JR東海道線と静岡鉄道の踏切を渡る。特に「静鉄」の車両。大学から清涼飲料水・・・、カラフルなのにはビックリ。新静岡から新清水間11.0kmを結ぶ静岡清水線。駅の数も15と多く、また運転本数も多い。
「東海道」は緩やかに上りながら右に曲がる。この辺りは「狐ヶ崎」と呼ばれる地域。かつて遊園地があった、という。そのCMソングが、有名な「新」民謡『ちゃっきり節』(北原白秋作詞、町田嘉章作曲)。
旧東海道。道標に従って道なりに進むと、JRの広大な操車場にぶつかる。
「旧東海道記念碑」。
旧道は分断されてしまうので、地下道を通り、反対側へ。その先で「国道1号線」に合流。長沼の交差点で、斜め右の道に入る。
「長沼一里塚」跡。日本橋から44里目の一里塚。
その先、「国道1号線」を歩道橋で渡る。
歩道橋からの富士山。左手は静鉄「柚木」駅。
《19 府中》(2015.01.27~掲載)
JRの地下道を通り、反対側へ。国道1号線に合流、斜め前の道を進む。静鉄線路脇にあるのが、
「東海道府中宿東見附」。
ここから「府中宿」。
「府中」(現:静岡市中心部)は、「西見附」まで3,600㍍と、大きな宿場であった。家康ゆかりの「駿府城下町」であり、現在でも「旧東海道」中で、「浜松」と並んで、大きく賑やかな町並みとなっている。
「下伝馬本陣、脇本陣跡」。 「上伝馬本陣、脇本陣跡」。
静鉄「新静岡」駅の南にある「西郷・山岡会見跡」の碑。
宿場のはずれにある「府中一里塚」跡。
いよいよ「安倍川橋」へ向かう。
「安倍川餅・石部屋(せきべや)」。
「安倍川橋」。
「安倍川橋」は、ボーストリングタイプ(弓と弦)トラスト形式で、それがいくつもつながり、リズム感(そんな印象)に富んでいる。振り向くと、富士山。上流には、白雪の山々。中部5県で最古期の鋼トラス橋。
橋を渡って振り返ると、遠くに富士山。
渡ると、手越の里。「手越の里」は、「千手の里」とも言われ、「平家物語」に出てくる絶世の美女である白拍子「千手の前」の出身地であるらしい。
「杉玉(すぎたま)」。
酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る。
「手越原」交差点で国道1号線と合流。
《20 丸子(鞠子)》(2015.02.04~掲載)
いちだんと静かな道になり、山が次第に近づいてくる。
「丸子宿江戸方見附」跡。
道が急に狭くなっている。枡形の名残り。ここから丸子宿。道幅も昔のままなのだろう。家の軒先には屋号の看板が掲げられている。
「本陣」跡。 「脇本陣」跡。
道なりに歩くと、まもなく「丁子屋」。12時少し過ぎ。ちょうどいいタイミング。
頼んだのは、定食「丸子」(税込み1440円)。「とろろ」と「ご飯」と「味噌汁」と「香の物」。地元静岡の契約農家からの自然薯、自家製の味噌などこだわりが随所に。味噌汁に、たたみいわしがさりげなく入っていた。
目の前の橋を渡ると、「高札場」。丸子宿の京方見付にもなっていいる。
国道1号線。
大きな松の先の歩道橋を渡って山側の道を進む。
歩道橋から静岡方面を望む。
「道の駅 宇津ノ谷峠(上り線)」に到着。
「宇津ノ谷峠」を越えて行く(抜ける)のには、いくつものルートがある。
1.蔦(つた)の細道…平安時代から鎌倉時代の古道。
2.旧東海道…江戸時代の道。
3.明治トンネル…明治9年開通、初の有料トンネル。
4.宇津ノ谷隧道…昭和5年開通(県道208号線)。「大正トンネル」ともいう。
5.昭和宇津ノ谷トンネル…昭和34年開通(国道1号線)。
6.平成宇津ノ谷トンネル…平成10年開通(国道1号線)。
5,6以外はそれぞれに歴史を持つ道筋。旧道歩きは一般的に「2」を行くことになる。そこで、まずは「宇津ノ谷」の集落方向へ。
