おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第10日目。内房線「江見駅」~「南三原駅」―「館山駅」。。

2024-02-29 20:18:21 | 房総東往還

1月27日(土)晴れ。いよいよ「房総東往還(伊南房州通往還)」最終日となりました。

途中、旧道を歩くだけではなく、タクシーを利用したり、バスに乗ったり、省略したところもあったりして、・・・。

「江見駅・江見郵便局」に下車。郵便局は閉まっています。

     旧道に復帰します。

洲貝川。        

しばらく進み、「国道128号」に合流します。

国道から右の旧道に入ります。

ふと左の柱に※「綱吊り」=「道切り」の一種、片草鞋が吊るされています。

地元の方にお聞きしたら、「最近は、新型コロナとかインフルとかがはやっているので、その侵入を防ぐために吊るしてある。昔からの慣習です。でも、最近は、草鞋を編む人もいなくなって・・・」と。

鴨川市から南房総市に入ります。

「またどうぞ鴨川へ」。

すれ違った散歩中の地元の方から「桜が咲いて見事ですよ、ほら、あそこの高台。行ってみて下さい。この先を右に曲がって踏切を越えると、すぐですから。」と。

さっそく寄り道をします。

坂道を上がっていきます。と、満開の桜並木。        

  

遠く、南房総の海が見下ろせます。

ここは、抱湖園

全国的に有名な花の産地である南房総市和田町にある「抱湖園」は、当地に花栽培をもたらした偉人、間宮七郎平が開いた庭園です。元々薬剤師であった間宮七郎平は、花づくりによって半農半漁で生計を立てる民を救いたいという想いから、花栽培に取り組みました。安房で初めて花栽培に成功し、自らくわを持って山を切り開いて花木を植栽。この際に植えられた寒桜は、旧暦の元日朝に咲くことから「元朝桜」と名付けられました。毎年1月下旬〜3月末頃になると、約60本の元朝桜と菜の花が見事に咲き誇ります。

(この項、「ちば観光ナビ」HPより)

※旧暦の元旦。今年は、2月10日(土)。

       

子供連れの家族。「いつもは、2月になってから咲き始めるのですが。」

※この日は、1月27日(土)でした。

菜の花畑。

蘇鉄の奥に梅、桃。

「第二花園踏切。」。

すばらしい槙の生垣が続く。

右手に大きなお屋敷。    

???

「←花嫁街道・和田浦駅→」。

槙の生垣。

房総往還歩きの時、館山近くですばらしい「槙のつらなり」を見ましたが、ここもすばらしく見事です。

この先で内房線の踏切を渡ります。

内房線「和一号踏切」。

内房線「和田浦駅」。

                       フェニックスの大木。

    待合室で休憩。

                抽象画が飾られています。

ここ南房総では、17世紀頃から小型船による沿岸捕鯨が行われてきました。 そして現在でも、6月から8月に掛けてツチ鯨の漁が行われています。
シーズンになると、捕獲された鯨とその解体を見る為、各地から多くの人々が訪れます(捕鯨の予定などは、捕鯨の会社外房捕鯨さんのブログに情報が掲載されます)。
捕鯨は早朝出航し、当日の夕方は捕獲した鯨を曳航して港に帰り(当日出航の当日帰港)、鯨はそのまま熟成させるため、一晩寝かせます。
翌日の早朝、鯨の体長などの計測したあと日の明けぬうちから解体が始まります。
解体には、大きな包丁(薙刀のよう)を持った男たちが尻尾から切り落とし、手際よく鯨肉が仕分けされ、最後には地元の人をはじめとする、鯨肉の購入者に小分けして販売されます。 昔からほとんど変わらない鯨の解体作業は、ずっと鯨に親しみ、鯨とともに歩んできた和田漁港の男たちと地元民の暮らしの一部になっているようです。

(この項「」HPより)

※農林水産大臣より許可された沿岸小型捕鯨で捕獲された鯨の鯨体処理場の設置場所は、全国で4か所

北海道の網走、宮城県の鮎川、和歌山県の太地、そして南房総に位置する和田町

房総にある捕鯨基地は、これまで館山市や千倉町、白浜町へ移動してきた後、現在の和田町へと落ち着きました。

 

しばらく休憩した後で、街道歩き再開。「和田浦駅」前ロータリー

内房線踏切を越えます。

                      「南一号踏切」(次の駅「南三原」の「南」)。

国道128号線を進みます。

和田浦港。                

              捕鯨の時期にはたいそう賑わうそうです。 

国道128号を越え、斜めに旧道を進みます。

角のところに、「房州みやげ ひもの かわはぎ くじらのたれ 中村鮮魚店」という看板。

「くじらのたれ」とは? 

「くじらのたれ」は、くじら肉をたれに漬け込んで干した千葉県南房総の郷土料理。見た目は炭や海苔のように真っ黒で、木の皮のような見た目である。「くじらのたれ」に使用されるクジラは体長12メートルほどのツチクジラという種類である。
鎌倉市内の遺跡から出土する多くの鯨骨の存在などから、鎌倉時代後半の13世紀頃から室町時代14世紀~15世紀頃までには、房総で沿岸捕鯨が始められていた可能性が考えられている。各地で「網取り法」での捕鯨が主流になっても、ツチクジラが深くまで潜るため網取り法が適さず、一貫して「突き取り法」でおこなってきたことが南房総地域の捕鯨の特徴的である。
捕鯨は昭和の時代までは全国各地で盛んに漁がおこなわれており、庶民の食べ物であった。一般家庭でも頻繁に食卓に並べられていた食材で、冷蔵庫の無い時代の保存食として「くじらのたれ」がつくられたと言われている。「くじらのたれ」という名前は、クジラをたれに漬け込んで干すことが由来といわれているほか、家の軒先に吊るしたからという説もある。南房総地域の市民にはなくてはならない味で、他県に移り住み里帰りしてきた人は、「くじらのたれ」を買って帰るほど、故郷の味として親しまれている。

(この項、「」HPより)

海岸から少し離れた道を進む。

国道に復帰します。

                   後方右奥に「和田浦漁港」。

すぐ右の旧道へ。

     

車の行き来が激しい国道に比べのどかな旧道。右手は内房線の線路。

                    

次第に駐車場が目立つように。皆、サーファー姿。

海にはサーフィンを楽しむ人達の姿。

      

ここにも、おしゃれな建物。サーフィンショップS&S」。

クジラのモニュメント。左側。

        右側。

                   この付近を東経140度線が通っています。

バス停「白渚海岸」。「shirasukakaigan」。

かつての道は、右に向かい「三原川」を越えていました。

内房線の鉄橋。

「和田サーフ橋」。

               日の出のスポットだそうです。

「←白浜・千倉への道」。

              この先、道路と橋の付け替え工事中。

「フラワーライン入口」交差点。

「フラワーライン」。

槇の生垣が続く道を進みます。

「南三原駅」まで歩き、そこから館山駅行きのバスに乗る予定でしたが、・・・。

目の前のバス停の時刻表を見ると、まもなくバスが来る予定。駅より少し手前ですが、乗ってしまいます。

「(南房総市立)嶺南中学校和田校舎前」バス停。 

海沿いから田園地域へ。

バスは、国道128号線を進みます。

※旧道は残っていて、国道から分かれて進むところがあります。

途中、「伊南房州通往還」旧道を通り、

                      「丸山川」を越えます。

「国道128号線」と合流します。「国道410号」がここから南房総方面に進みます。

「加茂坂」を越え、館山市に入ります。

「南総文化センター前」バス停で下車し、旧道を進みます。

左に入る道。

       左折します。

                     「鈴木屋製菓」。                                               

          「根本嘉美税理士行政士事務所」。

内房線「第十館山街道」踏切。

この先が曲尺手(桝形)に。               

振り返る。

長須賀。

「べにや」。

                                                                          「見世(店)蔵」。

館山市の長須賀交差点前の金物店「紅屋商店」の店舗と主屋は平成19年7月31日に国登録有形文化財(建造物)に指定された。

  

右折します。この通りにも昔風の建物があります。

            

 商家風の建物が多い。

かつての館山の街並みは「潮留橋」から西側に「館山城」下町として広がっていたようです。新宿町から長須賀は商業(海運)の町として賑わっていました。

「汐留橋」。

「房総往還(船橋~館山)」との合流地点。ここを終着点ということに。

※「房総往還」は、この先、かつての館山城下町まで続きます。

「汐入川」下流。

           房総往還が右岸沿いに。

ここで、浜野~大網~茂原~上総一ノ宮~御宿~勝浦~鴨川~館山、と続いた「伊南房州通往還(房総東往還)」を完結。

JR内房線「館山駅」まで戻ります。

昼食に駅前で「クジラ肉カレー」を食べました。肉片が真っ黒。

特急の発車時間にはまだ時間があるので、北条海岸まで歩きました。 

穏やかな海。                 

内房・那古方向。 

「特急・新宿さざなみ」。               

これで、10日間(番外編を含め、12日間)、「伊南房州通往還」=「房総東往還」の旅は終わりました。徒歩、電車、バス、タクシー・・・、南房総の美しい海と空を満喫した旅でした。

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第9日目。内房線「安房鴨川」~「江見駅」。

2024-02-28 19:29:03 | 房総東往還

「安房鴨川駅」から「江見駅」までの歩き旅。

1月19日(金)。あいにくの曇り空時々晴れ。しかし、強い風もなく、穏やかな日和でした。              

「安房鴨川駅」。

駅前の通りを進み、「伊南房州通往還=房総東往還」に出ます。                                                     

左側は海岸。                 

曲尺手(桝形)。

「加茂川」。河口方向。

「加茂川」をはさんで旧市街地が続きます。

鴨川(市)のゆらい

  • 「千葉県町村合併史」には、「明治22年の合併に当り新町の名称は、鴨川町と決定したが、それは新町内を加茂川が貫流し、且つまた「倭名類聚抄」に長狭郡に加茂郷の郷名がみえ、それが当地区で在ったと推定されるので、そうした史的所伝に基づくものである。」と記載されています。
  • なお、「倭名類聚抄(ワミョウルイジュショウ)」(和名抄)とは、平安中期の漢和辞書です。
  • 「鴨川沿革史」(昭和39年2月・鴨川図書館)には、「古昔この地方を賀茂(カモ)郷と称した。)平塚(ヒラツカ)村より前原町・貝渚(カイスカ)村まで5里の間を貫流している川は、京都の鴨川に似ていると云うので加茂川と称したのを、明治22年4月の町村合併の時、町名に「加茂」を「鴨」に作り鴨川町と名付けた。」とあります。
  • 以上が代表的なもので、諸説がありますが確かなことは分かりかねます。

この付近から緩い上り坂(「万騎坂」)になります。「←鴨川漁港」。

万騎(まんき)坂

古くから漁師町としての雰囲気が漂う貝渚と磯村地区を結ぶ万騎坂。源頼朝が石橋山の合戦に敗れ、逃げのびた後、仁右衛門島にて身を隠し静養した後、再起し、鎌倉へ向かった際に万にものぼる味方とともにこの坂を進んだことが、この名称の言われ。近くにある白幡神社も源氏のシンボルである「白旗」にちなんでいるのは、偶然ではないはず。

※「万騎坂」という名の坂は、袖ケ浦市にもあり、ここと同様に、頼朝が再起して鎌倉に向かった、とのいわれがあるようです。

鴨川漁港。                

左に海を眺めながら、ゆっくり上り坂を。

眼下には、「鴨川松島」。大小七つの島(荒島 こうじま・弁天島 べんてんじま・鵜島 うじま・雀島 すずめじま・波涛根島 はとねじま・猪貝島 いがいじま・海獺島 あしかじま)の総称であり、宮城県の松島を思わせる景観からその名がついた。

中央に「雀島」。                      

車道に合流します。

               正面の丘の上には、「JOSAI」(城西国際大学安房キャンパス)。

県道に出てすぐ右の細い道に入ります。坂道の向こうに海。

県道に合流。

「なぶとばし」。

「内房線」の鉄橋。

               その奥は、「国道128号」。

左折し、、仁右衛門島へ向かいます。

漁港

対岸に「仁右衛門島」。

         県道に戻って先に進みます。左下に、

「太海フラワーセンター(植物園)」(廃園)。現在は、「太海フラワー磯釣りセンター」。

この先で、右からくる「国道128号」に合流します。

振り返る。
           
国道から右の坂道へ。                                 
 
地層が露出しています。              
 
右手、西院の河原地蔵堂付近から。
 
関東では珍しい賽の河原。岸壁に建てられた堂内には無数のお地蔵様が祀られている。

浅間宮の常夜燈。

左はツナツリ(綱吊り)で、昔はここに大きな「綱吊りの松」があり、この先の「天面(あまつら)村」への悪病・悪霊などの侵入を防いでいたという。

※「綱吊り」=「道切り」

左下の道路には、

「高波注意」。

         海岸際を通る国道128号線。

           

掲示板「はば取り解禁日」

 この「はば」って何?

