おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その7。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-29 20:03:16 | 青梅街道
 7時まで戻らなければならない用事が出てきました。さて、どこまで進むか? 「青梅駅」は無理としてその手前の駅は? と思案しつつ。

 
                  (16:11)右手に「桜株広場」。広場の真ん中に大きな桜の木。何か曰くがあるのか?
 
道路沿いに「・・・井戸跡」という標識がいくつかあります。

 この付近は丘陵地帯で水には苦労したようです。井戸をかなり深く掘らないと水を得ることができなかったようです。
 「まいまいず井戸」(地表面をすり鉢状に掘り下げ、すり鉢の底の部分から更に垂直の井戸を掘った構造。すり鉢の内壁に当たる部分には螺旋状の小径が設けられており、利用者はここを通って地表面から底部の垂直の井戸に向かう。「まいまい」はカタツムリの事で、井戸の形がその殻に似ている事から「まいまいず井戸」と呼ばれる。「まいまいず井戸」は既に古代から存在し、武蔵野の歌枕として知られる「ほりかねの井」(堀兼之井、堀難之井)がこれを指すものと見られる)が「大井戸公園」や羽村駅近くに残っています。また、「堀兼之井」は、都内では神楽坂付近にその跡があります。
羽村駅北口にある「まいまいず井戸」。

史跡 掘兼の井・新宿区市谷船河原町9番地
 掘兼の井とは「掘りかねる」の意からきており、掘っても掘ってもなかなか水が出ないため、皆が苦労してやっと掘った井戸という意味。
 ・いかでかと思ふ心は堀かねの 井よりも猶ぞ深さまされる(伊勢)
 ・はるばると思ひこそやれ武蔵野の ほりかねの井に野草あるてふ(紀貫之)
 ・武蔵野の堀兼の井もあるものを うれしや水の近づきにけり(藤原俊成)
 ・汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを(西行)

(この項、「都内の坂」巡りの時の投稿)

(16:19)さらに進んだ右手には、
「旧吉野家住宅」。

                    

解説板。
東京都指定文化財 旧吉野家住宅
 慶長16年(1611)、吉野織部之助(?~1639)は新田の開発に着手し、新町村が誕生しました。吉野家は、新町村の名主を代々勤めました。現存するこの住宅は、安政2年(1855)3月、下馬淵村(現在の青森市長淵)の棟梁新兵衛らによって建てられたものです。桁行10.5間(約19.1m)、梁間4.5間(約8.1m)の茅葺き入母屋造りで、建築面積は75.2坪(248.7㎡)です。建物は整形6ッ間型、向かって右側はダイドコロ、隣接するカッテは板の間でイロリが切られています。左手奥の部屋(オク)は床・違い棚・附書院を完備し、玄関には式台が付いています。天井裏に当たる小屋組みの内部には、長妻用のタナ・オオダナが設けられています。幕末の名主階級の民家として完成された室間取りの姿をよく伝え、多摩地方を代表する建造物です。

 
                    

ここにも井戸跡碑。 

 (16:23)「吉野家」のすぐ先が「鈴法寺公園」になっていて、虚無僧寺の総本寺として名高かった「鈴法寺」跡となっています。


                   
東京都指定史跡 鈴法寺(れいほうじ)跡
 鈴法寺は、普化宗(ふけしゅう)総本寺の一つとして武蔵幸手の藤袴村に創建され、天文元年(1532)に川越の葦草村に移りました。普化宗は中国の唐代に成立した禅宗の一派で、宗徒が虚無僧の姿をしていることで有名です。慶長18年(1613)、住持月山養風は、同じくかつて後北条氏の家臣で忍城にいた吉野織部兵衛が新町村を開拓しいたことから、再度、寺を新町村に移転しました。
 徳川幕府によって普化宗は庇護され、鈴法寺は全国120箇所余りあった普化宗寺院の根本道場として、明治4年(1871)の普化宗廃宗まで栄えました。しかし、明治28年に火災に遭い、堂宇は消失、現在では寺域の北東隅に歴代住持の墓が残るにすぎません。
                     
 以下は、「水戸街道」歩きの際の投稿。

「日蓮正宗・金龍山一月寺」。

 江戸時代は、「普化宗・金龍山一月(いちげつ)寺」といって、虚無僧寺の総本山でした。


注:普化宗(ふけしゅう)
 日本の仏教の禅宗のひとつ。9世紀に中国で臨済義玄と交流のあった普化を始祖とするため、臨済宗(禅宗)の一派ともされる。普化は神異の僧であり、神仙的な逸事も多く、伝説的要素が強い。虚無宗(こむしゅう)とも言い、虚鐸(尺八)を吹きながら旅をする虚無僧で有名。
 1249年(建長6年)日本から中国(南宋)に渡った心地覚心が、中国普化宗16代目孫張参の弟子である宝伏・国佐・理正・僧恕の4人の在家の居士を伴い、1254年に帰国することで、日本に伝わった。紀伊由良の興国寺山内に普化庵を建て居所とした。4人の帰化した居士は、それぞれ4人の法弟を教化し16人に普化の正法を伝え、16の派に分かれていた。後に宝伏の弟子の2人(金先、括総)の派が盛んになり、他の派は滅びてしまったり、両派を触頭として支配下に入り存続した。
 心地覚心の法孫にあたる靳全(金先古山居士)がでて、北条経時の帰依を受け、下総国小金(現在の千葉県松戸市小金)に金龍山梅林院一月寺を開創し、金先派総本山となった。一方、括総了大居士は武蔵野国幸手藤袴村(現在の埼玉県幸手市)に廓嶺山虚空院鈴法寺を開創し、括総派総本山となり、一月寺と共に普化宗末寺120あまりの触頭となった。
 普化宗を公称し、一つの宗派として活動するのは、近世に入ってからである。
 江戸時代には虚無僧の集団が形成された特殊な宗派で、教義や信仰上の内実はほとんどなく、尺八を法器と称して禅の修行や托鉢のために吹奏した。1614年(慶長19年)に江戸幕府より与えられたとされる「慶長之掟書」により、虚無僧の入宗の資格や服装も決められるなど組織化され、諸国通行の自由など種々の特権を持っていたため隠密の役も務めたとも言われる。
 江戸幕府との繋がりや身分制度の残滓が強かったため、明治になって政府により1871年に解体され、宗派としては失われている。また、その後一月寺は日蓮正宗の寺院となり、鈴法寺は廃寺となった。しかし尺八や虚鐸の師匠としてその質を伝える流れが現在にも伝わっており、尺八楽の歴史上重要な存在である。
                                           (以上、「Wikipedia」参照)

 普化宗金龍山一月寺は、鎌倉時代金先禅師によって創建されたといわれています。江戸時代には幸手(のち、青梅に移転)の鈴法寺と一月寺が触頭として関東地域の普化宗諸派の寺院を統括しました。明治4年の太政官布告によって普化宗は廃止されます。
 ・・・以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの萬満寺の助力を得ながら在家が管理する形となりました。昭和30年代、本所吾妻橋・妙縁寺総代の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗。「いちがつじ」と読みを変更して現在に至っているそうです。

注:虚無僧
 「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。
 托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、男帯を前に結び、腰に袋にいれた予備の尺八をつける。首には袋を、背中には袈裟を掛け、頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。(同上)

少年たちが遊んでいました。

 この先、「野上」交差点付近から旧道は大きく曲がって北西の方に進んでいたようです。その道筋はすでになくなっているそうですが、「東青梅5丁目北」交差点付近からは弓なりに旧道が残っている、とのこと。その道を歩いて行けば「東青梅駅」に。
 ただし、まだまだ時間がかかりそう。そこで、「河辺駅」入口のところで左折、駅に向かいました。今回はここまで。
(16:39)青梅街道を望む。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その6。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-28 20:02:06 | 青梅街道
                                  「瑞穂第一小学校」沿いに「江戸街道」という標識。

(14:33)旧家の雰囲気を残す「関谷」家のところで右折。

日光街道」。「箱根ヶ崎」宿はこの通り沿いに置かれた。
 この「日光街道」は、「千人同心日光道」のことで、八王子千人同心が日光東照宮の「火の番」の任に往来した道。「千人同心街道」、「日光脇街道」、「日光脇往還」などとも呼ばれました。街道沿いの表示板、説明板などには「日光街道」と記されたものが多いようです。
 八王子宿から甲州街道と分かれ、拝島→箱根ケ崎→二本木→扇町屋→根岸→高萩→坂戸→高坂→松山→行田→館林と進み、佐野(天明宿)で「日光例幣使街道」に合流しました。日光までは約40里、3泊4日の行程。

 八王子市の甲州街道沿いに「千人町」という町があります。珍しい町名ですね。なぜ「千人町」という町名なのでしょうか。それは江戸時代、この辺りに幕府の家臣団である八王子千人同心が住んでいたからなのです。
・・・
 八王子千人同心の始まりは、甲斐国(かいのくに・現在の山梨県)に求められます。9人の小人頭(こびとがしら)とその配下の人々で、武田氏の家臣でした。しかし武田氏は織田信長の攻撃により天正10年(1582年)に滅亡してしまいます。新たに甲斐国を治めたのが、後に江戸幕府を開いた徳川家康でした。小人頭と配下の同心も家康に召し抱えられ、新たな道を歩み始めます。
 戦国時代、関東に強大な勢力を持っていたのが北条氏です。八王子も北条氏の領地でした。秀吉は関東に侵攻し、天正18年(1590年)に北条氏を降伏させました。北条氏に替わり関東を治めることになったのが徳川家康で、八王子も家康の支配となりました。
 やがて八王子地域の治安維持を主な目的として、9人の頭(かしら)とおよそ250人の同心が八王子に移されたのです。彼らが最初に住んでいたのは、落城まもない八王子城下でした。以降、千人同心の組織が整えられていきます。翌天正19年(1591年)、小人頭を一人増やして10名、同心は500人に増員され、文禄2年(1593年)には八王子城下から、現在の千人町を中心とした地域に屋敷地を拝領して移転してきます。さらに関ヶ原の戦いが行われた慶長5年(1600年)頃、同心が新たに召し抱えられて1,000人となり、文字通り「千人同心」となりました。
八王子千人同心は、小人頭を起源とする千人頭(せんにんがしら)10名に率いられた同心1,000名からなります。頭1名に100名の同心がつく構成です。
 千人同心の役割は、八王子の治安維持や国境警備、大きな合戦があれば従軍し、関ヶ原の戦いや大坂の陣にも出陣しました。千人同心は軍事集団の役割を担っていたのです。しかし幕府の体制が整い、世の中が安定して平和の時代が到来すると、千人同心の役割も変わっていきます。
 千人同心に命じられた重要な役目が、慶安5年(1652年)から勤めた日光火の番でした。日光は、東照大権現として家康がまつられた東照宮があり、幕府の精神的なよりどころでした。
 千人同心は、その東照宮の防火と警備にあたり、境内や町内を見回り、いざ出火となれば消火活動にあたったのです。八王子から日光までは、当初は江戸に出て千住から向かうルートを通っていましたが、多くは八王子から拝島方面へ向かい、松山(埼玉県東松山市)・佐野(栃木県佐野市)を経るルートを利用しました。三泊四日の旅程でした。
 当初は千人頭2名と100名の同心が担当し、50日期間で交代する体制でした。その後何度か変更され、最終的には寛政3年(1791年)に千人頭1名と同心50名で半年交代で務める体制になりました。この役目は江戸時代を通じて勤められ、慶応4年(1868年)に千人同心が解体するまで続きました。
・・・

