7時まで戻らなければならない用事が出てきました。さて、どこまで進むか? 「青梅駅」は無理としてその手前の駅は? と思案しつつ。
(16:11)右手に「桜株広場」。広場の真ん中に大きな桜の木。何か曰くがあるのか?
道路沿いに「・・・井戸跡」という標識がいくつかあります。
この付近は丘陵地帯で水には苦労したようです。井戸をかなり深く掘らないと水を得ることができなかったようです。
「まいまいず井戸」(地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう。「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれる。「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難之井)がこれを指すものと見られる)が「大井戸公園」や羽村駅近くに残っています。また、「堀兼之井」は、都内では神楽坂付近にその跡があります。
羽村駅北口にある「まいまいず井戸」。
史跡 掘兼の井・新宿区市谷船河原町9番地
掘兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味。
・いかでかと思ふ心は堀かねの 井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)
・はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)
・武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)
・汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを(西行)
(この項、「都内の坂」巡りの時の投稿)
(16:19)さらに進んだ右手には、
「旧吉野家住宅」。
解説板。
東京都指定文化財 旧吉野家住宅
慶長16年(1611)、吉野織部之助(?~1639)は新田の開発に着手し、新町村が誕生しました。吉野家は、新町村の名主を代々勤めました。現存するこの住宅は、安政2年(1855)3月、下馬淵村(現在の青森市長淵)の棟梁新兵衛らによって建てられたものです。桁行10.5間(約19.1m)、梁間4.5間(約8.1m)の茅葺き入母屋造りで、建築面積は75.2坪(248.7㎡)です。建物は整形6ッ間型、向かって右側はダイドコロ、隣接するカッテは板の間でイロリが切られています。左手奥の部屋(オク)は床・違い棚・附書院を完備し、玄関には式台が付いています。天井裏に当たる小屋組みの内部には、長妻用のタナ・オオダナが設けられています。幕末の名主階級の民家として完成された室間取りの姿をよく伝え、多摩地方を代表する建造物です。
ここにも井戸跡碑。
(16:23)「吉野家」のすぐ先が「鈴法寺公園」になっていて、虚無僧寺の総本寺として名高かった「鈴法寺」跡となっています。
東京都指定史跡 鈴法寺(れいほうじ)跡
鈴法寺は、普化宗(ふけしゅう)総本寺の一つとして武蔵幸手の藤袴村に創建され、天文元年(1532)に川越の葦草村に移りました。普化宗は中国の唐代に成立した禅宗の一派で、宗徒が虚無僧の姿をしていることで有名です。慶長18年(1613)、住持月山養風は、同じくかつて後北条氏の家臣で忍城にいた吉野織部兵衛が新町村を開拓しいたことから、再度、寺を新町村に移転しました。
徳川幕府によって普化宗は庇護され、鈴法寺は全国120箇所余りあった普化宗寺院の根本道場として、明治4年(1871)の普化宗廃宗まで栄えました。しかし、明治28年に火災に遭い、堂宇は消失、現在では寺域の北東隅に歴代住持の墓が残るにすぎません。
以下は、「水戸街道」歩きの際の投稿。
「日蓮正宗・金龍山一月寺」。
江戸時代は、「普化宗・金龍山一月(いちげつ)寺」といって、虚無僧寺の総本山でした。
注:普化宗(ふけしゅう)
日本の仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
(以上、「Wikipedia」参照)
普化宗金龍山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には幸手(のち、青梅に移転)の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。
・・・以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの萬満寺の助力を得ながら在家が管理する形となりました。昭和30年代、本所吾妻橋・妙縁寺総代の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗。「いちがつじ」と読みを変更して現在に至っているそうです。
注:虚無僧
「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。
托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。(同上)
少年たちが遊んでいました。
この先、「野上」交差点付近から旧道は大きく曲がって北西の方に進んでいたようです。その道筋はすでになくなっているそうですが、「東青梅5丁目北」交差点付近からは弓なりに旧道が残っている、とのこと。その道を歩いて行けば「東青梅駅」に。
ただし、まだまだ時間がかかりそう。そこで、「河辺駅」入口のところで左折、駅に向かいました。今回はここまで。
(16:39)青梅街道を望む。
(16:11)右手に「桜株広場」。広場の真ん中に大きな桜の木。何か曰くがあるのか?