ハバノリ(はば海苔)

褐藻綱カヤモノリ目カヤモノリ科セイヨウハバノリ属に分類される一年生の海藻である。(「Wikipedia」より)

・・・

生態系も海苔と同じように、秋頃になると胞子を出して、晩秋に発芽し、冬から春の海水温が冷たい時期に生育します。

日本の全域の沿岸の岩場で自然に生育しており、千葉県では岩場が多い勝浦・鴨川・南房総や銚子方面などで採取されることが多いようです。岩海苔と間違えられることも多いようですが、正確には「岩コンブ」ですね。

はばのりは数日間天日干しされて乾燥し、このように販売されています。

年越し・年始の郷土料理として昔から親しまれています。※静岡県の下田・熱海などの三浦半島方面でも食す文化があるようです。

これは自身のまたはその家の成長を祈願して、1年中「ハバ」をきかせる=幅を利かせる と、ゲンを担いだ縁起物としてありがたくいただくわけです。

国道128号」に合流します。

バス停「天面(あまつら)漁港」。

国道を離れ、内房線踏切へ。

「江一号踏切」。

眼下に、

       「外房黒潮ライン(国道128号)房州大橋」。

右に見える内房線「山生橋梁(やもうめきょうりょう)」は歴史的に貴重な建造物として2012年「土木学会選奨土木遺産」に認定されました。

「道の駅 鴨川オーシャンパーク」脇へ。旧道は、この施設の向こう側、海側を進んでいきます。

ユニークな建物。

そのまま「国道128号」を歩くことに。

バス停「名馬橋」。

この地名も頼朝伝説にちなみます。そこで、まとめて。

源頼朝と鴨川

  • 治承4(1180)年、伊豆で反平家の兵を挙げた源 頼朝は、相模(サガミ)の石橋山の戦いに敗れて、真名鶴岬(マナヅルミサキ)(現神奈川県真鶴)から小舟で逃れ、安房国平北(ヘイホク)郡猟島(現鋸南町(キョナンマチ)竜島)に上陸して再挙を図ったという史実は、良く知られています。
  • 猟島に上陸したのが8月29日(旧暦)のことで、それから9月13日までの14日間、安房に留まり、安房、上総の武士団を集め、13日に安房を出立して上総に向かったといいます。
  • この14日間の安房に於ける頼朝の行動に関連して、頼朝にまつわる話がいくつか市内に伝えられています。
  1. 一戦場 =頼朝が安房に上陸した4日後の9月3日のたそがれ時に、平氏に心を寄せていた当地の住人、長狭六郎常伴(ナガサロクロウツネトモ)は、頼朝を討とうと企て、宿所を襲ったが、頼朝の従者、三浦義澄(ミウラヨシズミ)らに討ち取られたといいます。この戦いがどこで行われたか明らかではありませんが、市内貝渚(カイスカ)に「一戦場(イッセンバ)」という地名があり、その場所とする伝承があります。
  2. 仁右衛門島 =石橋山の戦いに敗れた頼朝は、わずかの兵を引き連れて波太(ナブト)(現鴨川市太海浜(フトミハマ))の仁右衛門島(ニエモンジマ)に上陸しました。島主の仁右衛門は、頼朝一行を厚くもてなし、その再挙を助けました。喜んだ頼朝は、仁右衛門に「平野(ヒラノ)」の姓と島周辺の漁業権を与えたといいます。
  3. 名馬太夫黒 =頼朝が再挙を図って太夫崎(タユウザキ)(現鴨川市江見(エミ)太夫崎)まで来た時に、たまたま岩に蹄の跡(馬蹄石)を見つけました。このあたりに良い馬がいるのではないかと捜したところ、近くの洞穴で黒い毛並みの立派な馬を見つけました。そこで地名を採って、この馬に「太夫黒(タユウグロ)」と名を付け、頼朝の乗馬となりました。後に、磨墨(スルスミ)と呼ばれました。洞穴の前を流れる小川を「名馬川(メイバガワ)」といいます。
  4. 旗かけ松 =頼朝は、安房から上総に兵を進めるため、東条広場(現鴨川市広場)の松崎(マツザキ)(待崎(マッサキ))に至り、傍らの松に源氏の白旗を掲げて上総介平広常(カズサノスケタイラノヒロツネ)の到着を待ったところから、この名があるといわれています。
    この松はその後、天保(テンポウ)の旱魃(カンバツ)で枯れたので松のあった所に石碑を建てました。石碑の正面に「頼朝公旗掛松(ヨリトモコウハタカケマツ)」、裏面に「文久2年秋9月これを建てる」と刻まれています。

旧道方向へ進みます。

この先で国道128号を横断します。

海から離れた道を進みます。静かでのどかな田園風景。

この道が、かつては主要道であったことがわかります。水準点(15.5)。

集落に入っていきます。  

右折すると、「江見駅」。その角にあるおうち。

南国風の大木。フェニックス(Phenix)カナリーヤシ :

古代エジプトの想像上の鳥で、不死鳥と訳される。フェニックスはアラビアまたはフェニキアに住み、史実タキトゥスによれば、500年毎に太陽の都ヘリエポリスを訪れ、生命の終わりが近づくと香木を山と重ねて火をつけ、自らを焼き、たえなる歌声とともに死に至るといわれている。そしてその灰の中から蘇るのが次代のフェニックスであり、同時に二羽のフェニックスはこの世に存在しない。

ギリシア語のフォイーニックスは、フェニキア、紫、ナツメヤシの三つの意味を持つ。そこで、生地はフェニキア、王者の色としての紫の色を身にまとうといい、勝者のシンボルとしてのナツメヤシと同一視される。

「江見駅」・「江見駅郵便局」。

  • 2019年令和元年)7月1日:鴨川市への乗車券類販売委託(簡易委託)を解除し、終日無人化
  • 2020年(令和2年)8月31日郵便局と一体化した駅舎に建て替えると共に、江見駅郵便局(日本郵便)に乗車券の販売や列車の案内業務等を委託
  • 2021年(令和3年)4月27日:農産物集荷場「JRE農業ステーション江見駅」を開設

日本郵便が駅業務を受託している安房鴨川駅管理の業務委託駅。平日の郵便局営業時間内は当駅舎内にある江見駅郵便局が駅業務の取扱を行なっている自動券売機は設置されておらず、ICカードチャージ機、簡易Suica改札機、乗車駅証明証発行機が設置されている。また駅舎(局舎)内にはゆうちょ銀行ATM水洗式トイレ(男女別)が設置されている。

  • 2018年(平成30年)6月12日:「日本郵便とJR東日本の地域・社会の活性化に関する協定」に基づき、当局業務と江見駅窓口業務の一体的な運営を開始すると発表。郵便局が駅業務を請け負うのは当局が全国初の事例である
  • 2020年令和2年)8月31日:江見郵便局が当駅舎内に移転し、江見駅郵便局へ改称

駅内(局内)。

左にある棚・窓口が江見駅。

郵便ポスト。  

かつてあった郵便列車「クモユニ74012」をモデルにした、とのこと。

こ線橋から。右に駅舎・局舎。

        

  内房線下り線ホームにて。

駅と郵便局が一体化している、JRとして全国初(唯一)の「江見駅郵便局」を訪れたのは、ラッキーでした。

ただ、郵便局の受付には10人ほど来ていましたが、駅の乗客は小生1名でした。

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第8日目。外房線「行川アイランド駅」~「安房小湊駅」―「安房鴨川」。

2024-02-27 20:36:21 | 房総東往還

前回の「勝浦駅」から「行川アイランド駅」までは、電車(二駅 「鵜原」「上総興津」)で移動。

そこから「おせんころがし」を歩いて、「安房鴨川駅」まで歩くことにします。

1月8日(祝)。快晴。

「行川アイランド駅」。

           下車したのは、小生のみ。日陰に位置しているせいか、よけい寂しい雰囲気。

・行川アイランド駅

2006年(平成18年)度の1日平均乗車人員19人であり、県内のJR駅の中では最も少なかった。1990年代前半は200人超であったが、1994年に200人を割ってからは、年々減少の一途をたどっている。駅名の通り実質的に行川アイランドの来園のための専用駅で、閉園後は一気に利用客が減少した。

ここで、道を間違えてしまいました。「孝女・おせんの身投げ供養塔」(旧道)に行くためには、トンネルの手前で海の方に向かわなければならなかったのです。

※左手の駐車場のような空き地のところを海の方に進むが、その付近は寒々しい印象が強く、ちょっと逡巡してしまった。

せんころがしトンネルへ伸びる現国道128号線は昭和44年に作られた3代目の道路。初代国道は明治に作られ(当時は県道、後に国道へ昇格)、それこそが「おせんころがし」に他なりません。                                  

「大沢漁港」へ下ります。

                小さな漁港。背後の崖と海に挟まれた坂道周辺に数軒の家が。

※「大沢集落」の中心は「国道128号」の右上奥の山側になる。

      正面が「孝女・おせんの身投げ供養塔」方向。そこへつながる、断崖絶壁の道がかすかに残る。

古びた木製の案内板。

                     「←・・・ 誕生寺→」。

この付近の今昔。

明治以前、山側に古道があった(「日蓮寺」方向)が、その後は、ほぼ廃道。

左図・左端に描かれている道は、大正時代に国道としてあった道。

(「今昔マップ」より)

※1969(昭和44)までは、「おせんころがし」道は、国道128号線として位置づけられていました。

現在の国道128号線は、「行川アイランド駅」前からトンネルを通過して、小湊方面へ進む。

さて、旧道(「伊南房総通往還=房総東往還」)を海沿い(崖沿い)に歩くことに。

振り返る。「大沢漁港」から北の道は、廃道に近い。

             眼下に房総の海が広がる。

           

  車も行き来するので、ちょっと怖い。頑丈なガードレールはあっても、左は垂直の崖が続く。

「落石注意」の看板が随所に。

               しかし、地震などで崩壊したら、にっちもさっちもいかなくなりそう。

それでも、雄大な景色を堪能しながら歩きます。

振り返り、振り返りしながら歩く。

房総の海が広がる。

                  内房では対岸に三浦半島が見えますが、はるかかなたまで海が。                   

隧道を抜けると、小湊の町へ。

隧道の先は森の中へ。木洩れ陽の中を下っていく。

            

住宅が現れます。左手は廃墟?