(以上、HPより)

 しばらく進むと、現在の青梅街道に合流します。左折する右の角に明治5年創業の「漢方の會田」というお店があります。


                            

「圓福寺」。

現青梅街道を西に進みます。沿道には土蔵造りの建物。

JR八高線の踏切に近づきます。

                     (14:44)

 この付近の今昔。

1880年代のようす。「箱根ヶ崎宿」は、「日光街道」沿いに発展しました。→が「日光街道」。○が合流地点。


2010年代のようす。左手の駅がJR八高線「箱根ヶ崎駅」。

しばらく進んだ右手、「岩藏街道」が分岐します。

茶畑。

 (14:59)「国道16号線(瑞穂バイパス)」を通り過ぎ、そろそろ休憩を。


                

さて、再開。「37㎞かち歩き」の幟。この地点が「37㎞ポスト」。

 新宿からは青梅までは「43㎞」。あと6㎞でゴールということに。

 

 ポスターの惹句「逞しい日本人の育成」が気になりますが・・・。

(15:28)沿道には大きなお屋敷が並んでいます。


                       

(15:40)いよいよ「青梅市」入り。「青梅新町境」交差点。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その5。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-27 20:54:39 | 青梅街道
                       正面右手に大きな「イオンモールむさし村山」。ここは、日産自動車村山工場の跡地の一部。

 (13:14)旧道はその敷地で途切れてしまうので、「残堀川」に架かる「伊奈平橋」方向へ進みます。


                    「残堀川」。
 狭山丘陵西端付近にある狭山池(東京都西多摩郡瑞穂町箱根ヶ崎)に源を発し、立川断層に沿って南東に流れ、武蔵村山市の旧日産村山工場の敷地(注:現在は「イオンモールむさし村山」等になっている)に突きあたってから南に流れを変える。ここから下流は河道付替工事による人工の流路である。立川市一番町付近で玉川上水を乗り越え、国営昭和記念公園の西辺に添いながら昭島市に入る。東向きに曲がって同公園の敷地に入り立川市域に再び入る。公園内で再び南に向きを変え、立川市富士見町3丁目でほぼ直角に曲がり、立川市柴崎町で多摩川に合流する。
 元々は狭山丘陵の小河川の水を集めて南東に流れ、矢川に注いでいたと考えられている。
・・・1963年(昭和38年)氾濫対策として、玉川上水を越える形に変え、1982年(昭和57年)「残堀川流域整備計画」が策定され、その計画に沿って河川改修工事が施工された。
 しかしそれ以降は年間を通じて、降雨時およびその直後を除くと水流の殆ど見られない「瀬切れ」を頻繁におこすようになり、場所によってはその名の如く「堀だけが残る川」となってしまった。・・・
(以上「Wikipedia」参照)

うどん屋の手前から旧道が復活。左折し「上砂橋」を渡る。

  

渡って右の道へ。

(13:22)しばらく進むと、「榎」交差点で分かれた「江戸街道」に合流、西へ向かいます。
     

畑地が広がります。

珍しく桑畑があります。

梅。

西の方には奥多摩の山々が。

 この道はまっすぐ進むと「IHI」の工場の先で広大な「米軍横田基地」のために分断されてしまいます。そういえば、先ほどから頭上はヘリコプター行き交いたび、けっこうな騒音が。

(13:47)先達の案内に従い、「グリーンタウン南」信号で「武蔵村山高校」に向けて右折します。


 (13:52)その手前で道路を横切って直線で進む遊歩道。水道道(みち)?
西方向。東方向。
                       「野山北公園自転車道線」。
 実は「軽便鉄道」の跡のようです。
 昭和の初めに「山口貯水池」の建設のための砂利の運搬用に敷設された12.6km。羽村市の多摩川から引かれていました。
 大正時代にすでに設置されていた、羽村から「村山貯水池」までの水道管上を利用して敷設されました。この水道管は現在も使われています。武蔵村山市内を横断している鉄道跡が「野山北公園自転車道線」として残されています。特に鉄道遺跡はないようですが、当時のトンネルが4カ所残されています。また、横田基地の西側、羽村市内にも鉄道跡が「神明緑道」として残っているとのこと。地下には多摩川から村山貯水池や山口貯水池に水を送る導管(東京水道)が埋め込まれています。

 唯一鉄道が通っていない「武蔵村山市」市内。これはぜひ行ってみなければなりません。でも、どう行けばいいのか?

バス停の脇には明治4年建立の「道標」。
                       「右青梅道」「左羽村道」。当初の位置とは異なるようです。

正面の「ジョイフル本田瑞穂店」に向かって進む。

「一本榎」が見えてきます。

(14:10)榎の脇に「江戸街道」という標識。

「庚申塔」。

かなり大きなホームセンター。

この地域は「瑞穂町」。

 (14:18)「新青梅街道」に合流し、「瑞穂石畑」交差点を斜めに突っ切ります。


来た道を振り返る。

 「箱根ヶ崎」に向かって進みます。
 

この付近の今昔。


1880年代のようす。「至函根崎村道」が旧道か。流れは「残堀川」。



2010年代のようす。↑が「瑞穂石畑」交差点。交差点手前の旧道ははっきりしない。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その4。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-26 21:11:43 | 青梅街道
                             (12:03「桜街道(旧青梅街道)」。

開花にはまだ早かった! (3/17)

」碑。
 村山団地から東大和市駅を抜けて小平へ向かう旧青梅街道は、かつては江戸街道と呼ばれた美しい桜並木になっていました。
 花の咲く頃は遠く鹿島神社の裏山から、まるで白い幕をひいたかのように見えたそうです。
 この桜並木は明治15,6年頃に植えられ、小学校の遠足の場所でもあり、並木道を使って運動会が行われたそうです。
 桜の木は畑に植えられたさつまいもや桑の木の成長を妨げる「こさをひく(影ができる」
ということで切り倒されたりしたこともあったようです。
 この見事な桜並木も昭和20年4月24日の空襲で付近がほとんど壊滅状態になり、大部分がなくなってしまい、今となっては名前が残るだけになってしまいました。
 市では、桜並木を復活させるため、この道路の街路樹に桜を植え、道路の愛称も桜街道としました。

 この付近も空襲でやられたのですね。
 以下HPより。

戦災遺跡 東大和市指定文化財 旧日立航空機株式会社変電所
 昭和13年、北多摩郡大和村(現在の東大和市)に戦闘機のエンジンを製作する大きな軍需工場が建設されました。東京瓦斯電気工業株式会社(翌年「日立航空機株式会社」となる)立川工場です。工場の敷地北西部に存在した変電所は、高圧電線で送られてきた電気を、減圧して工場内へと送る重要な施設でした。
 昭和20年、多摩地域一帯の他の軍需工場と同様に、当時の大和村でも合計10回の空襲があったといわれています。うち2月と4月の計3回の空襲では、工場の従業員や動員された学生、周辺の住民など100人を超える方が亡くなり、建物のほとんどが破壊されましたが、変電所は奇跡的に生き残りました。
 もちろん窓枠や扉などは爆風で吹き飛び、壁面には機銃掃射や爆弾の破片による無数のクレーター状の穴ができました。しかし鉄筋コンクリート製の建物本体は、致命的な損傷をうけなかったのです。
 戦後、工場はスレートや編み物機の製造など平和産業に転換し、自動車会社との合併や社名変更などを行いながら、平成5年まで操業を続けました。
 その間、変電所は主要設備機器の更新をしながら、工場へ電気を送り続けていました。しかも、外壁に刻まれた生々しい爆撃の傷跡や内部の一部にも痕跡を残したままの状態で使われていたのです。
 平成5年、都立公園の整備のため、変電所を含む工場の敷地の一部を東京都が買い上げることになり、変電施設としての役割を終えました。
 しかし、地域住民や元従業員の方々の強い要望により、変電所の建物はそのまま保存されることになりました。保存にあたっては、最後の所有者であった小松ゼノア株式会社や東京都建設局の多大なご理解とご協力をいただきました。
 戦争で多くの尊い命が犠牲になったことを、誰よりも雄弁に物語ってくれるこの変電所を、東大和市は平成7年10月1日に文化財に指定し、後世に伝えることにしました。
壁には機銃掃射の弾痕が残っている。

「イトーヨーカドー」の先、左手の公園の中に保存されています。寄れなかったのは、残念!

「森永乳業」の工場。今をときめく某さんの関係筋?