狭い上り坂に沿って軒を連ねる宇津ノ谷の集落。
「お羽織屋」。
道が二手に分かれ、右手が「出世街道」=旧東海道。峠越えの山道。左は、「明治トンネル」方向。
この先が、旧東海道登り口。
この日は、左手の「明治トンネル」の方へ進む。
眼下に「宇津ノ谷」の集落。
「旧東海道」に合流、下りの山道が続く。
右手奥が 「蔦の細道公園」方向。
坂を下ると道の分岐点の付近に延命地蔵堂(鼻取地蔵)。
日にちを改めて再び、「宇津ノ谷峠」へ。で気になっていた「蔦の細道」をたどってみることに。
この階段を上って行きます。
登り始めて20分ほどで、峠に。
在原業平の歌碑。
駿河なる宇津の山辺の うつつにもゆめにも 人にあはぬなりけり
岡部側。明るく開けている。
しばらく下りの石畳道が続き、「蔦の細道」下り口。
宇津ノ谷峠をめぐる全体図。
時間にゆとりがあれば、「道の駅」から、①「蔦の細道」を歩き、次に②「旧東海道」を上り、宇津ノ谷の集落の手前で、③「明治トンネル」を歩く、そして④「大正トンネル」を歩く、というコースもありそう。
結局、今回たどったのは、③「明治トンネル」、②「旧東海道」の下り(の一部)、①「蔦の細道」。いずれも変化に富んだ興味深い道。
「坂下」バス停を過ぎて、ここから岡部宿へ向かう。途中から岡部川にそって進み、再び国道1号線(旧)に合流する。
《21 岡部》(2015.02.10~掲載)
「岡部宿」案内板。
左側に「柏屋」
「大旅籠 柏屋 歴史資料館」。
見学料300円で中に入り、ボランティアの方に案内、説明してもらった。すぐお隣に「内野本陣」跡があり、「岡部宿内野本陣史跡広場」となっている。
宿場町らしい雰囲気。
しばらく進むと、角の造り酒屋さんのところで、道は右に折れる。
「桝形」の名残り。ここが西の木戸口(見付)?
《22 藤枝》(2015.02.13~掲載)
再び県道(「つた街道」)に合流。広い通りになって、道は南に向かう。
「松並木」の南のはずれ。 「岡部宿」碑の向こうには「常夜燈」。
「国道1号線・藤枝バイパス」の下をくぐり、「横内」へ。すぐ右手に「傍示杭」。
「朝比奈川」に架かる「横内橋」から横内地区を望む。川岸のところに「横内あげんだい」が見える。けっこう目立つ!
「国道1号線」に合流してすぐに左の道に。
しばらく進むと、左手の建物のところに標識。
「史跡 鬼島一里塚跡」。日本橋から49里目。
「葉梨川」を渡ってすぐに右に曲がる。「御成街道」。
左手にモニュメント風の火の見やぐらと常夜燈があり、説明碑が設置されたところへさしかかる。
東海道・鬼島の建場
注:「建場(たてば)」は一般的には「立場」と書き、幕府公認の宿場と宿場の間の休憩施設・「お休み処」があったところ。発展すると「間の宿(あいのしゅく)」となることも。
「水守」地区は、土地整備計画で大きく変わっている。「松並木」の道(「東海道」)も工事中。南側には大きなホームセンターやお店が出来て、周囲の道も広くなって東海道の痕跡は、この松並木のみ。
「旧東海道」は、そのまま広い「国道1号線」を斜めに突っ切る道だが、道路を斜めに渡るような状況ではない。
「藤枝宿」の中心部へ。振り返って望む。
現在の「藤枝宿」は、ほぼ直線の道沿いの商店街に。
右手にある病院の敷地に「藤枝静男」生誕の地」碑。
宿内には「常夜燈」が目立つ。
歩道のところに「下本陣跡」のタイル。その先には、「上本陣」跡。
「瀬戸川」に架かる「勝草橋」を渡ると、ここで約2㎞にわたる「藤枝宿」も終わり。
勝草橋を渡るとすぐ右手に「志太一里塚」の石碑が立っている。
松の古木の向こうに、田んぼと東海道線。
道なりに進むと、「国道1号線」に合流。藤枝市から島田市に。
《23 島田》(2015.02.17~掲載)
「(日本橋から)206㎞」標示。