正面奥に「誕生寺」が見えてきます。誕生寺。裏手に来たようです。

小湊山誕生寺 総門」。 

 誕生寺は、日蓮聖人生誕の地に建治2年(1276)に建立されました。
 明応7年、元禄16年の2度の大地震、津波により水没したこともあり、寺域を現在地に移して堂舎を再興しました。
 宝暦8年(1758)の大火で誕生寺の諸堂は焼失しましたが、宝永3年(1706)に建立と伝えられる「仁王門」のみ焼失をまぬがれました。県内でも最大規模の仁王門で、創建時の様子をとどめている貴重な建造物として、平成9年に県の有形文化財として指定されました。
 ・・・

※上記にもあるように、日蓮聖人誕生の地は海底に沈んでいるようです。          

       祖師堂。

小湊漁港。

「鯛の浦遊覧船乗り場」。

「鯛の浦遊歩道」を歩くことに。

               「特別天然記念物 鯛の浦タイ生息地」

内浦湾内、誕生寺前の渡船場から東南方へ船で5分ぐらいの海域で、伊貝島、弁天島などの近辺に多数のタイが群生するので、この辺りを「妙の浦」と呼んでいる。ここに集まるタイ類は、大部分がマダイで、ほかにクロダイ、メジナ、イスズミなどが混ざっている。マダイは、深さ30~150㍍ぐらいの海中に生息し、普段はその中層あたりを泳いでいる定着性の近海魚である。しかし、鯛の浦は、10~30㍍の浅海で、しかも限られた狭い海域に生息し、人間の投与する餌(魚の切り身など)をよく食べるのは、ほかに見られない現象である。日蓮聖人が誕生した古来殺生禁断の聖地であり、観光船の船ばたをたたくと海底から浮上させあらそって餌をもとめるのは不思議なことといわれている。

・・・

通常の鯛は、定着性の深海魚です。水深約30mから150mまでの、海底が岩や砂利のところにすんでおり、水温8度以下の海にはすんでいません。また、マダイは深海性の魚で小回遊の習性があり、群れをなさないといわれています。
通常の鯛と違い、鯛の浦の鯛は年中一定、海中に群れをなしてすんでいます。鯛の浦の鯛が年間を通じて船べりをたたく音を聞くと水面近く群れをなして出現し、与えられた餌を食べるという事は、非常に珍しいことなのです。鯛の浦の現象は、科学的には完全に解明されていません。その習性が珍しいので、「鯛の浦のタイ生息地」として指定を受け保護されているのです。日本でこのような習性を持つ鯛が鯛の浦だけに生息しているのは、鯛の浦周辺に住む人々の遠い昔から続いてきた信仰の歴史と、素朴な鯛保護の精神が生きているからなのです。
    

内浦湾。

                遙か遠く、正面奥は安房鴨川方向。

                        

「鯛の浦遊歩道」先端。小弁天島。

右端の島は、大弁天島。

「昭和天皇行幸啓記念碑」。

こんな風に穴の空いた石がたくさんあります。

                  

はて?

生きた貝が穴を空けるというケースがあります。
これはボーリングシェル(穿孔貝せんこうがい)と呼ばれる貝が、柔らかい砂岩や泥岩を削ったり、あるいは酸で石を溶かして穴を明けたものです。
石に穴を開ける貝としてはタガソデガイモドキ、トマヤガイ、カモメガイ、モモガイ、キナマツカゼガイ、イシマテガイヤエウ、メノハナガイ等があり、貝の大きさやによって穴の径や、角度が変わってきます。

一般的な磐笛の多くはこの貝由来のタイプをいい、酸に溶けやすい石灰岩や泥岩や砂岩の場合が多く、深い穴が特徴です。

         ここで大地震が起き、津波に見舞われたら逃げるすべがなさそう。

振り返る。遠くに弁天島。

小湊漁港。    

 この交差点を左に折れて駅に向かう。

と、バス停があり、まもなく来たバス。「安房鴨川駅」(終点は、「仁右衛門島」)まで行く、とのこと。飛び乗ってしまいました。

※「安房天津駅」を通過して、安房鴨川駅まで。

この先は、バスの車窓からの風景。

海岸伝いに進むバスの車窓からは、左手に海が広がります。小さな漁港をたどりつつ・・・。

※途中のバス経路は「伊南房州通往還(房総東往還)」と重なっています(言い訳がましいですが)。

左手に「鴨川シーワールド」が広がっています。

生命(いのち)の輝きと、ふれあえる海

          

                 

(「」HPより)

まもなく「安房鴨川駅」に着きます。

      「安房鴨川駅」。

安房鴨川駅は、「外房線」と「内房線」の境目の駅。

どちらも下りの終点駅。

上り「(内房線)館山・木更津・千葉方面 (外房線)茂原・千葉・東京方面」の始発駅に。

ほとんど1時間に1本。21時過ぎで、終電。

※「外房線」の上りに東京行きがあるのは、外房線に乗り入れている「京葉線」の終着駅が「東京駅」だから。

外房線に乗って帰ります。

(「上総一ノ宮」で「東京」(京葉線経由)行きの電車に乗り換え、さらに「蘇我」で内房線「千葉」経由、総武線「船橋」まで。)

「安房天津」。

「安房小湊」。

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第7日目。外房線「御宿駅」~「勝浦駅」。

2024-02-26 18:30:51 | 房総東往還

1月5日(金)。晴れ。年明け最初の街道歩き。

外房線「御宿駅」。

  ホームに海女さんの像があることに気づき、パチリ。

房総の海女(あま)は、三重県和具、石川県輪島市舳倉島と並んで「日本の三大海女」として知られていました。房総の中でも外房の御宿と南房総市白浜は代表的な地域で観光面でも有名でした。 しかし海女が全盛期だったのは1960年代あたりまでで、今はこの地に海女さんはいません。

さて、この先、「国道128号」にはトンネル(隧道)が4つほど続きます。路肩もなく、車も行き来があり、危険。

※旧道は山道で、後半は道なき道になるようなので、最初から遠慮。国道を歩くことにしていました。

                                        (「今昔マップ」より)            

駅前にタクシーが停まっていたので、事情を話すと、「けっこう危ないですよ。自転車とか人とか、避けようとして車同士が接触したりして、・・・」。

結局、トンネルを越えた「部原(へばら)海岸」まで乗ることにします(タクシー代1,200円)。

道の途中で、勝浦市に入ります。「上総国」から「安房国」になるわけです。

部原海岸。

御宿方向。

国道右手の「大勝軒」裏の道が旧道(伊南房州通往還=房総東往還)。

               

山が迫ってきます。

右手は高台。 

左が旧道、右が国道。 

                    モダンな「トレーラーハウス」が二棟。

      

右に大きくカーブする国道から分かれ、左に進むのが、旧道。

車の通りも少なく、静かな街並み。             

河口。

山が迫ってくる旧道。左手は海。

部原海岸。

             

部原漁港に寄ってみます。

                 小さな漁港。漁船が数隻。突堤では釣り人が。

背後に迫る岩山。

街道に戻り、先を行くとトンネルが見えてきます。    北側入口から南側を望む。 

南側の扁額には「風早隧道」とあります。         

「箱岩」が海中に。

豊浜港。

ここを左折して海岸方向へ。                                

「水準点」。かつての街道であったことが分かります。

海岸沿いの道。「新官港」。

勝浦の市街地に入っていきます。

前方にこんもりした山。 

前方頭上に高架橋。

商店が立ち並ぶ通りへ。

              

昔ながらの商家。空き家?

ここは商いをしているようです。

「松の家」。

                国の登録有形文化財に指定されている旅館。

               

                   
 
通りを進むと、左奥に「日蓮宗本行寺」。
 
境内に芭蕉の句碑があるようです。
 

御命講や油のような酒五升

(おめいこうや あぶらのような さけごしょう)

 日蓮消息文に、日蓮が信徒からの贈り物への礼状に、「新麦一斗、筍<たけのこ>三本、油のやうな酒五升、南無妙法蓮華経と回向<えこう>いたし候」とあるから採った。このことからして、芭蕉は日蓮文書を読んでいたことが分かる。
 一句も、芭蕉が門人の誰彼から酒を貰ったのに対しての謝礼吟または酒に対する褒美の吟であろう。実際油のようなコクのある酒であったかどうかは怪しいが、そこはあくまで日蓮の用いたコードを使いたかったのであろう。
 江戸童歌に、
   「お正月はよいもんぢや
    油のような酒飲んで
   木っ端のような餅食って
    雪のようなまま食って
   これでもとつさん正月か」
がある。
 一句にある「油のような酒」は、こちらに近いのかも知れない。

(この項、「山梨県立大学」HPより)

門前が「朝市」の通りになっています。
 
     
「下本町朝市通り」。昼前だったので、路上は、ほとんどは開いていませんでした。
 
              
 
勝浦朝市は
毎月1日~15日は 下本町朝市通りで 6時頃~11時頃まで
開催されます。
 
毎月16日~月末までは 仲本町朝市通りで
かつさん・うらさん※定休日 毎週水曜日、1月1日
 
            
     HPより)

佐賀県の呼子朝市、石川県の輪島朝市、千葉県の勝浦朝市が「日本三大朝市」と呼ばれています。その一つの輪島朝市が元旦の「能登半島地震」で、大火災が発生し、ほぼ焼き尽くされてしましました。

(「佐賀県呼子朝市」ではなく、「飛騨高山朝市」をあげる説もあります)

"朝市仲間"輪島を支援 「ひとごとでない」「復興の力に」と募金箱 勝浦、能登半島地震受け

能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市で開かれていた「輪島朝市」の復興の力になればと、勝浦市の朝市出店者らでつくる「勝浦朝市の会」(江沢修会長)が義援金募金箱を朝市通りに設置し、支援を呼びかけている。

 勝浦と輪島の朝市は、飛騨高山(岐阜県高山市)と並んで日本三大朝市とされ、特に勝浦と輪島は朝市活性化を図る「全国朝市サミット協議会」で交流を深めてきた。今回の地震で輪島朝市が開かれていた一帯で大規模火災が発生し、店舗や住宅など200棟ほどが燃えて"焼け野原"になった。

 輪島の状況を知った勝浦朝市の会のメンバーの中から「同じ朝市。何かできることをしたい」と声が上がり、同協議会を通じて各地の朝市で義援金を募ることに。勝浦は朝市開催時間帯に通り2カ所に緑色の募金箱を設置し「輪島朝市は壊滅状態にあります。一日も早く復旧復興するため義援金箱を設けました。ご協力ください」と訴える。

 観光客らが買い物の釣り銭などを募金箱に入れ、朝市出店者も売り上げの一部を寄付。毎日のように朝市を訪れる同市の田井智之さん(50)は「海のそばで塩づくりをしているので(津波など)いつ自分も被害に遭うか分からない。輪島朝市が立ち直れるよう支援したい」と話し、朝市通りの近くに住む女性(71)も「頑張って一日も早く復興できますように」と願っていた。

 義援金は当面続け、同協議会を通じて輪島朝市関係者に届ける。勝浦朝市の会副会長の塩田和彦さん(55)は「商店街で開かれる輪島朝市は勝浦と似ていて、ひとごとでないと思った。同じ朝市仲間。大変な状況だが、気持ちだけは負けないでほしい」とエールを送った。

(この項、「千葉日報」より)

朝市通りを振り返る。

魚市場に向かいます。「勝浦魚市場」。

        水揚げする活発な時間を終え、静かなひととき。

           

「仲本町朝市通り」。        

外房線「勝浦駅」。

駅前は小さなお土産屋さんがあるのみ。

その代わり(?)酒屋で地酒を買いました。

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第6日目。外房線「三門駅」~「御宿駅」。

2024-02-25 20:15:35 | 房総東往還

12月9日(土)。晴れ。

外房線「三門駅」。

旧道に復帰します。街道は、「国道128号」のう回路になっているのか、車の往来がけっこう多い。

「日在(ひあり)踏切」。

               

右手の土手は、「大山堰」。

左手には外房線。

右手からの道と合流。道端には、「日在城址」碑。

住宅地に入っていきます。

旧道らしくカーブし、狭い道の両側には住宅が立ち並び、生垣も道路ギリギリまで。さらに、車の往来がけっこう激しい。

けっこう飛ばして通過する車、すれ違う車が気になり、避けるので精いっぱい。周囲を見回す余裕がありません。

手入れの行き届いた槇の生垣が続きます。

水準点。奥に田畑が広がる。

「三省学校跡」碑。

明治の初期に安藤誠道はこの地に三省学校を設立した。普通部・英語部があり、熱心な若者がここで学んだ。明治33年に閉校する。 大原町文化財保護協会

右手には田畑が山裾まで大きく広がる。

「いすみ市立東海保育所」。

ここまで来てやっと道幅も広くなり、歩道もあります。それまでのヒヤヒヤしながらの歩きから解放され、やっと一安心。

「国道465号線」深堀バイパスとの交差点に。

           房総らしい低い山並みが見える。

「宮元橋」で「新田川」を越えます。

すぐ左折し、しばらく「新田川」に沿って進むと、「いすみ鉄道」の踏切を渡ります。

「房総街道踏切」。

いすみ鉄道の鉄橋。

右手に「木戸泉」酒造。

              

向かいには「ギャラリー泉」。

石造っぽい見えるが、木造モルタル。三連の半円アーチ窓の隣に何故か一枠のみアーチでなく、シンメトリーを崩している。  

 振り返る。

古い商家の趣。

大原駅。

元酒屋さんらしい。

道筋に、こうした廃業したお店が目立つのは、残念です。

現役のおうちが二棟。

               かつての曲尺手(桝形)の名残でしょうか? 