(12:13)多摩都市モノレール「桜街道駅」。多摩モノレールと交差したのは「甲州街道」歩き以来。
 

 「甲州街道」歩きで、立川から日野に入るとき、「多摩川」に架かる「立日橋」の上にあったのが「多摩都市モノレール」でした。

多摩都市モノレール線
 東京都東大和市と多摩市を結ぶモノレール路線。
 南北方向の交通手段の整備が望まれていた多摩地域を縦断する路線である。元々鉄道空白地帯だった地域とターミナル駅間の輸送が主力だが、接続する鉄道が事故等で遅延・運休した際には、代替経路として振替輸送に利用される。
 基本的には高架駅で統一されているが、中央大学・明星大学駅のみ地上駅となっている。
 沿線はおおむね住宅地であるため、通勤・通学客の多い朝夕は非常に混雑する。また、周辺には大学などの教育機関が点在するため、その最寄り駅や他線との接続駅は学生で賑わっている。採用しているモノレールの仕組み上、悪天候に弱く、降雪や台風などによる強風の影響で遅延や運休が発生しやすい(改札付近に、運休の可能性がある旨の告知がしばしば見られる)。
 上北台駅から甲州街道駅の区間では高層建築物の多い立川周辺を除き南西方向に見える富士山の眺望が良い。(以上、「Wikipedia」参照)

《駅名》
上北台―桜街道―玉川上水―砂川七番―泉体育館―立飛―高松―立川北―立川南―柴崎体育館―甲州街道―万願寺―高幡不動―程久保―多摩動物公園―中央大学・明星大学―大塚・帝京大学―松が谷―多摩センター


その先、左手の農道が狭山丘陵南麓から八王子経由で大山に通じていた道のようです。


この付近の今昔。→が大山道。←が桜街道駅。

1880年代のようす。


2010年代のようす。

まっすぐ西に向かっています。

「江戸街道」という標示。

 (12:36)広大な「村山アパート」(「都営村山団地」)が左右に広がる。


                      

 土曜日の昼過ぎですが、ほとんど人通りはありません。たまにすれ違う人も年寄りの方が目立ちます。最寄り駅に行くのにもバスに乗るしか? それでも、北側の団地は高層に建て替えられ、敷地も広々としています。

都営村山団地 人情味残して進化
2016年6月5日

現在建て替えが進む都営村山団地(中央)。=本社ヘリ「おおづる」から(淡路久喜撮影)
 
 新宿から西へ約30キロ、多摩地域北部のほぼ中央にある武蔵村山市。都内の市で唯一、鉄道がないが、都心のベッドタウンとして発展してきた。ここに都営村山団地がある。
 村山団地は1964~66年度に5260戸が建設された。50年が過ぎた今、老朽化のため建て替えが進む。市によると今年1月1日現在の団地住民の高齢化率は49.3%と、住民の約半数が65歳以上だ。
 そんな団地内の村山団地中央商店会には、利用客を無料で送迎する自転車がある。体力的になかなか外出できない高齢者を中心に活発に利用されている。屋根付きで赤いボディーの自転車が団地内を走り、住民の生活と街を活気づけている。
 多摩都市モノレール立川北(立川市)-上北台(東大和市)が98年11月に開業、徒歩圏内にモノレール駅ができた。市内を通り箱根ケ崎(瑞穂町)まで延伸する計画もある。商店会の比留間誠一会長(67)は「団地には義理堅い人が多く、昔ながらの人情味が残っている。建て替わっても、モノレールが延びて便利になっても、団地のよさは変わらないでほしいね」と話した。 (萩原誠)

住宅に囲まれた畑地で農作業。

(12:56)「江戸」パーキング。「江戸街道」にちなんだ名?

しばらく進むと、「榎」交差点。「江戸街道」は右に折れていきますが、旧道は正面の細い道へ。
 

その先で旧道は消滅しています。
                A地点からB地点までが消滅。先ほどの「江戸街道」と合流して復活します。↓が元「原(はら)江戸道」
 白い空白部分は、「日産自動車」の村山工場跡地。
 広大な跡地の北側は大きなイオンモールなどになりましたが、南側の半分以上は、まだ空地のままになっています。イオンモールの先で旧道は復活し、残堀(ざんぼり)川に出会います。この通りは「原江戸道」とも呼ばれ、西に向かって進み、「米軍横田基地」のところで途切れてしまいます。

この付近の今昔。

1880年代のようす。原っぱが続きます。流れは「残堀川」。


2010年代のようす。中央が「イオンモール」。

左手はお茶畑。

右手は果樹園。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その3。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-23 20:14:35 | 青梅街道
                         (10:55)府中街道との分岐。

(11:01)「西武国分寺線」。 

                             

ここにも土蔵造りの建物が目立つ。農家の趣。


                     

(11:08)「中宿」バス停。

大きな家が目立つ。

小平市のマンホール。絵柄はタワー以外? 

「小平農家農産物直売所」があちこちに。

 (11:18)小川村を開いた小川九郎兵衛が開基となった「小川寺(しょうせんじ)」。


                 
 明暦2年(1656)小川九郎兵衛が小川村の開発を始めたとき、江戸市ヶ谷河田町(現新宿区)の月桂寺住職、雪山碩林大禅師を勧請し、開山として建立した寺院。・・・

 
                       「八雲せせらぎ水辺」。
 小平周辺には農業用水路が張りめぐらされ、今は、こうしたせせらぎ公園・遊歩道風になっています。

(11:22)「小川上宿」。三叉路。右に進む。

見事な垣根(市の保存対象)。

ケヤキ並木。

「小川用水」。

周囲にマンションなどの多い中で、広い敷地のおうち。

(11:37)西武拝島線「東大和市駅」に近づきます。

「←玉川上水放流口 野火止用水放流口→」。

 
 小平市と東大和市の境には「野火止用水」が流れていて、それを渡る青梅街道には青梅橋が架けられていました。現在、この付近は遊歩道になっています。
 青梅橋はなくなりましたが、橋の親柱が移設保存されており、「あをめはし」と彫られています。

青梅橋
 承応4年(1655)、玉川上水から分水された野火止用水を青梅街道が横断するために架けられました。両岸を石組みで固めた幅約2.5㍍、長さ約4㍍の木造の橋でしたが、昭和になってコンクリート製に架け替えられました。
 架橋から300年余りの後の昭和38年(1963)5月の東村山浄水場の開設にともない、玉川上水からの水の取り入れが、この橋のすぐ下流まで野火止用水路を利用した暗渠となったため、橋は取り壊され、青梅橋の名のみ残りました。
 往時、この橋から丸山台まで、4㌔にわたって幅約20㍍の道の中央に一列に植えられた千本桜と呼ばれる桜並木があり、季節には、近郊の人々の花見で賑わったといわれます。
 

野火止用水の歴史
 野火止用水は、立川市を起点とし埼玉県新座市の平林寺を経て埼玉県志木市の新河岸川に至る全長約24Kmの用水路です。現在では「野火止」と書きますが、開削当初は野火留村(現在の新座市野火止)の名を取り、野火留用水と呼ばれていました。
 開削の歴史は古く、承応4年(1655年)、徳川幕府老中の松平伊豆守信綱によって開削された用水路で、「伊豆殿掘」とも呼ばれています。
 徳川家康が江戸城へ入府後、約50年たち江戸の人口増加による飲料水不足が問題となり、幕府は承応2年(1653年)に多摩川から水を引く玉川上水を掘ることを許可しました。総奉行は、老中松平伊豆守信綱、水道奉行は関東郡代伊奈半十郎、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟がこれを請け負いましたが、この工事は難工事となり信綱は家臣の安松金右衛門・小畠助左衛門に補佐を命じ工事を続行させ、承応3年(1654年)に完成しました。
 その功績により信綱は、関東ローム層の乾燥した台地のため生活用水に難渋していた領内の野火止に玉川上水の分水を許可され、承応4年(1655年)に野火止用水が開通しました。この工事は、安松金右衛門に命じ、費用は三千両を要したといわれています。用水路は、素掘りにより開削されていますが、土地の低いところなどには、版築法などにより堤を築いたりして野火止の台地に引水されました。
 ところが、昭和24年(1949年)頃から生活様式が変わり始め、生活排水が用水に入って汚染が始まり、飲料水や生活用水としての利用が問題になりました。特に昭和38(1963年)頃から宅地化が進行し、用水への生活排水の排出が日常的におこなわれるようになりました。さらに昭和39年(1964年)に関東地方を大干ばつが襲い、東京が水不足になり野火止用水への分水が中止されました。昭和41年(1966年)、再度通水されるようになりますが水量が制限された為、水質汚染は改善されず昭和48年(1973年)には、東京都の水事情の悪化によりついに玉川上水からの取水が停止され、次第に用水路には蓋がされ暗渠化されていくようになったのです。
 しかし、歴史的にも貴重な野火止用水をよみがえらせようとの住民の機運が高まり、東京都により昭和49年(1974年)に隣接する樹林地とともに歴史環境保全地域に指定され、下水処理水をさらに浄化した高度処理水を流水に活用する「清流復活事業」を実施し、昭和59年(1984年)に野火止用水に流水がよみがえり現在に至っています。
 小平グリーンロードの一部でもある野火止用水は、春の富士見橋付近の桜や新緑の頃の野火止用水沿い樹林地など、身近でありながら四季折々豊かな自然を感じることのできるポイントが数多く点在しています。ぜひ一度、野火止用水の散策にお出かけください。
 そして、緑豊かな美しいまちづくりのためにも、皆さんの力でこの貴重な野火止用水と緑を美しい姿で後世に残していきましょう。

(以上HPより)

 「東大和市駅」の駅前広場を横切り、旧道の続きを行きます。かつては青梅橋から先約4kmにわたって桜並木があり千本桜と呼ばれていたといいます。現在はその桜は失われ、新しく街路樹として桜が植えられています。 東大和市ではこの街道を「桜街道」と呼んでいて、約1.8km先の「多摩モノレール」の駅も「桜街道駅」と名付けられています。
「東大和市案内図」。
 ↓が「青梅街道」、○が「桜街道」。

(11:42)駅前。大きなスケートリンクが。



(写真はHPより)

(11:49)「桜街道」へ。

この付近の今昔。


1880年代のようす。○の下方に「青梅橋」、斜めの流れが「野火止用水」。↓が旧「青梅街道(現桜街道)」。



2010年代のようす。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その2。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-22 20:50:44 | 青梅街道
                        (10:00)「延命寺」。早咲きのヒカンザクラ。

 延命寺の門前にある嘉永3年(1850)建立の庚申塔。

そのすぐ先には「FC東京パーク」。サッカーにはあまり興味なくスルー。

 春の草木がそろそろ花を咲かせてきます。この先、沿道のおうちの庭も花々が。
 

       手入れの行き届いたおうち。

梅。

竹林。保存地区になっています。

 (10:18)右手にあるのが「なかまちテラス」。去年開館したばかりのようです。


          

なかまちテラス(小平市立仲町公民館・仲町図書館)
地域と育てる人と情報の出会いの場
全景。

語り手:中村 和幸(小平市立仲町公民館 館長)
    上田 滋 (小平市立仲町図書館 館長) 
聞き手:永沼 麻子(金剛株式会社 社長室)

―なかまちテラスは仲町公民館と仲町図書館が合築された複合施設との事ですが、複合化しリニューアルオープンに至った経緯を教えてください。
 元々この場所は、昭和50年から小平市立図書館があり、その後、市立中央図書館が新しく移設され仲町図書館となった場所でした。この近くにあった仲町公民館も老朽化しておりましたので、両館を建て替える話が持ち上がりました。そこで、両館を合築する事で建物の管理の合理化もでき、そこに新しく生まれる可能性を地域に活かすという考えから、平成18年度から庁内で検討が始まったのがきっかけです。
 建物は世界的建築家の妹島和世さんの設計で、まちのシンボルとなる様なデザイン性の高い建物になっています。住民説明会を数回行い、地域住民の意見や要望を伺いながら進め、平成27年3月14日にリニューアルオープンしました。 