旧東海道は、国道1号線から離れ、左の「島田駅」方向の道に進む。しばらく行くと、「島田宿東見付跡」。
「升形跡(宿東入口)」。
右手に「島田宿一里塚跡」碑。
日本橋からの実距離では、「52里目」。
駅前近くなると、道幅も広くなり、整然とした町並みに。
「からくり時計」のある通り。
島田宿下本陣置塩(おしお)藤四郎家跡。戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだと言われている。
この付近には、かつての宿場を記念する立て札、史跡碑が道の左右にあって、通りを渡ったり、戻ったり。
聖芭蕉翁遺跡
塚本如舟は、元禄の頃、川庄屋を勤めた島田の名家であり、俳人であり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄4年10月東下りの際初めて如舟邸を訪れて
宿かりて名を名のらする時雨かな 馬方はしらじ時雨の大井川
などの句を残した。元禄7年5月西帰の際(それは芭蕉翁最後の旅ともなった)、再び如舟邸を訪れたまたま大井川の川止めにあい4日間も滞在して
さみだれの雲吹きおとせ大井川 ちさはまた青葉なからになすび汁
など詠じ更に興に乗じて田植の連句
やはらかにたけよことしの手作麦 の如舟の発句に翁は 田植とともにたびの朝起
と付句し、且、元禄年五月雨に降りこめられてあるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん、と後書まで添えた真跡が、今日までそのまゝ塚本家に伝えられている。
注:「ちさ」=苣(萵)<チシャ>。ヨーロッパ原産で「レタス」のこと。キク科の植物。平安時代に中国から日本に渡来した。
するかの国に入て
するかちやはなたち花もちやのにほひ はせを
「島田宿西見付」。
この付近までが厳密な意味での「島田宿」内ということになる。
「東海道」は緩やかに上りながら右に曲がる。この辺りは「狐ヶ崎」と呼ばれる地域。かつて遊園地があった、という。そのCMソングが、有名な「新」民謡『ちゃっきり節』(北原白秋作詞、町田嘉章作曲)。
旧東海道。道標に従って道なりに進むと、JRの広大な操車場にぶつかる。
「旧東海道記念碑」。
旧道は分断されてしまうので、地下道を通り、反対側へ。その先で「国道1号線」に合流。長沼の交差点で、斜め右の道に入る。
「長沼一里塚」跡。日本橋から44里目の一里塚。
その先、「国道1号線」を歩道橋で渡る。
歩道橋からの富士山。左手は静鉄「柚木」駅。
《19 府中》(2015.01.27~掲載)
JRの地下道を通り、反対側へ。国道1号線に合流、斜め前の道を進む。静鉄線路脇にあるのが、
「東海道府中宿東見附」。
ここから「府中宿」。
「府中」(現:静岡市中心部)は、「西見附」まで3,600㍍と、大きな宿場であった。家康ゆかりの「駿府城下町」であり、現在でも「旧東海道」中で、「浜松」と並んで、大きく賑やかな町並みとなっている。
「下伝馬本陣、脇本陣跡」。 「上伝馬本陣、脇本陣跡」。
静鉄「新静岡」駅の南にある「西郷・山岡会見跡」の碑。
宿場のはずれにある「府中一里塚」跡。
いよいよ「安倍川橋」へ向かう。
「安倍川餅・石部屋(せきべや)」。
「安倍川橋」。
「安倍川橋」は、ボーストリングタイプ(弓と弦)トラスト形式で、それがいくつもつながり、リズム感(そんな印象)に富んでいる。振り向くと、富士山。上流には、白雪の山々。中部5県で最古期の鋼トラス橋。
橋を渡って振り返ると、遠くに富士山。
渡ると、手越の里。「手越の里」は、「千手の里」とも言われ、「平家物語」に出てくる絶世の美女である白拍子「千手の前」の出身地であるらしい。
「杉玉(すぎたま)」。
酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒の造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。吊るされたばかりの杉玉はまだ蒼々としているが、やがて枯れて茶色がかってくる。この色の変化がまた人々に、新酒の熟成の具合を物語る。
「手越原」交差点で国道1号線と合流。
《20 丸子(鞠子)》(2015.02.04~掲載)
いちだんと静かな道になり、山が次第に近づいてくる。
「丸子宿江戸方見附」跡。
道が急に狭くなっている。枡形の名残り。ここから丸子宿。道幅も昔のままなのだろう。家の軒先には屋号の看板が掲げられている。
「本陣」跡。 「脇本陣」跡。
道なりに歩くと、まもなく「丁子屋」。12時少し過ぎ。ちょうどいいタイミング。
頼んだのは、定食「丸子」(税込み1440円)。「とろろ」と「ご飯」と「味噌汁」と「香の物」。地元静岡の契約農家からの自然薯、自家製の味噌などこだわりが随所に。味噌汁に、たたみいわしがさりげなく入っていた。
目の前の橋を渡ると、「高札場」。丸子宿の京方見付にもなっていいる。
国道1号線。
大きな松の先の歩道橋を渡って山側の道を進む。
歩道橋から静岡方面を望む。
「道の駅 宇津ノ谷峠(上り線)」に到着。
「宇津ノ谷峠」を越えて行く(抜ける)のには、いくつものルートがある。
1.蔦(つた)の細道…平安時代から鎌倉時代の古道。
2.旧東海道…江戸時代の道。
3.明治トンネル…明治9年開通、初の有料トンネル。
4.宇津ノ谷隧道…昭和5年開通(県道208号線)。「大正トンネル」ともいう。
5.昭和宇津ノ谷トンネル…昭和34年開通(国道1号線)。
6.平成宇津ノ谷トンネル…平成10年開通(国道1号線)。
5,6以外はそれぞれに歴史を持つ道筋。旧道歩きは一般的に「2」を行くことになる。そこで、まずは「宇津ノ谷」の集落方向へ。
狭い上り坂に沿って軒を連ねる宇津ノ谷の集落。
「お羽織屋」。
道が二手に分かれ、右手が「出世街道」=旧東海道。峠越えの山道。左は、「明治トンネル」方向。
この先が、旧東海道登り口。
この日は、左手の「明治トンネル」の方へ進む。
眼下に「宇津ノ谷」の集落。
「旧東海道」に合流、下りの山道が続く。
右手奥が 「蔦の細道公園」方向。
坂を下ると道の分岐点の付近に延命地蔵堂(鼻取地蔵)。
日にちを改めて再び、「宇津ノ谷峠」へ。で気になっていた「蔦の細道」をたどってみることに。
この階段を上って行きます。
登り始めて20分ほどで、峠に。
在原業平の歌碑。
駿河なる宇津の山辺の うつつにもゆめにも 人にあはぬなりけり
岡部側。明るく開けている。
しばらく下りの石畳道が続き、「蔦の細道」下り口。
宇津ノ谷峠をめぐる全体図。
時間にゆとりがあれば、「道の駅」から、①「蔦の細道」を歩き、次に②「旧東海道」を上り、宇津ノ谷の集落の手前で、③「明治トンネル」を歩く、そして④「大正トンネル」を歩く、というコースもありそう。
結局、今回たどったのは、③「明治トンネル」、②「旧東海道」の下り(の一部)、①「蔦の細道」。いずれも変化に富んだ興味深い道。
「坂下」バス停を過ぎて、ここから岡部宿へ向かう。途中から岡部川にそって進み、再び国道1号線(旧)に合流する。
《21 岡部》(2015.02.10~掲載)
「岡部宿」案内板。
左側に「柏屋」
「大旅籠 柏屋 歴史資料館」。
見学料300円で中に入り、ボランティアの方に案内、説明してもらった。すぐお隣に「内野本陣」跡があり、「岡部宿内野本陣史跡広場」となっている。
宿場町らしい雰囲気。
しばらく進むと、角の造り酒屋さんのところで、道は右に折れる。
「桝形」の名残り。ここが西の木戸口(見付)?
