、翌日にはもうケロリとしている。破門宣告の回数は殆どの弟子が2桁を数えていて、木久扇は37回、好楽は23回破門宣告をされている。

弟子に5代目春風亭柳朝、2代目林家正楽、林家木久扇(初代林家木久蔵)、三遊亭好楽らがいる。

独特な人柄、最晩年の非常に特徴的なヘナヘナしたしゃがれ声やスローなテンポの話し方などから、落語家などに物真似されることが多い。

林家木久扇は、二つ目昇進まで付人として面倒を見て貰った師匠彦六の物真似が得意で、新作落語「彦六伝」を十八番としている。

日本共産党の熱烈な支持者として知られるが、イデオロギーに共感した訳ではなく、本人談によれば「あたしゃ判官贔屓」あるいは「共産党は書生っぽいから好きなんですよ」とのことであった。

30年以上に亘って朝日新聞を愛読したが、紙上で落語評論家が当代の名人について、5代目古今亭志ん生・8代目桂文楽・6代目春風亭柳橋・10代目金原亭馬生の名を挙げ「ここまでくると次の指が折れない」と書いたことに激怒し、執筆者に宛てて「お前さんの小指はリウマチじゃねえのかい」と書いた葉書きを速達で送りつけ、朝日新聞の購読を停止し、「しんぶん赤旗」を取るようになった。

無駄使いを嫌い、新聞の折込みチラシの中で片面印刷のチラシを見つけたら切ってネタ帳の代用していたという逸話があるほど。

(余談:昔、私の知っている方もこういう方がいました。原稿を広告の裏面に書いて、それを人前で読むので、広告面がみんなの目の前に。話しの内容よりもそれを見て、クスクス笑い声が。)

仕事で頻繁に寄席へ通うため「通勤用定期券」で地下鉄を利用していたが、「これは通勤用に割り引いて貰っているんだから、私用に使うべきでない」として、私用で乗る際には別に通常乗車券を購入し、改札口では駅員に突きつけるように見せていた。談志もこの律儀さには呆れつつも感心し、国会議員当時に「世の中にはこんな人もいる」と国会で彦六の逸話を紹介している。

せっかちな性格で、飛行機を使って東京に帰った時、たまたま羽田空港着陸の際、混雑のため、しばらく上空を旋回したことに「てめえの家の玄関先まできてて入れねえって法があるもんけい」と腹を立て、爾来、飛行機を使わず鉄道で地方巡業に行くようになった。それでも、出発の1時間前にホームに向かうので周囲から早すぎると止められても、「遅れることがあるんだから、間違って早く出るかもしれねえ」と言って意に介さなかった。

稲荷町の住居は昔ながらの四軒長屋の隅の家で、近所に銭湯があり、まさに落語の世界そのままだったという。玄関には「林家」の暖簾がかかっており、春夏・秋冬で2色あった。現在、長屋は取り壊されコインパーキングになっている。

(この項、「Wikipedia」などを参照)

そんな師匠のようすを口調をすっかり真似しながら、さまざまなエピソードを紹介します。稽古を付けて貰う場面、さらに区長の選挙運動や立川談志の選挙応援とか・・・、選挙演説で小話を披露する談志など。

談志の身振り手振りで。

             稽古の様子。

               「隣に囲いができたってねえ」「へえ」。

        

彦六さんの落語を聞いたことがない人でも、この方の語り口ですっかり耳に残ってしまいます。

      「コロナに負けないで・・・」。

            

(「youtube」より)

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