―開館に向けてどの様な取り組みをされたのでしょうか。
 『みんなでつくる、みんなのなかまちテラス』をコンセプトに、“なかまちテラスLiNKSプロジェクト”を開館に向け活動する場として立ち上げました。地域住民や地元小中学校・大学生・地元商店会の方々と平成26年7月から開館までの約8ヶ月をかけて活動をしました。
 LiNKSとはL(Library)=図書館、i(i)=私、N(Nakamachi)=仲町、K(Kominkan)=公民館、S(School)=学校を意味し、地域づくりの拠点となる施設にしたいという想いで名付けられています。
 具体的な取り組みとしては、大きく3つあります。1つ目は「キックオフ!なかまちテラスの未来づくりワークショップ」、2つ目は「この指とまれ!なかまちテラスでやりたいこと大募集」、3つ目は「武蔵野美術大学との連携事業」です。
・・・
HPより)

「小平消防署」の西付近から「小川宿」。
 人馬の継立業務に便利なように道が広くなっているところも残っていて、現在も1車線分道路の幅が広くなっています。小平市の名前の「小」は、小川宿から来ているそうです。

(10:31)西武多摩湖線「青梅街道」駅。

駅前にある「なかまちテラス」周辺案内図(上が東)。

駅の裏手にこんもりした林に囲まれたおうち。

その先には大きな切り株が二つ。

 しばらく進んで、右手にあるおうちの屋根の向こうに真っ白な花がたわわに。

 家の方に断って中に入ってパチリ。「何という名の木ですか? 」「ハクレンです。一週間くらいが見頃で、そのあとは邪魔でね・・・」と言いながらもけっこう大切にしているようです。

注:「ハクレン」=「ハクモクレン(白木蓮)」。普通「モクレン」というのは、紫色の花を咲かせる「シモクレン(紫木蓮)」を指す。

見事にスクッと伸びたケヤキ。剪定も大変そう。

 こうした大木が街路樹ではなく、沿道のおうちの庭にあるというのに、驚き。市としても「保存」活動を行っているようです。

青梅街道」解説板。
 慶長8年(1603)徳川家康が江戸に幕府を開き、同11年(1606)には江戸城の大改築を開始しました。これに伴い、当時重要な建築資材であった白土(石灰)を、その産地である現在の青梅市成木・小曽木から江戸城にに運搬するため、青梅から江戸の半蔵門まで武蔵野の荒野30数㎞を一直線に切り開いてつくられた道が青梅街道で、成木道とも呼ばれました。
 途中、馬匹の中継所である馬継場が箱根ヶ崎・小川・田無・中野の4か所置かれましたが、小川村の開発者小川九郎兵衛も、明暦3年(1657)にこの地に馬継場を開設しました。
 小川町2丁目の旧小川六番組から八番組にかけて、今も道幅が広くなっているところが当時の馬継場の跡地です。
 
土蔵造りの建物がある大きなおうち。

来た道を振り返る。

(10:43)しばらく進むと、JR武蔵野線「新小平」駅(地下)。
駅前の案内図(上が南)。↓が「青梅街道」。

小平市内の探訪案内図。見所がたくさんあります。

春を告げる花木が咲き始めています。

土蔵造りの建物が目立つ。

その先で「旧鎌倉街道」と交差します。鎌倉街道は各地と鎌倉を結んでいた旧道の総称で、ここはその内の「上道」と呼ばれる道が通っていました。
北方向。

                              南方向。

(10:52)鎌倉街道」解説板。
鎌倉街道(小平市小川東町~津田町)
 小川村が開発される前の小平はススキの生い茂る広漠たる原野でした。この原に天平の昔(730年頃)から府中の武蔵国府と前橋の上野国府を結ぶ1本の官道(東山道武蔵路)が通っていました。
 その後、源頼朝が鎌倉に幕府を開くとこの道は鎌倉街道と呼ばれるようになりました。
 小平市域での道程はわずか2キロメートルに過ぎませんが、千数百年の歴史を有するこの道筋には「二つ塚」「石塔が窪」」「九道の辻」などの地名や史跡が残り、また場所は明らかではありませんが2か所の「まいまいず井戸」があったと伝えられています。

その先には派手な看板のお店「富士ノ山食堂」。
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西武線田無駅~JR河辺(かべ)駅。その1。(「青梅街道」をゆく。第2日目。)

2018-03-20 18:59:45 | 青梅街道
                            (9:00)「田無駅北口」交差点。

 青梅街道歩き2日目。

 3月17日(土)。快晴。汗ばむような陽気。
 「青梅駅」まで歩くつもりでしたが、時間切れで、その二つ手前にて終了。

田無宿「上宿」バス停。特に宿場の面影なし。

(9:11)「橋場」交差点。「東京街道」。

 ここが「青梅街道」と「東京街道」との分岐。「東京街道」は、ここから東大和市の東京街道入口交差点(「新青梅街道」交点)までの区間。「江戸街道」とも呼ばれています。ほぼ真西に続く道が「青梅街道」。ただし、この先、「江戸街道」という道が旧「青梅街道」と重複するように出てきます。

 この付近の今昔。

1880年代のようす。

2010年代のようす。

 (9:16)右側に電波塔「スカイタワー西東京」が見えてきます。

何の鉄塔なの?
 スカイタワー西東京は、各種通信事業者や放送事業者などが共同で利用できる電波塔で、郵政省(現、総務省)から「マルチメディアタワー(多目的電波利用基盤施設)」として認定を受けた最初の施設です。
 主に、防災行政無線、タクシー無線、携帯電話、コミュニティエフエム放送のアンテナが取り付けられており、これらの基地局、中継基地局になっています。
 また、風力など気象変化を測定する実験局としての役割も担っており、観測機器の設置も可能です。

高さはどのくらい?
 鉄塔の高さは195mになります。平成元年の完成当時、日本国内の自立鉄塔としては3番目の高さでした。
 特徴としては、全方位にアンテナを取り付けられるように八角形の構造で、様々な形状のアンテナを効率よく配置できます。


鉄塔照明は平成7年に開始しました。
 周辺地域における翌日午前中(9時前後)の天気予報を色分けで表しており、“天気予報のタワー”として親しまれています。
  
      雨                曇り              晴れ

(以上「スカイタワー西東京をもっと詳しく知ろう」HPより)

                

沿道には「ケヤキ」の巨木が目につきます。

(9:32)やがて「小平市」に入ります。

右に進むと「スカイタワー西東京」に隣接する「多摩六都科学館」へ。

ここは「プラネタリウム」が世界一を誇るらしい。以下、HPより。

世界一に認定されたプラネタリウム
 2012年7月にリニューアルで導入された投映機「CHIRONⅡ(ケイロンⅡ)」は1億4000万個を超える星々を投映し、最も多くの星を投映するプラネタリウムとして世界一に認定されています。直径27.5mの大型ドームスクリーンに、微細な星の輝きが広がり、奥行き感のあるリアルな星空をお楽しみいただけます。
 当館のプラネタリウムは専門のスタッフによる生解説も特徴です。季節ごとに移り変わる明るい星々や星座のお話を当日の星空を投映しながらご紹介。宇宙に関する旬な話題をお伝えできるのも生解説ならでは。約2か月ごとに入れ替えるテーマ解説と組み合わせて、新しい発見をお届けします。
 「CHIRONⅡ」は、東京都府中市にある(株)五藤光学研究所が開発したプラネタリウム投映機です。23m以上の大型ドームでは世界初となる高輝度LED光源を採用しました。
本物の星空により近づけることを目指し、観測された数十億の恒星データをもとに、天の川を構成する恒星や星雲、星団を全て星で表現しています。また、星像が一段とシャープになり、まるで実物のように光輝く星として映し出すことができます。
 全天周デジタル映像システム“バーチャリウムⅡ”では、4台の高精細(4K)プロジェクターを採用し、個々の映像を正確に重ね合わせるデュアルプロジェクション方式により、鮮明で迫力あるデジタル映像の投映を実現。まるで異空間に飛び出したような没入感をもたらします。
デジタルプラネタリウム機能も持つバーチャリウムⅡと光学式投映機CHIRONⅡを組み合わせることで、多彩な表現が可能になり、ハイブリッドプラネタリウムを生かしたプログラムを展開しています。大きなスクリーンで映像をお楽しみください!作品によっては英語音声で聞くことができます。
      

(9:38)「花小金井」交差点。

沿道には土蔵造りのあるおうちも。

ケヤキ並木。

サクラの古木。

 (9:48)西武新宿線の踏切が見えてきます。


                      

その先の表示板。

 
                          (9:54)「多摩湖自転車道」。

 西東京市から東大和市までを直線に貫く水道導水路上と首都圏の水がめである多摩湖(村山貯水池)のほぼ全周にわたって設置された多摩湖自転車道。
ひんぱんに出くわすクルマ止めが目障りとなるものの自転車道を覆う濃密な緑は、ここが都心に近いことを忘れさせてくれる。
・・・
 犬を連れて散歩をする人、ジョギングを楽しむ人、傍らのベンチに腰掛けて世間話をする人などなど、人々のたたずまいはのんびりとしたもの。そのリズムに合わせてペダルを漕ぎ続けると、こちらの気持ちもなんだかスローダウンしてきた。
 ただし都市部であることに加え、この自転車道が縦横に行き交う一般道を斜めに貫いているせいか、100mにも満たない間隔で一般道の横断がある。お察しの通りそこにはクルマ止めが設置され、走りにくいことこのうえない。ごていねいに「おりてわたりましょう」と記したところもあるけれど、いちいち降りていたらサイクリングの楽しみが台無しだ。事故が心配というのなら、せめて自転車道が優先となる交差部(一般道に「止まれ」の標識がある)には、クルマがスピードを落とすよう、一般道の側に障害(クランクなど)を設けるべきではないだろうか。
 やがて自転車道は西武新宿線に沿うようになり、花小金井駅前を通過。ここから1・3km進んだ小平ふるさと村(開園時間:10時~16時、休園日:月曜・第3火曜※祝日の場合は翌日、入園料:無料、・042-345-8155)は、近在の農家を移築復元した場所で、見学がてらひと息つくのにちょうどいい。
 小平駅駅前で自転車道は姿を消すが、心配する必要はない。そのまま直進100mの駅の外れに、再開する自転車道が現われる。
 萩山駅を過ぎたあたりから、目障りだったクルマ止めの数がようやく減少。それに合わせてアベレージスピードも上がり、快走モードに入っていく。
 八坂駅脇の陸橋で都道16号線(府中街道)を越え、武蔵大和駅西交差点を渡ると、目指す多摩湖はすぐ先。多摩湖南岸を西に向かって進む道は、アップダウンのある上り基調となる。平坦な道が続き、少々飽きてきたところなので、このアップダウンはうれしい。ただし樹木に遮られ、ほとんど湖面を見ることができないのは残念だ。
 進んだ鹿島橋手前の分岐は立体構造で、左を選ぶと村山貯水池を分断する堰堤上の道となり、対岸の多摩湖橋西詰で自転車道に合流する。時間や体力に制約がある場合は、ショートカットとなるこちらがベター。また、右を選べば鹿島橋、さらにつつじ橋を渡って鹿島休憩所へと至る。こちらは上り基調が続く。
 銀色の屋根が印象的な西武ドーム球場を左に見て、かつては遊園地のおとぎ列車だったという西武山口線と並行。2km進んだ多摩湖堰堤のたもとが、自転車道の終点となる。なお右手の都立狭山公園は、'09年3月までの予定で工事を行なっており、利用できるのは一部のみとなる。