《22 藤枝》(2015.02.13~掲載)
再び県道(「つた街道」)に合流。広い通りになって、道は南に向かう。
「松並木」の南のはずれ。 「岡部宿」碑の向こうには「常夜燈」。
「国道1号線・藤枝バイパス」の下をくぐり、「横内」へ。すぐ右手に「傍示杭」。
「朝比奈川」に架かる「横内橋」から横内地区を望む。川岸のところに「横内あげんだい」が見える。けっこう目立つ!
「国道1号線」に合流してすぐに左の道に。
しばらく進むと、左手の建物のところに標識。
「史跡 鬼島一里塚跡」。日本橋から49里目。
「葉梨川」を渡ってすぐに右に曲がる。「御成街道」。
左手にモニュメント風の火の見やぐらと常夜燈があり、説明碑が設置されたところへさしかかる。
東海道・鬼島の建場
注:「建場(たてば)」は一般的には「立場」と書き、幕府公認の宿場と宿場の間の休憩施設・「お休み処」があったところ。発展すると「間の宿(あいのしゅく)」となることも。
「水守」地区は、土地整備計画で大きく変わっている。「松並木」の道(「東海道」)も工事中。南側には大きなホームセンターやお店が出来て、周囲の道も広くなって東海道の痕跡は、この松並木のみ。
「旧東海道」は、そのまま広い「国道1号線」を斜めに突っ切る道だが、道路を斜めに渡るような状況ではない。
「藤枝宿」の中心部へ。振り返って望む。
現在の「藤枝宿」は、ほぼ直線の道沿いの商店街に。
右手にある病院の敷地に「藤枝静男」生誕の地」碑。
宿内には「常夜燈」が目立つ。
歩道のところに「下本陣跡」のタイル。その先には、「上本陣」跡。
「瀬戸川」に架かる「勝草橋」を渡ると、ここで約2㎞にわたる「藤枝宿」も終わり。
勝草橋を渡るとすぐ右手に「志太一里塚」の石碑が立っている。
松の古木の向こうに、田んぼと東海道線。
道なりに進むと、「国道1号線」に合流。藤枝市から島田市に。
《23 島田》(2015.02.17~掲載)
「(日本橋から)206㎞」標示。
旧東海道は、国道1号線から離れ、左の「島田駅」方向の道に進む。しばらく行くと、「島田宿東見付跡」。
「升形跡(宿東入口)」。
右手に「島田宿一里塚跡」碑。
日本橋からの実距離では、「52里目」。
駅前近くなると、道幅も広くなり、整然とした町並みに。
「からくり時計」のある通り。
島田宿下本陣置塩(おしお)藤四郎家跡。戦のときの行軍と同じと考えられていたため、大名の泊まる宿を戦場と同じく「本陣」と呼んだと言われている。
この付近には、かつての宿場を記念する立て札、史跡碑が道の左右にあって、通りを渡ったり、戻ったり。
聖芭蕉翁遺跡
塚本如舟は、元禄の頃、川庄屋を勤めた島田の名家であり、俳人であり好事者でもあった。芭蕉翁は元禄4年10月東下りの際初めて如舟邸を訪れて
宿かりて名を名のらする時雨かな 馬方はしらじ時雨の大井川
などの句を残した。元禄7年5月西帰の際(それは芭蕉翁最後の旅ともなった)、再び如舟邸を訪れたまたま大井川の川止めにあい4日間も滞在して
さみだれの雲吹きおとせ大井川 ちさはまた青葉なからになすび汁
など詠じ更に興に乗じて田植の連句
やはらかにたけよことしの手作麦 の如舟の発句に翁は 田植とともにたびの朝起
と付句し、且、元禄年五月雨に降りこめられてあるじのもてなしに心うごきて聊筆とる事になん、と後書まで添えた真跡が、今日までそのまゝ塚本家に伝えられている。
注:「ちさ」=苣(萵)<チシャ>。ヨーロッパ原産で「レタス」のこと。キク科の植物。平安時代に中国から日本に渡来した。
するかの国に入て
するかちやはなたち花もちやのにほひ はせを
「島田宿西見付」。
この付近までが厳密な意味での「島田宿」内ということになる。