県立大原高校付近。

     

外房線の踏切を越えます。

「第一房総街道踏切」。

踏切を渡ってすぐ左折します。

左手にジグザグに旧道が残っています。左に折れて、今度は右に折れます。

その向かいの左の角に、天保9年建立の「追分回国供養塔道標」があります。

正面上部  如意輪観音半跏座像。
  下部左 「四國西國/秩父坂東」
  下部右 「此方、かつうら/ぼう志ふ なこ/こみなと みち」(勝浦/房州那古/小湊道)
  右側面    右指差し図、下に「古はまみち」(小浜道)
  左側面    左指差し図、下に「一の宮 江戸/きよみづ、道」

この道が江戸時代からの伊南房州通往還(房総東往還)だったことが分かります。

    

この先で県道に合流します。

さらに「国道128号」に合流。

右側に立派なおうち。

右側に「瀧泉寺」門前のイチョウ。

                 「平(上総)広常公お手植えの大銀杏」。

前方左に森が見えてきます。

森の近くで、「伊南房州通往還」は国道から離れて、右に向かいます。

外房線「浪花駅」方向へ進みます。

道筋には住む人がいない、荒廃した家屋がいくつか。

崩れ落ちた家。

      

どれくらい経過したのか?                

水準点が設置され、かつての主要道であることが分かる。

旧道の左奥に「旧伊南陣屋移築表門」があるようです。

             (「Googleマップ」より)

外房線「浪花駅」。

※今回の目的地「御宿駅」の、一つ手前の駅。

右手にホーム。

川沿いの道を進む。               

のどかな「田舎」道風。

振り返る。

この先で、国道に合流しますが、すぐ右の道へ。 

しばらくのんびりと歩く。

大原台への高架橋をくぐる。

      特急「わかしお7号」が通過中。

「安房鴨川」行き。

「国道128号」に近づきます。土産屋「やまか水産」の裏手。

「第三やまか丸」という漁船。

国道に復帰します。

しばらく「国道128号」を進みます。御宿町に入ることに。

この先で、国道から右に分かれて進む。

外房線の踏切を越えます。

「第二房総街道踏切」。

しばらく線路沿いに進みます。

山道を行く雰囲気。 

舗装されていますが、車が来たら大変! しかし、幸いに小型車二台と、すれ違っただけでした。

切通しの道が続く。

前方が開け、やっと広い道に。

外房線を越える。

国道128号に合流、御宿町に入ります。

     街路樹が南国的な雰囲気。

風はけっこう強いですが、青空の下、御宿町に入っていきます。

  どんな商いをしていた建物なのか? 

今は廃業中。

「伊南房州通往還(房総東往還)」はこの先の交差点を右折します。

「御宿小学校」正門前を左折。

                    

この三叉路を右に。

「ロペス通り」を突っ切り、向かいの細道へ。「ロペス通り」。海岸方面を望む。

この細道が旧道にあたるようです。

「清水川」に突き当たります。

旧道歩きはここまで。この後は、海岸へ向かいます。

※当時は、「濱村」。

「清水川」河口。

「月の沙漠記念公園」へ。

童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像

月の沙漠記念公園の中にある月の沙漠記念像は、童謡『月の沙漠』の中で登場するラクダに乗る姫と王子の像となっています。

御宿海岸の美しい砂浜からアラビアの情景を思い浮かべて作られたとも言われている。

ラクダに乗っていることからラクダ像とも呼ぶ人も多いです。

このラクダ像は2代目で、1990年7月に建てられました。初代の像は、姉妹都市の長野県野沢温泉村に寄贈されています。

(この項、「」HPより)

           

晴天ですが、風が強く、歩いている人もいません。

    足跡もほとんどなく、              

             

1 月の沙漠をはるばると
旅の駱駝がゆきました
金と銀との鞍置いて
二つならんでゆきました

2 金の鞍には銀の甕
銀の鞍には金の甕
二つの甕はそれぞれに
紐で結んでありました

3 さきの鞍には王子様
あとの鞍にはお姫様
乗った二人はおそろいの
白い上衣を着てました

4 広い沙漠をひとすじに
二人はどこへゆくのでしょう
朧にけぶる月の夜を
対の駱駝はとぼとぼと

砂丘を越えてゆきました
黙って越えてゆきました

加藤まさを」レリーフ。

帰りの列車の時間が近づいたので、駅に向かいます。

「ロペス通り」。

                 「ロペス通り命名趣意碑」。

1609年(慶長14年) メキシコのガレオン船サンフランシスコ号は、折からの暴風雨で岩和田田尻海岸で沖で座礁してしまいました。村人たちは総出で救助にあたり、乗組員376人のうち317人を助けました。
中でも若い海女たちは素肌で遭難者を温め蘇生させたと伝えられています。この史実をもとに昭和53年 御宿とアカプリコは姉妹都市となり、同年行われたメキシコ記念塔建立50周年記念式典には メキシコのホセ・ロペス・ポルティーリョ大統領が来訪し「エルマーノ!」(兄弟よ)私はやってきた」と歓呼し 歴史に培われた友情をさらに深めました。このロペス大統領の来町を記念し この通りを「ロペス通り」と名づけました。

御宿駅。 

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第5日目。外房線「上総一ノ宮駅」~「三門駅」。

2024-02-24 13:36:18 | 房総東往還

11月23日(祝)。晴れ。

「上総一ノ宮」駅下車。踏切を渡り、これから街道(往還)を進みます。

外房線。 

国道128号に合流し、南に向かいます。

              

房総らしい屋根のおうち。                      

せがい造りの立派なおうち。 

        右手丁字路のところに「浪切地蔵」。

 

駅名にもなっている「東浪見」は、何と読むか? 

・・・「とらみ」と読みます。 

※九十九里浜平野南端に位置する。地名は、沖合いに砂泥が堆積し、「泥海」(ドロウミ)の名前が転訛して「トラミ」⇒虎見⇒東浪見となったと言われています。(「まほらにふく風に乗って」HPより)             

この先、国道から右に入って行きます。

右に小さな祠。「出征土偶」とあります。

遠くに水平線が見えています。

坂道の途中から右に下って行きます。旧道。

                      「伊南房州通往還」に合流します。

この先で「いずみ市」に入ります。

「梨販売所」。

             梨の収穫時期も終わり、閉店中。

千葉の「梨の産地」というと、白井や船橋などがなじみ深いですが、この地方でもけっこう栽培されているのですね。

「太田和農園」。              

「山田梨園」「関」「土橋」「太田」などの梨園が広がります。

「椎木商店街」に入ります。

都内下町などの商店街のイメージとは異なり、住宅と商店が混じりあって存在しています。

車が行き来するも、人通りは、少ない。

「岬町椎木」交差点。この付近は、かつて曲尺手(桝形)になっていた。

椎木宿

「伊南房州通往還(房総東往還)」の宿場町。

南総の城下町大多喜や大原、上総一宮に挟まれた岬町には旧房総東往還沿いに形成された宿場町がいくつかあり、それらが商店街として発達していきました。
岬町の中心部は同じく宿場町として栄えた長者町にありますが、こちらにはもはや往時を偲ばせる姿はまるで残されていません。
夷隅川を越えた北側に位置する椎木地区。旧字名で「椎木宿」の名が残ることからも期待度は高まりましたが、はたしてそれは正解でした。
椎木は房総東往還の宿場町であるとともに、2と7の日に六斎市が立ち、やがて店舗を中心とした在郷町へと発展していきます。
国道128号線は町の東側を大きく迂回した海岸沿いを走りますが、町の中心市街はこの椎木や長者といった旧道沿いにあります。所々に残された古い建物には、塗籠造りのものはほとんど無く、板張り二階建ての商家はみな昭和初期に建てられたものではないかと思います。

(この項、「」HP)

               まっすぐな道沿いの家並み。

商家。店先に自販機。

            店自体の営業はしていないようです。

「かさや」。

商店街を振り返る。

「小安商店」。

          「商家」らしい店構え。米穀、肥料、農薬、資材などの販売。

バス停「椎木下宿」。

かつての商家。

隣は、きもの館「まるへい」。

                    天保元年創業、とか。

奥には、大きなおうち。

                      房総らしい趣の屋根と建物。門も立派。

来た道を振り返る。

この先「椎木三叉路」を左折します。

曲がると、左手に衣装を凝らした「かかし」がいくつも並んでいます。

      

いったいどういうわけ? 街道を進む内に、理由が分かってきます。

「福原橋」で夷隅川を渡ります。

夷隅川(いすみがわ)

千葉県の房総半島南東部を流れる二級河川。一級河川の利根川を除くと千葉県最大の流域面積をもつ

勝浦市の清澄山に源を発し、数多くの渓流をあわせいすみ市岬町で太平洋に注ぐ。流路延長は67.5km、流域面積は299.4km²である

夷隅川は類まれな蛇行河川であり、夷隅川河口から西畑川合流点まで直線距離では約22kmなのに対し、河川延長は約45kmもある。夷隅地域は『古事記』や『日本書紀』で「いじむ」「いじみ」と呼ばれているが、ハワイ語の「イ・チ・ミ(川が悲鳴を上げて流れる(山の間を蛇行して流れる)地域)」が語源との説がある

夷隅川流域は古くから水田が多く、夷隅川を利用した農耕が盛んである。生活用水としても利用されている。

江戸中期から明治中期にかけて耕作地の拡大と流下阻害要因の解消のために「川廻し」という流路の直線化が盛んに行われた

(この項、「Wikipedia」より)

上流方向。

ここにもたくさんのかかしが並ぶ。

その脇の横断幕には、

           「いすみ健康マラソンにようこそ! 楽しくパワー全開! 」。

マラソン大会の歓迎と応援に、たくさんのかかしたちが登場しているわけです。

※もともとあった、かかしも含まれているようです。

こちらは小さなぬいぐるみたち? 

  振り向くと、一家勢ぞろい。

    

こうして「スタート」地点に。

   

この先、「岬町長者」交差点を左に曲がります。

と、角にあるお店。

「池田屋菓舗」。

               かなりのインパクトがあり。年期が入ったお店です。営業中?

