「中川大橋」。ずいぶん澄んだ水面になっています。
魚の姿もチラホラ。
「中川船番所資料館」。
「旧中川・川の駅」。
「中川番所」から「旧中川・川の駅」へ
江戸最初の運河・小名木川が開かれました
天正18年(1590)江戸の城下町を作ることになった徳川家康は、江戸への物資の輸送路として、小名木川を開きました。江戸に通じる最初の運河です。下総国行徳産の塩を江戸へ運ぶために開いたとされていますが、以後、米・醤油・野菜など多くの物資がここを往復しました。沿岸はしだいに町場となって、現在の江東区の原型が作られていきました。
1661年(寛文元年)中川番所ができました
利根川をはじめ関東各地の河川が整備され、「奥川筋)(江戸の奥)と呼ばれる水体系となりました。関東一円の「奥川筋」と江戸の運河がつながったことから、人やモノの動きをおさえるため、江戸幕府はこの地に寛文元年(1661)中川番所を開きました。ここが、水路としての江戸への入り口になった瞬間でした。
現代版の中川番所をコンセプトに「旧中川・川の駅」を整備
この旧中川・川の駅は、かつての江戸への入り口として舟運で賑わっていた、中川の風景を復活させることをコンセプトにしております。水陸両用バスが入出水するスロープやカヌー・カヤックなど、地元密着のウォータースポーツが利用可能な乗船場を整備しました。観光船や防災船着き場など、多様な水辺利用の拠点として活用していきます。
「中川船番所」は、前に訪問したことがあります。その時の記事を再掲。
資料館入口にあった「田船」。
1 深田に浮かべて、肥料や刈り取った稲を押し運ぶのに用いる小舟。弥生時代から用いられている。
2 水郷や沼などで、乗用や農作物の運搬などに使用される平底の簡単な作りの舟。(「デジタル大辞泉」より)
中川船番所の再現。
寛文元(1661)年に、江戸を出入りする船を取り締まるために小名木川の隅田川口に置かれていた「深川口人改之御番所」が、中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し「中川番所」となりました。
中川番所があった場所については現在の江東区大島9丁目1番地と推定されていましたが、平成7(1995)年の発掘調査において柱材や礎石などが出土したことにより、中川番所跡であることがほぼ確定しました。中川船番所資料館は、この番所跡地より北に50メートルほど離れた場所に建てられています。
(この項、「江東区」HPより)
江戸名所図会『中河口』「中川番所」。
高札。現代語訳のもの。
一.夜間の江戸からの出船は禁止、入船は許可する。
一.中川番所前を通過する時には、乗船している人々は笠や頭巾を脱ぎ、船は戸を開けて内部を見せる。
一.女性は身分の上下によらず、たとえ証文があっても一切通行は許可しない。
一.鉄砲は二、三挺までは改の上通行を許可するが、それ以上の場合は指図を請ける。その他の武具についても同様である。
一.人が入ることのできる大きさの器は確かめた上、異常が無ければ通す。小さい器に関しては改には及ばない。万一不審な点があれば船を留置き報告をする。
附 囚人や怪我人、死人についても、証文がなければ通行は許可しない。
1880年代のようす。
小名木川と中川の交差するところに番所跡。
2010年代のようす。
番所跡の少し北側に資料館。
当時の風景を模した絵。
当時の水運、海運の概念図。
「塩の道・小名木川」の全容。
広重「名所江戸百景 中川口」。手前が「小名木川」で、左下に「中川番所」の建物や石段が描かれている。中央を左から右に「中川」が流れ、その奥が「新川」。
「資料館」には、当時の番所の役割・ようすが詳しく展示され、別の階には釣り道具や魚拓など釣り関係の展示が豊富に。けっこう充実しています。
眼下を眺める。「旧中川」の流れ。
・・・
のんびりと散策する姿も。
こちらではカヌーの整備中。
「中川大橋」下の艇庫。
旧中川は流れのない静水なので、カヌーやカヤックを楽しめるところとなっています。
お花畑の花々も満開。
都営地下鉄新宿線「東大島駅」。
船堀橋から下流。
けっこう橋が続きます。そこで、「東京の橋ナビゲーション」HPより。
続いて「さくら橋」・「もみじ橋」と並んでいます。
ヨシ。
逆井橋。
「逆井の渡し跡」碑。
解説板。
逆井の渡しは、江戸時代から明治時代初期まで中川にあった渡しで、亀戸村と西小松川村(江戸川区)を結んでいました。もとは逆井村(西小松川の北隣り)と亀戸村を結んでいたため、逆井の渡しと称せられました。この場所は、万治2年に開削された竪川の北岸沿いに通る佐倉道と中川の合流点であり、江戸と下総方面をつなぐ交通の要所でした。川幅は40間(約73㍍)ほどで、船は2艘が備えられ、、1艘は亀戸村、1艘は西小松川村持ちでした(『新編武蔵国風土記稿』)。