●区間
   関前5丁目交差点-(0:15)3.08km→花小金井駅-(0:08)1.45km→小平ふるさと村-(0:08)1.68km→小平駅-(0:17)4.68km→武蔵大和駅西交差点-(0:14)3.79km→鹿島休憩所-(0:12)3.79km→都県境-(0:17)4.86km→自転車道終点
・・・
(以上、HPより) 

注:上図で自転車道と交差して、ほぼまっすぐ西(上)に進む道が「青梅街道」。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その5。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-19 19:40:55 | 青梅街道
                      道路が拡張、整備され、かつての街道の面影はなさそうです。

(14:09)右手に旧道が残っているようです。車が停車しています。

かなり拡幅された青梅街道をゆるやかに下っていきます。

(14:14)下った先の交差点。右手奥には「東伏見稲荷神社」。

来た道を振り返って望む。

(14:21)「石神井川」と交差します。



 「石神井川」が流れているとは思いませんでした。

 石神井川は、都立小金井公園付近にその源を発し、小平市・西東京市・練馬区・板橋区・北区を流れ、北区堀船で隅田川に合流する延長25.2キロメートル、流域面積61.6平方キロメートルの荒川水系の一級河川です。
 最上流部に小金井公園、中流部には城北中央公園、また下流部では旧河川を利用した音無親水公園など多くの公園・緑地と接し、都市部を流れる中小河川としては、沿川に貴重な緑を有する河川となっています。



HPより)

 石神井川は、小平市・西東京市では「悪水」、西東京市・練馬区の一部では「大川」、練馬区・板橋区では「石神井川」、北区で「音無川」「王子川」「滝野川」と呼ばれていた。「滝野川」という別称は北区滝野川の地名にも残っており、近藤勇の墓所がある。かつて、この地域の石神井川が「滝の様に勢いよく川の流れが激しかった」ことに由来する。
(この項、「Wikipedia」参照。)

 下流、JR王子駅付近の「石神井川」(かつては音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていました。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっています。
(「日光御成道」を歩いた時のもの)

(上流、西東京市・「青梅街道」沿い)

路傍に満開の紅梅が一本。

「保谷市」と記された下水蓋。

 注:「西東京市」は、2001年(平成13年)1月21日、旧・田無市と保谷市が合併して発足しました。   

(14:29)西武新宿線の高架ををくぐります。

「富士街道」という標識。祠は「弘法大師標柱」。

 この「富士街道」は「中山道」の志村坂上・清水坂から西に分岐する道とつながっているようです。「大山詣」の道。

(14:31)「柳沢庚申塔」。
 慶長11年(1606)の江戸城の大改修以来、城の壁材である石灰を運ぶ道として青梅街道がひらかれました。青梅街道の成立とともにその人馬継ぎ立てを行う宿として、田無村柳沢宿は発展しました。
 享保8年(1723)この付近の住民23人によって庚申講が組織され、来世安楽を祈願してこの庚申塔が建立されました。・・・
 当時の田無村は交通の要路にあり、青梅道と所沢道などの分岐点(元田丸屋商店の角)は田丸屋旅館もあり、田無を印象づける著名地点でした。ここに庚申塔を建て、道しるべの役目を持たせたもので、この地域ではとても古いものです。
 平成18年1月、所沢街道拡幅のため、この場所に移設されました。
 


(14:33)この交差点を左折します。

 交差点の角にあるビルは「田丸屋」。

この付近の今昔。○が「所沢街道」との追分。
  

1880年代のようす。下方の流れは「石神井川」。途中、東に向かう道は「富士街道」。



2010年代のようす。中央右は西武新宿線「柳沢」駅。

 

 「田無神社」、「総持寺」を過ぎ、「田無(宿)」へ入ります。

(14:42)商家の面影。

人通りの多い商店街を進み、左折して「田無駅」に向かいます。

 今回はここまで。思ったよりも新宿から近いので驚きました。ただし、帰路は西武新宿線で高田馬場まで出てJRに乗り換えて、と意外に距離がありました。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その4。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-16 22:27:26 | 青梅街道
                             (11:25)「杉並区役所」前にある皀莢(サイカチ)の木。                          
皀莢(さいかち)の由来
 かつて区役所前の青梅街道際に皀莢の巨樹がありました。その樹は江戸時代に青梅街道の里程指標として植えられたと伝えられていたものです。おそらく一里塚というよりは半里塚的なものだったと考えられます。こうした伝承が生まれたのは、その樹が街道の目印として人々に広く知られ、かつ親しまれていたことを物語るものと思われます。当初植えられていた皀莢は手話14年に枯死、二代目も病気となり、現在の皀莢はこの由来を後世に残すべく、新たに植えられたものです。
                          

(11:38)「天沼陸橋」交差点を左折し、旧道へ。

実は地下鉄もこの地下を通っています。

 しばらく進んだ先の藤沢ビル裏側には「長屋門」が見えます。


                 
 
裏手に回ると(道路側に出ると)「明治天皇荻窪御小休所碑」があります。

 その奥に瀟洒な日本家屋がみえます。

 解説板がなくて詳細不明ですが、長屋門も小休所も荻窪の名主、中川家の屋敷跡。徳川第11代将軍家斉が、鷹狩の際に休憩に寄った場所であったようで、明治に入っては、明治天皇が二度立ち寄って休憩した屋敷跡で、以来、明治末まで毎年、小金井に花見に行く際に、必ず訪れていたとか。

 「長屋門」には潜り戸があって、自由に行き来できます。

 (11:48)旧青梅街道はこの先でJR中央線とぶつかります。横断地下道を通ってJR荻窪駅前に出ます。


                        

「青梅街道」新宿方向。右手の道が旧道。

青梅方向。

「青梅」の文字が。

 さてお昼時ですが、「荻窪といえばラーメン」というのも芸のない話しなので、もう少し先へ進みます。

(12:08)「四面道」交差点。
                        「環八」との交差点。 かつては、上荻窪村・下荻窪村 ・下井草村・天沼村の四村の境界にあたっていました。
 「大勝軒」の看板があります。お客さんが並んでいます。
 (12:20)しばらく進み、右手の日本そば屋さんに入ります。「桃蕎(とうきょう)庵こばやし」。
店内のようす。

                             
 日本酒とつまみとお蕎麦を食べます。たっぷり昼食休憩。

 (12:52)一杯機嫌で再開。

井荻町役場跡」解説板。
 ・・・明治22年市制・町村制の施行に伴い「上井草村」・「下井草村」・「上荻窪村」・
「下荻窪村」の4村が合併し、井草の井と荻窪の荻をとり「井荻村」が誕生しました。井荻町役場の前身となる井荻村役場は・・・明治32年12月にこの地に移転しました。
 誕生当時の井荻村は、人口2,925人の農業を中心とした典型的な西郊の一農村でした。しかしその後交通機関の発達もあり、大正12年の関東大震災以降、都市近郊の住宅地として人口が急激に増加し、大正15年7月1日、村は町制を布き井荻町となり、同年10月には二階建ての新庁舎が完成しました。この年の人口は13,514人でした。
 人口の流入によって、村から町へと発展する中で、都市でも有数の大規模な土地区画整理が行われました。また、町営水道の敷設、西武線の誘致などが行われ、現在のこの地域の基礎が築かれました。
 区になる直前の人口は、25,968人になっていました。
 昭和7年10月、町は「和田堀町」・「杉並町」・「高井戸町」と共に杉並区として東京市に編入され、井荻町役場はその役割を終えました。
この時期、街路樹も刈られて殺風景なのが残念。そんな中に。

 沿道には緑豊かな木々に囲まれた大きな神社やお屋敷が見られます。


                     



「江戸向き地蔵」。

そこから江戸(新宿)方向を望む。

(13:23)練馬区に入ります。

青梅街道と稲荷神社」。
 青梅街道は、新宿から青梅を経て、甲府の東で甲州街道と合する道です。慶長11年(1606)江戸城の大改修にあたって、青梅付近より産する石灰を江戸幕府に搬入するために開かれたと伝えられています。
 石灰搬送などの産業道路としてばかりでなく、御嶽山への参詣や、甲州裏街道として、旅人が行き交う街道でもありました。
 この付近は江戸時代中頃に開発され、竹下新田と呼ばれていました。・・・

 車の行き来する広い青梅街道を進みます。歩道があるので安心!
沿道にはもと農家らしいおうち。

「青梅街道」の表示。

(14:01)西東京市に入ります。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その3。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-15 22:25:19 | 青梅街道
                                  「蚕糸の森公園」

 ここにはかつて農林省の蚕糸試験場がありました。その跡地が大きな公園となっています。


                  

地元の人々にとって憩いの場。小休止。

「案内図」。

名残の桑畑。
 かつては、関東一円に桑畑がたくさんありました。桑の緑で大きな葉っぱ、初夏の頃に実を食べたことも思い出します。
 今、「中山道」を歩いても「日光街道」を歩いても、車窓からももうほんの少ししか目につきません。養蚕農家の面影を残す建物は散見しますが。
 

クワ(桑)
 クワ科クワ属の総称。カイコの餌として古来重要な作物であり、また果樹としても利用される。
 落葉性の高木で、大きいものは15mに達するが、普段見かけるのは数m程度のものが多い。樹皮は灰色を帯びる。葉は薄く、つやのある黄緑色で、縁にはあらい鋸歯がある。大きい木では、葉の形はハート形に近い楕円形だが、若い木では、葉にあらい切れ込みが入る場合がある。葉には直径25-100μmほどのプラント・オパールが不均一に分布する。
 雌雄異株だが、同株のものがある。春に開花する。雄花は茎の先端から房状に垂れ下がり、雌花は枝の基部の方につく。果実は初夏に熟す。キイチゴのような、柔らかい粒が集まった形で、やや長くなる。熟すと赤黒くなり、甘くて美味しい。