このゲートには「○○商店街」と掲げられていたはず。

長者地域も昔から商業の中心地だったようですが、

商店街らしい雰囲気はありません。

「長者」。

一帯に柴胡(さいこ)という草が一面に茂っていたことから柴胡原と呼ばれ、無人であったが、江戸から房州へ向かう旅人の宿泊地として旅館や商店が現れ、房総の宿駅として発展した。万治年間に家数35軒ほどとなったのを機に、領主阿部播磨守に願い出て町となり、領主の邸が江戸下谷の長者町にあったことから「長者町」と名付けた。(「Wikipedia」より)

 「国道128号」と交差。

「外房黒潮ライン」と名付けられています。

 

「三門駅」方向へ進みます。

「江場土川」。下流方向。

           

手入れの行き届いた槙の生垣。

大きなお屋敷が連なる。

  この付近の今昔。

                             (現在)水準点が表示されている。

                             (1880年代)道沿いに街並みが形成されている。

※「三門」では,外房線の建設の際に,前方後円墳が見つかり,そこから人物や家,水鳥などの埴輪が出てきました。鏡や刀も出土したそうです。6世紀ころのものと思われており,豆塚古墳と呼ばれています。三門駅の近くに小さな鳥居が立っており,かすかに古墳の位置を示しています。

旧江場土村。

国道128号を斜めに通過します。

                交差点にあるのは、「北向き地蔵」。

国道128号・長者方向を望む。

と、上総一ノ宮に向かう列車が近づいてきて、この先の踏切の警笛音が聞こえてきます。 

「三門(みかど)駅」が右奥に。

この列車を逃すと、1時間後。必死に走り、間に合いました。   

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第4日目。外房線「茂原駅」~「上総一ノ宮駅」。

2024-02-23 19:51:23 | 房総東往還

茂原駅。右にモニュメント。

11月18日(土)曇り時々晴れ。強風。

往還歩きの途中、長生村を通過します。

長生村のマンホール。中央に村章「ち」を図案化した規格型。

長生村のマンホールには、九十九里浜の荒波と鶴、亀を デザインした汚水管マンホール蓋があるようですが、見つけられませんでした。

(「」より)実にめでたい絵柄です。

長生村と一宮町との境界。         

「いちのみやはし」。

上流方向。

下流(海側)。

              「一宮川」。河口は「長正村」。

街中に入ります。

 一宮町は平安時代頃に成立した上総国一之宮・玉前神社を中心に発展してきました。古くから多くの信仰を集めた玉前神社は、一宮町の町名の由来でもあり、今でも一宮町のシンボル的存在です。

※玉前神社の祭神は玉依姫命。神武天皇の母で、すぐ東に広がっている太平洋からこの地に上陸したという伝説も伝わっている。

※上総一ノ宮では、「一ノ宮海岸」・「芥川龍之介愛の碑」などを散策しました。

「上総一ノ宮駅」東口。

駅東口からの海岸への直線道路を進みます。

実は、この道路がかつての風船爆弾基地への引込線でした。

↓。

                                       (「今昔マップ」より)

            

■「奇妙な気球が空に消えた」

昭和19年12月、よく晴れた寒い朝だった。教師だった長谷川英美さん(89)=一宮町=は通勤途中、上総一ノ宮駅に近い七島踏切で奇妙な気球を目撃した。

 海岸の松林の上空。クラゲのような形の気球がふわっと浮かんでいる。風に吹かれ、横になり、斜めになってよろよろと上昇していく。やがて気球は直立。満球となってぐんぐん高度を上げ、空に消えていった。

 気球の正体は、日本軍が開発した秘密兵器「風船爆弾」だった。

 当時の長谷川さんは知る由もない。しかし、予兆はあった。戦局が悪化した19年、大勢の鉄道部隊の兵士らが一宮町に現れた。上総一ノ宮駅から約2キロ東の海岸に向けて引き込み線を建設した。また、放球台や兵舎など打ち上げ基地も整備された。

 「なんのためにレールを敷いているのか、住民には秘密だった。基地が完成した頃には、列車の窓の鎧(よろい)戸が閉じられ、海側を見ることは禁じられた。私は基地に近寄ったことはありません。憲兵に捕まりますよ」と回想する。

奇想天外の兵器、風船爆弾は、陸軍登戸(のぼりと)研究所(川崎市)が主力となって開発した。同研究所は謀略・秘密兵器専門の機関だった。風船爆弾は「ふ号兵器」と秘匿名称で呼ばれた。

 構想は壮大だ。風船爆弾を冬季に吹く偏西風に乗せ、太平洋を横断。米国本土に落下させる作戦だった。一宮海岸で試作品の飛行実験が行われた。実験と改良を繰り返し、実戦に投入できる見通しが立った。

 ◆「米国まで飛ばしているのではと推測した」

 風船爆弾の気球は巨大だ。直径約10メートル。和紙とコンニャク糊で造った。多くの人手が必要で全国の女学生らが動員された。気球に爆弾と焼夷(しょうい)弾を装着。水素ガスを充填(じゅうてん)して打ち上げる。偏西風が吹く上空は酷寒の世界だ。気球が収縮して落下する恐れがある。精密な高度維持装置も考案された。約1万発が製造されたという。

打ち上げ基地は太平洋に面した一宮町と茨城県北茨城市、福島県いわき市の3カ所に建設された。19年11月から翌年春まで計約9300発が断続的に放球されたという。

 「一宮町の基地で爆発事故が起きたことがある。そのとき私は、気球に爆弾を付けて米国まで飛ばしているのではと推測した。偏西風の存在は、旧制中学の授業で習ったので知っていましたよ」と長谷川さんは語る。

 米軍は風船爆弾の出現に驚いた。太平洋上で発見すると、戦闘機で撃墜した。それでも多くの風船爆弾が、警戒網を突破して米国本土に到達した。各地で山火事が発生した。電線が切断され、停電も起きた。オレゴン州では子供ら6人が死亡している。

 一宮町の風船爆弾基地は20年春、作戦を終えた。部隊の主力はひそかに去った。

 70年後の現状を長谷川さんが案内してくれた。上総一ノ宮駅に向かう。

 「戦後、引き込み線は解体されました。今では駅の一番線のレールに面影を残すだけです」

(「千葉から語り継ぐ戦後70年 風船爆弾基地(一宮町)長谷川英美さん」産経新聞015/8/10 より)
 
〇付近。風船爆弾打ち上げ 基地跡。
 
風船弾(ふうせんばくだん)

「風船爆弾」は戦後の用語で、終戦間際に陸軍登戸研究所神奈川県)へ配属された元職員は、「ふ号」「風船」は防諜のための符号であって当時の呼称は「気球爆弾」であり、「風船爆弾」は戦後のマスコミによる造語と述べているが、名古屋陸軍造兵廠学徒勤労動員された女学生は「今日から君たちは風船爆弾を作ることになる」と訓示されたと回想している

日本陸軍日本海軍が開発し、陸軍が特殊兵器として実戦投入した。日本海軍の風船爆弾は「八号兵器」と呼称し、潜水艦に搭載してアメリカ大陸沿岸部まで進出し、放球する方式を想定していた。

材質は製の和紙が使われ、接着剤には気密性が高く粘度が強いコンニャク糊が使用された。このためコンニャク芋が軍需品となったため食卓から姿を消した。楮の繊維が縦方向の大判に対し、小判の繊維を横方向にし網目状に組み合わせ、和紙を5層にしてコンニャク糊で貼り合わせ、乾燥させた後に、風船の表面に苛性ソーダ液(水酸化ナトリウムを塗ってコンニャク糊を強化し、直径10mほどの和紙製の風船を作成した。

気球を調査したアメリカ軍は、それが紙製であることはすぐに突きとめたものの、紙を張り合わせている接着剤が何であるかを特定することはできなかった。気球内には水素ガスを充填した。大佛次郎は1944年10月17日の日記に「新聞を読むと、ヘチマコンニャクが航空機の基地で入用で供出を求めている。防諜用だとのこと」と記している

埼玉県比企郡小川町では1933年(昭和8年)頃、小川和紙から風船爆弾用の気球紙が開発された。昭和19年以降は高知市をはじめ日本国内の他の地域でも気球紙は製造されるようになったが、開発段階で小川和紙が選ばれた理由は、楮の繊維が長く強靭であり、東京に近く、以前から軍需紙を漉いてきた歴史があることなどが挙げられている。その後は生産量の増加命令に伴い、各地方でもふ号兵器用の気球紙が製造されるにあたり、小川和紙の手法が全国の和紙産地に伝えられた。当時、紙漉き作業に携わった人々には爆弾に使用されるとは知らされてはいなかった

気球一基に対し和紙は約600枚必要であった。気球紙のサイズは2種類あり大判は635分×2尺2寸(約193×67cm)、小判は2尺2寸四方(約67×67cm)だった。昭和19年には軍の命令により楮の皮剥作業や紙漉きに対しても昼夜休むことなく作業するよう警察の監督のもとに作業が続けられた。

(この項、「Wikipedia」参照)

かつての線路跡の道路の両側には、のどかな田園地帯が広がります。

          

線路跡の直線道路から離れ、「一宮川」方向へ進みます。

丘の上から海岸を望む。

広場には、

「芥川龍之介愛の碑」。

芥川龍之介の愛のはじまりは彼が東大在学中二十三才の頃であった。

当時彼は吉田弥生という女性に初恋し 激しい相愛の仲になったものの 養家(彼の母の実家)芥川家が士族 吉田家が平氏であるとの理由だけで許されざる恋となった。

彼の親友堀内利器はそれを見かね 堀内の故郷一宮に誘い 大正三年七月中旬からこの地に滞在した。

しかし 彼女への恋情はいよいよ深くなり 止宿先で綴った悲恋の歌の一つに

     美しき人妻あらむ かくてああ

        わが世かなしく なりまさるらむ

もう美しき彼女は自分のものにはなり得ないという 一宮時代からはじまる悲恋の苦悩こそは 人間の醜いエゴイズムを古典の世界をかりて表現したユニークな芥川文学を誕生させた。

大正五年二月出世作「鼻」が恩師夏目漱石に賞賛を受け華やかに文壇にデビューし 失恋の痛手も癒えて 再び思い出の地一宮に 久米正雄と二人で訪れ 一宮館の離れ家(現在芥川荘として保存)に止宿した 大正五年八月十七日から九月二日まで

その時第二の恋人塚本文子宛に「文ちゃん」ではじまる有名な求婚の手紙が身を結び 新しい芥川人生が出発した。

当時 夏目漱石宛に太陽と海と空と砂丘の大自然を背景とした一宮海岸に青春を投げ出している楽しい様子を また晩年にも「微笑」「海のほとり」と題してこの一宮の思い出を書いている。

今日 青春芥川龍之介のロマンスを記念し 郷土の鉄道作家故上田廣氏の発想どおり「芥川龍之介愛の碑」とした。

また新たなる感慨を禁じ得ない。

隣は、この碑を建てることに尽力した上田氏の碑。

「黄塵碑」。

ここには、かつて「国民宿舎 一宮荘」の跡地。

芥川関連の建物、碑へ。「一宮館」本館の裏手にあります。

「芥川荘」は、明治末期から昭和初期にかけて避暑地として開発された一宮町の海岸地区に建つ宿・一宮館の離れで、芥川龍之介が滞在していたことからこう呼ばれている。平屋建、寄棟造、茅葺で、主室、次の間2室の3方に縁を回らせ、縁の一端に洗面所が付く。当地方の伝統的な民家建築の技法になり、周囲の松林に溶け込んで避暑地らしい情景をつくり出している。

(「解説板」より)

一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。

 芥川荘は、海岸地区の一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1916)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられた。芥川は滞在中にこの離れから、後に妻となる塚本文に長い求婚の手紙を送り、一宮での思い出を「微笑」「海のほとり」「玄鶴山房」「蜃気楼」などの作品に登場させている。

 建物は、明治30年(1897)の建築。茅葺寄棟造の木造平屋建で、主屋と次の間2室の3方に縁側を回らし、縁側の一端には洗面所を設けており、当地方の伝統的な民家建築技法で建てられ、周囲の松林の閑静な雰囲気と相まって良好な景観となっている。

(この項、「千葉県教育委員会」HPより)

                

         

 

      

 

      