開設の詳細は不明ですが、延宝8年(1680)の『江戸方角安見図』には、「総州さくら海道」(佐倉道)と中川が結節する地点に、「小松川舟わたし」の記載が見られ、この頃には渡船が運航していたことがわかります。また、明治時代の記録には、竪川の開削に携わった徳島屋兵右衛門らが寛文年間(1661~73)に渡船場を開設したとも記されています。
渡船場周辺の様子は、嘉永3年(1850)の『絵本江戸土産』などによると、のどかな田園風景が広がる緑豊かな景観が風流人たちの好まれ、川を渡る人は船上からの眺めを楽しんでいたことがうかがわれます。
渡船は明治以降も続き、『東京府統計表』によると明治10年(1877)頃の渡し賃は人が1銭1厘5毛、牛馬・人力車が3厘、馬車が1銭5厘等となっていました。明治12年に亀戸村と西小松川村により木造の逆井橋が架橋されると、渡しは交通機関としての役割を終え、廃止されました。
※1 右に歌川広重画「逆井のわたし」と「絵本江戸土産」中の「逆井の渡」が掲載されています。
※2 墨田区・両国から竪川の北側を東に向かう元佐倉道(旧千葉街道)は、中川(現・旧中川)を「逆井の渡し」で越え、現在の江戸川区小松川地域に入り、そのまま北東に直進、「四股」(荒川放水路開削によって消滅)で行徳道と交差して市川方向に進みます。
「逆井の渡し」付近は東京大空襲による壊滅的な被害を受けた後の街並みの整理・復興、竪川上の首都高の建設、北側の通りを通っていた都電(かつての城東電車)の撤去、荒川(放水路)スーパー堤防の建設などによって40、50年前の面影は全くありません。かすかに残る道筋と戦災の被害を生々しく伝える「元江戸川区役所文書庫」、浅間神社内に保存された都電のレールなどわずかで、旧千葉街道であったことを示す案内板が立てられていることで、昔の街道を偲ぶのみです。
※3 「逆井橋」に関わって、中国人虐殺に対するけん書籍を紹介。
「関東大震災と中国人 王希天事件を追跡する」(田原 洋)岩波現代文庫
1923年(大正12年)9月1日に発生した「関東大震災」の大混乱の中で引き起こされた、「朝鮮人虐殺事件」「亀戸事件」「大杉栄殺害事件」は、不当な虐殺事件としてよく知られている。
犠牲者の大部分は朝鮮人だが、400人以上の中国人、数百人単位の日本人も含まれていた。中国人虐殺が集中的におこなわれたのは、東京府下南葛飾郡大島町(現在の江東区大島、亀戸。JR「亀戸駅」南東)だった、と地図入りで紹介し、王希天の殺害現場を明示している。
当時、日本国内での朝鮮人―「日韓併合」によって植民地化された―と、中国人―当時は「中華民国」の国民―の置かれた立場(状況)の決定的な違いから、中国との外交問題になってしまったとき、朝鮮人と「誤って」中国人たちを殺した(誤殺であった!)、という言い訳(居直り)をする日本政府関係者。王希天についても、いったん収容した(多くの中国人、朝鮮人とともに)警察から釈放した後の行方は知らない、と言い逃れする。
「行方不明」になった王希天を捜索するために亀戸に赴く中国人同胞。そうした中で、知らぬ存ぜぬとしらを切りつづけた軍部と警察当局は、中国との外交問題化になると見るや、軍当局(戒厳令下の)、警察(亀戸警察)、さらに政府を巻き込んでの大がかりな隠蔽工作を行う。
こうして、いつしか「王希天事件」は歴史の闇の中に消えてしまった!
筆者は、そうした過去の歴史の暗部を、とりわけ中国人虐殺の真実を調査し、ついに王希天殺害の真犯人(直接手を下した者)を突き止める。そこに至るまでの、資料発掘、証言の収集など日本政府の欺瞞をくつがえす新資料の発見(アメリカの国会図書館に眠っていた資料など)、さらに、加害者へのインタビュー、・・・。関東大震災の時の朝鮮人、社会主義者への虐殺に忘れ去られた中国人虐殺、その典型としての王希天にたいする虐殺を浮き彫りにしていく。
筆者の、真相に迫ろうとする執念は、けっして加害者をあぶりだすことにとどまらず、当時の日本の官憲の実態、一般日本人が陥った群衆心理、軍をはじめとする権力構造、それらが今もなおまったく無縁のものではないことを訴えている。
王希天殺害現場は、旧中川に架かる「逆井(さかさい)橋」付近であった、という。
対岸を望む。
脇に周辺の史跡・見所の案内図。
「亀戸あさくさ古道」を訪ねて。以前、ほぼ歩いたところですが。