クワの実。そのままでも甘酸っぱくて美味。ジャム・果実酒などにも。
(以上、写真を含め、「Wikipedia」参照。)

 この付近の今昔。


1880年代のようす。


2010年代のようす。中央右にある公園が「蚕糸の森公園」。

門前、青梅街道沿いに大きな「妙法寺灯籠」が建っています。堀之内の御祖師様として名高いお寺。南にある。
  

 (11:04)「環七」を過ぎ、地下鉄の「新高円寺駅」近くの交差点には「五日市街道」の標示。実際はもう少し進んだ左手の道のようです。


ここにも昔風の商家の建物。

 (11:22)だんだん人通りが激しくなってきます。「杉並区役所」の手前、右手の通りがすてきなアーチのある「パールセンター商店街」。
                 

 何となく興味深いネーミングなので。ちょっと長い引用ですが。
パールセンター商店街と、その街路の歴史
HPより)
 おそらく荒れ野と湿地ばかりであったろう上古の阿佐ヶ谷に、いつのころからからか、ささやかな街道が整備されました。
 現在パールセンター商店街となっているこの道は、鎌倉と北関東地域を結ぶ「鎌倉街道」の一部としておよそ800年前に現れたようです。
 関東平野は江戸時代に大規模な開墾がなされましたが、それ以前は広大な湿地帯が広がる中に集落が点在するような過疎地で、農業生産の中心地域は現在の群馬県、栃木県、埼玉県北部、千葉県北部にまたがる北関東にありました。
 そういった北関東地域と政治の都、鎌倉を結ぶ道路網が鎌倉時代に整備されています。
 それよりも前は記録が無いので良くは分かりませんが、松ノ木に古代の住居群があったことや、大和武尊が東北遠征の帰路に神明宮付近に立ち寄ったことからも現在の阿佐ヶ谷一帯は、古代の頃から人が居住するには向いた地域ではあったようです。 
 南北朝の頃には「あさかや」殿という江戸氏の流れをくむ土豪が文献に現れ、この時期にはこの一帯がすでに「あさがや」と呼ばれていたことが分かります。
 中世の周辺一帯は現在の石神井公園を本拠地(発祥は現在の北区)とする豊島氏と、現在の東京駅周辺に城を構えていた江戸氏が勢力争いを繰り広げていました。
 荻窪の旧家に豊島氏の支配下にあった記録が残ることから、阿佐ヶ谷は両者の勢力が拮抗する最前線であったのかもしれません。
 その後長く江戸氏と豊島氏の勢力争いは続きますが、江戸氏の支配を受け継いだ太田道灌と、豊島泰経・泰明兄弟が1477年に現在中野区の江古田・沼袋で激突します。合戦は激しい戦いとなりますが、足軽(歩兵)戦術に優れた道灌が数で勝る豊島勢を圧倒し、石神井城に追い詰められた豊島一族は滅亡。阿佐ヶ谷を含む一帯は太田道灌による支配が確立されます。
 しかし続く戦乱と北条氏(小田原を本拠地とし北条早雲を祖とする)の進出により阿佐谷一族は歴史の渦の中に飲み込まれ、1540年代に記録された「阿佐谷二郎」の名を最後に歴史の舞台から消えてゆきます。
 その後、北条氏が滅亡して徳川家康が江戸に入府したため、阿佐ヶ谷一帯も「阿佐ヶ谷村」として幕末まで徳川氏の支配下に入ることとなります。
 江戸幕府の成立と豊臣氏の敗亡により戦乱の時代も終わり、現在のパールセンターにあたるこの道は、練馬の貫井弁天から堀の内の妙法寺へ通じる「参詣の道」として親しまれるようになります。
 パールセンターの中ほどに残る青面金剛像と地蔵菩薩像はその頃の名残で、記録によるとおよそ300年前の元禄年間(1688~1704年)に建立されたそうです。
 江戸時代の阿佐ヶ谷村は農村として、特筆されることもなく平穏に発展していきますが、唯一の出来事として善福寺川から桃園川に用水路を掘削したことが記録に残っています。
 それまでの荒れ地を開墾して新田として開発を進めた結果桃園川の用水が不足し、それを補うために善福寺川から用水路を掘削したようです。現在の荻窪団地付近から溝を掘り杉並高校前を通って、そこからパールセンターのサブドーム付近までトンネルを掘って水を通すという中々の大事業でした。
 サブドーム周辺には現在も暗渠が残りますが、もしかするとこの用水路事業に由来するものかもしれません。
 明治新政府により阿佐ヶ谷村は新設の杉並村に統合されることとなります。東京府豊多摩郡杉並村の阿佐ヶ谷となったこの地区を大きく変えたのが大正11年の阿佐ヶ谷駅開業でした。
 開業当初は駅から青梅街道まで民家が数件ある程度(!)でしたが、同じ年に発生した関東大震災により住処を失った人々が続々と移住してきたこともあり阿佐ヶ谷に住む人々も急激に増えていきます。
 それに伴い道の左右に商店も立ち並ぶようになり現在の商店街の原形が形作られました。
 青梅街道に路面電車が走り始め、杉並村が杉並町になったのもこの頃です。
 昭和になると2年に井伏鱒二が荻窪に移住したのを始まりに、鱒二を相談相手と慕った太宰治をはじめとする若い作家や、評論家といった文筆家が阿佐ヶ谷から荻窪にかけて多く移り住むようになりました。
 界隈には与謝野晶子、太宰治、青柳瑞穂、伊馬春部、三好達治、火野葦平、徳川夢声といった錚々たる顔ぶれが住んでいたそうです。
 彼らが顔を合わせる際にお決まりにしていた店(ピノチオ)が阿佐ヶ谷駅の北口駅前にあったこともあって、いつしか阿佐ヶ谷は「文士村」と呼ばれるようになりました。
 昭和7年には杉並町、和田堀町、井荻町、高井戸町と合わせて杉並区が発足します。
 そういった新興住宅地としての発展もあってこの商店街は、戦前には商店の数が120件を超える区内有数の商店街となっていました。
 しかし太平洋戦争の激化により商店の多くも閉店を余儀なくされて商店街は衰退します。
 昭和20年3月には商店街の西側の約半分が疎開を命じられ退去してしまいました。疎開したベルト状の地域は更地同然となり、そのまま終戦を迎えたそうです。
 終戦直後は闇市同然の混沌とした商業地になっていましたが商店もじきに復活し、次第に元の商店街の賑わいを取り戻していきました。
 数年後には地元有志たちの運動により、更地となった疎開地を利用して道路が整備されました。これが現在の「中杉通り」に当たります。
 それに合わせて「商店街を歩行者専用道に」との要望が盛り上がり、昭和29年、商店街が歩行者専用道路に指定され”歩行者天国”都内第1号の栄誉に輝きました。また中杉通りには地元有志により欅が植樹され、今日の「けやき並木」の礎となりました。
 昭和29年には「街の核となるお祭りを」ということで仙台や平塚の七夕まつりを意識した「阿佐谷七夕まつり」が始まり、これは東京7大祭りの一つとして現在にも受け継がれています。先行していた仙台、平塚のクス玉や吹流しによる飾りを真似ていたものの、第1回目よりハリボテのような造形物を吊り上げる志向が見受けられ、その後はクス玉と吹流しに、手作り感あふれる個性的な造形物を組み合わせる阿佐谷独自のスタイルを確立して現在に至っています。
 こうして街の賑わいも盛んになってきますと、(この商店街に愛称を公募しよう)ということになりました。当選商品がルノーの小型乗用車(!)ということもあってか、多数の応募が寄せられました。
 そして応募の中から、(真珠の首飾りのように結び合って繁栄していこう)というわけで、「パールセンター」が選ばれました。
 昭和37年の年の瀬にはアーケード(先代)が完成し、都内有数の屋根つき商店街になりました。
 地下鉄丸の内線が開通したり、阿佐ヶ谷住宅が出来るなどして、都心への通勤に便利なベットタウンとして脚光をあびることになりました。
 時代は空前の高度成長期、経済発展の波に乗りながら住む人もどんどん増えていき、パールセンターも買い回りに便利な商店街として、ますます賑わってゆきます。
 昭和42年には路面をカラータイルで舗装して、現在のパールセンターに通じる近代的な商店街になりました。
その後、阪神淡路大震災の教訓から(防災機能に優れたアーケードに改築しよう)ということになり、平成11年には現在の2代目アーケードが完成しました。
 白とピンクを基調にした独特のデザインもさることながら、火災に備えて屋根が電動で開くようになっているなど、火事災害への工夫も施されています。
また、これを機会に(新たなスタイルのお祭りを)ということで、平成13年にジャズ&ハロウィンフェスタが始まり、阿佐谷ジャズストリートと同時期に開催される仮装コンテストは、異色のミックスカルチャーイベントとして定着しつつあります。
         

 「杉並区役所」「パールセンター商店街」付近の今昔。
    
    
1880年代のようす。               2010年代のようす。上方に「JR阿佐ヶ谷駅」。
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みぞうゆう。未曾有(みぞう)。

2018-03-14 18:43:38 | 世間世界
 昨日の朝日新聞の朝刊。「天声人語」。麻生さんに見事当てつけた箇所。他の漢字にはルビがふられていないのに、この漢字だけに(↓)。
 お見事! 拍手を送ります。快哉!