「芥川龍之介文学碑」。

文学碑を建立して      一宮館 金沢 良一郎

 九十九里浜の南端に位置するここ上総一の宮は、かつては別荘が立ち並び、東の大磯と言われたところです。
 芥川龍之介先生は、友人久米正雄氏と大正五年八月十七日から九月二日まで、当一宮館の離れで一夏を過されました。滞在中は夏目漱石師にボヘミアンライフぶりを紹介したり、のちの夫人文さんに愛をうちあけた長い求婚の手紙をお書きになっています。
 この稀にみる偉大な作家の人生の舞台の一つとして、当一宮館が選ばれましたことは、幾多の偶然が重なったとはいえ、たいへん誇らしいことと思っています。先生は当館滞在時代の思い出を「微笑」や「海のほとり」その他の作品に綴られていますが、近年、文学散歩で当館においでになるお客様が、年ごとに増えております。
 龍之介先生のご滞在以来、その離れを“芥川荘”と名づけて、大切に守って参りましたが、先生ゆかりのこの地に記念碑を建てることは、私どもの長い間の夢でした。
 本年は、先生の生誕数えで百年、また恋文を書かれてから七十五年を閲みしました。当館では、このことを記念して、このたび芥川瑠璃子さんはじめ芥川家の皆様方の快いご了解をいただき、また関係の皆様方のご賛同と、身にあまるお力添えを賜りまして、“芥川荘”を包む松林の碑と一隅に、恋文全文を刻した文学碑を建立する運びとなりました。
 私どもはこれを機会に、この偉大な作家の更なる理解と、文学の啓蒙につとめて参りたいと、意を新たにいたしております。どうか末永くご支援くださいますよう、お願い申しあげます。

  

             

大正五年八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて

文ちゃん。

僕は、まだこの海岸で、本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから奮発して 一つ長いのを書きます

ひるまは 仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。さうして 早く又 あのあかりの多い にぎやかな通りを歩きたいと思ひます。しかし、東京がこひしくなると云ふのは、東京の町がこひしくなるばかりではありません。

東京にゐる人もこひしくなるのです。さう云う時に 僕は時々 文ちゃんの事を思ひ出します。文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでう。(こんな事を 文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません)

貰ひたい理由は たった一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。勿論昔から好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。

僕は 世間の人のやうに結婚と云ふ事と いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。ですから これだけの理由で 兄さんに 文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。さうして それは頂くと も頂かないとも 文ちゃんの考へ一つで きまらなければならないと云ひました。

僕は 今でも 兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。世間では 僕の考へ方を 何と笑つてもかまひません。世間の人間は いい加減な見合ひと いい加減な身元しらべとで 造作なく結婚してゐます。僕には それが出来ません。その出来ない点で 世間より僕の方が 余程高等だとうぬぼれてゐます。

兎に角 僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は全く文ちゃん次第で きまる事なのです。僕から云へば 勿論 承知して頂きたいのには違ひありません。しかし 一分一厘でも 文ちゃんの考へを 無理に 脅かすやうな事があっては文ちゃん自身にも 文ちゃんのお母さまやお兄さんにも 僕がすまない事になります。ですから 文ちゃんは 完く自由に 自分でどっちともきめなければいけません。万一 後悔するやうな事があっては 大へんです。

僕のやってゐる商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がってゐません。(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。

僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思ってゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。

この手紙は 人に見せても見せなくても 文ちゃんの自由です。

一の宮は もう秋らしくなりました。木槿の葉がしぼみかかったり 弘法麦の穂がこげ茶色になったりしてゐるのを見ると 心細い気がします。僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と気とがあったら」です。書かなくってもかまひません。が 書いて頂ければ 尚 うれしいだらうと思ひます。

これでやめます 皆さまによろしく

                  芥川龍之介

碑の後ろには、松林が広がっています。

「小高倉之助歌碑」。

地元の農民歌人。桑の形をした歌碑で、碑は斜めになっています。平成3年12月建立。

              

再び「一宮川」沿いを歩いて「上総一ノ宮駅」に向かいます。           

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第3日目。外房線「大網駅」~「茂原駅」。

2024-02-22 20:09:20 | 房総東往還

外房線「大網駅」。

11月3日(祝)。晴れ。まだまだ暑い夏日が続く一日でした。

この道を歩くことに。

左右に田園風景が広がります。

外房線が遠くに。               

右手に旧道があります。

        「水準点」。

国土地理院が管理する水準点は、一等水準点、二等水準点などがあり、全国の主要国道等に沿って約2キロメートル毎に設置しており、各地点の高さを測るための基準として利用されています。 

※「水準点」が全国の主要国道等に設置されている、ということは、この道が当時の主要道路ということに。

本納(宿)へ向かいます。

街道筋らしい町並み。            

曲尺手(かねんて)」が見えてきます。      

※曲尺手は、直角に曲げられた道のことで、軍事的な役割を持つほか、大名行列同士が、道中かち合わないようにする役割も持っていた。宿場の出入口には必ず設けられた。「桝形(ますがた)」ともいう。

振り返る。

 看板建築。

看板建築とは,主に東京や関東周辺で関東大震災後に商店などに用いられた建築様式である。具体的には,木造2階建ての店舗兼住宅で,建物の前面を垂直に立ちあげ,モルタルや銅板,タイルなどで洋風のデザイン装飾を施した建物をいう。その装飾の多くは,正式なギリシャ古典様式を踏襲したものではないが,むしろその違いこそが地方の看板建築の特徴といえる。無名の職人たちが,西洋の様式や意匠をもとに,在来の技術や技能によって新たに創り上げた,日本独自の庶民の建築様式である。

                  

「公立長生病院」。

この先で、「国道128号」に合流します。

  

               大きな幹線道路で車も多い。 

国道の西側の低山の麓に民家が並び、東は広く開け、田園地帯が広がっています。沿道には、自動車販売などの大型店が連なっています。

左折し、外房線をくぐります。

「大多喜天然ガス」マンホール。

                  大多喜ガス㈱の前身、「大多喜天然ガス」のマンホール蓋。

千葉県は国内で天然ガスが産出する数少ない地域です。

葉県の天然ガスを葉県で費(千産千消)しているため、輸送時のコストや二酸化炭素排出量を抑えることができるので、安定した価格で、かつ環境にやさしく、みなさまのご家庭にガスをお届けすることができます。

(この項、「」HPより)

千葉県の天然ガスは、明治時代の中頃から利用されるほど歴史が古く、現在では純国産の天然ガスの中でも全国第2位の生産量を誇っています。

「新茂原駅」に向かう途中に「掩体壕」が残っているので、探してみます。

農家の一角に。          

                  森の中に隠れるようにあります。

掩体壕(えんたいごう)は、防御設備である掩体の1種で、軍用機などの装備・物資や人員を、敵の攻撃から守るためにコンクリートなどで造った横穴状の施設。欧米ではHAS(Hardened Aircraft Shelter)と呼ばれる

                                       (「Wikipedia」より)

 

「新茂原駅」。

駅前。現在はこぢんまりとしている。

左手に「阿久川遊水池」。

     沢井製薬 関東工場。

この建物の南側一帯に「茂原海軍航空基地」がありました。現在は、「三井化学」の広大な工場等になっています。

この先、歩く道筋の両側はかつての基地の跡になります。

この付近の今昔。「三井化学」の敷地がかつての海軍基地の中心。東西にかなり広がっています。

 ○が茂原海軍航空基地。西側に司令部などの官舎が並ぶ。南北の線路が基地への引込み線。(「今昔マップ」より)

※「司令部跡」は現萩原小学校、「兵舎跡」は現茂原中学校、「滑走路跡」は三井化学(株)東側の約1,000mの道路。

茂原海軍航空基地

1941年(昭和16年)07月に建設決定し、同年09月に着工。東郷地区の約150戸と東郷小学校及び寺社等が強制移転。(旧東郷小学校跡記念碑がある)
1942年12月に「第五五二航空隊」が茂原に開隊。しかし翌年昭和18年にマーシャルに進出し、茂原に戻ることなくテニアンにて解隊。
1943年9月に佐伯空艦爆隊を主体とする「第五〇二航空隊」が茂原海軍航空基地の管理部隊となる(現駐は松島基地)。同隊は1944年2月に北海道に転進し、1944年10月に解隊。
1943年10月に夜戦部隊を主体とする「第三二一航空隊 (鵄)」が茂原に開隊。1944年2月にマーシャルに進出し、7月に解隊。
1943年11月に第三〇一航空隊 (艦戦)が、茂原基地を原駐として横須賀基地で開隊。1944年7月に硫黄島にて解隊。
1942年に館山で開隊した第二五二航空隊 (元山航空隊戦闘機部隊を主体) はマーシャルで壊滅状態となり、1944年2月に館山基地にて再建。本部は館山基地に置かれ、1944年(昭和19年)8月以降、茂原基地に転進している。
「二五二空」は本土防空の迎撃に従事。1945年(昭和20年)5月28日、米軍が茂原飛行場を強襲。「二五二空」は郡山飛行場に退避。そのまま終戦を迎えた。

戦後の1955年(昭和30年)3月18日、茂原海軍航空基地が自衛隊の基地になろうとしたとき、茂原市議会は満場一致で基地に反対する決議し、跡地の大部分は工業地帯と学校用地、農地、住宅地となった。

(この項、「近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝 戦跡紀行ネット -日本の近代と慰霊の地を巡る‐ https://senseki-kikou.net/」HPより拝借)

右からの道を合わせ、「茂原駅」方向へ。

茂原市のマンホール。

             市の木ツツジの花、三輪をデザイン。

振り返る。長生高校。

外房線のガードを抜けます。

「高師」交差点。

この付近で「茂原街道」(浜野~茂原)と合流する?

※新茂原駅近くにかつてあった「新茂原貨物駅」。後日、その跡地を訪ねました。

以下は番外編。 

外房線・本納駅方向。右に貨物駅・駅舎跡。

草むらから覗くと、

          プラットホーム上部。地面は、コンクリートで覆われています。

        

北側から望む。

すっかりさび付いた線路。

              

構内信号機。  

     

北側の踏切に行ってみます。

本線からの引き込み線。

本納駅方向。

   

         貨物駅へ。

道路上の線路。 

帰りの車窓から。

右手に見えてきます。

           

本線からの分岐線。

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第2日目。外房線「誉田駅」~「大網駅」。

2024-02-21 18:38:13 | 房総東往還

外房線「誉田(ほんだ)駅」。

今回は(も)、ゆっくり目のスタート。「大網(おおあみ)駅」まで。距離としては短いですが、アップダウンがありそう。

駅前から旧道を歩きます。       

「県道20号(大網街道)」に合流。

 

跨線橋を渡る。        

左右に畑地が広がる。

「大網街道」。けっこう車の交通量が多い。

再び外房線を越えます。

                    「大網」方向。

               

誉田から大網への道のりの今昔。

                                   (「今昔マップ」より)

   ほとんど変化はなさそうです。右図で、「誉田」駅が「野田」駅になっています。

槙の生垣。房総地域では多く見られる垣根。よく整備されています。                           

       畑地が広がる。

外房線を望む。

保存木「タブノキ」。

「大木戸新田」交差点。

この「大木戸」は、かつてあった野馬の放牧地内外を仕切る木戸ではないでしょうか?      

※「日光東往還」歩きの際、野田市内のかつての野馬放牧地でもこのよう地名・木戸がありました。の付近には旧線路跡があるようです。

     

上り坂を土気駅へ向かう。

                地下道を抜けて駅の反対側に。

土気駅ホーム。

                 「土気駅」の読みも難しい。「とけ」。その由来は?