道路沿いに「・・・井戸跡」という標識がいくつかあります。
この付近は丘陵地帯で水には苦労したようです。井戸をかなり深く掘らないと水を得ることができなかったようです。
「まいまいず井戸」(地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう。「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれる。「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難之井)がこれを指すものと見られる)が「大井戸公園」や羽村駅近くに残っています。また、「堀兼之井」は、都内では神楽坂付近にその跡があります。
羽村駅北口にある「まいまいず井戸」。
史跡 掘兼の井・新宿区市谷船河原町9番地
掘兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味。
・いかでかと思ふ心は堀かねの 井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)
・はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)
・武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)
・汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを(西行)
(この項、「都内の坂」巡りの時の投稿)
(16:19)さらに進んだ右手には、
「旧吉野家住宅」。
解説板。
東京都指定文化財 旧吉野家住宅
慶長16年(1611)、吉野織部之助(?~1639)は新田の開発に着手し、新町村が誕生しました。吉野家は、新町村の名主を代々勤めました。現存するこの住宅は、安政2年(1855)3月、下馬淵村(現在の青森市長淵)の棟梁新兵衛らによって建てられたものです。桁行10.5間(約19.1m)、梁間4.5間(約8.1m)の茅葺き入母屋造りで、建築面積は75.2坪(248.7㎡)です。建物は整形6ッ間型、向かって右側はダイドコロ、隣接するカッテは板の間でイロリが切られています。左手奥の部屋(オク)は床・違い棚・附書院を完備し、玄関には式台が付いています。天井裏に当たる小屋組みの内部には、長妻用のタナ・オオダナが設けられています。幕末の名主階級の民家として完成された室間取りの姿をよく伝え、多摩地方を代表する建造物です。
ここにも井戸跡碑。
(16:23)「吉野家」のすぐ先が「鈴法寺公園」になっていて、虚無僧寺の総本寺として名高かった「鈴法寺」跡となっています。
東京都指定史跡 鈴法寺(れいほうじ)跡
鈴法寺は、普化宗(ふけしゅう)総本寺の一つとして武蔵幸手の藤袴村に創建され、天文元年(1532)に川越の葦草村に移りました。普化宗は中国の唐代に成立した禅宗の一派で、宗徒が虚無僧の姿をしていることで有名です。慶長18年(1613)、住持月山養風は、同じくかつて後北条氏の家臣で忍城にいた吉野織部兵衛が新町村を開拓しいたことから、再度、寺を新町村に移転しました。
徳川幕府によって普化宗は庇護され、鈴法寺は全国120箇所余りあった普化宗寺院の根本道場として、明治4年(1871)の普化宗廃宗まで栄えました。しかし、明治28年に火災に遭い、堂宇は消失、現在では寺域の北東隅に歴代住持の墓が残るにすぎません。
以下は、「水戸街道」歩きの際の投稿。
「日蓮正宗・金龍山一月寺」。
江戸時代は、「普化宗・金龍山一月(いちげつ)寺」といって、虚無僧寺の総本山でした。
注:普化宗(ふけしゅう)
日本の仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
(以上、「Wikipedia」参照)
普化宗金龍山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には幸手(のち、青梅に移転)の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。
・・・以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの萬満寺の助力を得ながら在家が管理する形となりました。昭和30年代、本所吾妻橋・妙縁寺総代の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗。「いちがつじ」と読みを変更して現在に至っているそうです。
注:虚無僧
「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。
托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。(同上)
少年たちが遊んでいました。
この先、「野上」交差点付近から旧道は大きく曲がって北西の方に進んでいたようです。その道筋はすでになくなっているそうですが、「東青梅5丁目北」交差点付近からは弓なりに旧道が残っている、とのこと。その道を歩いて行けば「東青梅駅」に。
ただし、まだまだ時間がかかりそう。そこで、「河辺駅」入口のところで左折、駅に向かいました。今回はここまで。
(16:39)青梅街道を望む。