 明日は国会前集会に参加する予定です。

(追記:15日の集会) 
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その2。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-13 20:43:25 | 青梅街道
                            緩やかな上り坂。中野坂下から中野坂上へ。

 「中野宿」に入っていきます。
 「中野」は幕府直轄であったことや鷹狩りの指定地であったことから徳川家との関わりが深く、三代将軍家光は7年間の間に29回も中野で鷹狩りを行ったといいます。また五代将軍綱吉が発した「生類憐みの令」に伴う犬小屋が中野に造られ、8万頭もの犬が保護されていました。その犬小屋の跡が残っているそうです。

途中に「中野坂」の解説碑。
 武蔵野の中央にあるので「中野」と呼ばれました。坂上には「弁慶」という菓子屋と「大団子」と称する団子屋があり、この先の妙法寺への参詣者に好評でした・・・

路傍には「淀橋」の柱と同じものが埋め込まれています。


 (10:03)そば粉用の石臼〔直径約1.8m〕。石森製粉ビル玄関前。

 江戸時代、青梅街道は江戸五街道に次ぐ重要幹線道路でした。江戸城築城のために青梅に産出する石灰を運ぶ役割として開設されましたが、泰平の世になると、多摩地域の物資輸送路というライフラインに変わりました。中野宿は最後の宿場町にあたり、すべての物資の集荷地としてにぎわったのです。
豊かな原料はやがて地場産業を発展させます。大豆から味噌・醤油生産などの醸造業、麦・蕎麦からは製粉業が興りました。浅田醸造所・石森製粉、いまでも現役のあぶまた味噌などが有名でした。
 明治になって造られた浅田ビールは内国博覧会で一等賞を得ました。その後、ビール醸造業は合併吸収が繰り返され、浅田ビールは最終的にはキリンビールの傘下に入りました。
 また、江戸の信州そばの中身は中野の蕎麦粉という話もあります。当時、信州の蕎麦粉は中仙道を辿りながら江戸に入ってきました。御存じのとおり中仙道には沢山の宿場があります。中継地点が多いほど運ばれる物資の価格は高くなります。一方、深大寺そばで有名な多摩地域でも蕎麦粉の生産が行われていました。ここでおわかりの通り、道筋が短く宿場の少ない青梅街道の蕎麦粉は安いのです。
 しかし、悔しいかな江戸っ子達は、中野(多摩)の蕎麦粉を使いながらも、信州・更科・戸隠などとブランド名をつけて大いに儲けたのでした。

(この項、「中野区立歴史民俗資料館館長 比田井克仁」さんの文章を引用させていただきました。)

「中野坂上」交差点。


 右手に珍しい? お店が。「天然記念物・甲斐犬」との看板。

甲斐犬(かいけん)
 山梨県原産のイヌの品種。
 日本犬種の1つで、昭和4年(1929年)に当時甲府地方検察庁に赴任した安達太助が発見し、昭和6年(1931年)に「甲斐日本犬愛護会」を創立、昭和7年(1932年)日本犬保存会の初代会長斎藤弘吉、獣医師の小林承吉等が中巨摩郡芦安村(現南アルプス市)や奈良田村(後の西山村、現南巨摩郡早川町)に群生していた虎毛、立耳の地犬を調査し、発見した地方に因んで「甲斐犬(かいけん)」と命名、保存活動を開始した。 また、本来、日本犬の名は「◯◯犬(いぬ)」という呼称になるが、甲斐犬の場合は「◯◯犬(いぬ)」と呼ぶと「飼い犬(かいいぬ)」と誤解される可能性がある為、例外的に「甲斐犬(かいけん)」と命名される事となった。
 毛色は黒虎毛と中虎毛と赤虎毛とに分かれる。年齢を重ねるに従って虎毛がはっきりしてくることもある。虎毛は山野で狩りをするときの保護色となる。
虎毛部分の色がビール瓶を太陽に透かした様な美しい赤い色素を持つ個体を赤虎毛とするが、赤の色素の無い褐色の縞の黒虎毛も勇壮な虎模様を特徴とするため、「虎毛犬(とらげいぬ)」の別名をもつ。

※昨今黒一色で虎模様の無い甲斐犬が多数存在し、近親交配の弊害が心配されている。
※中虎毛を、赤虎毛とも黒虎毛とも呼べない虎柄として低く評価するのは間違いで、赤も、黒もいずれも綺麗で艶のある個体が中虎毛で、色の抜けたハイエナの様な色合いの個体は中虎毛とは呼べない。
体高は、オスは47~53cm、メスは42~48cmで、日本犬種のなかでは中型犬に分類される。
 また、体型より、「鹿犬型」(鹿型犬)と「猪犬型」(猪型犬)のタイプがあったが、現存する甲斐犬は、「鹿犬型」(鹿型犬)であり、猪の他、カモシカも追っていたとされ、細身で体が長めで、岩場に適応して垂直に飛び上がる力に優れている。
 北海道犬や琉球犬、中国のチャウチャウなどと同様、舌斑を持つ等、弥生時代以前からの特徴を有している。太く長い毛と、細くてやわらかい短毛が密集している。尾は差し尾、または巻尾。
甲斐犬の評価ポイントは、三角形の肉厚な耳の角度、三角目の形、尾っぽの巻き方、足の開き方のバランス、飛節の角度などがある。

《特性》
 北海道犬、琉球犬など他の日本犬に似た遺伝子構成を持つ。
 山岳地帯での激しい狩猟に耐えうる体力や、ガレ場で鍛えられた独特の飛節を持つ。
 元来、山梨県南アルプスの山岳地帯でイノシシやカモシカ、などの獣猟、キジなどの鳥猟や、小動物の五目猟、それに伴う諸作業に使用されていた敏捷な犬。
 「甲斐犬は気性が荒い等のため、グループ猟より一銃一狗の単独猟でこそ、この犬種の猟性能が発揮されるという。
 飼い主以外の人間には心を開かず、唯一人の飼い主に一生忠誠をつくすことから一代一主の犬とも評される。
最長寿記録 クロ号・黒虎毛・差尾・♀28歳7ヶ月・昭和13年(1938).1月生

《歴史》
 戦国時代には、「門西家文書」によれば永禄3年(1560年)11月3日に甲斐河内領の国衆・穴山信君が湯之奥郷(身延町湯之奥)の土豪で家臣である佐野縫殿右衛門尉が所有する犬3匹の保護を命じている。これは、穴山氏が佐野縫殿右衛門尉が飼育する猟犬を保護する政策で、縫殿右衛門尉の所有する犬は甲斐犬であった可能性が考えられている。
 昭和9年(1934年)、天然記念物に指定された。昭和期には甲府市横近習町(現在の甲府市中央)の呉服商・大木喬策(八代目当主)が甲斐犬を飼育しており、喬策の愛犬「ケン号」は1932年(昭和7年)の第一回日本犬展覧会で山梨県知事賞を受賞している。昭和9年に甲斐犬が天然記念物に指定されると、喬策は「ケン号」を北白川宮に献上している。

(以上、「Wikipedia」参照。)

(10:18)その先に「鍋屋横丁」バス停。



                     
                                 「青梅街道」という標示。

鍋屋横丁の由来」。 
 ここは古くから北は新井薬師へ南は堀之内妙法寺へと通じる道が、青梅街道から分かれているところである。
 妙法寺が元禄年間に厄除け祖師として名高くなると、沿道は参詣人で大いに賑わい商家や料亭が軒を連ね、中でもこの角地の休み茶屋「鍋屋」はひときわ繁昌したため、この通りを鍋屋横丁と呼ぶようになった。
 鍋屋を有名にしたのは名物の草餅とともに庭に梅香芳しく参詣客や文人墨客などの間でつとに知られるようになった。
 鍋屋の繁栄を偲ばせるものとして文久2年奉献された東中野氷川神社の鳥居と、平成14年に妙法寺に移設した明治11年建立の道しるべにその銘が刻まれている。

鍋横道しるべ」。
 此処に明治11年建立された「ほりのうちへ一八丁十間」と、妙法寺までの距離が刻まれた道標がありました。
 江戸時代後期(文化・文政)お祖師様として親しまれた妙法寺への参詣道の入り口を示すとともに、裏側には鍋屋横丁の由来となった休み茶屋「鍋屋」の証しも刻まれており、中野区の歴史の資料にも載るほど、貴重なものでした。
 建立以来125年の永きにわたり、まちの変遷を見つづけてきたこの道標が、平成14年3月をもって、諸般の事情によりゆかりのある妙法寺に移設されました。


中央の直線道路が「青梅街道」。

(10:29)「中野通り」との交差点左手角に「杉山公園」。

     

杉山公園の由来
 杉山公園は、明治の実業家杉山裁吉氏が令嬢みさをさんの病気療養のため、自然環境ゆたかな田園風景をもとめて居をかまえた所です。
 この地に移られてからの杉山氏は多年の事業から隠退し、みさをさんの療養につくされました。しかし、そのかいもなく、みさをさんは明治四十一年、25歳の若さで世を去りました。両親の悲しみは非常に深いものでしたが、みさをさんの冥福を祈ると共に多くの子供達が健康ですこやかに育つように祈願されました。
 大正14年に夫人が逝去されたのを機に邸宅、土地を当時の中野町に寄付し、親子三体の地蔵尊を彫った石碑を建立されました。昭和6年に杉山裁吉氏が逝去された後、昭和9年3月、東京市より杉山公園として開園されました。
 現在は中野区に移管され、日毎(ひごと)に増す交通事故から子供達を守り、またよき遊び場として地域のみなさんから親しまれる公園となっております。
                    中野区

街道筋に残された商家。「尾張屋商店」。隣には「尾張屋」ビルが建っています。

(10:39)しばらく進むと、杉並区に入ります。
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新宿3丁目駅~西武線田無駅。その1。(「青梅街道」をゆく。第1日目。)

2018-03-12 20:38:44 | 青梅街道
                            新宿三丁目。追分交番前。甲州街道と青梅街道の分岐点。

 今回から「青梅街道」を歩くことにします。新宿追分から青梅、そして大菩薩峠を越えて甲州・酒折で再び「甲州街道」と合流するまで。約167㎞。

 3月10日(土)。曇りのち晴れ。午前中はかなり肌寒い。9:26に出発。今回通過するのは新宿区→中野区→杉並区→練馬区→西東京市(保谷・田無)の予定。
「新宿元標 ここが追分」。

「伊勢丹」。

            「青梅街道」。

(9:33)新宿駅東口広場にある「馬水槽」。

 19世紀にロンドン市内で馬・犬猫・人間に飲料水を供給した石造品でイギリスから贈られたものである。動物愛護の精神に基づく水飲み施設で、交通運搬と都市水道発展の歴史を物語る記念物である。
            

東口広場から地下道を通って西口側に。地下道入口には「旧青梅街道」の標識。

 地下道に沿って「旧青梅街道」や「新宿駅」にちなんだ掲示が。
宿場は9ヶ所のよう。

「淀橋」付近。

新宿駅周辺。

 みな、懐かしい写真ばかりです。ガード沿いには「青梅街道」の絵図。なかなか先に進みません。


              やはり「酒折」まで歩くことに。


「甲州街道」との追分、「内藤新宿」の宿並み。

 追分付近の今昔。○が追分。↑が「青梅街道」。

1880年代のようす。


現在のようす。

 ガードを抜けると新宿駅西口に。そこにも「旧青梅街道」の標識。
  

進む方向には超高層ビル街。

振り返って望む。

歩道橋から「青梅街道」を望む。

商業高層ビルに囲まれたお寺。

「成子坂」。

振り返って望む。

(9:58)「淀橋」。
 

 東京都新宿区と中野区の境の神田川に架かる青梅街道上の橋。現在の新宿駅西口の一帯を指す地域の旧称でもある。
 元々は青梅街道の南側に広がる農村であったが、新宿駅の発展とともに、駅周辺を中心とする繁華街が形成された。さらに、1960年代後半以降の淀橋浄水場跡の開発(新宿副都心計画)により超高層ビルが林立する街となった。1990年、東京都庁もこの地に移転し、現在では副都心と呼ばれる。