土気駅(とけえき)は、千葉県千葉市緑区土気町にある、JR東日本外房線である。外房線内の駅で標高が最も高い所に位置する。

駅名は周辺の地名に由来する。土気の読みの由来は、大網からの長い峠を取って「とけ」となったという説もあるが、真偽は定かではない。周辺は南関東ガス田と呼ばれる水溶性ガス田の範囲内であり、古来天然ガスが湧出する気配を示す土地は「土気」と呼ばれ、これが地名由来と考えられている。(この項、「Wikipedia」より)

一方で、「土気高校周辺の歴史散歩 齊藤汀魚」HPによると、

「土気は、房総半島のほぼ中央に位置し、一説には地名の語源が「とうげ」にある、という分水界の地である。土気を源として東京湾へ村田川が、印旛沼へ鹿島川が、太平洋へ小中川(南白亀川なばきがわ)がそれぞれ注ぐ。つまり水系的にこれら三方に開かれた要地といえよう。そして、城跡の北・東・南方面は、比高差80メートルもある急斜面が巡り、西方面のみ台地続きである。城跡の東部や南部からは、九十九里平野がパノラマ状に展望できる。」。さらに土気の位置は北の北総台地と南の上総丘陵をつなぐ所でもあり、房総半島の腰にあたります。また、太平洋と東京湾との距離が短いのも地理的特徴です。・・・

とありました。

土気の今昔。

                         (「今昔マップ」より)

土気の中心地があつては台地上にありました。今は、駅の南西側が住宅地として発展しています。

下りきったら、左折して上り坂を。

急坂を上がり、右に曲がると、

落ち着いた家並みに。              

奥に「天満宮」。        

突き当りを右折し、下り坂に。

                   

この付近の今昔。

                             (現在)下りきって「現大網街道」に合流。 

                             (1880年代)

大網への旧道(大網街道)は曲がりくねっている。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)

正面に「昭和の森」。

 

 

          

                           

      (「」より)

出会ったところは、北の入口のようです。

大網方向へ。切通しの下り坂。

けっこう車の行き来が多く、急なカーブが続く中、スピードも出てるようで、路端を歩くのはちょっと恐い!

眼下に民家。

眼下の左右が開けてくる。

房総らしい谷戸、田園風景。

  右奥に「圏央道」の橋脚。

「大網白里市」に。

「圏央道(千葉区間)」をくぐる。                        

     来た道を振り返る。

この付近。「県道20号(現大槻街道)」から分かれた旧道があるはずですが、ちょっと不明。

この川沿いに大網駅へ。

      大網白里市のマンホール。

            太平洋に面している大網白里市の名勝九十九里浜海岸に朝日が昇るデザイン。

前方に「大網駅」。          

※この川沿いが「房総東往還」道になっています。

来た道を振り返る。

大網駅改札口。

当駅開設当初は東金線の福俵駅方面に500 mほど進んだJR東日本大網保線技術センター付近にあり、東金駅方面から千葉駅方面と安房鴨川駅方面の双方向に分岐する線形であった。そのため、当駅を経由する房総東線(現・外房線)の列車はスイッチバックが必要であった

1972年(昭和47年)5月に、当駅と房総東線の線路が移設のうえ高架化され現在の形態となった。かつての房総東線の線路は貨物列車用の短絡線として1996年平成8年)まで使われていたが、新茂原駅での貨物取扱終了により撤去された

                                     (「今昔マップ」より)

※第二日目。ゆっくりペースでの歩きでした。

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房総東往還・伊南房州道往還。総集編。第1日目。内房線「浜野駅」~外房線「誉田駅」~「大網駅」。」

2024-02-20 19:44:35 | 房総東往還

JR内房線「浜野駅」

伊南房州通往還(いなんぼうしゅうつうおうかん)は千葉県千葉市中央区浜野から外房を通り館山市北条に至る街道である。茂原市までの一部は「茂原街道」と「大網街道」として構成されている。別称は「房総東往還」である。

千葉県外房の大部分を通っており、現在は県道14号国道128号が当街道に沿う形で建設された。しかし、元禄地震関東地震関東大震災)などの東京湾地下の相模トラフ巨大地震慶長地震などの房総沖地震千葉県東方沖地震などにより隆起沈没、樹木の倒壊、地質が軟弱のため土砂崩れが起こるなどしたため道順は度々変化している。また、正確な成立年は不明である。なお、「伊南」とは中世の上総国夷隅郡に作られた荘園である伊南荘に由来する。当街道は江戸時代には確立しており、内房の房総往還、外房の伊南房州通往還、銚子街道成田街道(佐倉道)と共に多くの生活路・輸送路として役割を果たした。

主な地名(市・町)をつなげると、

浜野~大網~茂原~一宮~大原~御宿~勝浦~安房小湊~鴨川~和田~館山 

《浜野から館山までの約132km+α》  

浜野付近の今昔

1880年代)赤↓:茂原街道、青↑:大網街道

蛇行して進んでいるのが「房総往還」。この頃には、茂原街道ルートが主流になってきているようです。

(現在)茂原街道ルートは線路のため迂回。

・茂原街道ルート

千葉市中央区「浜野」交差点の房総往還から分岐する。「高師」交差点で国道128号大網街道ルート)と合流する。

「浜野」。

房総往還と分岐する。手前の道が茂原街道、正面が房総往還。

茂原街道は大きく右に曲がり、浜野駅付近から南東へ、大網への道は北東へ。

内房線「西雷(にしらい)踏切」を渡って進む。

前方に「東関東自動車道」高架。下は国道16号線。

     交差点名は「生実(おゆみ)」。

※「生実」は難解地名の一つ。生実町は、かなり古い町で、実は幕府の藩があった町。元々は『小弓城』だったのが、後に『生実』と改められ、それが地名となったようです。

       田畑が広がる。

「生実町五差路」を左折。

左手には「本満寺」。

この先を左折し、上り坂を進みます。

落ち着いた住宅地を抜け、「北生実上宿」信号を右折。

通りの向こう、左手奥の森には「生実陣屋跡(森川陣屋跡)」、「生実城空堀・土塁」等がある。

また、通りの向こう正面には、「北小弓城 大手口跡」碑がある。

しばらく進むと、右に旧道が少し残されています。

                          旧道から通りの向こうに続く旧道を望む。

外房線に近づきます。               

しばらく線路沿いに進みます。

線路をくぐり反対側に。

「鎌取十字路」。

                   現在の「大網街道」と合流します。

「鎌取駅」から住宅地を進みます。しばらく歩き、「野田十字路」へ。

旧道に復帰。

大きなおうちが目立つ。               

      

旧道らしい道筋。

土蔵。

左手に「五日堂」。

                  日浄上人他僧俗五名処刑殉難之霊地。

GSのところから右手に入るのが旧道。        

「誉田駅」。

※ここまでが第一日目でした。                    

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その9。長須賀。べにや。汐留橋。館山駅。北条海岸。特急「新宿さざなみ」。「房総東往還」完結。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-17 19:51:08 | 房総東往還

かつての街道筋の雰囲気。

長須賀。

「べにや」。

                                                                          「見世(店)蔵」。

館山市の長須賀交差点前の金物店「紅屋商店」の店舗と主屋は平成19年7月31日に国登録有形文化財(建造物)に指定されました。

【国登録】原簿記載:平成19年7月31日 官報告示:平成19年8月13日
【登録番号】店舗:12-0071号 主屋:12-0072号
【年代】店舗:大正13年(1924年) 主屋:昭和元年(1926年) 
  
 館山市長須賀は、境川と汐入川に挟まれ、この二つの川と館山湾が形成した砂州に町場が形成されています。江戸時代から、館山に向かう房総往還に沿って、北側の新宿から続く町並みがありました。
 明治11年(1878年)、新井に館山桟橋が整備され、東京と館山が汽船で結ばれるようになると、千倉や白浜方面からの荷が集まるようになり、桟橋に近い館山下町と長須賀の古い町場との間の通り沿いに、商店が立ち並ぶようになりました。
金物を扱う紅屋商店は、現在の南房総市和田町にありましたが、明治26年(1893年)に現在の地である館山市長須賀に移転、当時使用していた建物を和田から移築し、長須賀で開業しました。しかし、大正12年(1923年)の関東大震災で店舗、住宅ともに倒壊しました。
 いち早く復興し、商売再開のために店舗として活用されたのが、地震に耐えて残った蔵です。現在の紅屋商店店舗は、近くにあった店蔵を移築したものです。店舗2階に残る墨書から、大正13年3月に作業が完了したことがわかります。
震災後、長須賀一帯には、蔵を活用した店舗が数件あったといいますが、現存するのは紅屋商店店舗のみです。1・2階とも漆喰塗りの防火扉が設置され、震災復興期の店舗建築の特徴をあらわしています。
 主屋は店舗側面(東側)に接続し、1階は8畳間の仏間、2階は床・棚・付書院の8畳の座敷と8畳の次の間からなります。

震災に耐え、倒壊をまぬがれた店蔵を活用した建造物として、大変貴重なものです。また、ほぼ同時に建てられた主屋は、店舗との繋がりをもち、当時の住まいの形態を今に伝えてます。
※主屋の一般公開はしていませんので、ご了承ください。
<平成24年3月 館山市教育委員会>

(この項、「」HPより)

右折します。この通りにも昔風の建物があります。

               

 

商家風の建物が多い。

この付近の今昔。

(1880年代)。←が「房総往還」旧道。東側に街並み。

(現在)。○のところに「べにや」。

かつての館山の街並みは「潮留橋」から西側に「館山城」下町として広がっていたようです。新宿町から長須賀は商業(海運)の町として賑わっていました。

ところで、館山市とは?

中世には戦国大名里見氏がこの地を治め、1580年(天正8年)、里見義頼は、水軍の拠点として利用していた館山湾を望む独立丘に館山城を築いた。現在は城山という名で呼ばれるこの独立丘には、里見氏の築城以前にも城館が構えられ、ここから館山という名で呼ばれていたようである。館山城は曲亭馬琴南総里見八犬伝』の舞台ともなっている。

1591年(天正19年)、里見義康は里見氏の本拠を館山城に移すと、城山の周囲に家臣の居住地を造るとともに、その北側に商人・職人を集めて海に面した城下町を形成した

1781年(天明元年)、稲葉正明が加増を受けて大名となり、1万石の小藩として館山藩が立藩する。ただし、藩士の大部分は江戸屋敷に勤務し、藩行政の中心も江戸にあった。2代藩主稲葉正武は、城山のふもとに陣屋を構え、藩士の屋敷地も設けられた

昭和時代に入ると木更津と並ぶ軍都として発展する。その後、地方港湾特定地域振興重要港湾館山港を有する港湾都市へと整備が進んでいる。

館山湾は別名鏡ヶ浦とも呼ばれ、日本百景日本の夕陽百選、東京湾100選、房総の魅力500選恋人の聖地に選定されている景勝地に市街地が面している。館山市からの富士として、北条海岸城山公園、伊戸下芝などは関東の富士見百景に選定されている。

市中心部は内房線沿線、特に館山駅周辺に住宅地や商店街が立ち並ぶ。安房地域における人口・商業・産業集積の場となっており、政治・経済・文化の中心都市としての性質をもつ。

※上述のように、館山駅付近、海岸付近に商業施設や住宅が並ぶ。かつての往還通りは静かな街並みになっています。

「汐留橋」。

「房総往還(船橋~館山)」との合流地点。ここが終着地ということに。

※「房総往還」は、この先、かつての館山城下町まで続きます。

「汐入川」下流。房総往還が右岸沿いに。

ここで、浜野~大網~茂原~上総一ノ宮~御宿~勝浦~鴨川~館山、と続いた「伊南房州通往還(房総東往還)」を完結。

JR内房線「館山駅」まで戻ります。

昼食に駅前で「クジラ肉カレー」を食べました。肉片が真っ黒。

特急の発車時間にはまだ時間があるので、北条海岸まで歩きます。

穏やかな海。

                  

内房・那古方向。 

「特急・新宿さざなみ」。

               

夕刻迫る館山駅。

          

船橋に戻るころにはきれいな夕日に。

   

さて、次回の歩きは? 大網から銚子まで歩くことにしますか。

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その8。車窓から。加茂坂。館山市へ。再び旧道歩きに。「鈴木屋製菓」。第十館山街道踏切。曲尺手(桝形)。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-16 21:52:11 | 房総東往還

海沿いから田園地域へ。

バスは、国道128号線を進みます。

※旧道は残っていて、国道から分かれて進むところがあります。

途中、「伊南房州通往還」旧道を通り、

                      「丸山川」を越えます。

※丸山川 南房総市丸山地区の北端、嶺岡山地中央部愛宕山南西麓の二ツ山に挟まれた谷を水源とする。同じく愛宕山を水源とする愛宕川を合わせた源流部は「千葉県酪農のさと」として公園や観光施設が整備されている。平安時代より軍馬牧場として放牧が盛んであったこの地(峯岡牧)が江戸時代に幕府直轄となり、1728年(享保13年)に八代将軍徳川吉宗がインド産乳牛3頭の飼育を開始し、「白牛酪」として乳製品や傷薬を製造したことが日本における酪農の始まりとされていることから「日本酪農発祥の地」とされ、1963年(昭和38年)5月に千葉県史跡に指定された

「国道128号線」と合流します。「国道410号」がここから南房総方面に進みます。

        

「加茂坂」を越え、館山市に入ります。

「南総文化センター前」バス停で下車し、旧道を進みます。

左に入る道。

       左折します。

                     「鈴木屋製菓」。

                                                

「根本嘉美税理士行政士事務所」。

        

この付近は、「房総往還」歩きの最終日に歩いたところと重なります。

内房線「第十館山街道」踏切。

                  内房線下り方向。

この先が曲尺手(桝形)に。

                 

振り返る。

角にあるおうち。

この付近の今昔。

                             (現在)市街地が大きく広がっている。

                      (1880年代)

「曲尺手(桝形)」が現在も残されている。房総往還の旧道が汐入川沿いに。  

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その7。「和田サーフ橋」。「元禄地震記念碑(句碑)」。フラワーライン。館山駅行きのバスに乗る。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-15 19:50:17 | 房総東往還

三原川河口にある「和田サーフ橋」。

国道脇には村社・浅間社の石柱と元禄16年の大地震の記念碑(句碑)があります。ただし、かなり摩滅していて判読できません。

碑の裏には、地震の被害のようす等が記されている、とのこと。解説板を設置して頂けると、ありがたい。

  元禄地震は元禄16年11月23日(西暦1703年12月31日)の未明に発生した。地震の規模はマグニチュードM7・9〜8・2とされ、1923(大正12)年の関東地震(M=7・9)よりやや大きい。
大正12年(1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。ただし、規模や震源域、地殻変動などは大正関東地震よりも大きいものであった。大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。

元禄16年 地震。

大正12年 関東大地震。

※ほとんど重なっています。

南房総の各地には、この「記念碑」と同様の慰霊碑、記念碑があるようです。

歩道が広くなっています。

かつての道は、右に向かい「三原川」を越えていました。その名残か?

     内房線の鉄橋。

この付近の今昔。  

         (1880年代)                  (現在)

「和田サーフ橋」。

               日の出のスポットだそうです。

※三原川は南房総市の西神社付近を源流とし白渚海岸に注ぐ二級河川。全長はおおよそ15km。途中で今平川、西平川と合流し小向ダム経て白渚海岸に注ぐ。

バス停「あさひ橋」。

水準点(6.0)。

下三原交差点。

「←白浜・千倉への道」。

              この先、道路と橋の付け替え工事中。

「温石(おんじゃく)川」河口方向。

「フラワーライン入口」交差点。

「フラワーライン」。

館山市下町交差点から南房総市和田町までの約46kmの海岸線の道路が房総フラワーラインと呼ばれます。
その名の通り、1月から春にかけては菜の花、夏にはマリーゴールドと、季節の花々が道沿いを彩ります。
また、伊戸から相浜までの約6Kmは昭和61年9月3日に「日本の道百選」にも認定されました。このフラワーラインは美しい砂浜の平砂浦海岸沿いにありますが、海岸と道の間には冬季の強い南西の風を防ぐためのクロマツ林が広がっています。この砂防用の松林と砂浜の美しさから、平砂浦海岸は「白砂青松 100選」に選ばれ「平砂浦海岸遊歩道」も整備されています。
そのほかフラワーライン周辺には、洲埼灯台、南房パラダイス、ゴルフ場や館山野鳥の森、安房神社などの観光ポイントが数多くあります。
空気の澄んだ日には富士山や大島・利島などの伊豆諸島を見ながらのドライブが楽しめます。

(この項「」HPより)

槇の生垣が続く道を進みます。

「南三原駅」まで歩き、そこから館山駅行きのバスに乗る予定でしたが、・・・。

目の前のバス停の時刻表を見ると、まもなくバスが来る予定。駅より少し手前ですが、乗ってしまいます。

「(南房総市立)嶺南中学校和田校舎前」バス停。 

内房線は「南三原」から「千倉」など経由して房総半島の南端を回り、館山まで向かいます。

「伊南房州通往還(房総東往還)」はほぼ南西に直線で館山まで。海岸からは離れ、内陸部を進みます。 

と、弁解がましいですが、途中を省略してバス旅に。

館山市街地に入ったら、そこから往還の終着点まで歩く、という算段。

この付近の今昔。

                                     (「今昔マップ」より)       

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その6。くじらのたれ。題目碑。しゃれた建物。サーファー。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-14 20:25:02 | 房総東往還

国道128号を越え、斜めに旧道を進みます。

角のところに、「房州みやげ ひもの かわはぎ くじらのたれ 中村鮮魚店」という看板。

「くじらのたれ」とは? 

「くじらのたれ」は、くじら肉をたれに漬け込んで干した千葉県南房総の郷土料理。見た目は炭や海苔のように真っ黒で、木の皮のような見た目である。「くじらのたれ」に使用されるクジラは体長12メートルほどのツチクジラという種類である。
鎌倉市内の遺跡から出土する多くの鯨骨の存在などから、鎌倉時代後半の13世紀頃から室町時代14世紀~15世紀頃までには、房総で沿岸捕鯨が始められていた可能性が考えられている。各地で「網取り法」での捕鯨が主流になっても、ツチクジラが深くまで潜るため網取り法が適さず、一貫して「突き取り法」でおこなってきたことが南房総地域の捕鯨の特徴的である。
捕鯨は昭和の時代までは全国各地で盛んに漁がおこなわれており、庶民の食べ物であった。一般家庭でも頻繁に食卓に並べられていた食材で、冷蔵庫の無い時代の保存食として「くじらのたれ」がつくられたと言われている。「くじらのたれ」という名前は、クジラをたれに漬け込んで干すことが由来といわれているほか、家の軒先に吊るしたからという説もある。南房総地域の市民にはなくてはならない味で、他県に移り住み里帰りしてきた人は、「くじらのたれ」を買って帰るほど、故郷の味として親しまれている。

(この項、「」HPより)

海岸から少し離れた道を進む。 

              

振り返る。

国道に復帰します。

                   後方右奥に「和田浦漁港」。

「題目碑 天下泰平 国土安穏」。

すぐ国道から離れて右の旧道へ。

           

 

しゃれた建物が続きます。

     

石仏や石塔群。

車の行き来が激しい国道に比べのどかな旧道。右手は内房線の線路。

「この場所は列車が通過しますので渡らないで下さい。」との立て看板。

見上げた瞬間、列車が高スピードで通過。

南房総の山。

次第に駐車場が目立つように。皆、サーファー姿。

海にはサーフィンを楽しむ人達の姿。

   

      

ここにも、おしゃれな建物。サーフィンショップS&S」。

クジラのモニュメント。左側。

        右側。

                   この付近を東経140度線が通っています。

バス停「白渚海岸」。「shirasukakaigan」。

白渚海岸は、南房総市和田町を流れる三原川に架かる和田サーフ橋を走る国道128号線沿いにあります。白い波しぶきをあげる海岸の美しさを見ることができます。南国情緒豊かな海岸です。海岸線一帯はサーフポイントとして知られています。四季を通して多くの若者たちが波間をすいすいとサーフィンを楽しんでいます。砂場と岩場の交わる海岸線に黒潮が流れ絶好なフィッシングポイントにもなります。

(この項、「」HPより)

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JR内房線「江見駅」~「館山駅」。その5。「和田浦駅」・フェニックス。全国で4か所の捕鯨基地。「南一号踏切」。「浜千鳥」碑。和田浦港。(「房総東往還」を歩く。第10日。)

2024-02-12 18:06:08 | 房総東往還

内房線「和田浦駅」。フェニックスの大木。

    木の元に菜の花。

待合室で休憩。

                抽象画が飾られています。

※「道の駅和田浦WA・O!」に展示されている全長26メートルのシロナガスクジラの骨格標本。

ここ南房総では、17世紀頃から小型船による沿岸捕鯨が行われてきました。 そして現在でも、6月から8月に掛けてツチ鯨の漁が行われています。
シーズンになると、捕獲された鯨とその解体を見る為、各地から多くの人々が訪れます(捕鯨の予定などは、捕鯨の会社外房捕鯨さんのブログに情報が掲載されます)。
捕鯨は早朝出航し、当日の夕方は捕獲した鯨を曳航して港に帰り(当日出航の当日帰港)、鯨はそのまま熟成させるため、一晩寝かせます。
翌日の早朝、鯨の体長などの計測したあと日の明けぬうちから解体が始まります。
解体には、大きな包丁(薙刀のよう)を持った男たちが尻尾から切り落とし、手際よく鯨肉が仕分けされ、最後には地元の人をはじめとする、鯨肉の購入者に小分けして販売されます。 昔からほとんど変わらない鯨の解体作業は、ずっと鯨に親しみ、鯨とともに歩んできた和田漁港の男たちと地元民の暮らしの一部になっているようです。

(この項「」HPより)

※農林水産大臣より許可された沿岸小型捕鯨で捕獲された鯨の鯨体処理場の設置場所は、全国で4か所

北海道の網走、宮城県の鮎川、和歌山県の太地、そして南房総に位置する和田町

房総にある捕鯨基地は、これまで館山市や千倉町、白浜町へ移動してきた後、現在の和田町へと落ち着きました。

・・・調査捕鯨時代は小型捕鯨業における捕獲対象になっていなかった。調査捕鯨時代は、日本政府はIWCにおいて、沿岸捕鯨は小規模捕鯨でアラスカなどが認められている先住民捕鯨と同じであると主張して、大型鯨類に分類されてIWCの管轄下におかれているミンククジラの沿岸商業捕鯨再開を求めたが、アメリカ合衆国オーストラリア南米の反捕鯨国から、ミンククジラの商業捕鯨は認められないとする反対をうけ、IWCでの採択で承認されなかった。また、2009年及び2010年にはIWC総会で調査捕鯨における捕獲頭数の削減或いは休止と引き換えに主に日本沿岸での商業捕鯨をIWCの管理下において認める議長案が出されたが、合意に至らなかった。

(この項「Wikipedia」より)

 時刻表。1時間に上下線とも1本。

「和田町観光マップ」。

しばらく休憩した後で、街道歩き再開。「和田浦駅」前ロータリー

内房線踏切を越えます。

                      「南一号踏切」(次の駅「南三原」の「南」)。

国道128号線を進みます。 

振り返る。「→和田浦海水浴場」。 

海岸沿いには「鹿島鳴秋・浜千鳥」碑があるようです。

鹿島鳴秋(かしまめいしゅう)

東京都深川まれ。明治24年(1891年)5月9日~昭和29年(1954年)6月7日没。本名は鹿島佐太郎。20歳の時に童話に応募して入選し、清水かつららと雑誌「少女号」を刊行する。代表作は「浜千鳥」、「金魚の昼寝」、「お山のお猿」などがある。鳴秋は和田海岸を愛し、療養中の愛娘と和田海岸を訪れていましたが療養のかいなく娘が亡くなり、浜千鳥は娘を偲んで作られたとされています。
 

浜千鳥 作詞:鹿島鳴秋 作曲:弘田龍太郎

青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれ出る
 
夜鳴く鳥の 悲しさは
親をたずねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく
銀の翼の 浜千鳥

(この項「房総タウン。COM」HPより)

右手の背後には岩壁が。梯子が頂上まで。

歴史があるような建物。しゃれた二階のつくり。

和田浦港。

                

     

捕鯨の時期にはたいそう賑わうそうです。 

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