名称の由来
 淀橋(橋の名称)はかつて姿見ずの橋、面影橋などと呼ばれていたが、「淀橋」となった理由にはさまざまな説がある。(「姿見ずの橋」は中野長者伝説から来たもので、花嫁はこの橋を渡ると行方不明になるという言い伝えがあった。)
 ・姿見ずの橋で休憩していた徳川家光により、川の流れが緩やかでよどんで見られたので淀橋と名づけた。
 ・放鷹した際に姿見ずの橋を通った徳川家光(徳川吉宗説もある)が橋の名前の由来が不吉であることを知り、風景が京都の淀川に似ていたことから  淀橋と改名した。
 ・豊島郡と多摩郡の境界にあり、両郡の余戸をここに移住させてできた村なので、ここに架かる橋を「余戸橋」と呼ぶようになり、さらに淀橋となっ  た。
 ・柏木、中野、角筈、本郷の4つの村(4戸)の境にあるため「四戸橋」となり、これが淀橋に変化した。

(以上、「Wikipedia」参照。)
「神田川」の流れ。


1880年代のようす。○が「淀橋」。

現在のようす。

ここを越えると、中野区になります。
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東日本大震災から7年。復興の足音は・・・

2018-03-11 13:36:35 | 世間世界
 3月11日。7年の時を長く感ずるか、ついこの間のように感ずるか。まだまだ癒えない、多くの困難を抱える地域と人々とそして復興のスピード。
 2013年2月に震災後の東北を案内してもらいました。そのときのことを何回かに分けて投稿。その一つを再掲。

 この時、車を運転して案内してくれた方。震災前は建設会社を経営していた。震災後の激変で会社は立ちゆかなくなり、名取市から住まいを仙台の北に移し、再起を図っていましたが、持病が悪化、3年前に亡くなりました。
 この間、静岡で出会った中学生、震災後、住み慣れた福島を離れ、新天地で暮らす。故郷の友達とも直接会うことはなくなってしまった、と。

2013年2月投稿。

名取市閖上(ゆりあげ)浜
 名取川河口にある浜の名前です。河をはさんで北側は仙台市になります。
 宮城県の地名でも難読とされる閖上(ゆりあげ)ですが、今回の震災で甚大な被害を受けました。
 名物朝市の場所も流されました。朝市は日曜日・祝日に開催され、なんども足を運んだ場所です。秋には秋刀魚祭りがあって、気仙沼で水揚げされた秋刀魚の振る舞いがあり、その場で焼いて食べることができました。
 朝市は名取市内で再開されています。いつの日か閖上で朝市を開きたいとの願いのもと、月1回程度開かれるようです。
 閖上の地名の由来については、以下のとおりとなっています。
閖上公民館トップページ
"名取川河口にある閖上浜は,昔「名取の浦」と呼ばれていた。
清和天皇の貞観(しょうかん)13年,この海岸に霊験あらたかななる十一面観音像が,波に"ゆり上げ"られたのを漁師がみつけた。それ以来この浜を「ゆりあげ浜」とよんだ。
現在高舘山の那智神社に安置されている那智観音像がそれであると伝えられている。
「ゆりあげ浜」の文字を「閖上」と書いたのは,いつ頃か定かではないが,次のような話が伝えられている。
昔,仙台藩主が大年寺山を参拝したおり,山門内からはるか東に波打つ浜を見て「あれはなんというところか」と家来にたずねた。
「ゆりあげ浜と申します」と答えたところ,重ねて「文字はどのように書くのか」たずねた。「文字はありません」と答えると,藩主は「門の内側から水が見えたので,これからは門の中に水をかいて『閖上』とよぶように」といわれた。
それから「閖」の文字ができたと言い伝えられている。"
閖上の地名の由来
"昔、何代目かの殿様が大年寺の参拝を終わって、石段を降りかけると、惣門内から遥かに名取川が生みにそそぐ河口付近の水が光って見えたので、近侍の者に「あれは何処か」と訊ねた。近侍の者が「ゆり上げで浜でございます」と答えると、殿様は即座に「門の中に水が見えたのであるから、これからは門の中に水を書いて『閖上』とするように」と命ぜられたことに始まったといわれている。また、地元では承応年中(一六五二~一六五五)に火災が頻発したので、この地の水門神社(湊明神)の神託を乞うたところ、神名を地名にすれば永く火災を除くといわれ、神名{水門」を一字に合成し「閖」と作字して地名にあてたという。"
 最初は、「水が光って見えた」というところから、門構えに「光」をいれて書き、後に「水」に変わったという話をどこかで聞いた気がしているのですが、勘違いかもしれません

(以上、「SendaiGumbos 仙台ガンボス: 閖上浜 doraneko-festival.blogspot.com/2011/03/blog-post_31.html」より引用させてもらいました。)

 翌日、ここを案内してもらった。途中、あそこの信号のところには何十体もの遺体が流れ着いて折り重なっていた、田んぼの用水路の中にもあった、白服の人たちが取り囲んでいるのを見ると、また遺体が見つかったんだな、と。
 まったく何もない地域が広がる。ここは住宅がたくさん建ち並んでいた場所。友人の家も失われた。車を運転しながらのつぶやきが切実だった。

 はるか遠くの白雪の山並みは蔵王連山。仙台空港が遠くに見える。

 一面何もない。ここの地域は土台からすっかり津波にさらわれてしまったのか。住宅地なのか田んぼなのかの区別もつかないほど。

 冬の太陽の光がまばゆいほど。

 送電線がかつてここで人びとの暮らしがあったこと、そしてこれからの再建の道の遠さを物語る。

 一隅にあった卒塔婆。一周忌法要。まもなく「三回忌」を営む日がやってくる。

 ほとんどの船が破損したり、流されたりした中で、奇跡的に残った知人の船。こうして今も無傷で停泊している。娘の名を付けて、「ASUKA」と。これからの希望を明日に託して。

 二日間、案内してくれた知人、その関係者の方々に感謝、感謝。また来ます。


 人に話せるほどの苦しみ、悩みや望みは、まだまだ軽いもの。人に語れない苦悩、そして願いは、ぐっと心の奥に秘めたまま。
 今回の震災。本当に「難儀だった」ことを思う。厳しい現実・過去を受け入れ、黙して語らない(語れない)深い思いは、未来への深い祈りに通じる。そんな人びとのあるがままの生き様をしっかり受け止めなければ、と。

 機会を作って、再び訪問してみたいと思います。
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またまた「とかげのしっぽ切り」。だったら「尻をまくっ」てほしいが・・・。

2018-03-09 23:34:28 | 世間世界
佐川国税庁長官が辞任へ 森友問題で批判、安倍政権に痛手

 またしても「とかげのしっぽ切り」になる? 自殺者も出たとか。その方は浮かばれないが、この佐川さんはほとぼりが冷めたら(マスコミが騒がなくなったら)しかるべきところに天下りするでしょう。麻生あたりが因果を含めた結果、「辞任」させられるハメに。いや、とっくにやる気を失っていたのかもしれない。だったら、「尻をまくっ」てすべてを暴露したらいいのに。
 そもそも「森友」問題は、この方の前任者が決裁した案件で、すべてが終わった後に着任、後任者としてあれこれ言い訳をさせられたのだから。・・・

 しっぽを切って逃れられると思っている方々、しっぽじゃなくて「首を洗って待って」いた方がいいのでは。

とかげのしっぽ切り
生物やペットと過ごす時間を楽しむためのブログnamamono-moratorium.com/shippokiri-24.
より拝借(以前にも引用。これで二度目)。

とかげのしっぽ切りの意味と仕組みは?再生回数は何回まで?

 トカゲといえばよく尻尾を切るイメージがありますよね!
日本の比喩表現でも『蜥蜴の尻尾切り』という言葉があるようにおもしろい行動で昔から注目されています。
今回は『とかげのしっぽ』の意味や仕組み、またそれに纏わる話などについて紹介していきます。

・とかげがしっぽを切る意味は?
 トカゲが尻尾を切るのは主に外敵から身を守るときに行われます。外敵に捕まった時に切り離すことでその場を逃げ切る可能性を作って自分自身が捕食されるのを回避するためだと考えられています!
 少し専門的な用語だと『自切』と言います。カニや昆虫などが脚を切るのもこれと同じ理由ですね!
 トカゲの場合は切り離した尻尾がしばらく動きまわるので外敵の注意をそちらに引きつけることで逃げることができます。

 比喩表現でもこの行動が取り上げられていますが、そのような場合はこういった意味合いになります。
蜥蜴の尻尾切り
 不祥事などが露見したとき、下位の者に責任をかぶせて上の者が追求を逃れること。

 このようなことを一言で表すのにトカゲが尻尾を切る行動をに見立てたわけです。昔の日本人の比喩表現でものすごく的を得ていたり、皮肉が上手いと毎回感心してしまいますね。

・尻尾切りの再生回数は何回まで大丈夫?
 トカゲも実は皆が皆しっぽを切るわけではありません! 種類によってはしっぽ切りを行わないトカゲもいますし、切ってしまったらもう再生しないものもいます。
 日本でトカゲのしっぽが再生するイメージが強いのはよく見かけるニホントカゲとニホンカナヘビがしっぽ切りを行うからですね。
また、しっぽ切りできる回数というのは突き詰めて言うと『1回まで』です。しっぽ切りは尾骨ごと切り離しており、次に生えてくる尾には骨がなく『軟骨』だけで形成されています。つまり完全には再生していないことになりますね。
 次に生えたものでもしっぽ切りはできますが、栄養状態が悪いと再生しないこともあります。また、再生するのにはエネルギーがいるので場合によってはこの自切が原因で体調を崩したり死に至ることも…
 再生可数の結論としては尻尾は複数回再生はできるが完全再生ではなく、再生しないこともあるということですね。

尻をまくる
これまでの穏やかな態度を捨て、どうでもなれと反抗的な態度をとる。居直る。(「広辞苑」より)

けつをまくる」ともいいます。

首を洗って待つ
 懲罰や制裁などを受ける覚悟をする。
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